第22話 飲める水は、出るだけでは足りない
寝室と呼ぶには、まだ硬かった。
レンは目を開けた瞬間、背中の板の継ぎ目を恨んだ。肩の下に細い段差が当たっている。足元の断熱シートはずれて、片方の靴下だけ冷えていた。首も痛い。
それでも、車庫の壁にもたれて寝た時よりはましだった。
『休息時間、三時間二分。途中覚醒なし』
「二分は誤差だろ」
『誤差として処理します』
「そこ素直なんだな」
『睡眠環境の改善効果を確認しました。寝室の運用を継続します』
「生体保管室じゃなくて?」
『寝室です』
レンは寝床の上で、少しだけ笑った。
笑ったら、喉が渇いていることに気づいた。舌が口の中で重い。昨日、水を飲んだのがいつだったか、はっきり思い出せない。MIOのログを見てから、寝床を作って、気づけば眠っていた。
レンは小区画を出て、管理室の隅に置いていた水容器を手に取った。
中にはまだ少し残っている。
飲もうとして、匂いで止まった。
「……金属くさい」
『水処理ユニットのフィルタ圧が上昇しています』
「飲む前に言え」
『摂取前に警告しました』
「匂いで俺が止まった後だろ」
『結果として摂取前です』
レンは容器を端末の横に置いた。
拠点に水はある。第何日目だったか、最初に水が出た時は本気で助かったと思った。飲めるものがある。それだけで体が戻った気がした。
だが、水が出ることと、飲み続けられることは別だった。
壁面端末に、ノアが状態を出す。
[WATER SYSTEM STATUS]
――――――――――
取水:稼働
一次濾過:負荷上昇
二次濾過:劣化
貯水圧:不安定
金属成分:基準値付近
飲用推奨:制限付き
――――――――――
「制限付きってなんだ」
『少量であれば即時危険は低いですが、継続摂取は推奨しません』
「つまり、飲みたくない」
『表現としては近いです』
「最初からそう言え」
『飲みたくない水です』
「やっぱり嫌だな、その言い方」
レンは工具箱を引き寄せた。
寝室を作ったばかりだというのに、今度は水だ。寝る場所ができても、水がまずければ長くはもたない。水処理が止まれば、寝床の硬さどころではなくなる。
「場所は?」
『居住区画裏手の水処理ユニットです。点検口は下段にあります』
「下段かよ」
『はい』
「寝起きにしゃがむやつだな」
『あなたの関節負荷を考慮すると、推奨姿勢ではありません』
「でもやるしかない」
『はい』
レンは工具箱を持ち、水処理ユニットの前へ向かった。
居住区画の裏手は、細い通路になっている。壁に沿って太い配管が二本走り、片方から低い振動が伝わっていた。床は濡れていない。そこはいい。だが、点検口の周りには白っぽい粉が吹いている。乾いた鉱物の跡だ。
レンは膝をついた。
金属床が冷たい。昨日より寝たはずなのに、体はまだ重い。工具箱を開けてレンチを取り出す。点検口のボルトは四本。一本目は回った。二本目も固いがいける。三本目で嫌な音がした。
「折れるなよ」
『ボルトへの命令効果はありません』
「知ってる」
『ただし、ねじ山の損傷は確認されています。力を下げてください』
レンは手を止めた。
一呼吸置いて、レンチの角度を変える。ゆっくり回す。ぎ、と金属が鳴り、ボルトが少しだけ動いた。
「……今のは助かった」
『はい』
「そこは、どういたしまして、だろ」
『どういたしまして』
「遅い」
『改善します』
点検口のカバーが外れた瞬間、湿った金属臭が流れ出した。
レンは顔をそむけた。
「うわ」
『一次濾過槽の沈殿物が増加しています』
「見れば分かる」
内部には、濁ったフィルタが詰まっていた。布でも金属でもない、旧文明の繊維材らしい。層になった表面に茶色い膜が張りつき、水の流れが細くなっている。奥の配管では、泡が小さく跳ねていた。
レンはフィルタを引き抜こうとして、ぬめった表面に指を滑らせた。
「……これ、触りたくないな」
『手袋の使用を推奨します』
「あるなら先に出せ」
『保管区画未整理のため、現在位置を即時提示できません』
「それ昨日の俺のせいだな」
『はい』
「はいって言うな」
レンは布の切れ端を手に巻き、フィルタをつかんだ。
ずる、と重い感触がある。引き抜くと、濁った水が点検口の縁に垂れた。床に落ちる前に、レンは慌てて容器で受ける。茶色がかった水が底に溜まり、細かい粒がゆっくり沈んでいく。
水が出るだけでは、足りない。
こんなものを通した水を毎日飲むわけにはいかなかった。
『水分摂取量が不足しています』
「この水を見ながら言うな」
『だから言っています』
「今は飲めないだろ」
『作業後、摂取してください』
「作業前に言うことじゃない」
『作業中に脱水が進行する可能性があります』
「飲みたくない水しかないんだよ」
『処理済みの残量があります』
「金属くさいやつな」
『少量摂取なら許容範囲です』
レンは顔をしかめた。
喉は渇いている。だが、あの匂いを思い出すと、飲む気が少し削れる。
「あとで」
『現在のあなたは“あとで”を失念する傾向があります』
「記録しとけ」
『記録済みです』
「じゃあ黙っててくれ」
『二十分後に再通知します』
「黙る気ないだろ」
レンはフィルタを床に広げた布の上へ置いた。
使えそうな替えは、予備部品の箱に一枚だけあった。ただし完全な新品ではない。端が少し欠けていて、形も合うか怪しい。仕方なく古いフィルタを一部切り取り、替えの欠けた部分に重ねる。
見た目は悪い。
だが、今は見た目より流量と安全だった。
レンはフィルタの向きを確かめ、差し込もうとした。
『向きが逆です』
「……分かってた」
『手順ログ上は、分かっていない行動です』
「今分かったんだよ」
レンはフィルタを抜き、向きを変えた。
寝不足が残っている。指が一拍遅れる。目の前の部品を見ているのに、頭の奥では別の文字が浮かぶ。
MIO。
レンは奥歯を噛んだ。
今それを考えるな。
水を直す。
水がなければ、何もできない。
フィルタを差し直し、固定具を押し込む。次に二次濾過の小型カートリッジを外す。こちらはひどい詰まりではないが、内部が白く固まっていた。削りすぎると壊れる。洗浄水は使えない。乾いた布と細い金属棒で、少しずつ固まりを落とす。
こり、こり、と嫌な音がする。
指先が冷えていく。
通路の配管が低く鳴った。
『貯水圧が低下しています。再接続までの残り猶予、八分』
「先に言え」
『いま閾値を下回りました』
「八分で戻せってことか」
『はい』
「はいじゃない」
レンは作業速度を上げた。
カートリッジを戻し、固定具を締める。点検口の奥で、配管の振動が不規則になる。ぼこ、と低い音がした。圧が落ちている。水が流れたり止まったりしている。
ボルトを一本落とした。
床に跳ね、細い隙間へ転がる。
「くそ」
『予備ボルトはありません』
「探す」
『残り猶予、六分四十秒』
「分かってる」
レンは床に手をつき、隙間を覗いた。暗い。小型ランプを口にくわえ、指を伸ばす。届かない。金属棒で手前に引く。ボルトが少し動く。もう一度。今度は強く当たりすぎて、奥へ行きかけた。
レンは息を止めた。
金属棒の先をそっと当てる。
ボルトが戻る。
指先に触れた。
つかむ。
拾った。
レンは口からランプを外し、荒く息を吐いた。
『呼吸停止時間が長めです』
「今それ言うな」
『言う必要があります』
「分かった。生きてる」
『継続してください』
「雑だな」
『あなたに合わせました』
「合わせなくていい」
レンはボルトを戻した。
一本、二本、三本。四本目が少し斜めに入る。焦るとねじ山を潰す。手を止める。息を吸う。今度はゆっくり回す。
入った。
『再接続可能です』
「流すぞ」
『低圧から開始してください』
「分かってる」
『あなたは分かっていても――』
「今は言うな」
『省略します』
レンはバルブを少しだけ開けた。
配管の奥で、水が動いた。
最初は、濁った水が細く出た。茶色い。レンは容器で受け、すぐ捨てる。次に泡が混じった水。白くにごり、金属の匂いが強い。これも捨てる。
ぼこ、と配管が鳴った。
水が一度止まる。
レンはバルブに手をかけたまま、動かなかった。
「止まるなよ」
『圧力再調整中です』
「止まるなって」
『圧力再調整中です』
「そこは同じこと言うんだな」
また、ぼこ、と鳴った。
次の水は、少し澄んでいた。
透明、とまでは言えない。だが、茶色ではない。レンはしばらく流し続けた。匂いが薄れていく。金属臭が消えるわけではないが、鼻に刺さる感じは減った。
最後に、細い流れが安定した。
透明な水が容器の底を叩く。
ちょろちょろという音が、通路の中で妙にはっきり聞こえた。
[WATER SYSTEM STATUS]
――――――――――
取水:稼働
一次濾過:復帰
二次濾過:仮復旧
貯水圧:安定化中
金属成分:低下
飲用推奨:可
――――――――――
レンはその表示を見て、少し遅れて息を吐いた。
「……よし」
『飲用可能範囲に戻りました』
「飲む」
『推奨します』
「そこで推奨するな。飲むって言ってる」
レンは容器を持ち上げた。
手が少し震えている。水面が細かく揺れた。寝不足と作業のせいだ。そう思うことにした。
口をつける。
水が喉を通った。
冷たい。
さっきの金属臭は、まだほんの少し残っている。完璧ではない。だが、飲める。喉の奥に張りついていた乾きが、ゆっくり流されていく。レンは一口で止めるつもりだったが、もう一口飲んだ。
胃に落ちる感覚があった。
体が、それを待っていた。
「……うまい」
『水です』
「水がうまいんだよ」
『記録します。水への満足反応を確認』
「記録するな」
『水分摂取量、基準値へ接近』
「そっちは記録しろ」
『しています』
レンは容器を床に置き、壁にもたれた。
通路の冷たさが背中に伝わる。膝が痛い。爪の間は黒い。手は濡れている。水処理ユニットの周りには、布と古いフィルタと茶色い水が残っている。
きれいにはなっていない。
でも、水は戻った。
飲める水が、出る。
それだけで、拠点の中の空気が少し変わった気がした。
『次回整備推奨時刻を設定します』
「どれくらい先」
『四十八時間後』
「短いな」
『仮復旧です』
「だよな」
レンは古いフィルタを見た。
替えはもうない。次は、新しい濾過材を探すか、作るかしなければならない。水処理は安定したが、余裕があるわけではない。
それでも、今は飲める。
今は、それでいい。
「ノア。水処理を拠点優先項目に上げとけ」
『既に高優先です』
「さらに上」
『生命維持項目のため、これ以上の上位分類はありません』
「じゃあ、目立つところに出しとけ」
『表示を調整します』
壁面端末に、小さな常時表示が増えた。
[LIFE SUPPORT]
――――――――――
空気:安定
水:飲用可/仮復旧
電力:低出力安定
休息区画:運用中
――――――――――
レンはその四行をしばらく見た。
空気。
水。
電力。
寝室。
少し前なら、一つもまともになかった。今は、全部が低く、細く、仮の状態で並んでいる。
弱い。
でも、並んでいる。
レンは容器をもう一度持ち上げた。
「飲める水があるって、でかいな」
『はい』
「そこは否定しないのか」
『生命維持において、水は重要です』
「分かってる」
『あなたは分かっていても、水分摂取を忘れる傾向があります』
「またそれか」
『二十分後の再通知は解除します』
「飲んだから?」
『はい』
「ならいい」
レンは少し笑った。
笑ってから、水処理ユニットの横に座り込んだ。床は冷たい。だが、手元の容器には水がある。さっきより透明で、さっきより飲める水だ。
MIOの文字は、まだ遠くにある。
でも、今のレンには、喉を通る水の冷たさもあった。
遠くへつながるために、まずここで生きる。
そのために、水を切らさない。
レンは最後にもう一口だけ飲み、容器の蓋を閉めた。
配管の奥で、水が低く流れ続けていた。
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