第21話 寝床は生体保管室ではない
レンは、三時間で起きた。
正確には、起こされた。
拠点管理室の照明が、いきなり白く戻ったわけではない。天井のパネルが一枚ずつ、低い音を立てて明るさを上げた。壁の送風口から、冷えた空気が細く流れ込む。金属の床に背中を預けたまま、レンは目を開けた。
『三時間が経過しました』
「……早い」
『あなたが指定しました』
「指定した俺が悪いみたいに言うな」
『事実です』
レンは顔をしかめて、体を起こした。
背中が痛い。腰も痛い。首の横が変な角度で固まっている。車庫の壁にもたれて眠ったせいで、肩に金属の冷たさがまだ残っていた。寝たというより、一度電源を落とされて、強制的に再起動された感じだった。
床に置いた工具箱が、足元で斜めになっている。中身のレンチが一つ、箱の外へ転がっていた。
レンはそれを拾い、しばらく手の中で転がした。
「……MIOのログ」
『保持しています。現在は非表示です』
「見せろって言ったら?」
『推奨しません』
「聞くだけ聞いた」
『回答は予測済みです』
レンは息を吐いた。
胸の奥に、三文字が残っている。
MIO。
画面からは消えた。だが、頭の中では消えない。目を閉じれば出てくる。手を動かしていても、ふとした瞬間に浮かぶ。ミオなのか。違うのか。ノアは照合未成立だと言った。位置も声も通信経路もない。分かっている。
分かっていても、文字は残る。
レンは立ち上がろうとして、膝に手をついた。
「っ……」
『関節負荷が上昇しています』
「床で寝たからだよ」
『正確には、車庫壁面に背部を預けた不適切姿勢で休息したためです』
「説明が長い」
『短縮します。寝方が悪いです』
「それも腹立つな」
レンは車庫から管理室へ戻った。
管理室の床は、片づいているとは言いがたい。焦げた外装パネル、仮接続のケーブル、使えなくなった端子、空の水容器、剥がした被覆材。壁際には、前に持ち帰った標識柱の破片まで置きっぱなしになっている。
ガタは車庫の奥で沈黙していた。右前輪は少し曲がったままだ。昨日、いや、何時間前だったか。あれを直すと決めた。補助電源も見る。通信中継部も探す。そのためには、まず寝る。そう決めた。
でも、この寝方では先に体が壊れる。
「ノア。寝る場所がいる」
『同意します』
「即答かよ」
『以前から必要でした』
「言えよ」
『複数回、休息環境の改善を推奨しています』
「そういう言い方じゃなくてさ。寝床を作れって言え」
『寝床を作ってください』
「今さらだな」
レンは管理室の隣にある小区画を見た。
扉は開いたままになっている。内部は狭い。壁の一部が剥がれ、天井の照明は片方しか点かない。床には、古い保守用ケースが二つ転がっていた。かつて何に使われていた部屋なのか分からないが、少なくとも空気は通っている。
『隣接区画の環境を確認します』
壁面端末に表示が出る。
[ROOM STATUS]
――――――――――
区画:管理室隣接小区画
気圧:安定
酸素濃度:安定
温度:低
照明:一部故障
床面汚染:軽度
用途候補:休息/保管/低負荷作業
――――――――――
「ここでいいか」
『休息用途に転用可能です』
「じゃあ、ここを寝室にする」
『区画仮称を登録します』
「おう」
[ROOM REGISTRATION]
――――――――――
仮称:生体保管室一号
用途:休息
優先度:中
――――――――――
「やめろ」
『登録名に問題がありますか』
「ありすぎる」
『生体を一定時間、安全に保管する区画です』
「俺は荷物じゃない」
『荷物より環境条件が複雑です』
「そういう問題じゃない。寝室でいい」
『寝室。短すぎます』
「名前に長さはいらない」
『では、長期生存用横臥区画』
「もっと悪い」
『休息姿勢維持室』
「病院でも嫌だ」
『睡眠処理区画』
「処理するな」
レンは額を押さえた。
寝不足の頭に、ノアの命名が刺さる。しかも本人は大真面目だ。悪意がない。だから余計に面倒だった。
「寝室」
『登録候補としては簡素すぎます』
「寝室」
『情報量が不足しています』
「寝室」
少し間があった。
[ROOM REGISTRATION]
――――――――――
名称:寝室
用途:休息
優先度:高
――――――――――
『登録しました』
「最初からそれでいい」
『今後、詳細名称が必要な場合は再検討します』
「しない」
レンは小区画へ入った。
足元で細かい砂が鳴る。どこから入り込んだのか、壁際に薄くたまっていた。天井の片方の照明は、時々ちらつく。送風口からは冷えた空気が流れているが、直接床に当たっているせいで、寝るには寒い。
寝床と呼べるものはない。
保守用ケースの蓋を外し、使えそうな板材を床に並べる。クッション材の代わりになりそうな断熱シートを探す。破れた配管カバーを切り、床との隙間をふさぐ。壁際に置いていた標識柱の破片も引っ張ってきて、傾いた板の支えにした。
地味な作業だった。
でも、手を動かしている間だけは、MIOの文字が少し遠くなる。
レンはケースの蓋を重ね、上に断熱シートを敷いた。硬い。かなり硬い。だが、金属の床に直接寝るよりはましだ。試しに腰を下ろすと、ぎし、と嫌な音がした。
「これ、寝てる途中で割れないよな」
『使用素材の耐荷重は、あなたの体重を上回っています』
「なんか嫌な言い方だな」
『安全性の説明です』
「俺が重いみたいに聞こえる」
『あなたの体重は現地標準値が存在しないため、評価不能です』
「そこで逃げるな」
レンはもう一枚、薄いパネルを足した。
今度は少し安定した。
寝床。
そう呼べるかは怪しい。でも、床よりはいい。車庫の壁よりはだいぶいい。
だいぶ。
レンはその言葉を飲み込んだ。
今ここで言うと、ノアが何か登録する気がした。
『発話を中断しましたか』
「してない」
『呼吸間隔から、発話準備が確認されました』
「監視が細かい」
『生存管理です』
「それ、便利に使いすぎだろ」
レンは照明パネルを外した。
片方は完全に焼けている。もう片方は接触不良。予備の照明素子はないが、管理室の棚から外した小型ランプなら使える。ケーブルを短く切り、端子をつなぎ直す。指先に黒い粉がつく。何度拭っても、爪の間に残る。
壁に仮固定したランプが、低く点いた。
白すぎる光ではない。少し黄色がかった、弱い光だ。小区画の角が、ぼんやり見えるようになった。床の砂も、壁の亀裂も、寝床の歪みも見える。
それでも、暗闇よりはいい。
[ROOM STATUS]
――――――――――
名称:寝室
気圧:安定
酸素濃度:安定
温度:低
照明:最低限復帰
床面冷却:軽減
休息適性:低〜中
――――――――――
「低〜中か」
『改善前は低未満でした』
「そう言われると、だいぶ……」
レンは止まった。
『発話を中断しました』
「うるさい」
『候補語を推定します。だいぶマシ』
「登録するなよ」
『現時点では登録していません』
「現時点では、って言うな」
レンは寝床に腰を下ろした。
背中を壁に預ける。さっきよりは冷たくない。送風口の向きも少し変えたので、冷気が直接当たらない。壁に取り付けた小型ランプの光が、床に小さな楕円を作っている。
静かだった。
静かになると、MIOが戻ってくる。
レンは天井を見上げた。
ミオは本当にいるのか。どこにいるのか。何をしているのか。ノアは、水系や物流や集落に相当する構造の統合反応だと言っていた。妙な話だ。あいつが集落をどうにかしている姿を想像しようとして、できそうな気もした。
現代の記憶が少しだけ浮かぶ。
夜中の部屋。机の上のケーブル。散らかったメモ。ミオが何かを広げて、レンが横から「また広げてる」と言った気がする。ミオはむっとしていた。たぶん、あの顔だ。覚えているはずなのに、細部がぼやける。
レンは目を閉じた。
胸の奥が詰まる。
「……ノア」
『はい』
「ログ、まだあるよな」
『保持しています』
「消すな」
『消去予定はありません』
「ならいい」
しばらく沈黙があった。
ノアが何も言わないので、レンは逆に落ち着かなかった。
「なんか言えよ」
『睡眠を推奨します』
「それは分かってる」
『あなたは分かっている状態でも、実行しない傾向があります』
「性格分析するな」
『作業傾向分析です』
「似たようなもんだ」
レンは横になった。
寝床は硬い。肩甲骨のあたりに板の継ぎ目が当たる。下に敷いた断熱シートが少しずれて、足元が冷える。寝心地は悪い。
それでも、床ではない。
車庫の壁でもない。
寝室だった。
レンは目を開けたまま、天井の亀裂を見ていた。照明の低い光で、亀裂の影が細く伸びている。空調の音は少しだけ安定していた。水処理ユニットの方から、遠くで小さな振動が伝わってくる。
ここで寝る。
ここで起きる。
ここから作業する。
そういう場所が、やっと一つできた。
ノアの声が、少し低くなった。
『照明を夜間休息値へ低下させます』
「夜間休息値ってなんだよ」
『寝室の照明を落とします』
「最初からそれでいい」
照明がゆっくり暗くなる。
暗くなる直前、壁面端末に小さな表示が出た。
[REST SCHEDULE]
――――――――――
対象:黒瀬レン
休息時間:三時間
補助監視:有効
緊急起床条件:環境低下/外部侵入/水処理異常/電力喪失
――――――――――
「三時間じゃなくて、六時間にしろって言わないのか」
『推奨は六時間です』
「じゃあ、言えよ」
『六時間寝てください』
「今度は素直だな」
『言い方を学習しています』
「誰に寄せてる」
『主にあなたです』
「悪化するぞ」
『評価は保留します』
レンは小さく笑った。
笑ったら、少しだけ息が抜けた。
MIOの文字は消えない。ミオの声も、顔も、まだはっきりしない。追いたい。今でも、端末の前に戻ってログを開きたい。再接続の警告をもう一度見て、やっぱり押さないことを確認したい。
でも、体が重い。
まぶたが下がる。
硬い寝床の感触も、空調の低い音も、壁の冷たさも、少しずつ遠くなる。
『ログは保持しています』
「……うん」
『寝室は運用中です』
「それも、うん」
『生体保管室ではありません』
レンは目を閉じたまま、少しだけ口元を緩めた。
「分かってるじゃん」
『学習しました』
照明がさらに落ちる。
拠点管理室の方で、補助電源が低く唸った。外壁を砂がこする音が、遠くから薄く届く。寝床は硬い。足元は少し寒い。首もたぶん明日また痛い。
それでも、レンは床ではなく、寝床の上で眠ろうとしている。
遠くへつながるために、まずここで生きる。
そのために、今は寝る。
暗くなった寝室で、レンはようやく眠りに落ちた。
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