第20話 この拠点から、もう逃げない
赤い警告灯は、短い間隔で点滅していた。
搬入口の壁に赤い光が映り、消え、また映る。古いランプを無理やり復帰させただけのものだ。光量は弱いし、片方しか点かない。それでも、拠点の中に警告の色があるだけで、空気が変わっていた。ここはもう、ただ壊れた施設の中に逃げ込む場所ではない。外から来るものを見て、閉じて、耐えるための場所になりかけている。
レンは壁に背を預けたまま、端末の外周図を見ていた。
外に立てた支柱は一本だけ。検知範囲は狭い。精度も低い。熱反応と振動を拾うだけの、ほとんど応急処置みたいな監視線だ。それでも赤い点は確かに表示されている。南東、二百八メートル。動かない。消えない。こちらを見ているように、そこに止まっている。
[OUTER SENSOR PILLAR-01]
――――――――――
対象:停止
距離:二百八メートル
熱反応:微弱
振動:低
判定:監視状態の可能性
――――――――――
「監視状態の可能性、か」
『対象は接近を停止しています。攻撃行動は確認されていません。ただし、こちらの外周反応を観測している可能性があります』
「向こうもこっちを測ってるってことだな」
『はい。あなたの管理者候補信号、拠点の再起動状態、外周センサーの反応を評価している可能性があります』
レンは痛む手を開いた。
冷却材の布が少しずれている。手のひらはまだ熱を持っていた。膝も鈍く痛い。座っているとましになるが、立ち上がる時に遅れる。今の状態で外に出るのは嫌だった。だが、外の機械がこのまま止まっている保証もない。
物流制御施設へ向かうはずだった。
ミオのログを追うはずだった。
それが、途中で引き返してきた。拠点を守るために。正しい判断だったと分かっている。それでも、端末の隔離領域に残った「MIO」の三文字が、ずっと頭の奥に引っかかっている。
「ノア。ミオのログ、開かないままでいい」
『隔離状態を維持しています』
「今開いたら、判断が鈍る」
『その可能性があります』
「言い方」
『あなたは対象名MIOを確認すると、作業優先順位を変更する傾向があります』
「正しいけど嫌な言い方だ」
レンは立ち上がった。
ゆっくり動いたつもりだったが、膝が一拍遅れて痛みを返した。壁に手をつく。手も痛い。身体のあちこちが、もう十分だろうと言っている。それでも、端末の赤い点は消えていない。
搬入口の警告灯。
外気取入口の振動検知。
保守通路の落下式扉。
支柱一本の外周センサー。
今ある防衛は、その程度だ。
だが、その程度でも組んだ。
組んだ以上、使う。
「次に近づいたら?」
『距離百五十メートルで外壁警告。百メートルで搬入口封鎖確認。保守通路側へ回り込む反応があれば、緊急シャッターの二段解除を準備します』
「撃退はできない」
『できません』
「なら、入れない。壊される前に閉める。それだけだな」
『はい。それが現在の拠点防衛能力です』
その時、赤い点が動いた。
最初は、表示の揺れかと思った。低精度センサーだから、砂の振動を拾ったのかもしれない。だが、次の瞬間、距離表示が二百八から二百二へ変わった。さらに、一百九十六。止まらない。
警告灯の点滅が、少し速くなる。
[OUTER SENSOR ALERT]
――――――――――
対象:移動再開
方向:拠点外壁
距離:一百九十六メートル
速度:低速
判定:接近
――――――――――
「来たな」
『対象一、または対象三の可能性があります。熱反応が弱いため、大型六脚機械とは異なる個体かもしれません』
「小型なら通路に入れるか」
『可能性があります』
レンは搬入口の操作盤へ移動した。
すぐに閉めるな。閉めるのはまだ早い。閉めたら外の確認ができなくなる。支柱一本だけでは、見える範囲が狭い。対象がどこへ回り込むかを確認する必要がある。
そう頭では分かっているのに、指は封鎖ボタンの近くにあった。
ノアの声が入る。
『まだです。対象の進路を確認してください。現距離では、搬入口ではなく外気取入口側へ向かう可能性があります』
「分かってる」
『呼吸が乱れています』
「それは言わなくていい」
『作業判断に影響します』
「……分かった。言っていい」
レンは息を吐いた。
大きく吸う。吐く。
端末の赤い点を見る。
赤い点は、まっすぐ搬入口へ向かっていなかった。少し右へ流れている。外気取入口の方角だ。さっき掃除したばかりの、生命維持の入口。そこを壊されたら、この拠点はまた息が苦しくなる。
[APPROACH VECTOR]
――――――――――
対象進路:外気取入口方向
距離:一百六十二メートル
推奨:外気取入口監視へ切替
――――――――――
「そっちかよ」
レンは配管室へ走りかけて、膝で止まった。
走れない。
早歩きに切り替える。通路の角に肩が当たる。工具箱を持っていないことに気づく。戻る時間はない。腰の小型工具だけで足りるか。足りろ。
配管室へ入ると、外壁の向こうから低い振動が伝わってきた。実際に音として聞こえるほどではない。だが、配管がわずかに震えている。振動検知器がそれを拾い、端末に赤い波形を出していた。
外気取入口は、拠点の喉だ。
そこへ何かが近づいている。
『対象距離、一百二十八メートル。外気取入口側への接近を継続』
「外壁の照明、点くか」
『一部のみ可能です。点灯すると対象が反応する可能性があります』
「反応させる。入口からずらす」
ノアが一瞬だけ沈黙した。
『照明で誘導する、という意味ですか』
「まぶしい方を見るか、避けるか、どっちでもいい。取入口から目を逸らせれば勝ち」
『有効性は不明です』
「他にできることは」
『ありません』
「じゃあやる」
外壁照明は壊れている。
完全には点かない。
だが、配線は生きている箇所があった。レンは配管室の端末から、外壁の作業灯を手動指定した。外気取入口から少し離れた、古い保守用ライト。明るさは弱い。点灯時間も短い。
それでも、外に何かを見せることはできる。
「ライト三番、短く」
『実行します』
壁の向こうで、古い回路が起きた。
端末上の外壁図に、小さな白い点が灯る。
すぐに対象の進路が揺れた。
[TARGET RESPONSE]
――――――――――
対象進路:変化
外気取入口から右へ偏移
熱反応:上昇
判定:照明反応あり
――――――――――
「効いた」
『一時的です。対象は照明方向を確認しています』
「もう一つ、奥のライト」
『点灯可能時間は短いです』
「短くていい」
レンは次のライトを点けた。
外気取入口からさらに離れた位置。赤い砂の中に古い作業灯が短く光る。対象の点がまた揺れる。少しだけ外気取入口から離れた。
だが、止まらない。
今度はライトではなく、外壁に沿って移動し始めた。
『対象、外壁をなぞるように移動しています。外気取入口から搬入口側へ進路変更』
「誘導できてるのか、探られてるのか」
『判定不能です』
「嫌な方を採用する。探られてる」
レンは搬入口側へ戻った。
今度は少し急いだ。膝が痛む。痛いが、止まらない。搬入口の警告灯が赤く点滅している。端末の距離表示は一百十メートル、九十八メートル。
[BASE WARNING]
――――――――――
対象距離:九十八メートル
外壁近接警告:発動
搬入口封鎖:待機
保守通路扉:二段解除待機
――――――――――
『百メートルを切りました。搬入口封鎖確認を推奨します』
「閉める」
『搬入口はすでに閉鎖状態です。内側ロックを追加してください』
「追加ロック」
レンは操作盤の下にある手動レバーを引いた。
重い。
動かない。
もう一度、両手で握る。手のひらが痛む。布越しに熱が戻る。
「動け」
レバーが少し落ちた。
まだ足りない。
レンは足を踏ん張った。右膝をかばう余裕がない。
「落ちろ」
レバーが下がる。
搬入口の内側で、古いロックが噛んだ。
ごん、という重い音が通路に響く。
[GATE LOCK]
――――――――――
搬入口:内側ロック追加
気密:維持
手動解除:必要
――――――――――
赤い点は、搬入口の前で止まった。
距離、四十二メートル。
壁一枚と、砂の向こう。
レンは操作盤の前で動かなかった。
音は聞こえない。
だが、センサーは拾っている。
低い振動。
小さな熱反応。
金属質量。
何かがそこにいる。
『対象、停止。外壁を走査している可能性があります』
「何を探してる」
『入口、管理信号、電源反応、あるいはあなたです』
「最後のやつ、嫌だな」
『最も可能性が高いのは、管理者候補信号への反応です』
「結局俺か」
レンは端末に手を置いた。
MIOのログを追うために、リング片に触れた。その結果、管理者候補として再評価された。その信号に、外の機械が反応した。ミオへ近づこうとした行動が、拠点を危険に近づけた。
そう考えると、息が重くなる。
だが、後悔だけしている時間はなかった。
「ノア。俺の信号、弱められるか」
『一部の応答を抑制できます。ただし、完全遮断すると復旧済み設備への管理権限も一時的に低下します』
「この拠点の空気とか水は?」
『短時間なら維持できます。長時間は非推奨です』
「短時間でいい。外のやつを迷わせる」
ノアの返答は少し遅れた。
『管理者候補応答を三十パーセント抑制します。拠点制御への影響を監視します』
「やれ」
端末の表示が変わった。
拠点内のいくつかの線が、薄くなる。空気循環、水処理、フィルタ、搬入口。完全に切れるわけではない。ただ、レンの権限が一段奥へ引っ込むような感覚があった。端末の反応が遅くなる。
[AUTH RESPONSE CONTROL]
――――――――――
管理者候補応答:抑制
抑制率:三十パーセント
拠点制御:維持
外部反応:観測中
――――――――――
赤い点が揺れた。
ゆっくりと、搬入口から離れる。
十メートル。
二十メートル。
外壁をなぞる動きが止まり、南東へ戻り始める。
「効いたか」
『対象の追跡精度が低下しています。ただし、完全に離脱したわけではありません』
レンは息を吐いた。
だが、その直後、別の警告が出た。
[SERVICE TUNNEL ALERT]
――――――――――
保守通路側:微弱振動
対象:小型反応
距離:内部扉外側
――――――――――
レンは振り返った。
保守通路。
さっき閉鎖準備をした、落下式の扉。
外の大型反応は離れた。だが、小型の何かが保守通路側に来ている。入口を探っているのか、別経路から回り込んだのか。
『保守通路扉、緊急閉鎖準備を推奨します』
「二段解除」
『搬入口端末で解除済みにできます。実行レバーは保守通路側です』
「遠い」
『現在位置から二十七メートル』
レンは走った。
今度は膝をかばわなかった。
通路を曲がる。壁に手をつく。手が痛い。無視する。保守通路入口の前に、延長レバーがある。前話で雑に組んだワイヤと金属パイプ。保持ピンを抜けば、重い扉が落ちる。
扉の向こうから、金属がこすれる小さな音がした。
小型機械がいる。
近い。
[SERVICE TUNNEL]
――――――――――
対象距離:扉外側
サイズ:小型
侵入可能性:高
緊急閉鎖:手動実行待機
――――――――――
レンはレバーを握った。
重いのは分かっている。
一回では抜けないのも分かっている。
だから、体重を乗せる位置を最初から決めた。右足は使いすぎない。左足を前に出す。肩で押す。手の痛みは無視する。
『レン、右膝の負荷が』
「今は閉める」
レバーを引く。
動かない。
さらに引く。
保持ピンが軋む。
扉の向こうで、何かが金属板に触れた。
薄い音。
かり、と爪で探るような音。
レンの背中が冷えた。
「来るな」
レバーはまだ落ちない。
レンは握り直した。布がずれて、手のひらに痛みが走る。奥歯を噛む。もう一度、体重をかける。
「……来るなよ」
保持ピンが抜けた。
重い扉が落ちる。
がこん。
保守通路の入口が、金属音を立てて閉じた。
同時に、扉の向こうで何かがぶつかった。遅れていたら入られていた。扉が少し震える。二度、三度。小さな衝撃が続く。
だが、開かない。
[EMERGENCY SHUTTER]
――――――――――
保守通路扉:閉鎖
侵入反応:遮断
内部侵入:なし
再開放:手動重作業
――――――――――
レンはレバーに体重を預けたまま、しばらく動けなかった。
呼吸が荒い。
膝が痛い。
手が熱い。
でも、扉は閉まっている。
入られていない。
『内部侵入は確認されません』
「……よし」
『拠点内は安全です。現時点では』
「現時点でいい」
レンは床に座り込んだ。
赤い警告灯は、まだ点滅している。外壁の対象は南東へ少し離れ、小型反応は保守通路扉の外側で止まっている。こちらを諦めたわけではない。だが、入れていない。
拠点は耐えた。
たった一本の支柱と、低精度センサーと、半分壊れた警告灯と、落下式の扉で。
十分ではない。
でも、十分ではないものを組み合わせて、今だけ守った。
レンは端末を見た。
[BASE DEFENSE RESULT]
――――――――――
外壁対象:離隔
保守通路侵入:遮断
内部侵入:なし
生命維持:維持
拠点機能:継続
評価:暫定防衛成功
――――――――――
「暫定防衛成功」
『はい』
「基地っぽくなったな」
『まだ基地とは呼べません』
「じゃあ、何だ」
『拠点です。ただし、防衛能力を持つ拠点です』
レンは笑った。
短く、疲れた笑いだった。
「それでいい」
端末の片隅で、隔離ログのアイコンが小さく点滅した。
レンは一瞬だけ見た。
黒い箱。
MIOの名前。
今すぐ開きたい。だが、今開くと止まれなくなる。さっき、自分でそう言った。
ノアが先に言った。
『CROSS-LINKログに変化があります』
「開いてないだろ」
『外部接続はしていません。隔離領域内の破損ログ再構成が、先ほどの管理者候補応答抑制に反応しました』
「どういうことだ」
『あなたの管理者応答を抑制したことで、混入していた認証ノイズが減りました。読めなかった一部が復元されています』
レンは床から起き上がろうとして、膝で止まった。
「表示しろ。短くだ」
『安全な範囲のみ表示します』
端末に、黒い隔離ウィンドウが開いた。
[CROSS-LINK TRACE / RESTORED]
――――――――――
観測語:MIO
対象側状態:生存推定
媒体:透明板状デバイス
水系ノード:安定
白色環状影:再観測
追加語:REN――
――――――――――
レンは、文字を見た。
REN。
欠けている。
完全ではない。
だが、それはたぶん、自分の名前だった。
向こうにも、届いている。
ミオだけではない。
ミオの側にも、レンの何かが見えている。
レンは画面に手を伸ばしかけて、止めた。触っても何も変わらない。これは通信ではない。ノアの言う通り、相互観測の残滓だ。会話ではない。返事ではない。
それでも、胸の奥が強く締めつけられた。
生存推定。
REN。
たったそれだけで、さっきまでの痛みが一瞬遠のいた。
「……見てるのか」
『通信ではありません』
「分かってる」
『相手側があなたを認識しているとは断定できません』
「分かってる」
分かっている。
それでも、レンは画面から目を離せなかった。
外には機械がいる。
拠点は弱い。
物流制御施設にはまだ行けていない。
やることは増えた。防衛を厚くする。ガタを直す。支柱を増やす。水を増やす。保守通路の扉を再開放できる方法も考える。管理者候補信号の抑制も調整する。
それから、物流制御施設へ行く。
今度は、ただミオの名前を追うためだけではない。
向こうにも、自分の名前の欠片が届いているなら。
こっちから消えるわけにはいかない。
レンはゆっくり立ち上がった。
膝が痛む。
手も痛い。
でも、立てた。
「ノア。次の目標を更新しろ」
『拠点防衛強化、ローバー修復、補給水増産、物流制御施設への再挑戦準備』
「もう一つ」
『CROSS-LINK再解析』
「違う」
レンは端末の黒いウィンドウを見る。
MIO。
REN。
欠けた二つの名前。
「生きて帰る。毎回だ」
ノアは少しだけ沈黙した。
『次目標に追加します』
[MISSION UPDATE]
――――――――――
拠点防衛強化
ローバー修復
補給水増産
物流制御施設への再挑戦
CROSS-LINK再解析
最優先条件:生存帰還
――――――――――
赤い警告灯が、また一度点滅した。
外の機械は、まだいる。
壊れた惑星は、まだ黙っていない。
けれど、この拠点には空気がある。水がある。警告灯がある。閉じる扉がある。名前の欠片がある。
レンは工具箱を持ち上げた。
逃げるためではない。
ここから、もう一度出ていくために。
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