第175話 軌道アンカーが姿勢を変える
通信塔の基部に、昨日より太い白線が入った。
レンは線の端を目で追い、床の温度計とE-03の冷却表示を同時に確認した。給水棚は動いている。温食棚の湯気も落ちていない。医療・休息区画の白表示が一度だけ瞬いて、すぐ戻った。生活系が先に黙るなら、この試験はただの無茶になる。
『給水、白。温食、白。医療・休息、白。出発待機線、白。E-03、黄白で安定』
『右輪、黄色。昨日と同じ黄色です』
「黄色が自慢みたいに聞こえるな」
『悪化していません』
「それは自慢していい」
ガタの前輪灯が床を二回なぞった。通信塔前の白線、中央卓の停止キー、E-03への帰還経路。三つとも昨日より濃く表示されている。レンは承認キーに手を置く前に、中央卓の姿勢窓を開いた。第一ロックの閉鎖円。その上に、軌道アンカーの姿勢を示す細い輪郭が浮かぶ。
輪郭は、ほとんど動かない白い影だった。
「規定角度まで。保持は短い。姿勢が変わったら戻す」
『第一ロック規定角度試験を開始します。保持予定、短時間。停止条件、E-03温度上昇、通信塔基部温度、床鳴り二回、ガタ右輪黄色悪化』
『嫌の種類が増えました』
「種類分けできるならまだ余裕がある」
『余裕とは言っていません』
レンは息を細く吐いた。ノアの確認が終わる。ガタの前輪灯が白線の上で止まる。通信塔の基部から低い音が出て、床下のどこかで古い梁が目を覚ますように震えた。
承認キーを押し込む。
最初は昨日と同じだった。第一ロックの白い円が、閉じたまま縁を震わせる。違ったのは、その震えが一拍で戻らなかったことだ。円の右上が、ゆっくりとわずかに持ち上がる。中央卓の姿勢窓に浮かんだ軌道アンカーの輪郭が、影のように傾いた。
『第一ロック、規定角度へ移動中』
通信塔の白線が一段明るくなる。レンの足裏に、床ではない方向から来る重さが乗った。上からではない。横からでもない。古い巨体が遠くで姿勢を変え、その余波だけが地上港の床へ戻ってきている。
軌道アンカーの輪郭が、見えるほど傾いた。
「動いたな」
『はい。軌道アンカー姿勢、変化を検出』
『床、嫌です。でも、倒れる嫌ではありません』
「その言い方、採用」
レンは表示から目を離さず、E-03の温度線を見た。黄色が少し太くなる。まだ赤ではない。給水、白。温食、白。休息区画、白。試験が成功している間も、人間が使う場所は生きている。そこが崩れなければ、これは地上港の作業でいられる。
第一ロックが規定角度へ達した。
中央卓の白い円は、完全な円ではなくなっていた。閉じた蓋の端を、誰かが指一本分だけ持ち上げたような形。そこから伸びる姿勢線が、軌道アンカーの輪郭をわずかに変える。地上にいるレンには、空の実物は見えない。けれど表示の影が変わるだけで、胸の奥がひやりとした。
動かしてしまった。
できる、という言葉より先に、戻せるか、が来る。
「保持、予定時間の半分で切る」
『推奨します。ただし、姿勢変化の確定には現在の保持を継続する必要があります』
「何秒」
『短時間』
「数字を言うと長く感じるやつだな」
『はい』
『嫌です』
「お前もか」
『数字で長くなるのは嫌です』
レンは承認キーを押したまま、指の腹にかかる反発を意識した。キーは軽い。実際に持ち上がっているのは遥か上の構造物で、ここにあるのはただの入力だ。その落差が気持ち悪い。手元が軽いほど、責任だけが重い。
床下で、ぱき、と一度鳴った。
「一回」
『床鳴り一回。注意値継続』
姿勢窓の輪郭が安定した。白い影は、昨日より明らかに違う角度で止まっている。レンはそこで初めて、息を吸った。第一ロックは閉じている。だが閉じたまま、一段動いた。軌道アンカーは、その一段を受けて姿勢を変えた。
中央卓の端に、保持電力の表示が開く。
白から黄白へ変わるのが早かった。
「ノア」
『保持電力、予定値を上回っています。危険域ではありません。継続には追加供給が必要です』
「どこから食ってる」
『通信塔、E-03、保守棟補助線。地上港生活系への直接低下はありません』
『生活は白。でも床は黄色寄りです』
「床にも色を付けるな」
『足裏では黄色です』
ガタの言葉に、レンは中央卓の下を見た。床そのものは割れていない。砂も出ていない。だが靴底に返る震えは、通信塔の基部だけでなく、E-03側の補助線からも来ている。昨日は熱だった。今日は保持電力の食い方だ。動かした瞬間だけなら届く。止めたままなら安全だ。だが姿勢を変えたまま持つには、予定より多く食う。
「戻す。姿勢確定ログを取って、通常へ」
『規定角度到達、姿勢変化確定。試験出力を通常へ戻します』
白い円がゆっくり閉じる。軌道アンカーの輪郭も、わずかに元へ戻った。ただ、完全に同じではない。姿勢変化の痕跡だけが、細い補助線として残る。通信塔の音が細くなり、E-03の温度線が少しずつ落ちた。
レンは手を離した。指先が汗で湿っている。
『給水、白。温食、白。医療・休息、白。出発待機線、白。E-03、黄白から白へ復帰中』
『右輪、黄色維持。床、嫌が減りました』
「地上港は生きてる」
『はい』
短い返答だった。ノアは余計な感想を足さなかった。だから余計に、白い表示がいつもより明るく見える。レンは温食棚を見た。湯気は残っている。作業員が戻れば、まだ温かいものを食べられる。上の巨大物を一段動かしても、ここは避難所ではなく港のままだ。
その事実が、思ったより胸に来た。
[FIRST LOCK ANGLE HOLD]
――――――――――
状態:第一ロック、規定角度へ一段移動
結果:軌道アンカー姿勢変化を検出
維持:給水/温食/医療・休息/出発待機線を継続
注意:保持電力、予定値を上回る
現地:床鳴り一回、ガタ右輪黄色維持、E-03復帰中
未実施:仮解除継続/軌道移送/高出力保持
次条件:不足分を地上網から補う場合の安全上限確認
――――――――――
ログを閉じると、中央卓には姿勢変化の細い線だけが残った。消えない。試験を戻しても、記録として残る。レンはその線を指でなぞらず、少し離れて見た。
「一段、動いた」
『はい。一段です』
『一段で、たくさん食べます』
「次は食わせ方を見る。生活系を削らない範囲で」
『推奨します。地上網補助供給試験を準備します』
通信塔の基部はまだ温かい。床の震えは消え、湯気はまっすぐ上がっている。軌道アンカーは遠すぎて、ここから見上げても影ひとつ見えない。
それでも、レンには分かっていた。
閉じたままの第一ロックは、もう完全な静止物ではない。
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