第17話 隔離ログの中に、名前が残っていた
拠点へ戻るまで、レンは一度も後ろを見なかった。
ガタは何度も右へ取られた。右前輪の抵抗が増えている。黒く固まった砂の上を走ったせいか、軸に細かい破片が入ったらしい。速度を上げると車体が斜めに流れる。下げると砂に沈む。どちらも嫌だった。
遠くで、落ちたリング片の光が一度だけまたたいた。
見なかったことにした。
「ノア、ログは」
『隔離領域に保存済みです。外部接続は遮断しています。現時点で拠点系統への侵入痕跡はありません』
「今のところ、だな」
『はい。解析するまでは断定できません』
その言い方が、妙に重かった。
搬入口が見えた時、レンは操縦桿を握る手に力を入れた。拠点の外壁は無事だ。外気取入口も無事。砂はついているが、壊れてはいない。あれだけやって、守れたものがちゃんとそこにある。
ガタを搬入口へ入れ、気圧が安定するのを待った。
扉が閉まり、外の砂の音が消える。
代わりに、拠点の低い循環音が戻ってきた。
レンは操縦席で少しだけ動かなかった。
『帰還を確認。外部活動時間、推奨上限を超過しています。右膝、手掌部、脱水傾向の確認を推奨します』
「先にログ」
『身体確認が先です』
「ログ」
『身体確認が先です。隔離ログは逃げません』
「……言い方が少しうまくなったな」
『学習しています』
レンは負けた。
ヘルメットを外す。汗で髪が額に張りついていた。手袋を外すと、手のひらの赤みが少し広がっている。痛い。膝は圧迫帯の下で鈍く熱を持っていた。
応急処置は、さっきより少し丁寧にやった。
冷却材を当て直す。水を飲む。栄養パックを残り半分まで食べる。味はやはり悪い。食べ終わってから、袋の端に小さく「改善版」と印字されているのを見つけた。
「改善前を食べたくないな」
『現行保存庫内には改善前も残っています』
「捨てろ」
『食料廃棄は非推奨です』
「知ってる。言ってみただけだ」
レンは工具ベルトを外し、端末前の床に座った。
椅子はある。だが、今は床の方が近かった。背中を壁につけ、膝を伸ばす。右膝が少し遅れて痛んだ。
端末に隔離領域を表示する。
[QUARANTINE STORAGE]
――――――――――
取得元:軌道リング断片
保存状態:隔離済
外部接続:遮断
解析状態:未実行
危険:管理者認証要求混入の可能性
――――――――――
「読むぞ」
『隔離解析モードで開きます。解析対象は複製ログのみ。原本には触れません。外部応答、権限返答、自動同期はすべて禁止します』
「そこまでやれば安全か」
『安全ではありません。危険を分けただけです』
「正直で嫌だな」
レンは解析開始を押した。
端末の画面が一度暗くなり、黒い背景に白い線が走る。通常の設備ログとは違う。砂嵐のノイズを含んだまま、断片的な文字列が並んでいく。
ノアが横で読み上げる。
『取得ログを三層に分離します。構造ログ、管理系ログ、破損した相互観測ログ。相互観測ログは破損率が高く、解析に時間がかかります』
「相互観測って、CROSS-LINKか」
『近い形式です。ただし、通信ではありません。双方の管理系が一瞬だけ同じ対象を見た痕跡です』
レンは画面を見た。
まず、構造ログ。
[STRUCTURE LOG]
――――――――――
軌道リング補助区画:分離
姿勢制御:喪失
外殻損傷:高
記録領域:一部残存
内部電源:短時間維持
――――――――――
次に、管理系ログ。
[MANAGEMENT LOG]
――――――――――
管理者認証:欠損
惑星側管理系:長期応答なし
地上施設管理:断続復帰
気象観測管理:最低復帰
暫定管理者候補:再評価対象
――――――――――
「再評価対象、やっぱり俺か」
『はい。あなたが複数の地上施設を復旧し、気象観測管理を最低出力で起動したため、断片側の管理系が候補として再評価しています』
「嬉しくないな」
『権限が増える可能性があります』
「責任も増えるだろ」
『はい』
「嬉しくないな」
レンは息を吐いた。
画面の端に、三つ目の項目が表示される。
[CROSS-LINK TRACE]
そこで、一度止まった。
「開け」
『解析中です。破損が多く、自動補完は危険です』
「補完するな。読める分だけでいい」
『了解。読める分だけ表示します』
ノイズが走った。
文字列が崩れ、戻る。何度か失敗し、画面の中央に短いログが出た。
[CROSS-LINK TRACE]
――――――――――
観測語:MIO
同期残滓:極小
対象側系統:未分類
媒体:透明板状デバイス
距離:測定不能
――――――――――
レンは、息を止めていた。
MIO。
今度は欠けていない。
見間違いではなかった。
端末の白い文字を、レンは何度も見た。M、I、O。たった三文字なのに、画面から離れない。
『生体反応の変化を検出』
「今は言うな」
『了解』
ノアはそれ以上言わなかった。
静かだった。
拠点の循環音だけが続いている。遠くでポンプが動き、水処理系が低く鳴っている。自分が直してきた音だ。それがなければ、今ここでログを見ていることもできない。
レンはようやく息を吐いた。
「媒体、透明板状デバイス」
『ファンタジー側で確認された、透明な石板状のアーティファクトと一致する可能性があります』
「可能性」
『断定には情報不足です』
「でも、ミオだ」
『観測語はMIOです』
それだけで十分だった。
十分ではない。
でも、今はそれ以上の言葉が出ない。
レンは手で顔を覆いかけて、やめた。手のひらが痛い。雑にやるものではなかった。
「痛っ」
『手掌部の熱傷が』
「分かってる。忘れてた」
変な声が出た。
少し笑ったような、息が抜けただけのような声だった。
ノアは記録したのかもしれない。何も言わなかった。
レンは画面へ戻った。
「続きは」
『相互観測ログの残存は少量です。表示します』
次の行が出る。
[CROSS-LINK TRACE / FRAGMENT]
――――――――――
対象側環境:大気安定
水系ノード:復帰反応
地表集落:低規模
上空構造:白色環状影
同期時間:一秒未満
――――――――――
「水系ノード……」
『ファンタジー側の村落設備に該当する可能性があります』
「向こうも、何かを直してるのか」
『推定です。観測語MIOと、透明板状デバイス、水系ノード復帰反応。これらを合わせると、対象側で何らかの復旧作業が行われた可能性があります』
「ミオらしいな」
言ってから、レンは少し黙った。
現代にいたミオを思い出す。
部屋の隅でノートパソコンを開き、画面を見ながら「これ、ちゃんと作れるはずなのに」と言っていた声。小さく困って、それでも手を止めない横顔。設計は少し雑で、実装はやたら強い。範囲を見誤って、あとで「なんでこうなったんだろう」と首を傾げる。
水系ノード。
たぶん、井戸とかそういうものを直したのだろう。
そして、直しすぎたのかもしれない。
「……ありそうだな」
『何がですか』
「やりすぎ」
『対象側の結果は不明です』
「不明でも、なんとなく分かる」
レンは画面の続きを見た。
ログはそこで終わっていなかった。
[AUTH LAYER NOTE]
――――――――――
相互観測経路:閉鎖
再接続条件:上位物流制御ノード経由
現地候補:惑星物流制御施設
状態:休眠
地上接続:未復帰
――――――――――
「物流制御ノード」
『重要です。CROSS-LINK痕跡を再解析するには、上位物流制御ノードの一部復帰が必要と判断されます』
「物流って、物を運ぶ物流か」
『はい。地上施設、軌道リング、集落支援、資材流通、非常時配送をつなぐ系統です。現在は休眠しています』
「そこを起こせば、ミオの情報が増える」
『可能性があります。ただし、物流制御施設は拠点から遠く、移動経路は未確認です』
「どれくらい」
『現在のローバーで片道推定二時間四十分。途中に橋梁崩落、砂没道路、未識別機械反応があります』
「聞くだけで嫌だな」
端末に地図が出る。
拠点。
観測塔。
リング片の落下地点。
さらにその南東に、古い施設マーカー。
惑星物流制御施設。
名前だけで重そうだった。
[NEXT FACILITY CANDIDATE]
――――――――――
施設名:惑星物流制御施設
目的:地上・軌道間の物資管理
状態:休眠
必要条件:外部道路確認/電源補助/管理端末接続
関連:CROSS-LINK再解析条件
――――――――――
「行くしかないな」
『即時移動は非推奨です。ローバー整備、補給、身体回復、吸気フィルタ清掃が必要です』
「今すぐとは言ってない」
『確認です』
「信用がない」
『あります。あなたは必要なら無理をします』
「それは信用じゃない」
『行動予測です』
レンは言い返そうとして、やめた。
当たっている。
今すぐ行けるなら、行こうとしていたかもしれない。
でも、ガタは限界だ。膝も限界に近い。手も痛い。拠点のフィルタも点検が必要。持ち帰ったログもまだ全部は読めていない。
急ぐ理由はある。
だからこそ、準備しないといけない。
レンは端末の画面を閉じなかった。
MIOの三文字だけが、まだそこにあった。
「ノア。このログ、消すなよ」
『隔離保存と複製保存を実行します。外部接続なしで二重化します』
「頼む」
ノアの処理音が短く鳴る。
[LOG STORAGE]
――――――――――
CROSS-LINK TRACE:保存
観測語:MIO
複製:完了
外部接続:遮断
――――――――――
レンはその表示を見て、少しだけ肩の力を抜いた。
届いたわけではない。
話せたわけでもない。
向こうが無事かどうかも分からない。
それでも、名前は残っていた。
この壊れた惑星の、落ちたリングの欠片の中に。
レンは立ち上がろうとして、膝が痛んだ。
「……先にフィルタか」
『身体確認も必要です』
「分かってる。フィルタ、膝、手、ガタ。順番にやる」
『ログ解析は』
「その後。見たら止まらなくなる」
ノアは少しだけ沈黙した。
『妥当です』
レンは端末の画面を最後にもう一度見た。
MIO。
白い文字が、黒い隔離画面の中で静かに残っている。
レンは工具箱を持ち上げた。
外気取入口のフィルタを掃除する。
ガタを直す。
膝と手を見る。
それから、物流制御施設へ行く準備をする。
やることは多い。
多い方がいい。
今はその方が、手が止まらずに済む。
レンはフィルタ室へ向かった。
背後の端末には、まだミオの名前が残っていた。
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