第16話 落ちた欠片は、まだ生きていた
観測塔の外へ出ると、砂嵐は弱まっていた。
弱まっていた、というだけで、静かになったわけではない。塔の壁を叩く砂の量が減り、視界の赤い濁りが少し薄くなっただけだ。ヘルメットには細かい砂が張りつき、外部表示の端で砂塵濃度がまだ黄色く点滅している。
ガタは外壁の固定リングにつながれたまま、斜めに傾いていた。
右前輪が少し砂に沈んでいる。荷台の工具箱は残っている。車体側面には新しい擦過痕が増えていた。だが、電源表示は生きている。
「生きてるな」
『ローバーは生命体ではありませんが、最低限の稼働状態を維持しています。右前輪の抵抗値が上昇しています。帰還前に砂を落とす必要があります』
「今のでいい。十分褒めてる」
レンはガタの荷台に手をかけ、固定ワイヤを外した。指先に力を入れると、手のひらの熱い痛みが戻ってくる。観測塔で冷却弁を押した時のものだ。膝も痛い。梯子を降りる時、三段ごとに痛み方が変わった。
ノアは何も言わなかった。
たぶん、記録はしている。
レンはガタの足元の砂をブーツで払った。右前輪の周りに溜まった砂を、短いスコップで掻き出す。さらうたびに、砂がまた少し崩れて戻る。完全には無理だ。走れる分だけでいい。
『軌道リング断片、落下完了。落下地点は東方砂丘帯。現在位置から推定九百二十メートルです』
「遠いな」
『拠点からは七百八十メートル。帰還して補給後に向かう方が安全です』
「先に拠点へ戻る。そこは守る」
レンは操縦席へ乗り込んだ。
そう言ったものの、落下地点の方向は気になっていた。観測塔から東の空を見ると、砂の向こうに黒い柱のような煙が立っている。炎ではない。焼けた金属と、巻き上がった砂が混じったものだ。
あそこに、軌道リングの欠片が落ちている。
直撃は避けた。
拠点は守った。
それなのに、嫌なものが残っている。
[POST-IMPACT STATUS]
――――――――――
対象:軌道リング断片
落下地点:東方砂丘帯
熱反応:低下中
内部信号:微弱継続
信号種別:旧文明管理系
推奨:帰還後、現地確認
――――――――――
「管理系信号って、具体的には」
『断片内部に、軌道リング補助制御の記録領域が残存している可能性があります。完全な中枢ではありません。ですが、惑星ネットワーク階層、管理者認証、リング補助権限に関する断片ログを含む可能性があります』
「欲しい情報ではあるな」
『危険情報でもあります』
ガタは低い振動を出しながら動き出した。
観測塔から離れると、風の音がまた広くなる。砂嵐の中心は過ぎたが、地表はまだ荒れている。旧道路跡の白い補助線はところどころ途切れ、右前輪は何度も取られた。レンは速度を上げなかった。上げられなかった、と言った方が正しい。
拠点まで戻るだけで、時間を食った。
外壁が見えた時、レンは思ったより深く息を吐いていた。拠点の外気取入口は無事だった。フィルタ表面に砂がつき、外壁の一部に新しい細かい傷はある。だが、壊れてはいない。
搬入口へガタを入れた瞬間、内部気圧が安定する。
ヘルメットを外す前に、レンは壁にもたれた。
汗の臭いと、金属と、砂の臭い。
それから、戻ってきた空気の循環音。
まだ聞こえている。
「……よし」
『生命維持外気取入口、損傷なし。吸気フィルタの砂塵付着は増加していますが、短期運用に支障はありません。姿勢補正の結果は有効です』
「今度はちゃんと褒めたな」
『結果報告です』
「知ってる」
レンはヘルメットを外した。
顔に冷えた空気が当たる。冷たいというほどではないが、外よりはずっといい。喉が乾いている。水を飲みたい。膝を見たい。手も見たい。ガタの右前輪も見たい。
だが、端末の隅で、東方砂丘帯の信号が点滅していた。
レンは水容器をつかみ、少しだけ飲んだ。ぬるい。まずい。残りは半分以下。
「補給してから行く」
『推奨手順です。手の熱傷、右膝の負荷、脱水傾向も確認が必要です』
「まとめて言うな」
『まとめない場合、項目数が増えます』
「分かった。まとめろ」
応急処置は雑になった。
手のひらは赤くなっているが、水ぶくれまではない。冷却材パックを当て、布で固定する。膝は腫れてはいない。ただ、曲げると痛い。圧迫帯を巻く。水を飲む。栄養パックを半分だけ食べる。味はいつもの通り、食べ物と言い張るには根拠が弱かった。
ガタの右前輪から砂を掻き出し、軸に残り少ない作動液を入れる。ブレーキも確認する。効きは悪い。知っている。直る気配もない。
それでも、動く。
レンは工具を積み直した。
牽引ワイヤ。予備電源。端末ケーブル。断熱シート。短い切断工具。旧文明規格の変換端子。使うか分からないものも入れる。使う時にない方が困る。
[FIELD CHECK]
――――――――――
外部活動:再開可能
ローバー:低速稼働
目標:軌道リング断片落下地点
距離:七百八十メートル
熱反応:低下中
内部信号:継続
――――――――――
「行くぞ」
『現地到達後、断片への直接接続は非推奨です。まず外部観測、熱確認、放射反応、信号種別の再判定を行ってください。接続する場合も、読み取り専用、短時間、物理遮断可能な経路に限定します』
「長い。要するに、触るな、触るならすぐ抜けるようにしろ」
『はい』
「それでいく」
外へ出ると、空はまだ濁っていた。
赤い砂の向こうに、落下地点の黒い煙が見える。近づくにつれ、地面の色が変わっていった。砂が熱で固まり、黒いガラスのような薄い膜を作っている。ローバーの車輪がそこへ乗ると、乾いた割れ音が足元から伝わった。
ガタは嫌がるように揺れた。
レンも嫌だった。
前方に、リング片があった。
想像していたより、大きい。
建物の壁一枚分ほどの湾曲した金属塊が、砂丘の斜面にめり込んでいる。外殻は黒く焼け、一部はめくれ、内部のフレームが露出していた。そこから細い青白い光が、消えかけの脈のように点滅している。
空から落ちてきたものにしては、静かすぎた。
だが、死んではいない。
『熱反応、低下。外殻接触はまだ危険です。内部信号は断続的ですが継続。周辺に可動機械反応はありません』
「静かすぎるな」
『音響反応はありません』
「そういう意味じゃない」
レンはガタを止めた。
エンジンを完全には切らない。逃げる時に困る。固定ブレーキをかけ、牽引ワイヤを車体に残したまま、端末と工具バッグを持って降りる。
足元の黒い砂が硬い。
踏むと割れる。
熱はまだ残っている。スーツ越しに、足裏へじわっと伝わってきた。
リング片の表面に近づくと、端末の画面が乱れた。
青いノイズ。
赤い警告。
次に、読めない文字列。
[UNKNOWN MANAGEMENT SIGNAL]
――――――――――
受信:断続
形式:旧文明管理系
権限要求:不明
応答:抑制中
接続:非推奨
――――――――――
「権限要求?」
『断片内部の残存システムが、管理者認証を求めています。現在のレンの権限では、完全応答はできません。応答した場合、上位系へ接続要求が広がる可能性があります』
「つまり、返事をするな」
『現時点では、返事をしない方が安全です』
レンはリング片の外殻を回り込んだ。
焦げた金属の臭いがする。外殻の一部が割れ、その奥にメモリユニットらしい箱が見えた。箱の側面には旧文明の識別刻印。半分焼けて読めない。
その箱から、細い光が出ている。
ノアがすぐに反応した。
『中枢ではありませんが、記録領域の可能性があります。読み取り専用接続であれば、断片ログを取得できる可能性があります。ただし、内部信号が接続経路を逆流する危険があります』
「逆流って言い方、嫌だな」
『正確には、不正な権限要求が端末経由で拠点系統へ伝播する危険です』
「そっちの方がもっと嫌だ」
レンは工具バッグから物理遮断スイッチ付きの短いケーブルを出した。
観測塔で使ったものより古い。だが、途中で手動遮断できる。読み取りだけで切るには、これが一番ましだった。
「読むだけ。保存したら切る」
『接続時間は三十秒以内を推奨します。取得対象は構造ログ、落下前状態、管理者認証欠損情報に限定してください』
「ミオ関係は」
『CROSS-LINK関連信号は現時点で検出されていません』
「……分かった」
レンはしゃがみ込んだ。
膝が痛む。
手のひらも痛い。
端子を合わせる。焼けたポートは少し歪んでいた。無理に押し込むと折れる。角度を変え、端子を削り、もう一度合わせる。
入らない。
少し削る。
まだ入らない。
「ここまで来て、端子が合わないとか言うなよ」
『規格は一致しています。物理変形です』
「分かってる。愚痴だ」
レンは端子を斜めに入れ、ゆっくり押し込んだ。
かち、と小さく噛んだ。
端末の画面が白く点滅する。
『接続確認。三十秒計測開始』
「読む」
ログが流れ込んだ。
[RING FRAGMENT LOG]
――――――――――
軌道リング補助区画:分離
姿勢制御:喪失
管理者認証:欠損
惑星側管理系:応答なし
ORIGIN-7上位接続:遮断
記録領域:一部残存
――――――――――
「管理者認証、欠損」
『重要情報です。軌道リングは完全な管理者認証を失った状態で稼働していた可能性があります。現在の落下は、単なる破損ではなく、管理系統の断絶が原因です』
「惑星側管理系が応答なしって」
『この惑星の管理ネットワークが、リング側から見て沈黙していたという意味です』
レンは息を詰めた。
この惑星は、ずっと沈黙していた。
だから、リングは支えを失った。
だから、落ちた。
『残り十秒』
「続けろ」
次のログが出る。
[NETWORK LAYER]
――――――――――
地上施設管理:断続
気象観測管理:最低復帰
軌道リング補助:欠損
惑星物流制御:休眠
ORIGIN-7上位接続:不可
暫定管理者候補:再評価対象
――――――――――
「再評価対象って、俺か」
『可能性が高いです。接続を切ってください』
端末が赤く点滅した。
[AUTH REQUEST]
――――――――――
管理者認証要求
応答待機
権限階層:不足
接続維持:危険
――――――――――
『切断してください』
ノアの声が少しだけ硬くなった。
レンは遮断スイッチへ指をかけた。
その瞬間、端末の奥で別の表示が走った。
[CROSS-LINK TRACE]
――――――――――
観測語:M――
同期残滓:検出不能
記録破損
――――――――――
「今の」
『切断してください』
「ノア、今のログ」
『切断が優先です。権限要求が端末経路へ侵入しています』
レンは歯を噛んだ。
見たい。
だが、長くつなげば、拠点まで巻き込む。
ミオの名前かもしれないものを追って、今の拠点を落とすわけにはいかない。
「くそ」
レンは遮断スイッチを押した。
端末が暗転する。
次に、通常表示へ戻った。
『接続遮断。外部侵入なし。取得ログを隔離領域に保存しました』
レンはその場にしゃがんだまま、しばらく動けなかった。
黒い砂の上に、リング片の影が落ちている。
端末の中には、見たかったものがほんの少しだけ残っている。
でも今は、開けない。
開けたら、何かが入ってくるかもしれない。
レンはケーブルを抜いた。熱で少し歪んだ端子が、外れる時に嫌な感触を返した。
「取得したログ、拠点で読む」
『推奨します。隔離環境で解析してください』
「分かってる」
レンは立ち上がろうとして、膝が遅れた。
一瞬、体が傾く。
リング片に手をつきそうになって、やめた。
代わりに、工具バッグの肩紐をつかんだ。
『右膝の負荷が上昇しています』
「帰ったら見る」
『五回目です』
「もう、数えなくていい」
ガタへ戻る途中、リング片の内部で光がまた一度だけ点滅した。
まるで、何かがまだ返事を待っているようだった。
レンは振り返らなかった。
振り返ると、もう一度つなぎたくなる。
ガタの操縦席に乗り込み、端末を隔離モードに切り替える。黒いログアイコンが、画面の端で封印された。
[QUARANTINE STORAGE]
――――――――――
取得ログ:保存
解析:未実行
外部接続:遮断
推奨:拠点帰還後に隔離解析
――――――――――
「帰るぞ」
『了解。帰還ルートを表示します』
「ノア」
『はい』
「さっきのM、見間違いか」
『現在は判定できません。ログ解析が必要です』
「そうか」
レンは操縦桿を握った。
落ちた欠片は、ただの瓦礫ではなかった。
惑星が沈黙していたこと。
リングが管理者認証を失っていたこと。
そして、ほんの一瞬だけ見えた、Mの文字。
持ち帰るものが増えた。
背後で、リング片の微弱な光が赤い砂に沈んでいく。
ガタは低く震え、拠点へ向けて動き出した。
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