第154話 保守棟下層に灯りを戻した
保守棟の外壁が見えた時、最初に聞こえたのは風ではなかった。
がり、がり、とガタの右輪が硬い砂を削っている。E-03を出た時より振動が増え、荷台の予備電池が固定具の中で小さく鳴っていた。
『右輪、抵抗上昇』
「止まれるか」
『止まれます。進めます』
「なら、入口まで」
レンは外套の手首表示を確認した。呼吸フィルタは緑。冷却も動いている。保守棟の周囲では白い粉塵が壁に沿って流れ、ところどころで灰色の渦になっていた。
ここへ来るのは初めてではない。
側面点検口を開け、床下の線を短時間だけ起こした。正面側から内部へ入り、部品棚と端末も見た。通信塔へ向かう細い線が残っていることも知っている。
ただし、あの時に使ったのは携行電池からの仮給電だった。三十分ほど保てばいい線だった。今日は、その下に眠っている電源そのものを起こしに来た。
「ノア、入口は」
『前回固定した正面扉を使用できます。開放幅は維持。入口区画と奥の通路までの記録も残っています』
『床、嫌です』
「知ってる床だ」
『知っていても嫌です』
扉の前で、レンは外套の面についた粉を吸引布で払った。直接吹き飛ばさない。舞い上がった粉がフィルタへ戻れば、入口へ入る前に負荷を増やすだけだ。
ガタの車輪も同じように吸引具で清掃する。右輪の溝から固まった砂が二つ落ちた。回転抵抗は少し下がったが、表示は黄色のままだった。
「中でもフィルタは回したまま。ガタ、俺の後ろ」
『了解』
『後ろは床が見えません』
「じゃあ半車身ずらせ」
『了解。床は見ます』
扉を横向きに抜けると、外の風が切れた。代わりに外套の給気音と、ガタの車輪が金属床を踏む低い振動が近くなる。
入口区画の赤い非常灯は消えていた。壁の工具棚も、以前回収した場所だけが空いている。奥へ続く通路には灰色の粉が薄く積もり、その上に古い足跡が途中まで残っていた。
レン自身の足跡だった。
「前回確認した奥の通路まで、経路を出して」
『表示します。ただし床面状態は更新されていません』
白い線が床へ重なった。三メートル先で左壁へ寄り、落下した天井板を避けてから、奥の点検扉へ続く。
レンは一歩ごとに靴底の感触を確かめた。硬い。次も硬い。三歩目だけ、金属板がわずかに沈む。
「ここ、前より動く」
『沈下量が増えています。右側フレームへ移動してください』
『右、段差』
ガタの前輪灯が床の継ぎ目を照らした。レンは細い固定杭を横へ置き、沈む板を踏まない印にした。帰る時、暗くなっても同じ場所を避けられる。
点検扉の先に、下層階段があった。
幅はガタの車体より少し広い。傾斜は緩いが、各段の端に粉塵が溜まっている。下から空気は上がってこない。吸気が止まっている証拠だった。
[LOWER ACCESS CHECK]
――――――――――
既知経路:再確認
床面:一部沈下
粉塵:高
吸気:停止
退避経路:入口まで確保
外套気密:維持
――――――――――
「ガタ、下りられるか」
『幅は足ります。粉が嫌です』
「速度を落とせ。車輪で巻き上げるな」
『低速で下ります』
レンが先に下りた。手すりへ荷重をかける前に根元を揺する。錆びた音はしたが、外れない。階段の端を踏み、中央の粉を避ける。
ガタは一段ずつ車輪を落とした。こと、こと、と規則的な振動が階段へ伝わる。途中で右輪が粉の塊を踏み、車体が傾いた。
『右、滑ります』
「止まれ」
レンは壁際の粉を吸引し、露出した滑り止めへ平たい固定板を置いた。ガタが前輪を載せる。右輪が空転せず、車体はゆっくり水平へ戻った。
『通過』
「帰りもそこを使う」
『記録しました』
階段の下には、細い前室があった。
壁の吸気格子は灰色の粉で塞がれている。配電盤へ続く扉は半開きで、床には古いケーブルが一本垂れていた。引っかければ転ぶ位置だ。
レンはケーブルを壁際へ寄せ、二か所を固定具で留めた。それから吸気格子へ吸引袋を当てる。表面をこすると、厚い粉の膜が布ごと剥がれた。
格子の奥で、羽根が見えた。
「回るか」
『電源停止中です。手動では固着していません』
レンはプローブで羽根を押した。少し重いが、回る。焼けてはいない。
「電気が戻れば換気も戻せる」
『低速起動を推奨します』
配電室へ入る前に、レンは振り返った。階段の固定板。床の杭。白い経路線。その先に正面扉とE-03へ戻る表示がある。
「退避するなら?」
『配電盤から入口まで、現状で四分弱。階段上の沈下床を除外した経路です』
『私が先です』
「なんで」
『後ろでは床が見えません』
「帰りは先に行け」
『了解』
配電室の扉を押すと、下部に溜まった粉がざり、と鳴った。
中は暗かった。
ライトを動かすと、壁一面の配電盤が順番に浮かぶ。以前、床下線を仮復帰させた接続箱より大きい。ここから保守棟内部と外部配電線へ電力を分けていたらしい。
中央の盤には三本の主系統があった。二本は焼損表示。残る一本は停止表示のまま、手動遮断器だけが下がっている。
「生きてる候補は一つ」
『補助電源第三系統。停止理由は出力低下ではなく、起動時過電流です』
「前に仮給電した床下線は?」
『第三系統の下流です。当時は携行電池から線の一部だけを起こしました。補助電源本体は停止したままでした』
「今日は上流を起こす」
レンは盤の下部を開けた。冷えた金属の匂いは外套越しには分からない。それでも、ライトの中に黒い焼け跡がないことは見える。
端子へ触れる前に温度を測る。周囲と同じ。絶縁値は低くない。冷却管は止まっているが、漏れもない。
問題は負荷だった。
第三系統の先には、下層照明、換気、工具棚、床下線、外部送電口、停止したままの診断端末が全部つながっている。長く寝ていた設備を一度に引き起こせば、また過電流になる。
「外せる負荷を外す。外部送電口は切ったまま。工具棚と診断端末も切る」
『下層照明と換気のみ残しますか』
「最初は非常灯だけ。安定してから換気を足す」
『設定します』
レンは絶縁クランプをはめ、古い負荷札を一つずつ下げた。外部送電。工具棚。診断端末。床下線も切る。
E-03へ続く旧配電線は、その先にある。
今日は触らない。
代わりに、電源元を使える状態へする。
手動遮断器の横へ停止索をつけ、レンの左手で引ける位置へ回した。右手は起動レバー。ガタは扉の外、階段へ向きを変えて待っている。
「ノア、上限」
『低出力域。上限接近で警告。超過時は即時遮断します』
「冷却は」
『自然放熱で開始可能です。安定後に低速換気を接続してください』
「起こす」
レバーを一段だけ上げた。
ごん、と床の下で重いものが動いた。
配電盤の奥から低い唸りが立ち上がる。黄色い表示が一つ、二つと点いた。非常灯へ向かう線が薄く光る。
次の瞬間、電流表示が跳ねた。
『過電流』
レンは停止索を引いた。
遮断器が落ちる。
ばつん、と硬い音がして、盤の光が全部消えた。遅れて天井の奥から、回りかけた何かが止まる音がした。
焦げた光はない。煙も出ていない。
「焼けた?」
『焼損反応なし。遮断成立』
『音、大きいです』
「俺も聞いた」
レンは手袋の中で指を開いた。停止索を握った左手が痛い。あと一拍遅ければ、候補一系統まで焼いていたかもしれない。
「非常灯だけで、なんで跳ねた」
『起動指令と同時に、固着した排気補助機が自動接続されています』
盤の右下に、記録に出ていない古い連動線があった。非常灯ではない。電源起動時に排気補助機を強制始動させる線だ。
「吸気じゃなく、奥の排気か」
『はい。回転開始に失敗し、電流が上昇しました』
「外す」
レンは連動線の札を探した。文字は消えている。ケーブルをたどると、盤の裏側へ回り込み、固い端子台へ入っていた。
狭い。
膝をつくと床の粉が浮いた。外套のフィルタ音が一段高くなる。レンは吸引袋を端子台の下へ置き、粉を舞わせないようブラシを短く動かした。
端子が出る。
固定ねじは固着していた。力をかけると工具が滑る。手首へ嫌な振動が返った。
「回れ」
『押し込みを強く。回転は小さくしてください』
「やってる」
もう一度。
き、とねじが動いた。
連動線を外し、絶縁栓を被せる。排気補助機は停止のまま。代わりに、手動確認した吸気側だけを後から低速接続できるようにした。
レンは立ち上がり、配電盤の温度をもう一度見た。上昇はない。遮断器も戻せる。
「二回目。非常灯だけ」
『起動条件を確認。排気補助機切離し。外部送電口停止。床下線停止。即時遮断可能』
『帰路、確保』
「やる」
レバーを上げた。
低い唸りが戻る。
今度は跳ねない。黄色い表示が点き、しばらく揺れたあと一定になる。天井の非常灯が入口側から一つずつ灯った。
暗かった配電室の床に、細い橙色の帯が伸びる。
「安定?」
『低出力で安定。上限まで余裕があります』
「吸気を足す」
レンは吸気系統の札を上げた。
前室の奥で、羽根が一度だけきしんだ。
次に、ゆっくり回り始める。
ごう、ではない。ふう、と長く息を吐くような音だった。格子に残った粉がわずかに動いたが、吸引袋が受け止め、室内へは舞わない。
給気の流れが配電室まで届く。外套の表示で、空気の動きが停止から低速へ変わった。
ガタが前輪灯を消した。
『見えます』
階段にも低い灯りが点いていた。固定板の位置、沈下床を示す杭、入口へ戻る白線が、暗闇の中で途切れず見える。
[LOWER AUXILIARY POWER]
――――――――――
第三系統:低出力安定
過電流:遮断済み
不要負荷:切離し
下層非常灯:点灯
吸気:低速運転
外部送電口:停止
次作業:E-03側導通確認
――――――――――
レンはレバーから手を離さず、しばらく音を聞いた。
補助電源の唸り。吸気羽根の回転。配電盤の小さな接点音。どれも弱い。だが、途中で沈まない。
前にここへ来た時は、携行電池で床下の線を数十分だけ光らせた。今日は違う。保守棟の下で、保守棟自身の電源が回っている。
「上限と停止条件を基地へ送れる?」
『E-03中継経由で状態監視を接続しました。起動上限、遮断履歴、盤温度、吸気状態を基地から確認できます』
「送電はしてないな」
『外部送電口は停止しています。E-03への電力供給はありません』
「それでいい」
レンは外部送電口の札へ赤い固定具をかけた。次に来て導通を確かめるまで、誤って上げられない形にする。
配電室を出ると、階段の灯りが足元を照らした。
ガタが先に上る。右輪は黄色のままだが、固定板の上を外さず通った。沈下床の手前では自分から半車身ずれ、杭の右側へ進む。
『帰れます』
「うん」
下層からは、換気の低い音が追ってきた。
保守棟全部が生き返ったわけではない。使えるのは一系統、低出力だけだ。E-03へ電気はまだ届いていない。
それでも、暗かった下層には灯りがある。粉塵を巻き上げずに空気が動き、危険なら手元で止められる。基地から温度も遮断履歴も見える。
レンは階段の上で振り返った。
橙色の灯りが、下層の奥まで続いていた。
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