第145話 復旧責任者候補
補強リングが冷えるまでの短い時間に、権限確認は勝手に進んでいた。
第七保守ラインの壁面に、昇降塔補強材の図面とは別の枠が出ている。黒い枠。白い文字。月面工廠から来た断片設計の横に、さらに古い認証系の表示が重なっていた。
レンは飲料水パックを片手に、その表示を見上げた。
「ノア」
『はい』
「消せる?」
『権限確認表示です。非表示は可能ですが、処理は継続します』
「見えないところで進むな」
『では表示を維持します』
「そういう意味でもない」
M-7-03が補強リングの周囲を回っている。接合していないか確認しているのか、ただの掃除かは分からない。レンとしては、その小さい足音の方がまだ安心できた。壁面の黒い枠は、見ているだけで嫌な汗が出る。
――――――――――
[AUTHORITY CHECK]
要求元:月面工廠
対象設備:星系復旧艦規格
必要権限:復旧責任者
現地候補:黒瀬レン
状態:照合中
――――――――――
「現地候補って、勝手に決めるな」
『候補抽出は自動です』
「候補から外して」
『外すには、代替候補が必要です』
「ノア」
『私は支援AIです』
「M-7-03」
『保守機です』
「じゃあ、なし」
『候補不在の場合、上位規格照合は停止します』
レンは少しだけ黙った。
停止。
いい言葉だ。だが、もう何度も聞いてきた。ここで止めると、補強材の仮成形が止まる。昇降塔第二段の準備も止まる。第七保守ラインと精製炉も、今の素材を抱えたまま固まる。月面工廠から来た応答も、たぶん閉じる。
それだけならまだいい。
低地維持系統まで巻き戻る可能性がある。
「停止すると、低地はどうなる」
『即時危険はありません』
「即時じゃなければ?」
『昇降塔第一段の安定維持に制限が出ます。工業層通信は低下。第七保守ラインは待機へ戻ります』
「採掘ラインは」
『低出力停止』
「精製炉は」
『冷却待機』
「飲料水は?」
『生成済み分は保持されます』
「そこだけ優しいな」
レンは飲料水を一口飲んだ。味はない。だが、さっきより少し冷えていた。作業者支援機能が気を利かせたのかもしれない。いや、そんなことまで考えると、いよいよ施設に飼われている気がする。
壁面の黒い枠が、一段明るくなった。
――――――――――
[CANDIDATE BASIS]
現地作業実績:低地維持系統復帰
昇降塔第一段:起動
工業層:再稼働
採掘ライン:低出力起動
月面工廠:応答確立
候補適性:暫定成立
――――――――――
「俺の作業実績を並べるな」
『候補判定の根拠です』
「根拠にするためにやったんじゃない」
『結果として、条件を満たしています』
「結果が毎回こっちに不利」
保守機M-7-03が、レンの足元まで来た。白い点が一度明滅する。名前登録待機ではなさそうだった。壁面の黒枠を見ている。いや、たぶん見ている。
「お前も俺が候補だと思う?」
『保守機M-7-03に判断権限はありません』
「よかった」
『ただし、候補者補助対象としてレンを追従中です』
「よくなかった」
レンは空いている手で顔を覆った。
候補者補助対象。
また嫌な言葉が増えた。
壁面に、承認枠が出た。承認と拒否。二つの表示。拒否の方に視線を向けるだけで、ノア・ガタが先に言う。
『拒否した場合、上位規格照合は停止します』
「分かってる」
『昇降塔第二段の起動準備も停止します』
「分かってるって」
『補強リングは仮成形状態で凍結されます』
「分かってるから、追い打ちするな」
レンは拒否表示を見た。
押せる。
たぶん、押せる。ここで拒否すれば、話は小さくなる。月面工廠も、星系復旧艦も、復旧責任者も保留できる。少なくとも今は。
だが、低地はもう動いている。
昇降塔第一段は立っている。
第七保守ラインは素材を流している。
精製炉は熱を持っている。
M-7-03は足元にいる。
全部止めて、また死んだ施設みたいな静けさに戻るのか。
それは、それで嫌だった。
「仮登録ってある?」
『あります』
「正式じゃなくて、仮」
『候補者仮登録。限定権限のみ付与』
「拒否よりはマシ?」
『維持系統の連携は継続できます』
「正式登録にはならない?」
『現時点では、なりません』
「現時点では、が怖いんだよ」
黒枠の表示が変わる。
――――――――――
[RESTORATION CANDIDATE REGISTRATION]
対象:黒瀬レン
区分:星系復旧責任者候補
状態:仮登録可能
権限:限定付与
拒否時:維持系統連携停止
――――――――――
レンは表示を見た。
飲料水パックを見た。
補強リングを見た。
M-7-03を見た。
「ノア」
『はい』
「これ、押したら戻れないやつか」
『仮登録は解除可能です』
「解除すると?」
『維持系統連携が停止します』
「戻れないやつじゃん」
『表現の問題です』
レンは笑った。乾いた笑いだった。飲料水をもう一口飲み、空になったパックを工具箱に突っ込む。
指を伸ばす。
承認ではない。
仮登録。
その小さい逃げ道みたいな表示を押した。
壁面の黒枠が、白に変わった。
部屋の音が一瞬で増えた。
第七保守ラインの生成槽が明るくなる。採掘ラインの搬送音が速くなる。精製炉の低い唸りが安定し、補強リングの表面を白い線が一周した。M-7-03が脚を広げ、床に固定する。天井のアームが一斉に位置を調整した。
「おい」
『候補者仮登録、完了』
「完了した瞬間に元気になるな」
『限定権限が適用されました』
「限定でこれかよ」
――――――――――
[LIMITED AUTHORITY APPLIED]
候補者:黒瀬レン
権限:限定付与
工業層連携:強化
精製炉処理:安定
昇降塔第二段:補強材受領可能
月面工廠:微弱接続維持
――――――――――
「便利だな」
『はい』
「便利すぎて腹立つな」
『作業効率は向上しています』
「そういうところだぞ」
補強リングが、搬送台の上で静かに持ち上がった。接合はしていない。だが、アームがリングの下へ入り、昇降塔へ運ぶ準備を始めている。大型構造材四本も、横に並んだ。さっきまで材料だったものが、もう部品の顔をしている。
レンはそれを見て、舌打ちした。
できてしまった。
しかも、前よりずっと整っている。
「仮登録のせい?」
『はい。候補者権限により、設計補正の優先順位が確定しました』
「俺が押したから?」
『はい』
「聞かなきゃよかった」
M-7-03が補強リングの横で一度明滅した。
『保守機M-7-03、候補者補助モードへ移行』
「お前もか」
『随伴精度が向上します』
「名前登録、逃げられなくなってきたな」
『登録しますか』
「……ミナナ」
『登録しますか』
「登録しろ」
『保守機M-7-03、個体名ミナナ。登録完了』
ミナナが白い点を二度明滅させた。
嬉しそうに見えた。
たぶん違う。
いや、もう違わないかもしれない。
レンは補強リングを見た。工業層の音が太くなっている。遠くの昇降塔第一段も、それに合わせて低く鳴った。塔が待っている。第二段を。補強材を。レンが仮登録したことで、次に進む条件はほとんど揃ってしまった。
「ノア。これで何ができる」
『昇降塔第二段の補強材搬送。大型構造材の仮接続。月面工廠との次回応答要求』
「最後はいらない」
『保留します』
「保留好きだな」
『安全です』
「安全な保留を見た記憶がない」
壁面のログが、最後にもう一度だけ更新された。
――――――――――
[NEXT PHASE READY]
昇降塔第二段:補強材搬送可能
大型構造材:仮接続待機
月面工廠:接続維持
責任者候補:仮登録済
次段階:工業層効率最適化
――――――――――
「工業層効率最適化」
『はい』
「また元気になるやつだ」
『はい』
「否定してくれ」
ノア・ガタは答えなかった。
レンは工具箱を持ち直した。補強リングの横で、ミナナが待っている。白い箱から出した二本目の飲料水パックが、搬送台の端で冷えていた。
仮登録した。
したくてしたわけではない。
けれど、した。
その瞬間、地下都市は少しだけ息をしやすくなった。
レンは飲料水パックを掴み、補強リングの方へ歩いた。
「行くぞ。第二段はまだ上げるなよ」
『補強材搬送のみ実行します』
「本当に搬送だけな」
『現時点では』
「その言葉、禁止にしたい」
補強リングが、ゆっくり動き出した。
「続きが読みたい」と思ったら下の評価とブックマーク登録をどうぞ。




