第139話 第七保守ライン
低地東側の隔壁は、昨日までただの壁に見えていた。灰色の外装に亀裂が走り、下半分は粉と古い土に埋もれている。だが、昇降塔第一段がせり上がってからは違う。隔壁の右端に、細い白線が一本出ていた。線は床から壁へ上がり、そこで横へ折れ、暗い隙間の奥へ続いている。
レンはその線を追って歩いた。背後では昇降塔が低く鳴っている。さっきからずっと止まらない。うるさいほどではない。だが、無視できるほど小さくもない。塔が半端なまま起きている音だ。
「ノア。隔壁の状態は」
『低地東側隔壁、閉鎖保持。内部電源、微弱。手動解除可能』
「手動でいけるのか」
『初期電源が低いため、自動開放不可』
「そこは助かる。勝手に開くよりいい」
『手動解除後、自動系が追従する可能性があります』
「言うと思った」
隔壁の下部に、古い保守用ハンドルがあった。丸い輪ではなく、横長の棒だ。半分埋もれている。レンは周りの粉を工具で削り、棒の端を掴んだ。重い。完全に固着している。体重をかけても動かない。
ノア・ガタの小型投影が横に浮いた。
『潤滑剤を使用してください』
「あるの?」
『低地維持用の残量があります』
「なんで先に言わない」
『力で開く可能性を確認していました』
「俺で試すな」
レンは小型容器のノズルを隙間に差し込み、潤滑剤を流した。白い液体が黒く汚れながら奥へ入っていく。少し待ってから、もう一度ハンドルを押す。今度は、ごり、と音がした。動いた。そこで止まった。
「半分」
『ロック爪が残っています』
「場所は」
『右下、二十センチ』
レンは右下のカバーを外し、中の爪を工具で押した。ぱき、と軽い音がして爪が戻る。ハンドルが一気に動いた。隔壁の白線が明るくなり、壁の内側で古い錠が順番に外れていく。
重い音が低地に響いた。
隔壁が開く。
風ではなく、乾いた熱が流れてきた。奥は暗い。だが、床の線は続いている。二歩先、五歩先、その奥へ。白い点が順番に点き、通路の輪郭が見えた。広い通路ではない。保守用の細い通路だ。壁に配管が並び、天井近くに小型レールが走っている。
「第七保守ラインって、この奥?」
『はい。工業層外縁部です』
「外縁でこれか」
『中心部は未確認です』
「聞いてない」
レンは通路へ入った。外より空気が熱い。湿気はない。焼けた金属の匂いと、長く動いていなかった機械の匂いがする。足元の白線は、ところどころ切れている。だが、昇降塔から来た光が追いつくたびに、切れていた線が細く繋がる。
通路の奥で、何かが動いた。
レンは足を止める。
「今、動いたよな」
『熱膨張の可能性があります』
「便利な言葉だな」
『保守機群の休眠解除反応も検出』
「そっちを先に言え」
壁際に、小さな機械が三台並んでいた。高さは膝ほど。丸い胴体に、細い脚が四本。先端には工具らしい腕が畳まれている。蜘蛛に似ている。似ていなくてもいいのに、かなり似ている。
そのうち一台の頭部に、白い点が灯った。
次に、もう一台。
最後に、三台目。
「敵じゃないんだよな」
『本来は修理・搬送・清掃を行う小型保守機です』
「本来は」
『現状態は確認中』
「だからその言い方」
三台の保守機は、レンを見た。見たように感じただけかもしれない。だが、白い点がこちらへ向いたのは確かだった。レンは工具を握り、少しだけ身構える。
保守機は動かなかった。
一台目が、ゆっくり脚を伸ばした。二台目が壁へ向かい、割れた配管の下で止まる。三台目は床の粉を吸い込み始めた。しゅう、と小さな音を立てて、白線の上の粉が消えていく。
レンは息を吐いた。
「掃除してる」
『清掃機能、復帰』
「敵じゃない」
『現時点では』
「一言多い」
保守機が白線を掃除すると、通路の明るさが増した。床だけではない。壁の配管に沿って細い灯りが戻り、天井の小型レールにも白い点が走る。奥で、さらに何台かの保守機が起きた。数は増えたが、こちらへ襲ってくる様子はない。むしろ、レンの進行方向を勝手に片づけている。
少し便利だった。
便利すぎて怖い。
――――――――――
[MAINTENANCE DRONES]
保守機群:低出力起動
清掃:開始
配管確認:開始
通路確保:開始
敵対反応:なし
――――――――――
「便利」
『はい』
「便利って怖いな」
『理解できません』
「勝手に起きる便利は怖いんだよ」
通路を抜けると、広い空間に出た。
第七保守ライン。
そこは工場というより、壁そのものが機械になった部屋だった。左右の壁に細長い生成槽が並び、中央には搬送台が一本通っている。天井からは折り畳まれたアームが何本も下がっていた。床には素材を流す溝がある。溝は空だ。だが、奥の一部だけ白く光っている。
レンは入口で立ち止まった。
「思ったより広い」
『工業層第七保守ライン。低地外縁と昇降塔第一段の保守材生成を担当します』
「担当範囲が広い」
『外縁系統です』
「外縁って言えば小さく聞こえると思うな」
中央の搬送台に、割れた通信安定化部品を置く。置いた瞬間、台の下から白い線が走った。部品の形が読み取られ、左右の壁に薄い図面が浮かぶ。割れた筒状部品が拡大され、内部構造が分解され、必要素材が並んでいく。
すぐに赤い表示が出た。
――――――――――
[PART ANALYSIS]
対象:通信安定化部品
破損:不可逆
再生成:可能
不足:高耐熱導材/白磁複合材
素材搬入:未接続
初期電源:不足
――――――――――
「不足多いな」
『長期停止後の再生成です』
「初期電源も足りない?」
『はい。保守ラインを低出力起動する必要があります』
「もう起きてるじゃん」
『保守機群と照明のみです』
「それは起きてるうちに入らないのか」
『生成ラインは未起動です』
レンは部屋の奥を見る。そこに、太い電源盤があった。カバーは半分外れ、内部の白い配線が露出している。赤く焼けた跡がある。完全に死んでいるわけではなさそうだが、そのまま流せばまた焼ける。
作業は分かりやすかった。
焼けた導線を外す。生きている線を迂回させる。足りない絶縁材を、持ってきた補修テープで代用する。綺麗ではない。正式でもない。だが、低出力なら通せる。
レンは作業を始めた。
「ノア。低出力だけな」
『了解。生成ライン、低出力起動準備』
「高出力にするなよ」
『現電源状態では不可能です』
「それは安心していいのか」
『はい』
「ほんとか?」
ノア・ガタは答えなかった。
レンは最後の導線を固定し、電源盤の横にある古いスイッチを押し込んだ。
部屋全体が鳴った。
小さい音ではなかった。壁の生成槽が順に震え、中央の搬送台が動き出し、天井のアームがゆっくり下りる。保守機群が一斉に壁際へ散り、床の溝を掃除し始めた。白い線が部屋の隅から隅まで走る。
低出力。
たしかに低出力なのだろう。
だが、レンの目には、十分すぎるほど大きな起動に見えた。
――――――――――
[SEVENTH MAINTENANCE LINE WAKE]
初期電源:接続
生成ライン:低出力起動
保守機群:再配置
搬送台:起動
素材搬入:未接続
――――――――――
「低出力って何だっけ」
『定格の十二パーセントです』
「十二でこれかよ」
『はい』
天井のアームが、割れた通信安定化部品をつまみ上げた。壁の生成槽が淡く光る。だが、すぐに止まる。素材がない。電源は入った。機械も起きた。けれど、作るものがない。
赤い表示が増えた。
――――――――――
[MATERIAL SHORTAGE]
高耐熱導材:不足
白磁複合材:不足
代替素材:不可
搬入候補:低地外縁採掘ライン
採掘ライン:休眠
――――――――――
「出たな、次」
『素材搬入には、低地外縁採掘ラインの再起動が必要です』
「保守ラインを起こしたら、採掘ラインが出てきた」
『順当です』
「順当の範囲が広い」
レンは搬送台の上に残った割れ部品を見た。ここまで来れば、部品は作れる。作れるが、素材がない。素材を入れるには採掘ラインを起こすしかない。採掘ラインを起こせば、また何かが起きる。たぶん、起きる。
それでも、塔は背後で鳴っている。低地維持系統も、まだ細い。工業層は低出力で目を覚ましたばかりだ。ここで止まれば、全部が半端なまま残る。
「ノア」
『はい』
「採掘ラインまで、遠い?」
『低地外縁。第七保守ライン奥の搬送路から接続可能』
「近いのか」
『距離は短いです』
「嫌な言い方だな」
『状態は未確認です』
レンは工具をしまい、保守機群を見た。三台が床を掃除し、二台が壁の生成槽を確認し、一台がレンの靴の横まで来て止まった。白い点がこちらを見上げる。
「何」
『随伴提案です』
「この蜘蛛っぽいやつが?」
『保守機です』
「名前ある?」
『個体名なし。識別番号、M-7-03』
「呼びにくい」
『任意命名可能』
「じゃあ、ミナナ」
『登録しますか』
「今のなし」
『登録待機』
保守機はそのままレンの横に並んだ。待っている。どう見ても待っている。レンは諦めて、搬送路の奥を見た。
低地探索は、もうただの探索ではなかった。
昇降塔を上げるために、保守ラインを起こした。保守ラインを動かすために、採掘ラインが必要になった。ひとつ直すたびに、次の層が起きる。地下都市が、自分を直す順番をレンに渡してくる。
「行くぞ。名前はあとで考える」
『保守機M-7-03、随伴』
「だから名前はあとで」
搬送路の奥で、低い灯りが点いた。
採掘ラインへ続く、最初の光だった。
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