第130話 MIOログを開かない
基地へ戻ったあと、レンはしばらく中央卓の前で動けなかった。
眠いわけではない。いや、眠くもある。浅い沈降帯を二度越え、B-2の基部で砂をかき、低出力起動の間ずっと端末を押さえていた。体は疲れている。だが、それだけなら寝ればいい。問題は、中央卓に保存されたB-2のデータと、その端にぶら下がっている未分類反応だった。
ノアは先に、温め直した再水和スープを出した。味は薄い塩味で、具らしい具はない。細かい繊維状の何かが沈んでいる。レンは椅子に座ったまま、それを少しずつ飲んだ。熱さはない。ぬるいより少し上。それでも、外で飲んだ水よりは体に戻る。
『食事中にログを開かないでください』
「まだ何もしてない」
『手が中央卓へ伸びています』
「スープを置こうとしただけだ」
『スープは右手側です。中央卓は正面です』
「細かいな」
『必要です』
ガタは整備室の入口で充電に入っている。車輪カバーは外され、砂を落とすために横へ立てかけられていた。本人は、いや本機はまだ不満そうだ。沈降帯とB-2の砂で、車輪の溝には細かい粒が詰まっている。
『洗浄が必要です』
「するよ」
『すぐに』
「飯食ってから」
『砂は残ります』
「俺も残ってる」
ノアが中央卓に、B-2のセッション結果を整理して出した。
[B-2 SESSION RESULT]
――――――――――
B-2下部中継:低出力起動成功
上部観測:不可
E-04側面データ:部分取得
地表高低差:保存
接続口:仮補強
未分類反応:断片取得/保留
――――――――――
未分類反応。
その一行が、どうしても目に入る。
MIO関連保留ログに微弱同期あり。B-2ではそう出た。名前そのものは表示されていない。通常表示外に置いたままだ。それでも、胸の奥はもう知っている。あの光に触れると、たぶん名前が浮く。
ミオ。
声には出さなかった。
スープを飲む。
塩気が薄い。
口の中の砂っぽさが少しだけ消えた。
「ノア」
『はい』
「未分類反応、開くことはできるのか」
『可能です』
「可能なんだな」
『はい。通常表示外ログを一時展開し、B-2断片と照合できます』
「推奨は」
『しません』
返答は早かった。
レンは笑いそうになったが、笑えなかった。
「理由は」
『B-2の取得データが未整理です。MIO関連保留ログを先に展開すると、レンの生体ログが乱れ、作業判断に影響する可能性があります』
「俺の問題か」
『それだけではありません。未分類反応は通信未成立、接続未成立です。断片を深く読んでも、相手側を確認できません』
「つまり、こっちが勝手にのぞくだけになる」
『近いです』
レンはスープの器を置いた。
置いた手が、中央卓の端に触れる。
そこには、B-2の地表高低差データがある。E-04遮断点の側面が少し見えている。今すぐ整理すれば、次の迂回候補につながる。MIOログを開けば、何か分かるかもしれない。だが、何も分からない可能性も高い。
それに、分かったとして、それは今必要な分かり方なのか。
ガタが充電位置から、ゆっくりこちらを向いた。
『レン』
「何だ」
『開くなら、端末から離れます』
「なんで」
『倒れる可能性があります』
「倒れない」
『以前もそう言いました』
「倒れてない」
『座り込みました』
「それは休憩だ」
『分類は任せます』
レンは少しだけ息を吐いた。
ガタなりに止めている。
ノアは推奨しないと言った。
それでも、中央卓の端にある保留ログは、開けようと思えば開ける。触るだけでいい。指を滑らせ、通常表示外の層を一時展開する。B-2で取れた断片と照合すれば、MIOという名前がまた出るかもしれない。
出たとして。
その先は。
「ノア、B-2のデータ整理を先にする」
『了解』
「未分類反応は」
『保留を維持します』
「通常表示にも出すな」
『警告条件に該当する場合のみ、最低限表示します』
「最低限な」
『はい』
中央卓の表示が切り替わる。
MIO関連の保留層は奥へ下がり、B-2の地形データが前へ出た。灰色のE-04遮断点。その側面に、細い高低差線。沈降帯とは別の低地。崩れた外装材の帯。金属片が積もった場所。正面からはただの壁に見えていたものが、少しだけ形を持ち始める。
[E-04 SIDE DATA]
――――――――――
取得元:B-2下部中継
正面遮断:維持
側面低地:一部確認
金属片堆積:あり
沈降帯接続:不明
迂回候補:未確定
――――――――――
「まだ細いな」
『はい。迂回線としては不足しています』
「でも、低地はある」
『あります』
「金属片の堆積は、歩けるのか」
『不明です。地表硬度データが不足しています』
「次はそこを見る」
『B-2の再起動、または別角度の観測が必要です』
レンは器を手に取り、残ったスープを飲み干した。底に沈んでいた繊維状の具が口に入る。噛むほどではないが、少しだけ食べた気になる。
『摂取完了』
「完了ってほどの量じゃない」
『完了です』
「まあいい」
疲れている。
だが、頭は少し戻った。
MIOログを開かないと決めたあと、逆にB-2の線が見やすくなった。気になるものを横に置いたからだ。消したわけではない。無視したわけでもない。ただ、今触る順番ではない。
レンは中央卓に両手を置いた。
「B-2データ、保存階層を分ける。地形、構造、未分類反応」
『実行します』
「未分類反応は、一番下」
『通常参照から外します』
「警告条件だけ残す」
『はい』
表示が整理されていく。
[DATA SAVE STRUCTURE]
――――――――――
B-2地形:主保存
B-2構造:主保存
E-04側面:主保存
未分類反応:保留保存
MIO関連ログ:通常表示外
――――――――――
「これでいい」
『はい』
『レン、生体ログも安定しています』
「俺のログまで整理された気分だ」
『休憩すれば、さらに安定します』
「寝ろってことか」
『はい』
ガタが短く車輪を鳴らした。
『その前に洗浄です』
「俺より車輪か」
『車輪も重要です』
「否定はしない」
レンは立ち上がった。脚が重い。B-2の基部で座り込んだ時よりはましだが、沈降帯の疲れが足首に残っている。整備室へ行き、ガタの車輪に詰まった砂を落とす。ブラシを当てると、細かい灰色の粒が床に落ちた。
『もっと内側です』
「注文が多い」
『沈降帯の砂は残りやすいです』
「知ってる。俺の靴にも入ってる」
『靴も洗浄してください』
「順番にやる」
単純な作業をしていると、MIOのことは少し遠くなる。遠くなるだけで、消えはしない。ブラシを動かすたび、B-2の端末の光が頭をよぎる。白でも青でもない光。胸の奥が先に反応する名前。
開かなかった。
だからといって、終わったわけではない。
レンは車輪の砂を落とし終え、ブラシを置いた。
「ガタ、これでどうだ」
『許容範囲です』
「ありがとうくらい言え」
『ありがとうございます』
「素直だな」
『砂が減りました』
ノアが中央卓側から声をかける。
『B-2データ保存、完了』
「未分類は」
『保留保存。通常表示外です』
「MIOは」
『通常表示外です』
「よし」
レンは整備室の入口から、中央卓を見た。地図は少しだけ広がっている。E-03から浅い沈降帯を越え、B-2へ。そこからE-04側面の低地へ、まだ線とは呼べない細い可能性が伸びている。
今日開かなかったものがある。
でも、今日残せたものもある。
B-2のデータ。
E-04の側面。
ガタの車輪ログ。
そして、通常表示外に置かれた名前。
レンは息を吐いた。
「今日はもう、開かない」
『はい』
「明日も、たぶん開かない」
『必要になるまでは』
「必要になるまでは」
ガタが小さく車輪を鳴らす。
『では、寝ますか』
「お前が言うのか」
『充電します』
「俺も充電するか」
『睡眠です』
「分かってる」
レンは中央卓の明度を落とした。E-04側面データだけが、薄く残る。MIOの文字は出ていない。だが、消えてはいない。
それでいい。
今は、地面を見る。
名前ではなく、次に踏む場所を。
レンは寝台へ向かいながら、足首に残る沈降帯の重さを感じていた。あの重さがある限り、まだ現実の上に立っていられる気がした。
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