第127話 浅い沈降帯
E-03の北側にある沈降帯の縁は、翌朝になっても灰色のまま残っていた。
レンはE-03の補給ケースの横に座り、水パックを一本開ける。ぬるい。昨日と同じだ。けれど、基地から持ってきた水ではなく、E-03に置いておいた水をここで飲んでいる。その違いが、思ったより大きかった。
横には携行食の細い包みがある。昨日見つけた乾燥穀物系ブロックではなく、基地から持ってきた合成タンパク片だ。レンは半分だけかじった。固い。少し砂っぽい。実際に砂が入っているわけではないが、外で食べると何でも砂の味が混じる気がする。
『摂取量が予定値に達していません』
「半分食べた」
『予定値は一個です』
「今から沈降帯を見るんだぞ。腹に重い」
『空腹状態で判断が鈍る可能性があります』
「食べ切ったら動きが鈍る」
『では、残り半分を三分以内に摂取してください』
「交渉みたいに言うな」
ガタが横で車輪を小さく回している。
『車輪カバーは正常です』
「聞いてない」
『必要情報です』
「昨日からずっと誇ってるだろ」
『有効でした』
「はいはい」
ノアの表示がE-03端末に出る。基地の中央卓より小さいが、必要な情報は足りている。E-03の地形監視塔、補給ケース、帰還線、ガタの充電量。ここで確認できるものが増えるほど、E-03はただの中間地点ではなくなる。
[E-03 DEPARTURE CHECK]
――――――――――
水分:摂取中
携行食:半量摂取
ガタ充電:安定
車輪カバー:装着済
地形監視塔:短時間照射可能
本日目的:浅い沈降帯の通過条件確認
――――――――――
「通過条件確認、な」
『はい。本日の主目的は、浅い沈降帯の突破ではありません。安全に通過可能な足場を見つけることです』
「でも、行けそうなら渡る」
『行けそうに見える、という判断は採用しません』
「昨日のノアより厳しい」
『昨日のレンが進みたそうだったためです』
「見てたのか」
『監視しています』
「言い方」
レンは残りの携行食を口に入れた。硬さに少し腹が立つ。水で流し込むと、喉の奥に塩気だけが残った。
E-03から北へ進む。
昨日登録した沈降帯の縁までは、もう迷わない。足元は硬い場所と柔らかい場所が混じっている。ガタは斜め後ろからついてくる。片側だけ車輪カバーを装着した姿にも、レンの目が少し慣れてきた。見た目はまだ変だが、砂に沈み込む時の動きはたしかに安定している。
沈降帯の縁に着くと、灰色の地面が朝の光を鈍く返した。小石が斜めに沈み、細い亀裂が横へ走っている。深い穴ではない。だが、地面の下に空気があるような軽さがある。レンはしゃがみ、棒で表面を突いた。砂がぱら、と崩れ、下の層が少し見える。
「浅いな」
『浅いです。ただし、表層保持力が低い』
『地形監視塔E-03を照射します』
E-03側から低い音が聞こえた。振り返ると、小さな監視塔の先端が北へ向いている。光の線は見えない。けれど、視界の端に地形の簡易表示が重なった。硬い場所が薄い白、沈みやすい場所が灰色で示される。
[SHALLOW SUBSIDENCE SCAN]
――――――――――
照射元:E-03地形監視塔
有効範囲:短距離
硬化部:点在
脆弱部:帯状
推奨歩行:左寄り三歩、中央回避
車輪推奨:カバー側を外縁へ
――――――――――
「左寄り三歩、中央回避」
『はい。徒歩と車輪で推奨線が異なります』
「ガタ、聞いたか」
『カバー側を外縁へ、です』
「分かってるならいい」
レンは一歩目を置いた。
地面が沈む。
ほんの少しだ。靴底の下で砂が動き、足首に力が入る。反射的に重心を戻しかけて、止めた。戻すと、後ろの柔らかい場所を踏む。前へ体重を逃がした方がいい。
『心拍上昇』
「そりゃ上がる」
『左寄り、次の硬化部まで一・二メートル』
「見えてる」
二歩目。三歩目。白く示された硬い場所へ足を置く。今度は沈みが少ない。レンは息を吐いた。沈降帯といっても、底なしではない。だが、気を抜くと足を取られる。浅いからこそ、油断が危ない。
後ろでガタの車輪が沈んだ。
ぎし、と嫌な音が鳴る。
「ガタ」
『負荷上昇。許容範囲内です』
「止まるか」
『進みます』
ガタはカバー付きの車輪を外側へ向け、沈みやすい表層を広く押さえた。もう片側が少し沈む。車体が傾く。だが、倒れない。後部ラックの固定バンドが鳴り、荷物が揺れただけで済んだ。
『固定バンドも有効です』
「今それ言う?」
『有効でした』
「分かった。固定バンドは認める」
『車輪カバーは』
「もう認めてるだろ」
『予備は』
「まだ」
ガタの車輪が砂を噛みながら、ゆっくり前へ出た。レンは手を伸ばしかけたが、ガタは自力で姿勢を戻す。車輪の軌跡が灰色の地面に二本残った。片方は浅く、片方は少し深い。その差が、地形ログとしてノアの表示に重なる。
[WHEEL LOAD LOG]
――――――――――
カバー側沈下:小
非カバー側沈下:中
車体傾斜:許容範囲
固定バンド:荷崩れ防止
通過評価:低速なら可能
――――――――――
「低速なら可能」
『はい。ただし、複数回の往復は推奨しません』
「一回ずつだな」
『はい。E-03を起点とした短距離行動が適切です』
レンは次の硬い場所を探しながら進んだ。白い表示は点々としている。歩きやすい線ではない。足場を拾うように進む。ガタは少し違う軌跡を通る。人間の足と車輪では、選ぶ場所が違う。そういう当たり前のことが、実際の地面ではかなり大きかった。
沈降帯の中央に近づくと、地面の色がさらに暗くなった。ノアの表示が短く揺れる。
『中央部、脆弱です』
「回避する」
『右側に硬化部。ただしガタの旋回半径では負荷が上がります』
「じゃあ俺が先に右へ出る。ガタは少し戻してから回れ」
『了解』
『戻るのは非効率です』
「倒れるよりいい」
『倒れません』
「倒れない運用だろ」
『はい』
レンは右の硬化部へ足を置いた。足元の砂が少し崩れたが、下の石に当たる感触がある。そこへ体重を乗せ、ガタが回る余地を作る。ガタは一度だけ後退し、カバー側の車輪を外に向け直した。ゆっくり旋回する。時間はかかるが、車体は安定している。
風が砂を運ぶ。口の中に、さっきの携行食の塩気と砂っぽさが戻ってきた。レンは水を飲みたかったが、今は手を離しにくい。喉の渇きを無視して、足元を見る。
『レン、水分摂取推奨』
「今は無理」
『次の硬化部で停止してください』
「分かってる」
次の白い場所まで進み、レンはそこで止まった。水パックを取り出し、一口だけ飲む。ぬるい水が喉を通る。うまいと言うほどではない。でも、判断が戻る感じがした。
ガタが横に並ぶ。
『沈降帯中央、通過率六十二パーセント』
「数字で言うな。まだ途中だろ」
『途中です』
「あとどれくらい」
『硬化部二つ。距離八・五メートル』
「近いようで嫌な距離だな」
最後の二つは、思ったより静かだった。地面は沈む。ガタも傾く。ノアの警告も短く入る。けれど、最初の数歩ほどの怖さはない。どこを踏めば沈むか、どう沈むか、体が少し覚えてきた。いや、覚えたというより、足が探るようになっている。
沈降帯の向こう側に出た時、レンは振り返った。E-03が遠くに見える。沈降帯の縁を越えた向こうに、低い仮拠点が小さく残っていた。そこからここまで、細いルートが一本、地図上に置かれる。まっすぐではない。左右にふらつき、中央を避け、ガタの旋回分だけ少し膨らんだ線だ。
でも、線になった。
[SUBSIDENCE ROUTE RESULT]
――――――――――
浅い沈降帯:低速通過可能
徒歩推奨線:登録
車輪推奨線:登録
E-03地形監視塔:有効
ガタ車輪ログ:地形評価に使用
復路:同線推奨
――――――――――
「抜けた」
『はい。浅い沈降帯の通過条件を取得しました』
『車輪カバーは有効です』
「三回目だぞ」
『重要なので』
「お前までそれを言うな」
レンは少し笑った。笑う余裕が戻ったところで、前方を見た。沈降帯の先、砂と石の向こうに、細い影がはっきり立っている。昨日より大きい。観測柱B-2。まだ距離はあるが、もうただの影ではなかった。基部らしき広がりも見える。上部は傾いているように見えた。
ノアの表示が慎重に重なる。
[B-2 VISUAL CONTACT]
――――――――――
観測柱B-2候補:視認
距離:未確定
上部:傾斜疑い
基部:一部露出
本日推奨:沈降帯先端で停止、観測のみ
――――――――――
「見えたな」
『はい。B-2候補の視認に成功しました』
『本日は観測のみです』
「分かってる。突っ込まない」
ガタが横で車輪を止めた。
『この先の路面は不明です』
「だから今日はここまで」
『妥当です』
「ノアと同じこと言うな」
『安全です』
レンは腰を下ろさず、その場に立ったままB-2を見ていた。沈降帯を越えた足元は、まだ少し柔らかい。靴底に砂が入り、足首が重い。携行食の半分は腹の中でまだ固い。水もぬるい。だが、ここまで来た。
E-03から出て、浅い沈降帯を越え、B-2を目で捉えた。
MIOの反応はない。
今日はそれでいい。
胸の奥は静かだ。名前に引っ張られず、現実の地面を一つ越えた。そういう日が必要だった。
「戻るぞ」
『復路誘導を開始します』
『復路でも車輪カバーは有効です』
「分かったって」
『予備は』
「まだ認めない」
レンはもう一度だけ、B-2を見た。
細い観測柱は、沈黙したまま砂の向こうに立っている。けれど、もう遠い影ではない。次に向かう場所として、地図の中に入ってきた。
浅い沈降帯の向こうで、B-2の基部が朝の光を鈍く返していた。
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