第125話 E-03から出る
朝食と言うには、少し味気なかった。薄いスープの入った加熱パックを開けると、白い湯気が小さく上がる。匂いは豆に似ている。いや、豆っぽく作った何かだ。レンはそれを両手で持ち、中央卓の前に立ったまま少し飲んだ。熱い。味は薄い。でも、温かいだけで体の奥が少し戻る。
『摂取速度が速すぎます』
「熱いからだよ」
『熱い場合は、摂取速度を下げるべきです』
「正論を真正面から置くな」
ノアの表示が中央卓の端に出ている。
[MORNING CHECK]
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睡眠:標準未満
水分:不足傾向
摂取予定:加熱パックスープ/合成タンパク片
外出予定:E-03経由、B-2接近前確認
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「標準未満ってほど寝てないか?」
『標準には達していません』
「何時間から標準なんだ」
『レンが納得しないため、表示しません』
「その気遣いは余計だな」
レンはスープをもう一口飲んだ。合成タンパク片は、手のひらより少し小さい。固い。噛むと、紙と肉の中間みたいな歯ざわりがする。味は塩に近いが、塩と呼ぶには弱い。食べ物というより、作業を続けるための部品だ。レンは半分まで噛んで、少し水を飲む。
整備室の方では、ガタが後部ラックに携行ケースを積んでいる。かちゃ、かちゃ、と金属音が聞こえた。音だけで、いつもより一つ多く載せているのが分かる。
「ガタ」
『はい』
「今、何個載せた」
『必要数です』
「数を聞いてる」
『必要数です』
「ノア」
『携行ケース二個、予備固定バンド一束、車輪カバー一枚、補修パッチ二枚、水パック二個です』
「多い」
ガタが整備室から顔を出した。顔と言っても、センサー部が少しこちらを向いただけだ。
『E-03以北は路面不明です。車輪カバーは必要です』
「一枚は分かる。予備は?」
『予備は予備です』
「説明になってない」
『予備が必要になる時、予備がないと困ります』
「それはまあ、そうだけど」
レンは残りのタンパク片を口に入れ、中央卓の地図を見た。基地。第五タグ。E-03外部仮拠点。そのさらに先に、観測柱B-2候補。E-04遮断点は、まだ灰色のまま残っている。正面から行くには不確定要素が多い。B-2へ近づき、側面から地形を取る。そこまでが今日の目的だった。ただし、今日はB-2本体へ突っ込まない。E-03まで行き、E-03を起点に北側の地面を確認する。
基地から出るのではない。E-03から出る。その違いは、思ったより大きい。
[B-2 APPROACH PREP]
――――――――――
起点:E-03外部仮拠点
本日目的:北側ルート初期確認
到達目標:浅い沈降帯手前まで
副目的:地形監視塔E-03出力確認
停止条件:沈降反応/駆動負荷急上昇/通信低下/生体ログ急変
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「今日は沈降帯の手前まで」
『はい。B-2到達は次段階です』
『ただし、路面が安定していれば、さらに進めます』
「ノア」
『訂正します。進めそうに見えても、本日は浅い沈降帯の手前までです』
「よし」
レンは中央卓の端に置いていた小さなタグを手に取った。通常表示から外した保留ログ。MIO。その文字は、画面上には出ていない。出ていないのに、胸の奥にだけ残っている。昨日よりは静かだ。けれど、消えたわけではない。
「今日は開かない」
『はい』
「B-2のための準備だけする」
『了解。個人鍵類似反応は通常表示外のまま保持します』
ガタが短く車輪を鳴らす。
『倒れない設定です』
「設定するものじゃない」
『倒れない運用です』
「それならいい」
レンはスープのパックを空にして、軽く握りつぶした。薄い湯気が最後にひとつ上がる。外出前の食事としては足りない気もするが、腹に重く残るよりはましだ。水パックを一本、携行ケースへ入れる。もう一本はガタが当然のように後部ラックへ固定した。
基地の外扉が開く。乾いた風が入ってきた。砂のにおいがする。
E-03までの道は、もう完全な未知ではなかった。途中の目印も、第五タグから先の地形も、前回より頭に入っている。だからこそ、細かい違いが見える。砂の積もり方。小石の転がる向き。風に削られた薄い段差。
『外部通信、維持』
『ガタ駆動、正常』
『レン生体ログ、外出可能範囲』
「可能範囲って言い方、あんまり信用されてない感じがあるな」
『信用ではなく監視です』
「もっと悪い」
『安全です』
ガタは前を走らず、レンの少し斜め後ろについてきた。車輪カバーは片側だけ装着している。左右非対称で見た目は少し変だが、砂に沈み込む時の抵抗が違うらしい。本人は、いや本機はかなり満足そうだった。
『片側装着は有効です』
「見た目は悪いけどな」
『機能優先です』
「分かってる」
E-03が見えてくる。低い外部仮拠点。前に登録した時は、ただの古い設備をなんとか起こしただけに見えた。今は違う。小さな充電ステーション、補給ケース、簡易監視塔、帰還線の目印。全部が少しずつ、外へ出るための足場になっている。
レンはE-03の端末に触れた。
[E-03 LOCAL STATUS]
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外部仮拠点:登録済
補給ケース:保持
充電ステーション:低出力維持
地形監視塔:短時間照射可能
帰還線:安定
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「ちゃんと残ってる」
『はい。夜間出力低下はありましたが、機能維持に支障はありません』
『充電ステーション、使用します』
「ガタ、今?」
『今です』
ガタは自分でステーションの横へ移動し、接続部を合わせた。かち、と音がする。中央卓ではなく、E-03の端末に、ガタの充電残量が表示された。基地内で見るのと同じ情報なのに、外で見ると意味が変わる。戻らなくても、ここで少し整えられる。それだけで、行ける場所が増える。
レンは補給ケースを開いた。中には、前に移しておいた携行食が三つ。水パックが一本。補修テープ。薄い保温シート。未開封の古いパックも一つ入っていた。
「これ、まだ食えるのか」
『成分劣化率を確認します』
「味じゃないんだよな」
『味覚評価データはありません』
「知ってた」
ノアの解析が短く走る。
[OLD PACK CHECK]
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外装:損傷軽微
内容:乾燥穀物系ブロック
成分劣化:許容範囲内
推奨:非常用として保持
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「乾燥穀物系ブロック」
『はい』
「名前だけで口の水分が減る」
『水パックと併用してください』
レンはそれを補給ケースの奥へ戻した。食えるものがある。おいしいかは別として。それでも、E-03に食べ物と水が残っているのは大きい。ここから出て、ここへ戻る。戻ってきた時に、少しでも食べるものがある。それは地図上の点より、ずっと拠点らしかった。
レンはE-03の外へ出る。ここから先が、今日の本番だ。基地からではなく、E-03から北へ出る。
足元の砂は、今までより少し細かい。風の向きも違う。地形監視塔E-03が短く回り、低い音を立てた。小さな柱の先端がゆっくり動き、北側の地面に薄いスキャン線が走る。
[TERRAIN SCAN E-03]
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北側ルート:部分取得
地表硬度:不均一
低所:複数
沈降兆候:浅い縁あり
推奨:徒歩速度低下/車輪負荷監視
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「浅い縁」
『はい。深い沈降帯ではありません。ただし、表層が崩れやすい可能性があります』
『車輪カバーが必要です』
「今、言いたかっただけだろ」
『必要です』
レンは歩き出した。E-03を背にして、北へ。すぐには何も起きない。砂と石。細い金属片。割れた外装材。古い配管の端。そういうものが点々と転がっているだけだ。だが、足裏の感触が少しずつ変わっていく。硬い地面の下に、空洞のような軽さが混じる。レンは速度を落とした。
ノアが何も言わない。それは、今の判断が合っているということだった。
ガタの車輪が砂を噛む。片側のカバーが表面を広く押さえ、もう片側が小さく沈む。車輪の音が左右で違っていた。
『負荷差があります』
「大丈夫か」
『大丈夫です。記録しています』
「無理するなよ」
『無理ではありません。地形ログです』
ガタがそう言うと、ノアがすぐに補足した。
『ガタの車輪負荷ログは、浅い沈降帯の判定に有効です』
「お前、役に立ってるな」
『当然です』
ガタの返事は早かった。少しだけ誇っているように聞こえた。気のせいかもしれないが、レンはそういうことにしておいた。
E-03から離れるにつれて、基地の輪郭は低くなる。代わりに、北側の地面が広がっていく。遠くに、細い影が一本だけ見えた。観測柱B-2かもしれない。まだ確定できるほど近くはない。
レンは水パックを取り出し、一口だけ飲んだ。ぬるい。だが、喉にはありがたかった。
『水分摂取、記録』
「飲むたびに言わなくていい」
『言わないと飲まない傾向があります』
「否定しにくい」
さらに数十歩進んだところで、地面の色が変わった。砂の表面が、少し灰色に沈んでいる。小石が斜めに埋まり、細い亀裂が横へ走っていた。崖ではない。穴でもない。ただ、地面が薄くなっているように見える。
レンは足を止めた。ガタも止まる。ノアの表示が、視界の端に重なった。
[SHALLOW SUBSIDENCE EDGE]
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位置:E-03北側
深度:浅い
表層:脆弱
車輪負荷:上昇予測
徒歩通過:条件付き可能
本日推奨:縁確認まで
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「ここか」
レンはしゃがみ、地面に手を近づけた。触れる前に、砂が少し崩れる。浅い。だが、踏み方を間違えれば足を取られる。この先へ進むには、足場を選ぶ必要がある。ガタの車輪カバーも、ノアのスキャンも、E-03の帰還線も、全部使うことになる。
レンは顔を上げた。遠くに、B-2らしい細い影が見える。まだ遠い。でも、見えた。
「ノア」
『はい』
「今日は、ここまで」
『妥当です』
『沈降帯縁を登録します』
「ガタ」
『はい』
「車輪ログ、保存」
『保存します。車輪カバーは有効でした』
「分かった。認める」
『では、予備も』
「それはまだ認めない」
ガタの車輪が小さく鳴った。
レンは立ち上がり、E-03の方を振り返った。低い仮拠点が、遠くに見える。そこへ戻れる。戻れば水があり、補給ケースがあり、充電できる。だから、ここまで来られた。
基地からではない。
E-03からここまで来た。
その違いを、レンは足の裏で感じていた。浅い沈降帯の縁は、灰色のまま北へ続いている。その向こうで、観測柱B-2の影が細く立っていた。
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