第104話 空洞反応
第一タグの光は、振り返るたびに小さくなった。
基地の外壁はまだ見える。だが、もうすぐに戻れる距離ではない。レンはそれを何度も確認しないように、前を向いて歩いた。足元には旧管理道路の白い誘導ラインが、砂の下から細く続いている。
ノアの声は、さっきより少し遅れて届くようになっていた。
『第二タグ候補地点まで、推定百九十メートル。通信遅延、一・六秒。許容範囲内です』
『車輪抵抗、継続増加。許容範囲外です』
「数値は」
『数値では許容範囲内です』
「じゃあ進む」
『心が許容していません』
「ローバーに心があったら、最初に砂を嫌うのか」
『合理的な心です』
ガタはレンの前方を走り、時々止まって左右に車体を振った。車輪が砂を噛むたび、きゅ、と小さく鳴る。舗装の残った場所では滑らかに進むが、砂が深い場所では少し沈む。そのたびに、ガタはわざとらしく一拍止まった。
レンはそれを見ながら、通信タグのケースを手で押さえた。まだ五枚ある。第二タグを置けば、帰還線はもう一段伸びる。遠方の塔影は変わらず霞んでいる。だが、道路標識の残骸は近づいていた。
その手前で、ガタが急停止した。
『停止』
「また嫌な感じか」
『今回は数値です。前方七メートル、舗装下に空洞反応。幅、不明。深さ、不明。踏み抜きリスクがあります』
「見た目は普通だぞ」
『見た目は信用できません。私は見た目で室内用ローバーと判断され、外に出されています』
「まだ根に持ってるな」
『現在進行形です』
レンはしゃがみ、金属棒で地面を突いた。表面は硬い。だが、少し奥で音が変わる。鈍く、軽い。舗装の下に空間がある。
砂を払うと、誘導ラインの端が途中で歪んでいた。割れた道路の隙間から、黒い穴が見える。大きくはない。だが、一歩間違えれば足首を持っていかれる。
『左側、旧排水溝跡があります。推奨しません』
「右は」
『砂の深さが増えます。ガタの走行リスクが上がります』
『私は右にも左にも反対です』
「真ん中は?」
『落ちます』
「じゃあ右だ」
レンはガタの車体後部に細いワイヤを結んだ。牽引用ではない。万一、砂に沈んだ時に引き戻すための保険だった。ガタが車体を少し震わせる。
『私を先に行かせるつもりですか』
「お前の方が軽い」
『ひどい判断です』
『合理的です。ガタ、右側砂地を三メートル先行。沈下量を報告してください』
『ノアまで敵です』
「全員味方だよ」
『味方の扱いではありません』
ガタは右へ進んだ。車輪が砂に沈む。車体が少し傾いたが、止まらない。二メートル、三メートル。車輪が空転しかけ、すぐに姿勢を戻す。
『沈下量、許容範囲。腹立たしさ、上限超過』
「そこは報告しなくていい」
『重要です』
レンはガタの車輪跡をそのまま踏まないよう、少し外して進んだ。砂が深い。足を抜くたび、ざり、と重い音がした。右手で金属棒を突き、左手でワイヤを持つ。空洞の横を抜けるだけなのに、肩に力が入る。
途中で、ノアの声が途切れた。
『レン、通信……タグ……補正……』
「ノア?」
返事が遅い。
風の音だけが残った。ガタの車輪が砂を噛む音。自分の呼吸。マスクの内側にたまる湿った息。レンは足を止めそうになり、すぐに金属棒を地面へ突いた。
止まる場所ではない。
『通信遅延、三・二秒。第一タグとの角度が悪化しています。右へ寄りすぎています』
「先に言え」
『今、言えました』
「そうだな」
レンは短く息を吐いた。怒る余裕はなかった。通信が薄くなる。それだけで、基地から切り離される感覚が強くなる。
ガタが少し先で止まった。
『右前方に硬質面。旧道路の残存部です』
「そこまで行けば戻れる?」
『少なくとも、砂地よりはましです』
レンは最後の数歩を進んだ。靴が砂から抜け、硬い舗装に乗った。膝の力が少し抜ける。ガタも車輪を小さく鳴らして、舗装の上へ戻った。
ノアの声が戻る。
『通信角度、改善。遅延、一・九秒。許容範囲です』
「こっちも戻った」
『空洞迂回を確認。第二タグ候補地点まで七十メートル』
『私の貢献も確認してください』
「確認した。助かった」
『記録してください』
『記録済みです』
『よろしい』
レンは振り返った。迂回した空洞は、見た目にはただの道路のへこみにしか見えない。知らなければ踏む。踏めば、たぶん落ちる。
ガタがいなければ、見落としていた。
レンはワイヤを外し、ガタの車体を軽く叩いた。
「悪かったな、先に行かせて」
『謝罪を受理します。次回からはレンが先行してください』
「それはそれで文句言うだろ」
『はい』
第二タグ候補地点は、折れた道路標識の根元だった。標識板は半分なくなり、残った部分も砂で削れている。だが、支柱の内側には古い端子が残っていた。
レンは端子を掃除し、通信タグを差し込んだ。今度は一度で点いた。
[TAG LINK]
――――――――――
第二タグ:設置
第一タグ:接続維持
通信塔同期:弱安定
外縁施設方位:再計算中
――――――――――
ノアの声が少しだけ明瞭になった。
『第二タグ接続を確認。通信帰還線、延長。外縁施設方位を再計算します』
レンは支柱に手を置き、前を見た。
砂と灰色の地面の向こうに、送電支柱の列が見えた。一本、二本、三本。多くは折れている。だが、完全に倒れてはいない。外縁施設へ向かう古い線のように、同じ方向へ並んでいた。
『再計算完了。旧送電支柱列、外縁管理施設 E-03 への補助経路と一致します』
「道路だけじゃない。電力線も残ってる」
『はい。現時点では送電状態不明。ただし、経路として利用可能です』
『つまり、まだ歩くということですか』
「そうなるな」
『私は反対です』
「記録しておけ」
『もうしました』
レンは二つ目のタグの光を確認した。
基地から伸びた線が、少しだけ長くなった。足元の道路は割れている。通信は薄い。外縁施設はまだ遠い。
それでも、道は一本ではなかった。
道路の先に、折れた送電支柱が続いている。レンはその列を見て、ケースに残った通信タグを確かめた。
「次は、あの支柱列まで行く」
ガタが車輪を小さく鳴らした。
『不満を強めに記録します』
レンは歩き出した。
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