第103話 旧管理道路
基地の外は、音が少なかった。
風はある。砂も動いている。けれど、基地内で聞こえていた空調の低音、端末の起動音、遠くのポンプの振動がない。その代わりに、足元で砂が鳴った。ざり、ざり、と靴底に乾いた粒が当たる。マスク越しの呼吸が少しこもり、胸の内側に戻ってくる。
レンは振り返った。
背後の基地は、外から見るとひどく小さかった。分厚い外壁、半分埋もれた通路、細く点いた誘導灯。中にいる時は世界の全部に近かった場所が、灰色の地表の上ではただの古い施設に見えた。
『外部行動開始。通信遅延、〇・八秒。許容範囲です』
『車輪抵抗、増加。許容したくありません』
「許容範囲だろ」
『数値では』
「じゃあ進む」
『精神的には非許容です』
「記録だけしておけ」
『もうしています』
ガタはレンの前方をゆっくり走った。小さな車体が砂に沈まないよう、左右に細かく進路を振っている。車輪の跡が二本、薄く残り、すぐ風に削られた。
旧管理道路跡は、基地外縁からまっすぐ伸びていた。舗装の大半は割れ、砂と細かな石に埋もれている。それでも、ところどころに白線のような薄い帯が見えた。道路標示というより、管理用の誘導ラインに近い。レンが携帯端末を向けると、ノアがそれを拾った。
[ROAD TRACE]
――――――――――
旧管理道路跡:部分残存
誘導ライン:低反射確認
外縁施設方位:一致
通信タグ設置候補:第一地点まで二百六十メートル
――――――――――
「道は死んでないな」
『物理的な道路としては損傷しています。管理ラインは一部反射しています』
「つまり、使える」
『限定的に使えます』
『私は使いたくありません』
「お前はずっとそれだな」
『一貫性です』
レンは一歩ずつ進んだ。急ぐと足を取られる。舗装の残った場所は硬く、砂の深い場所は膝にくる。息が少しずつ乱れてきた。マスクの密閉が弱いせいで、細い砂の匂いが混じる。
基地を出て、まだ数分しか経っていない。
それでも、レンは背中の汗を感じていた。寒いのに、首の後ろだけが熱い。空が広い。天井がない。どこまで歩いても、壁が来ない。
ガタが前方で止まった。
『停止推奨』
「空洞か」
『不明。前方二メートル、舗装下に反応差があります。空洞、沈下、または嫌な感じです』
「最後はセンサーか?」
『私の判断です』
レンはしゃがみ、手袋越しに地面へ金属棒を突いた。硬い音がした場所と、鈍い音がした場所がある。見た目にはほとんど分からない。砂を払うと、舗装の継ぎ目が斜めに割れていた。
『右へ一・四メートル迂回してください。ガタの走行跡を踏まないでください』
「なぜ」
『私の車輪跡は信用できません』
「自分で言うな」
レンは右へずれて進んだ。足元が少し沈む。金属棒で地面を突きながら、割れ目を避ける。ガタは先に回り込み、車体を低くして舗装の端を照らした。
小さな光が、砂の中に埋もれた金属板を映した。
「標識か」
『旧道路標識の破片です。通信タグ第二候補地点に該当する可能性があります。ただし、第一タグがまだです』
「順番どおり行く」
レンは地図を見た。第一タグ地点まで、まだ百八十メートル。数字は減っている。ちゃんと進んでいる。そのことが、思ったより効いた。
しばらく進むと、基地の誘導灯が細くなった。振り返れば見える。だが、すぐ戻れる距離ではなくなってきた。レンは腰のケースから通信タグを一枚取り出し、親指で起動面を押した。まだ早い。設置候補には届いていない。
『レン、第一タグ地点まで六十メートルです。呼吸数が上昇しています』
「分かってる」
『休止しますか』
「タグを置いてから」
『了解。第一タグ設置後、三十秒休止を推奨します』
『私は六十秒を推奨します』
「お前は走ってるだけだろ」
『砂の中をです。これは労働です』
管理ラインは、途中から少しだけ明るく見えた。光っているわけではない。だが、砂をかぶった帯の下に、別の素材が残っている。レンはその上に足を置いた。硬い。道路の芯がまだ生きている。
第一タグ地点は、小さな支柱の残骸だった。
腰ほどの高さで折れた柱が、斜めに傾いている。表面には管理番号の一部だけが残っていた。レンは手袋で砂を払った。指先にざらざらした感触が伝わる。パネルの接点は半分潰れていたが、タグを固定するくらいなら使える。
「ここでいいか」
『推奨地点と一致。通信塔との見通し、限定成立。タグ設置可能です』
『早く置きましょう。風が嫌です』
「車輪があるなら風は関係ないだろ」
『音が嫌です』
レンは通信タグを支柱の内側に押し込み、細いワイヤで固定した。端子を接続する。タグのランプはすぐには点かなかった。レンは息を止め、接点を少しずらす。
ち、という小さな音がした。
[TAG LINK]
――――――――――
第一タグ:設置
基地基準タグ:接続
通信塔同期:弱
ノア音声支援:維持
――――――――――
ノアの声が、一瞬だけ途切れてから戻った。
『第一タグ接続を確認。外部帰還線、延長されました』
「よし」
『よし、では戻りますか』
「戻らない」
『そう言うと思いました』
レンは支柱に背を預け、三十秒だけ休んだ。マスクの内側に息がたまる。胸が上下する。基地は遠くなった。けれど、ノアの声はまだ届く。ガタは近くで車輪を小さく動かし、砂を嫌そうに払っている。
タグの小さなランプが、風の中で点滅していた。
細い光だった。
でも、基地から外へ伸びた最初の線だった。
「これで、ここまでは戻れる」
『はい。第一帰還線を確保しました』
『戻れるなら戻るべきです』
「第二タグまでは行く」
『反対しながら同行します』
「助かる」
『助けてはいません。監視です』
レンは立ち上がった。肩の重さは変わらない。足も軽くなってはいない。けれど、さっきより前を見られた。
旧管理道路の先に、折れた標識が見えている。そのさらに向こう、灰色の風の中に細い塔影があった。
遠い。
けれど、もうただの影ではなかった。
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