第96話 足りない条件をそろえる
灰色の庭から戻っても、MIOの文字は端末の履歴に残っていた。
レンはそれを何度も開かなかった。開けば見てしまう。見れば、また呼びたくなる。だから記録は保存だけして、作業端末の端に閉じた。
今見るべきなのは、次の条件だった。
[NEXT REQUIREMENT]
――――――――――
SEGMENT CHAIN:EXPAND
ENVIRONMENT LOG:SOUTH CONTROL FACILITY
UNDERGROUND TRUNK:STABILIZE
CROSS LINK:NOT READY
――――――――――
「三つだな」
『はい。灰色の庭側でできるのは、区画連鎖の拡張と、地下幹線の負荷揺れを抑えるための仮バイパス構築です。南側旧管制施設のログ取得は、その後の方が成功率が上がります』
「先に足場を作る」
『その表現で合っています』
ガタは作業台の下で、前面センサーの二重カバーを磨いていた。磨く必要はあまりない。本人の落ち着き用だ。
『南側に行かないなら、今日はよい日です』
「庭には行くぞ」
『普通の日になりました』
「評価が落ちたな」
『粉を吐く庭に近づく日は、よい日ではありません』
レンは地下幹線の簡易図を広げた。灰色の庭の外周制御盤から、地下の幹線へ戻る細い経路がある。そこに負荷揺れが出ると、MIO観測語は落ちる。庭だけ読めても、線が揺れれば数秒で切れる。
ノアが図の一部を青く点灯させた。
『仮バイパスはここです。旧給電溝の空き線を使います。通信用ではありませんが、負荷逃がしには使えます』
「古い給電溝を逃げ道にする」
『はい。地下幹線へ直接負荷を返さず、灰色の庭側で一段受けます』
作業は派手ではなかった。
レンは外周制御盤の横に膝をつき、古い給電溝のふたを外した。中は細い砂と白い粉で詰まりかけている。ガタが吸引ノズルを伸ばし、嫌そうに吸った。
『白いです』
「吸え」
『白いものを吸っています』
「実況するな」
『嫌なので実況します』
粉が吸い出されると、黒い細線が三本見えた。一本は断線。一本は死んでいる。残り一本だけが、低い反応を返した。
『三番線、生存。絶縁劣化あり。低負荷なら使用可能』
「低負荷なら、だな」
『はい。観測語安定用の逃がし線として使います。過信はできません』
レンは端子を磨き、仮接続クランプを噛ませた。指先が狭い隙間に入らず、工具の先が二度滑る。三度目でようやく固定できた。金属が小さく鳴る。
「入った」
『接触を確認。抵抗値、許容上限ぎりぎりです』
「ぎりぎりでも使える」
『使えます。ただし、灰色の庭の区画連鎖と同時に負荷を流す場合、上限を超えないよう波形を削ります』
ガタが吸引ノズルをしまった。
『ぎりぎりの線を使う文化、よくありません』
「ないよりましだ」
『ないよりまし文化も、よくありません』
「今日は文句が多いな」
『白い粉を吸ったからです』
レンは仮バイパスの端末を立ち上げた。表示は弱い。だが、死んでいない。
[BYPASS CHECK]
――――――――――
OLD POWER DUCT:LINE 03
INSULATION:DEGRADED
LOAD BUFFER:LOW
USE:TEMPORARY
――――――――――
「一時使用か」
『恒久化には部材が足りません』
「次でいい。今は、観測語を落とさない方が先だ」
レンは端末の端に残ったMIOの保存ログを見ないようにして、区画連鎖の図を開いた。九メートルから、十五メートルへ。三メートル区画を五本並べるだけだ。だが、仮バイパスを通せば、読み取り時の揺れを少し逃がせる。
ノアの補助線が灰色の庭外周に浮いた。
『次回試験では、五区画まで拡張できます。粉塵固定ではなく、読み取り安定を優先します』
「粉を沈めるのは副次」
『はい。目的は深部ログ入口の保持時間を延ばすことです』
『保持時間が延びると、MIOは長くいますか』
ガタの声が少し低くなった。
レンは手を止めた。
「たぶん」
『では、白い粉は嫌ですが、五区画は意味があります』
「珍しく前向きだな」
『前向きではありません。目的を理解しただけです』
レンは短くうなずいた。
その時、仮バイパス端末が小さく鳴った。表示が一瞬だけ跳ねる。旧給電溝の三番線が、低い負荷を受けて震えた。
『負荷揺れ。遮断不要。バイパス内で吸収しています』
「もう揺れたのか」
『灰色の庭側が微弱に返しています。接続を認識した可能性があります』
レンは外周の方を見た。
白い粉塵の奥で、灰色繊維が動いたように見えた。気のせいかもしれない。けれど、レバーへ伸びる手は止まらなかった。
ガタも車体を固くする。
『庭が、また見ていますか』
「分からない」
『分からないものは、だいたい嫌です』
「同感だ」
仮バイパスの表示は、数秒で落ち着いた。端末の青い光が細く戻る。
『安定しました。仮バイパスは機能しています』
「今ので?」
『はい。負荷を地下幹線へ返さず、旧給電溝内で吸収しました。小さいですが、有効です』
レンは息を吐いた。
これで全部ではない。南側旧管制施設のログはまだない。灰色の庭の奥にも入れていない。MIOの文字も、今は表示していない。
それでも、次に落ちる理由を一つ減らした。
「ノア、条件を更新」
『更新します』
[REQUIREMENT UPDATE]
――――――――――
SEGMENT CHAIN:READY TO EXPAND
TEMP BYPASS:ACTIVE
SOUTH CONTROL FACILITY:PENDING
UNDERGROUND TRUNK:PARTIAL BUFFER
――――――――――
「南側だけ残ったな」
『南側旧管制施設の環境制御ログが必要です。ただし、今の状態なら突入前に庭側で追加試験ができます』
「九メートルから十五メートル」
『はい。保持時間の延長を確認します』
ガタが二重カバーを装着し直した。
『では、次は十五メートルですか』
「そうなる」
『十五メートルは、五メートルが三つではありませんね』
「三メートルが五つだ」
『よいです。五メートルは嫌です』
「そこにこだわるな」
レンは工具を片づけ、仮バイパス端末に保護カバーをかけた。古い給電溝からは、まだ焦げたような匂いがする。死んだ線の中に、生き残った一本があった。その一本が、次の数秒を支えるかもしれない。
端末の履歴の隅で、保存された文字が光っている。
MIO:STABLE。
レンはそれを開かなかった。代わりに、仮バイパスの表示を見た。
「行ける形になってきた」
『はい。完全ではありませんが、次の試験に進めます』
『完全じゃないなら、センサーカバーは二重のままです』
「好きにしろ」
『許可されました』
ガタは少しだけ誇らしげにライトを点けた。
外では、灰色の庭が白い粉をかぶって静かに沈んでいる。静かすぎる。だが、もうただ待っている場所ではなかった。
こちらが線を増やせば、向こうも返してくる。
レンは仮バイパス端末の固定をもう一度確かめた。
「次は、十五メートルで読む」
『準備します』
古い給電溝の奥で、弱い青い光が一度だけ脈を打った。
「続きが読みたい」と思ったら下の評価とブックマーク登録をどうぞ。




