第95話 数秒だけ、消えなかった
灰色の庭の北西外周に、九メートルの沈降区画が残っていた。
残っている、といっても、地表はもう白い粉塵に覆われている。目で見れば、昨日と同じ灰色の庭だった。だが、端末上には違う。三つの区画で得た表層誘導路が、細い青線として保存されていた。
レンは制御盤の前にしゃがみ、記録片を差し込んだ。手動レバーは左手の届く位置にある。ガタは境界線の外で停止し、二重カバーをつけた前面センサーを少しだけ上げていた。
『今日は奥まで行きませんね』
「行かない」
『灰色の庭の奥まで行きませんね』
「行かない」
『確認は大事です』
「二回目からは願望だろ」
『はい』
ノアの補助表示が、昨日拾った断片を開いた。環境再生ログ。まだ入口信号だけだ。文字列の半分以上は欠け、読める行は少ない。
[INNER LOG GATE]
――――――――――
ENVIRONMENT RESTORATION:FRAGMENT
SURFACE GUIDE:CONNECTED
MAP LAYER:PARTIAL
ACCESS:READ ONLY
――――――――――
「読み取りだけ」
『はい。外周区画から届く範囲で、深部ログの入口を読むだけです。書き込みは行いません』
「ならやる」
レンは端末を接続した。制御盤の奥で、低い音がした。庭の外周に青線が走る。昨日の三つの区画が、順に薄く点灯した。
粉塵は沈まない。今日は固定試験ではない。沈めた時に見えた誘導路へ、読み取りの信号だけを流す。
『表層誘導路、応答。深部ログ入口、微弱接続』
表示の中で、灰色の庭の地図が開いた。外周だけの粗い図だ。中央は黒く抜けている。黒い空白の奥に、細かい点がいくつも浮かぶ。
レンは眉を寄せた。
「星か?」
『地図レイヤーです。惑星上の施設配置と、軌道参照点が混在しています』
黒い空白に、別の線が重なった。
塔の地図だった。
通信塔、北東中継塔、旧管制施設、地下幹線、灰色の庭外周。それぞれの線が荒くつながり、途中でずれる。完全には重ならない。だが、今までより近い。
レンの呼吸が少し遅れた。
「重なってる」
『三・二秒だけ安定しています。補正します』
ノアの声が近く聞こえた。補助表示の端に、ノイズが走る。星の地図と塔の地図が重なり、ずれ、また重なる。
その中央に、短い観測語が出た。
[CROSS OBSERVATION]
――――――――――
MIO:STABLE
DURATION:03.8 SEC
LINK:NOT ESTABLISHED
――――――――――
レンの手が止まった。
MIO。
文字は細く、白く、表示の中央に残っている。前に見た時のように、すぐ崩れない。ノイズに削られながらも、そこにある。
「……ミオ」
声にした瞬間、胸の奥が詰まった。
呼べば届く気がした。今なら、何か一言だけでも押し込める気がした。手が端末へ伸びかける。
『通信ではありません』
ノアが言った。
止める声ではない。切る声でもない。ただ、線を間違えないための声だった。
『現在安定しているのは観測語です。通信路ではありません。送信を試みると、深部ログ入口と外周区画が同時に落ちる可能性があります』
「分かってる」
分かっていた。
それでも、指が動きかけた。
レンは端末から手を離し、遮断レバーを握った。金属の冷たさが手袋越しに入ってくる。呼吸をひとつ戻す。
「続けろ。読むだけだ」
『読み取り継続。残り二秒』
MIOの文字が、短く明るくなった。
その下に、欠けた座標が出る。塔の地図ではない。星の地図でもない。両方が重なった時だけ出る、薄い線だった。レンには読めない。ノアが補正する。
『未登録塔候補、方位一致。灰色の庭深部ログと、外部観測点が相互参照されています』
「ミオ側か」
『断定不可。ただし、CROSS観測語との同時出現です』
ガタが小さく動いた。
『MIOは、消えませんか』
「まだ出てる」
『……なら、少し静かにします』
ガタは本当に黙った。
表示が揺れる。MIOの文字が、端から欠け始めた。星の地図と塔の地図もずれていく。重なっていた線がほどける。
『安定限界。読み取りを落とします』
「待て」
『落とします。ここで粘ると逆流します』
レンは歯を噛んだ。
「落とせ」
青い線が細くなる。灰色の庭の外周表示が順に暗くなった。星の地図が消え、塔の地図だけが残り、それも通常表示へ戻る。
MIOの文字が最後に一度だけ白く光った。
それから消えた。
制御盤の奥で、かち、と音が落ちる。庭は静かだった。粉塵は動かない。灰色繊維も震えない。何も起きなかったように、白い地表が続いている。
レンはレバーを握ったまま、しばらく動かなかった。
『読み取り終了。外周区画、維持。逆流なし』
『センサー汚染なし』
「そこは今いい」
『大事です。でも今は小さく言いました』
レンはゆっくり手を離した。指が少し固まっていた。力を入れすぎていたらしい。
「三秒か」
『三・八秒です』
「細かいな」
『重要です。前回より長い』
「通信は」
『未成立です』
ノアの表示が、次の条件を出す。短い。余計な説明はない。
[NEXT REQUIREMENT]
――――――――――
SEGMENT CHAIN:EXPAND
ENVIRONMENT LOG:SOUTH CONTROL FACILITY
UNDERGROUND TRUNK:STABILIZE
CROSS LINK:NOT READY
――――――――――
「灰色の庭だけじゃ足りない」
『はい。庭の奥へ入るには、南側旧管制施設の環境制御ログが必要です。観測語を通信へ進めるには、地下幹線の負荷揺れも抑える必要があります』
「やることが増えたな」
『進む場所が増えました』
レンは短く笑った。笑えたのか、息が抜けただけなのか、自分でも分からなかった。
ガタが二重カバーの奥でライトを点滅させる。
『MIOは、三・八秒いました』
「ああ」
『消えましたが、いました』
「そうだな」
消えた。
けれど、今度はすぐに崩れなかった。ノイズの向こうで、数秒だけそこにあった。読み間違いでも、残像でもなく、記録として残った。
レンは端末の保存キーを押した。
「ログを残せ」
『保存済みです』
「二重で」
『三重で保存します』
『三重はよい判断です』
「お前のカバーとは違う」
『近いです』
レンは立ち上がり、灰色の庭を見た。
白い粉塵の下に、昨日通した九メートルの線がある。その先に、環境再生ログの入口がある。さらにその奥に、星の地図と塔の地図が重なる場所がある。
まだ届かない。
だが、消えなかった。
「次は、線を広げる。南側旧管制施設のログも取りに行く」
『条件を分解します』
『わたしのセンサーカバーも増やします』
「増やすな」
『検討します』
ガタは少しだけ前へ出て、すぐ後退した。
レンは端末を閉じた。最後に残った表示が、網膜の奥にまだ残っている。
MIO:STABLE。
三・八秒。
それだけで、灰色の庭の静けさが少し変わって聞こえた。
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