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光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
光の底で、過去はひとつになる
PR
45/56

施設最深部

 白い扉の前で、希夢は息を止めていた。


 手のひらの下にある取っ手は冷たい。

 だが、その冷たさの奥に、まだ別の微かな震えが残っている。


 金属の振動とも違う。

 古い建物が立てる軋みでもない。

 もっと静かで、もっと細く、

 光が形になる直前だけに持つ揺れ

 のようなものだった。


 扉の縁では、細い白がまだかすかに震えている。

 歓迎にも見えない。

 拒絶にも見えない。

 ただ、この向こうがもう普通の部屋ではないことだけを、無言で伝えていた。


 希夢は、取っ手を握ったまま、もう一度だけ後ろを振り返る。


 雛乃が立っている。

 少し青い顔。

 けれど逸らさない目。

 怖さを抱えたまま、それでもここにいると決めた人の顔だった。


 希夢は、何も言わずに小さく頷く。

 雛乃も、同じように頷き返した。


 それで十分だった。


 希夢は、手に少しだけ力を込める。


 軋む音を覚悟した。

 古い蝶番が鳴ることを。

 錆びついた金属の擦れる音が、最深部の沈黙を切ることを。


 だが、扉は音を立てなかった。


 ただ、ゆっくりと、

 あまりにも静かに、

 最初からそこに境目なんてなかったみたいに、白い面が内側へ滑っていく。


「――っ」


 雛乃が、ほとんど聞こえないほど小さく息を呑む。


 扉が開く、というより、

 閉じていたはずの白が、もともと開いていた形を思い出していく

 ような動きだった。


 継ぎ目が生まれる。

 白い面の中央に、ごく薄い線が現れる。

 その線は闇ではない。

 むしろ逆に、そこだけがさらに深い白を持っていた。


 奥が見えない。

 見えないのに、暗くない。

 ただ、こちら側の光と向こう側の白が、まだ互いの境界を決めきれていない。


 扉は、なおも音もなく開いていく。


 向こう側から空気が流れ込む気配はない。

 温度差も、匂いもない。

 それがかえって異様だった。


 普通の部屋なら、閉じた扉の向こうには必ず“別の空気”がある。

 冷たさ。

 湿り気。

 埃っぽさ。

 そういう微細な差が、開いた瞬間にこちら側へ触れる。


 でも今は何もない。


 ない、というより、

 空気そのものがまだ“こちら側のものか向こう側のものか”決まっていない

 みたいだった。


 希夢の胸が、ひどく静かに鳴る。


 白い線は、次第に幅を持つ。

 細い隙間。

 白い裂け目。

 その向こうで、光が待っていた。


 照明の光じゃない。

 天井から落ちる人工の白でもない。

 もっと空間全体に均一に沈んだ、方向を持たない光だった。


 それは差し込むのではなく、

 そこにあるものすべてが最初から同じ白さの中へ置かれていた

 としか思えない種類の明るさだった。


 希夢は、無意識に一歩だけ後ろへ引きそうになる。


 だが、踏みとどまる。


 ここまで来て、まだ足を止めるわけにはいかない。

 怖い。

 それは消えていない。

 でも、怖いまま開けると決めたのは、自分だ。


 扉が、さらに開く。


 その瞬間だった。


 白い光が、ふたりの足元へ静かに伸びた。


 襲いかかってくるわけではない。

 目を焼くような強さもない。

 ただ、床の上を音もなく滑ってきて、希夢の靴先へ触れ、次の瞬間には膝の高さまでふわりと満ちる。


 光に包まれる、という感覚が後から追いつく。


 熱くはない。

 冷たくもない。

 けれど、皮膚の表面だけではなく、

 輪郭の方へ先に触れてくる感じがあった。


 希夢は、思わず目を細める。


 視界が白く飛ぶわけではない。

 それでも、今まで見ていた旧観測棟の通路や扉の枠が、一枚ずつ薄く剥がれていく。


 後ろの壁。

 床。

 雛乃の影。

 自分の手。

 その全部が、白の中へ溶けるのではなく、

 白の中で一度だけ輪郭を描き直される

 ように見えた。


「希夢さん……」


 雛乃の声がする。


 近い。

 でも、少し遠い。

 音量ではなく、空間の質が違うせいで、言葉だけが半歩ぶん向こう側を通って届く。


「うん」


 希夢は返す。

 自分の声もまた、奇妙だった。

 響かない。

 消えもしない。

 ただ、白い光の中へいったん沈んでから、自分の耳へ戻ってくる。


 扉は、もう半分以上開いていた。


 向こう側は部屋だった。

 そうとしか言いようがない。

 広がりがある。

 床も、壁も、天井もある。


 なのに、その“部屋らしさ”の根拠がひどく薄い。


 物としての壁。

 材質としての床。

 天井の高さ。

 そういう現実の条件より先に、

 記憶の中でしか成立しない白い箱

 みたいな感じが来る。


 希夢の背中に、ぞくりとしたものが走る。


 ここは現実の建物の内部だ。

 なのに、現実の部屋より“記憶の部屋”の方へ近い。


 扉は、最後まで静かに開き切る。


 止まる音もない。

 金具の鳴る気配もない。

 ただ、白い面が完全に左右へ開かれ、

 ふたりの前に、音を失った最深部の空間だけが現れた。


 希夢は、そこでようやくひとつ深く息を吸う。


 白い。

 静かだ。

 そして、あまりにも現実に近すぎる形をしている。


 それが一番怖かった。


 夢や幻なら、まだ身構えようがある。

 けれど目の前のこの部屋は、あくまで“部屋”の形をしたまま、

 こちらの感覚の方だけを静かに狂わせてくる。


「……開いた」


 雛乃が、信じられないものを前にしたみたいな小さな声で言う。


 希夢は、扉の縁からなお震え続ける細い光を見つめた。


 それは、向こう側が反応している証拠だった。

 あるいは、もうずっと待っていたのかもしれない。


 ふたりがここまで来ることを。

 扉へ触れ、白の中へ足を踏み入れることを。


 希夢は、開いた最深部の白を見つめながら、ゆっくりと言う。


「……行くよ」


 それは、さっき扉に触れた時と同じ言葉だった。

 でも今はもう、“これから行く”ではない。


 もう、開いてしまったものの中へ入っていく

 という意味に変わっていた。


 雛乃は、すぐ隣で小さく頷く。


 白い光は、まだふたりの輪郭に触れている。

 押し込むわけでもなく、拒むわけでもなく、

 ただ、ここから先では“こちら側の定義”がそのままでは済まないのだと、静かに知らせるように。


 夕暮れの世界は、背後で完全に閉じた。

 その代わりに、開いた白い扉の向こうで、

 ふたりを包む光だけが、過去の中心へ続く入口として静かに息づいていた。


 扉の向こうへ一歩踏み入れた瞬間、希夢は、自分の足音がどこへ行ったのか分からなくなった。


 床は確かにある。

 靴底に返る硬さもある。

 なのに、そこへ落ちたはずの音だけが、部屋のどこにも残らない。


 吸われた、というより、

 最初から“音として成立する手前”でほどけた

 みたいな消え方だった。


 雛乃も、すぐ後ろで足を止める。


 白い。


 壁も、天井も、床も、白かった。

 ただ塗装された白ではない。

 蛍光灯に照らされた無機質な白とも違う。


 方向を持たない白。

 どこから光っているのか分からないのに、部屋全体が最初からその色の中へ沈んでいるような白だった。


 希夢は、ゆっくり視線を上げる。


 四角い。

 部屋の形は、ちゃんとある。

 角もある。

 天井の高さも、床の広がりも、理屈の上では把握できる。


 それなのに、見ているほど、その輪郭が現実の建築物としてではなく、

 記憶の中でしか再現できない“部屋らしさ”

 へ変わっていく。


 希夢は、思わず小さく息を吸う。


 その呼吸の音さえ、妙だった。


 耳に届く。

 だが、近くで鳴っている感じが薄い。

 自分の胸から出たはずの音が、いったん白い空間へ溶けて、それから遅れて輪郭だけ戻ってくる。


 息をしている。

 それは確かだ。

 でも、その確かさが少しだけ遠い。


「……白い」


 雛乃の声が、ほとんど囁きみたいに落ちる。


 その一言もまた、空間の中で広がらない。

 ただ、部屋の表面へごく薄く触れて、それきりになる。


 希夢は、小さく頷く。


「うん」


 短い返事。

 けれど、それさえ自分の声として完全には定着しない。


 白い部屋だった。


 余計なものが何もない。

 机も、棚も、窓もない。

 照明器具も見えない。

 配線も、換気口も、継ぎ目もない。


 施設の最深部にあるはずなのに、

 “施設の中の部屋”であることを証明するものがあまりにも少なかった。


 それでも、虚無ではない。

 何もない空間ではない。


 むしろ逆で、

 何かが多すぎるからこそ、物としての要素が削られている

 ように感じられた。


 白さの密度が高すぎるのだ。


 壁を見ても、ただの壁に見えない。

 床を見ても、材質がうまく掴めない。

 天井の位置も分かるのに、その高さだけが一定しない。


 現実の部屋なら、まず寸法が来る。

 広い、狭い、高い、低い。

 そういう物理の感覚が先に立つ。


 でも、ここは違う。


 先に来るのは、

 どこかで見た気がする

 という、ひどく曖昧で、それでいて逃れにくい感覚だった。


 希夢は、ゆっくりと白い壁へ目を向ける。


 見覚えがある。

 旧観測棟の中心部で見た白い壁。

 事故の記憶断層の中で見た白い部屋。

 雛乃が夢で語った白い場所。

 その全部が、ここでは“比喩”ではなく、

 実際の部屋としてひとつに重なっている。


 いや、逆かもしれない。


 あれらの断片の方が、

 最初からこの部屋の方を向いていたのだ。


 希夢の背中を、細い冷気が走る。


「……ここ、変です」


 雛乃が言う。


 その声は揺れていたが、崩れてはいなかった。

 怖がっている。

 でも、目を逸らしてはいない。


「何が」


 希夢が静かに返すと、雛乃は少しだけ間を置いて答えた。


「部屋なのに、部屋の感じがしないです」


 その言葉は、あまりにも正確だった。


 部屋だ。

 でも、現実の空間として身体が掴むより先に、

 誰かの頭の中で再生された“記憶の箱”みたいな感触が来る。


 雛乃は、白い床を見ながら続ける。


「夢の中の場所に近いです。

 でも、夢より輪郭がちゃんとある」


 希夢は、その一文に小さく頷く。


 夢ならもっと曖昧だった。

 輪郭は揺れ、意味が先に来て、形はあとから追いつく。


 けれどここは違う。


 輪郭がある。

 部屋として成立している。

 それなのに、その成立の仕方が“現実”ではなく“記憶”に近い。


 希夢は、試すように一歩だけ進む。


 足元は硬い。

 だが、床の上を歩いている感覚が、どこか薄い。

 体重を預けているのに、その重みが部屋の方へ完全には伝わっていない気がする。


 雛乃も、少し遅れて一歩踏み出す。


 ふたりの足音は、やはり残らない。


 静かすぎる。

 いや、音がないのではない。

 音が記録されること自体を、この部屋が拒んでいる

 みたいだった。


 希夢は、そこでふと、自分の鼓動に意識を向ける。


 どくん。

 どくん。


 胸の中では確かに鳴っている。

 なのに、その拍さえ部屋の中では少し遠い。

 身体の内側にあるはずのリズムが、いったん白い膜を一枚通してから返ってくる。


 それが恐ろしかった。


 ここでは、外の音だけじゃなく、自分の内側の音まで曖昧になる。


 つまり、この部屋は単に静かなのではなく、

 “誰の感覚として確定するか”をいちいち揺らがせる

 空間なのだ。


「希夢さん」


 雛乃が、小さく名前を呼ぶ。


 希夢は、そちらを見る。


 雛乃は、部屋の中央より少し手前で立ち止まっていた。

 周囲の白を見渡しながら、ほんの少しだけ眉を寄せている。


「呼吸まで曖昧です」


 その一言に、希夢はゆっくり頷いた。


「うん」


 それしか言えなかった。


 呼吸が消えるわけではない。

 苦しいわけでもない。

 でも、自分の息を“自分のもの”として掴むまでに、半拍ぶんの遅れがある。


 その遅れは、教室で感じた音の遅れよりもっと直接的だった。

 ここではもう、世界の外側だけでなく、

 身体の輪郭そのものが少しずつ記憶の側へ引かれている。


 希夢は、部屋の奥を見た。


 白い。

 どこまでも同じ白に見える。

 だが、完全に均一ではない。

 ごくわずかに、奥の方が深い。


 深いのに、遠くはない。

 遠くないのに、歩けばそこへ辿り着けるという確信も薄い。


 距離感まで曖昧だ。

 いや、曖昧というより、

 距離の代わりに“どれだけ記憶に近いか”で空間が構成されている

 感じがあった。


 それは普通の部屋ではありえない。


 希夢は、そこでようやくこの場所の異様さをはっきり言葉にする。


「……現実の部屋じゃない」


 雛乃が、息を浅くする。


「はい」


「でも、幻でもない」


 希夢は続ける。


「ちゃんとある。

 ただ、現実の物理より先に、記憶の形で成立してる」


 雛乃は、その言葉を聞いて小さく頷く。


「だから、“記憶の部屋”……」


 その表現が落ちた瞬間、希夢の胸の奥で何かが小さく噛み合った。


 そうだ。

 ここは観測施設の最深部であると同時に、

 記憶が記録として、あるいは記録が記憶として保管されるための部屋なのかもしれない。


 事故の日の断片。

 夢の残響。

 記録媒体の欠落。

 先生の記憶の切断。

 それら全部が、最終的にはこの“記憶の部屋”を通って再配置されていたのだとしたら。


 希夢は、白い壁の表面をもう一度見る。


 何もない。

 だが、何もなさすぎることが逆に不自然だった。


 この部屋は、まだ何かを見せていない。

 ただ、自分たちの呼吸と輪郭を少しずつ曖昧にしながら、

 “記憶の部屋へ入った”という事実だけを静かに身体へ馴染ませている。


 そのことが、何よりも不気味だった。


 希夢は、意識して深く息を吸おうとする。

 けれど、その呼吸さえ白い中で少し曖昧になる。


 逃げ場はない。

 もう部屋の中へ入ってしまった。


 なら、ここから先は、白さの意味を見ていくしかない。


 希夢と雛乃は、音を失ったその白い部屋の中で、

 次に現れる“記憶の形”を待つように、しばらく黙って立っていた。


 扉の向こうへ一歩踏み入れた瞬間、希夢は、自分の足音がどこへ行ったのか分からなくなった。


 床は確かにある。

 靴底に返る硬さもある。

 なのに、そこへ落ちたはずの音だけが、部屋のどこにも残らない。


 吸われた、というより、

 最初から“音として成立する手前”でほどけた

 みたいな消え方だった。


 雛乃も、すぐ後ろで足を止める。


 白い。


 壁も、天井も、床も、白かった。

 ただ塗装された白ではない。

 蛍光灯に照らされた無機質な白とも違う。


 方向を持たない白。

 どこから光っているのか分からないのに、部屋全体が最初からその色の中へ沈んでいるような白だった。


 希夢は、ゆっくり視線を上げる。


 四角い。

 部屋の形は、ちゃんとある。

 角もある。

 天井の高さも、床の広がりも、理屈の上では把握できる。


 それなのに、見ているほど、その輪郭が現実の建築物としてではなく、

 記憶の中でしか再現できない“部屋らしさ”

 へ変わっていく。


 希夢は、思わず小さく息を吸う。


 その呼吸の音さえ、妙だった。


 耳に届く。

 だが、近くで鳴っている感じが薄い。

 自分の胸から出たはずの音が、いったん白い空間へ溶けて、それから遅れて輪郭だけ戻ってくる。


 息をしている。

 それは確かだ。

 でも、その確かさが少しだけ遠い。


「……白い」


 雛乃の声が、ほとんど囁きみたいに落ちる。


 その一言もまた、空間の中で広がらない。

 ただ、部屋の表面へごく薄く触れて、それきりになる。


 希夢は、小さく頷く。


「うん」


 短い返事。

 けれど、それさえ自分の声として完全には定着しない。


 白い部屋だった。


 余計なものが何もない。

 机も、棚も、窓もない。

 照明器具も見えない。

 配線も、換気口も、継ぎ目もない。


 施設の最深部にあるはずなのに、

 “施設の中の部屋”であることを証明するものがあまりにも少なかった。


 それでも、虚無ではない。

 何もない空間ではない。


 むしろ逆で、

 何かが多すぎるからこそ、物としての要素が削られている

 ように感じられた。


 白さの密度が高すぎるのだ。


 壁を見ても、ただの壁に見えない。

 床を見ても、材質がうまく掴めない。

 天井の位置も分かるのに、その高さだけが一定しない。


 現実の部屋なら、まず寸法が来る。

 広い、狭い、高い、低い。

 そういう物理の感覚が先に立つ。


 でも、ここは違う。


 先に来るのは、

 どこかで見た気がする

 という、ひどく曖昧で、それでいて逃れにくい感覚だった。


 希夢は、ゆっくりと白い壁へ目を向ける。


 見覚えがある。

 旧観測棟の中心部で見た白い壁。

 事故の記憶断層の中で見た白い部屋。

 雛乃が夢で語った白い場所。

 その全部が、ここでは“比喩”ではなく、

 実際の部屋としてひとつに重なっている。


 いや、逆かもしれない。


 あれらの断片の方が、

 最初からこの部屋の方を向いていたのだ。


 希夢の背中を、細い冷気が走る。


「……ここ、変です」


 雛乃が言う。


 その声は揺れていたが、崩れてはいなかった。

 怖がっている。

 でも、目を逸らしてはいない。


「何が」


 希夢が静かに返すと、雛乃は少しだけ間を置いて答えた。


「部屋なのに、部屋の感じがしないです」


 その言葉は、あまりにも正確だった。


 部屋だ。

 でも、現実の空間として身体が掴むより先に、

 誰かの頭の中で再生された“記憶の箱”みたいな感触が来る。


 雛乃は、白い床を見ながら続ける。


「夢の中の場所に近いです。

 でも、夢より輪郭がちゃんとある」


 希夢は、その一文に小さく頷く。


 夢ならもっと曖昧だった。

 輪郭は揺れ、意味が先に来て、形はあとから追いつく。


 けれどここは違う。


 輪郭がある。

 部屋として成立している。

 それなのに、その成立の仕方が“現実”ではなく“記憶”に近い。


 希夢は、試すように一歩だけ進む。


 足元は硬い。

 だが、床の上を歩いている感覚が、どこか薄い。

 体重を預けているのに、その重みが部屋の方へ完全には伝わっていない気がする。


 雛乃も、少し遅れて一歩踏み出す。


 ふたりの足音は、やはり残らない。


 静かすぎる。

 いや、音がないのではない。

 音が記録されること自体を、この部屋が拒んでいる

 みたいだった。


 希夢は、そこでふと、自分の鼓動に意識を向ける。


 どくん。

 どくん。


 胸の中では確かに鳴っている。

 なのに、その拍さえ部屋の中では少し遠い。

 身体の内側にあるはずのリズムが、いったん白い膜を一枚通してから返ってくる。


 それが恐ろしかった。


 ここでは、外の音だけじゃなく、自分の内側の音まで曖昧になる。


 つまり、この部屋は単に静かなのではなく、

 “誰の感覚として確定するか”をいちいち揺らがせる

 空間なのだ。


「希夢さん」


 雛乃が、小さく名前を呼ぶ。


 希夢は、そちらを見る。


 雛乃は、部屋の中央より少し手前で立ち止まっていた。

 周囲の白を見渡しながら、ほんの少しだけ眉を寄せている。


「呼吸まで曖昧です」


 その一言に、希夢はゆっくり頷いた。


「うん」


 それしか言えなかった。


 呼吸が消えるわけではない。

 苦しいわけでもない。

 でも、自分の息を“自分のもの”として掴むまでに、半拍ぶんの遅れがある。


 その遅れは、教室で感じた音の遅れよりもっと直接的だった。

 ここではもう、世界の外側だけでなく、

 身体の輪郭そのものが少しずつ記憶の側へ引かれている。


 希夢は、部屋の奥を見た。


 白い。

 どこまでも同じ白に見える。

 だが、完全に均一ではない。

 ごくわずかに、奥の方が深い。


 深いのに、遠くはない。

 遠くないのに、歩けばそこへ辿り着けるという確信も薄い。


 距離感まで曖昧だ。

 いや、曖昧というより、

 距離の代わりに“どれだけ記憶に近いか”で空間が構成されている

 感じがあった。


 それは普通の部屋ではありえない。


 希夢は、そこでようやくこの場所の異様さをはっきり言葉にする。


「……現実の部屋じゃない」


 雛乃が、息を浅くする。


「はい」


「でも、幻でもない」


 希夢は続ける。


「ちゃんとある。

 ただ、現実の物理より先に、記憶の形で成立してる」


 雛乃は、その言葉を聞いて小さく頷く。


「だから、“記憶の部屋”……」


 その表現が落ちた瞬間、希夢の胸の奥で何かが小さく噛み合った。


 そうだ。

 ここは観測施設の最深部であると同時に、

 記憶が記録として、あるいは記録が記憶として保管されるための部屋なのかもしれない。


 事故の日の断片。

 夢の残響。

 記録媒体の欠落。

 先生の記憶の切断。

 それら全部が、最終的にはこの“記憶の部屋”を通って再配置されていたのだとしたら。


 希夢は、白い壁の表面をもう一度見る。


 何もない。

 だが、何もなさすぎることが逆に不自然だった。


 この部屋は、まだ何かを見せていない。

 ただ、自分たちの呼吸と輪郭を少しずつ曖昧にしながら、

 “記憶の部屋へ入った”という事実だけを静かに身体へ馴染ませている。


 そのことが、何よりも不気味だった。


 希夢は、意識して深く息を吸おうとする。

 けれど、その呼吸さえ白い中で少し曖昧になる。


 逃げ場はない。

 もう部屋の中へ入ってしまった。


 なら、ここから先は、白さの意味を見ていくしかない。


 希夢と雛乃は、音を失ったその白い部屋の中で、

 次に現れる“記憶の形”を待つように、しばらく黙って立っていた。


「……全部、誰かの“記憶”みたい」


 雛乃のその一言は、白い部屋の中で不思議なくらいまっすぐ残った。


 広がらない。

 反響もしない。

 けれど、消えもしない。


 まるでこの部屋そのものが、その言葉だけは

 正しい認識として一度受け取った

 みたいだった。


 希夢は、壁一面の観測ログからゆっくり視線を外し、雛乃を見る。


 雛乃は、白い壁の前で立ち尽くしていた。

 顔色は悪い。

 けれど、ただ怯えているだけではない。


 怖いのだ。

 それは分かる。

 でも同時に、自分が今何を見せられているのかを、ぎりぎりのところで掴みかけてもいる。


 その目は、夢の話をしていた屋上の時とは少し違っていた。


 あの時の雛乃は、夢の余韻を抱えたまま、感情の重さに耐えている顔だった。

 でも今は違う。

 感情に加えて、

 夢が夢ではなかったかもしれない現実

 を前にした人間の顔をしていた。


「雛乃」


 希夢が名前を呼ぶと、雛乃はすぐには返事をしなかった。


 ただ、壁の一枚へ視線を固定したまま、ゆっくりと息を吸う。

 その呼吸すら、この部屋の中では少し曖昧だった。


「……夢の中で見た白さと、同じです」


 ようやく落ちた声は小さい。


 希夢は、黙ってその先を待つ。


「でも、夢の方がまだ優しかった」


 その一言に、希夢は少しだけ眉を寄せる。


 優しい。

 この白い部屋のどこに、そんな比較が入るのかと一瞬思う。

 だが、次の言葉で分かった。


「夢の中の白は、ぼやけてました。

 怖くても、まだ“夢かもしれない”って逃げ道があったんです」


 雛乃の指先が、制服の袖を小さく握る。


「でも、ここは違う」


 視線は壁のログから動かない。


「ちゃんと見える。

 ちゃんと部屋の形をしてる。

 なのに、その方が怖いです」


 その感覚は、希夢にも痛いほど分かった。


 夢なら曖昧さがある。

 解釈の余地もある。

 あとから“気のせいだったかもしれない”と逃げる余地が少しだけ残る。


 だが、ここは違う。


 白い壁。

 無数のログ。

 時系列の矛盾。

 自分たちの名前。

 全部が現実の輪郭を持ったまま、なお記憶の気配を濃く漂わせている。


 だからこそ、逃げ場がない。


 雛乃は、やがて壁から少しだけ目を離し、自分の胸元へ手を当てる。


「気持ち悪いです」


 その言葉は正直だった。


「何が本当だったのか、

 どこまでが残ってて、

 どこからが変えられてるのか……

 見てるだけなのに、自分の方が少しずつずれていく感じがして」


 希夢は、ゆっくり頷く。


 まさにそうだった。

 この部屋はただ情報を見せるだけではない。

 見ている側の輪郭も、少しずつ揺らす。


 だから雛乃の反応は、ただ怖がっているのではなく、

 この部屋の性質を正しく受け取っている反応でもあった。


「でも」


 雛乃が、そこで少しだけ声を変える。


 震えはある。

 だが、その下に別のものが混じる。

 夢を見てきた人間だけが持つ、奇妙な確信だった。


「ここに来て、変に思ったんです」


「何が」


 希夢が訊くと、雛乃は少しだけ目を細めた。


「私、夢の中の先輩の気配を、

 ずっと“向こう側”のものだと思ってたんです」


 白い場所。

 名前を呼ぶ声。

 悲しみと後悔。

 守ろうとする気配。


 それらは全部、現実から遠いところにあると思っていた。

 そういう意味だろう。


「でも今は」


 雛乃は、壁一面のログを見渡す。


「向こう側、っていうより……

 ここに、まだちゃんと引っかかってる感じがします」


 その表現に、希夢は胸の奥が小さく鳴るのを感じた。


 引っかかっている。

 消えてはいない。

 完全に向こうへ行ったのでもない。

 こちら側へ残るには薄すぎるけれど、まだ完全には断ち切られていない。


 それは、鹿島先輩にも裕也にも通じる残り方だった。


 雛乃は、自分の言葉を確かめるみたいに続ける。


「先輩も。

 裕也くんも。

 たぶん、ここでは“失われたもの”じゃなくて……

 まだどこかで、記録され続けてるんです」


 希夢は、その言葉をすぐには否定できなかった。


 むしろ、この部屋のログのあり方は、それに近い。


 終わったものを墓碑みたいに保存しているのではない。

 まだ確定していないものを、

 複数の可能性ごと凍らせ、選別し続けている。


 それが、この白い部屋の怖さだった。


 雛乃は、そこで小さく目を伏せる。


「……だから、余計に怖いです」


 その言葉に、希夢は視線を向ける。


「まだいるなら、

 助けられるかもしれないって思っちゃうから」


 希夢の胸が、少しだけ強く痛む。


 それは希望だ。

 けれど、希望である分だけ危うい。


 この部屋は、そういう希望さえも素材にしてしまう気配がある。

 会いたい、助けたい、知りたい。

 そういう感情を持つ者ほど、深く引き寄せる。


 雛乃もそれを分かっているのだろう。

 だから、助けられるかもしれない、という言葉を口にしながら、同時に強く怯えてもいる。


「……雛乃」


 希夢は、少し慎重に言った。


「無理に前向きに考えなくていい」


 雛乃は、すぐには頷かなかった。

 けれど、数秒置いてから小さく首を振る。


「前向きじゃないです」


 その声はひどく静かだった。


「ただ、ここに来たら……

 “もういない”って言い切る方が、嘘みたいに思えて」


 その感覚もまた、正しかった。


 最深部の手前までは、失踪という言葉でなんとか保てた。

 不在。

 空席。

 連絡がつかない。

 そういう現実の側の言葉で。


 でも、この部屋の中では、その言葉が急に薄くなる。


 ここには、いなくなった人間の“痕”ではなく、

 まだ選別され切っていない“存在の途中”が残っている。


 雛乃は、また壁を見る。


 白いログの列。

 重なる時刻。

 矛盾する状態。

 揺れる波形。


「……全部、誰かの記憶みたいって言いましたけど」


 彼女は、小さく言い直す。


「たぶんそれだけじゃないです」


 希夢は目を向ける。


「記憶っていうより、

 “まだ消えてないものの置き場所”みたいです」


 その一言に、希夢は小さく息を呑んだ。


 置き場所。

 たしかにそうかもしれない。


 この部屋は過去の記録庫ではない。

 まだどの形で残るか決まりきっていないものを、

 一時的に置き、並べ、選び、整える場所。


 そう考えれば、ログの矛盾も、時系列の崩れも、

 “まだ途中”であることの証拠になる。


「……怖いのに、目を逸らせない」


 雛乃が、ほとんど独り言みたいに言う。


 希夢は、その言葉にだけすぐ頷いた。


「うん」


 この部屋は、ただ威圧するだけではない。

 見る者の視線を静かに固定してしまう。

 逃げろと叫ぶタイプの恐怖ではなく、

 見続けないといけない気がしてしまうタイプの恐怖だった。


 雛乃は、そこでようやく希夢の方を向く。


 目元はまだ不安定だ。

 けれど、その奥には別の色もある。

 屋上の時より、少しだけ覚悟に近いものだ。


「……でも」


 その一語に、希夢は黙って耳を傾ける。


「ここまで来て、やっぱり一緒に来てよかったです」


 希夢は、少しだけ目を見開く。


 雛乃は、小さく続ける。


「ひとりだったら、たぶん夢の続きを見てるだけになってました。

 でも今は、怖いけど……

 ここが本当にある場所だって、希夢さんと一緒に確認できてる」


 その言葉は、希夢の胸の奥へ静かに落ちた。


 そうかもしれない。

 希夢ひとりなら、ここを事故の延長として読みすぎたかもしれない。

 雛乃ひとりなら、夢の継続として受け取りすぎたかもしれない。


 でも、ふたりでいるから、

 現実と記憶のあいだのこの部屋を、少しだけ正確に見られている。


 雛乃は、白い壁をもう一度見上げる。


「……全部、誰かの記憶みたい」


 今度はさっきと少し違う響きだった。


 ただ怖がっているのではない。

 この部屋が何であるかを、少しずつ言葉にしようとしている声だった。


「でも、記憶っていうより……

 まだ終わってないものばかりです」


 希夢は、その言葉を聞きながら、

 この部屋の先に必ず“中心”があることを、改めて確信していた。


 無数のログ。

 矛盾する時刻。

 確定しない状態。

 まだ終わっていない存在たち。


 その中心に、鹿島先輩の選択も、裕也の位置も、

 自分の名前の意味も、全部を繋ぐ決定的な記録が待っている。


 雛乃の反応は、恐怖の表明であると同時に、

 この部屋が“記憶の部屋”ではなく

 “まだ消えていないものの置き場所”

 であることを指し示す、最初の証言でもあった。

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