真相(後半)
雛乃の
「まだ消えてないものの置き場所」
という言葉は、白い部屋の中で静かに残っていた。
希夢は、その響きを胸の奥へ沈めたまま、もう一度ゆっくりと周囲を見渡す。
壁一面の観測ログ。
矛盾した時刻。
複数の状態を同時に持った名前。
まだ確定していない過去たち。
それらが無数に並んでいるにもかかわらず、部屋の中心だけが妙に空いていた。
空白、というほどではない。
ただ、そこだけが壁面の情報の密度から切り離され、
何かひとつのために確保された静けさ
を持っている。
希夢は、その中心へゆっくり視線を向けた。
白い床。
白い光。
そして、その中央に、台座があった。
低い。
腰より少し下くらいの高さ。
四角い。
飾り気もなく、ただ白い部屋の中央へ静かに置かれている。
最初は、それも床の一部に見えた。
白さが同じだからだ。
だが、見る角度を変えると、ようやく輪郭が浮かぶ。
床からほんの少し持ち上がった直方体。
継ぎ目は見えない。
材質も分からない。
金属でも石でもない。
ただ、白い部屋の中で“中心であること”だけが明確な物体
として、そこにある。
「……あれ」
雛乃が、小さく声を漏らす。
希夢は頷き、ゆっくり台座へ近づいた。
足音は、やはり残らない。
だが、中心へ寄るにつれて、白い部屋の静けさがまた少し変わる。
壁際では、まだ“部屋の中の静けさ”だった。
けれど中心に近づくと、それはもっと深い。
音がないというより、
何かがずっとそこで停止したまま、周囲の時間だけを薄くしている
ような静けさだった。
希夢の背中を、細い冷気が走る。
この台座の周囲だけ、空気の重さが違う。
雛乃も同じことを感じたのか、足を止める位置が自然に少しだけ慎重になる。
それでも離れない。
希夢のすぐ斜め後ろで、白い台座を見つめている。
台座の上面は、平らではなかった。
ごく浅い、透明な層のようなものが一枚だけ載っている。
ガラスにも見える。
だが、ガラスのように周囲を映さない。
むしろ、その透明さの奥で、何かが静止していた。
希夢は、息をひとつだけ浅く吸う。
波形だった。
細い光の線。
揺れの途中で止まったみたいな曲線。
いくつもの数列。
ログ番号。
そして、見覚えのある英字の並び。
それらが、台座の上で
再生されずに固定されたまま
置かれている。
まるで、壁に並ぶ無数の観測ログの中から、
たったひとつだけが切り出され、
この場所へ“中心記録”として保存されているみたいだった。
希夢は、さらに一歩だけ近づく。
透明な層の奥に、文字が浮かぶ。
SUBJECT : KASHIMA
STATUS : STATIC
TRACE PRESERVED
心臓が、重く打った。
鹿島先輩。
その名前が、壁の無数のログの一部ではなく、
部屋の中心の台座に、単独で、静止状態のまま置かれている。
雛乃が、ほとんど息の音だけで言う。
「……先輩」
その声は、白い部屋の中でやけに小さく、それでも妙にはっきりしていた。
希夢は、目を逸らせなかった。
台座の上のログは動いていない。
波形も流れない。
数字も更新されない。
ただ、最後の瞬間を切り取られた標本みたいに、静かなまま固定されている。
それが、壁のログたちと何より違っていた。
壁の記録はまだ揺れている。
矛盾し、競合し、どれが残るか決まりきっていない。
だが、この台座の上の鹿島先輩のログだけは、
静止されたまま保存されている。
静かに守られているようにも見えた。
あるいは、凍らされたまま、決定的な瞬間だけを抜き出されているようにも見えた。
希夢は、台座の透明な層へ指先を伸ばしかけて、止める。
触れてはいけない。
まだそう感じた。
触れれば、再生が始まるかもしれない。
あるいは、自分の側の何かがまた書き換わるかもしれない。
雛乃が、小さく言う。
「……壁じゃなくて、ここだけ別です」
希夢は頷いた。
「うん」
「固定されてる」
その表現は正しかった。
壁のログは部屋の一部だ。
流動する記憶。
再配置される記録。
まだ選ばれきっていない過去。
でも、この台座の上にある鹿島先輩のログは違う。
動かない。
揺れない。
選別途中ではなく、
“これだけは中心として残す”と決められた記録
みたいに見えた。
希夢の胸の奥が、ひどく静かに痛む。
鹿島先輩は事故の中で消えた。
そう思っていた。
でもここでは違う。
消えたのではなく、
この部屋の中心に、静止状態のログとして置かれている。
それは生存とも死とも、少し違う残り方だった。
希夢は、透明な層の中に浮かぶ波形を見つめる。
Pattern-X3 に似ている。
けれど、もっと穏やかだ。
寄り、沈み、ほどけかけたところで止まっている。
まるで、何かへ移行する直前の呼吸だけを切り取ったみたいに。
その揺れの停止が、かえって痛かった。
「……静止されてるって」
雛乃が、掠れた声で言う。
「まだ“終わった記録”じゃないってことですか」
希夢は、すぐには答えられなかった。
終わった記録なら、壁のどこかに埋もれていてもいいはずだ。
ここまで中心へ置かれる必要はない。
なら逆に、これはまだ“参照されるべき記録”なのかもしれない。
あるいは、これから何かを開くための鍵。
もう一人の観測者。
Gate-X。
事故の真相。
その全部へ入っていくための、最初の中心。
希夢は、喉の奥の乾きを感じながら、台座の表面へもう一度目を凝らす。
文字列の下に、さらに小さな表示があった。
LOG STATE : HOLD
REPLAY AVAILABLE
希夢の背中を、冷たいものがまっすぐ走る。
replay。
再生可能。
つまり、この静止は永久固定ではない。
止められているだけだ。
そして、自分たちが望めば、ここから先を見られる。
雛乃も同じものを読んだらしく、小さく息を呑む。
「……再生」
その一言は、願いでもあり、恐れでもあった。
鹿島先輩の記録。
事故の中心。
そして、おそらく“選択”の瞬間。
その全部が、この台座の上で静止され、自分たちの前へ置かれている。
希夢は、無意識に手を握りしめていた。
ここまで来たのだ。
最深部へ。
白い部屋へ。
無数の観測ログの中心へ。
そして、その中心には、やはり鹿島先輩がいた。
事故に飲まれた被害者としてではない。
真相の入口そのものとして。
希夢は、白い台座の前で立ち尽くしたまま、
これがただの記録の保管ではなく、
次の瞬間に過去そのものを開くための装置
なのだと、ようやくはっきり理解していた。
LOG STATE : HOLD
REPLAY AVAILABLE
白い台座の上に浮かぶその文字列を、希夢はしばらく見つめていた。
再生可能。
その四文字は、ただの機能表示のはずなのに、
この部屋の中ではひどく人間的な響きを持っていた。
止められている。
まだ終わっていない。
そして、望めばもう一度触れられる。
それは機械の言葉でありながら、どこか祈りに近かった。
雛乃が、小さく息を吸う。
「……再生したら」
その先は言わなかった。
言わなくても分かる。
事故の日の記録が開く。
鹿島先輩の最後の選択に触れる。
そして、おそらく自分たちの知らなかった“真相の中心”が、
もう曖昧なままでは済まない形で立ち上がる。
希夢は、白い台座の前で右手をゆっくり持ち上げた。
指先が少し震える。
怖いからだ。
でも、その震えを止めようとは思わなかった。
止めたところで、怖さが消えるわけではない。
なら、震えたままで触れるしかない。
「……やるよ」
低く言うと、雛乃はすぐ隣で小さく頷いた。
希夢の指先が、透明な層の表面へ触れる。
冷たくない。
熱もない。
なのに、触れた瞬間、指の輪郭だけが一度ふっと薄くなった気がした。
物に触れた感触ではない。
むしろ、向こう側がこちらの接触を受け入れるために、表面の定義だけを書き換えた
みたいな奇妙な感触だった。
次の瞬間、台座の上の波形が微かに動く。
白い部屋の空気が、静かに深くなる。
音が消えたわけではない。
でも、部屋全体が
何かひとつを聞くためだけに、ほかの要素を一段沈めた
ような静けさへ変わる。
透明な層の奥に浮かんでいた文字列が、ひとつずつ薄くほどけていく。
SUBJECT : KASHIMA
STATUS : STATIC
TRACE PRESERVED
それらが消える代わりに、中央へ一本の白い線が現れた。
横に伸びる線。
ごく小さな揺れ。
波形。
それは生体ログのようにも見えるし、
光の揺らぎの記録にも見える。
線は一度だけ浅く沈み、そこで止まる。
そして、白い部屋のどこでもない場所から、声が落ちた。
「――誰かがこれを見る頃、私はここにいない」
希夢の呼吸が、そこで止まる。
鹿島先輩の声だった。
記憶断層の中で聞いた叫びとは違う。
事故の最中の切迫もない。
もっと静かで、もっと整っている。
それなのに、一瞬で分かる。
この声は本物だ。
加工された記録音声ではなく、
残されることを最初から見越して置かれた声
だと、音の置き方だけで分かってしまう。
雛乃が、小さく肩を震わせる。
希夢は、目を逸らせない。
白い部屋の中央に、映像はまだない。
あるのは台座の上で脈打つごく細い波形と、
空間の中へ直接落ちてくる鹿島先輩の声だけだった。
「でも、それでいいと思ってる」
希夢の胸の奥が、静かに軋む。
それでいい。
その一言は、諦めでも投げやりでもなかった。
むしろ、覚悟の方に近い。
事故に巻き込まれた人間の声ではない。
何かを選び、その結果を自分で引き受けると決めた人の声だった。
白い波形が、もう一度だけ揺れる。
今度はその周囲に、ごく淡い像が立ち上がる。
輪郭だけ。
光の薄膜みたいな立体。
完全な映像ではない。
でも、そこに人が立っている形だけははっきり見える。
鹿島先輩だった。
白い部屋の中央。
今、自分たちがいるこの最深部とよく似た空間の中に、
鹿島先輩の記録像が静かに立っている。
制服。
少し伏せた顔。
右手は力を抜いて身体の横に落ちている。
事故の最中の緊迫した姿とは違う。
もう少し前、あるいはもう少し後の、
“自分の意志で話し始めるために立ち止まった瞬間”の姿だった。
雛乃が、ほとんど息だけで呟く。
「……先輩」
その声に、記録像は反応しない。
当然だ。
これは残されたログだ。
今この場の呼びかけへ返事をするものではない。
それでも希夢には、
“いま”の鹿島先輩に向かって声をかけたくなる雛乃の気持ちが痛いほど分かった。
記録像の鹿島先輩は、ゆっくりと顔を上げる。
視線は、まっすぐこちらを見ていない。
でも、誰かに向けて話していることだけははっきりしていた。
「ここまで来た人がいるなら、たぶんもう隠しきれない」
その言葉に、希夢の胸の奥が重く打つ。
隠しきれない。
つまり、この記録は“見つかる可能性”を前提に作られている。
偶然残ったものではない。
鹿島先輩は、最初から分かっていたのだ。
いつか誰かがここへ来ることを。
おそらく、自分が残せるものが“ここまで”だということも。
記録像の輪郭が、ごく微かに揺れる。
けれど、声ははっきりしている。
「事故だと思われるだろうし、その方がたぶん都合がいい」
希夢は、そこで無意識に手を握りしめていた。
事故だと思われる。
その方が都合がいい。
仲田先生が言っていたことと、ぴたりと重なる。
表向きは機材トラブル。
封鎖。
古い話として閉じる。
だが、その“都合のよさ”が、今ここでは鹿島先輩の側からも言及されている。
つまり、単なる学校側の処理ではない。
もっと深いところで、
“事故として閉じた方がいい理由”
が存在していたのだ。
雛乃が、横で浅く息を吸う。
希夢は、視線を記録像から離さない。
鹿島先輩の表情は、静かだった。
苦しんではいない。
泣いてもいない。
でも、その静けさの奥に、すでに何かを手放す決意が沈んでいる。
それがつらかった。
記録像の声が、少しだけ深くなる。
「でも、本当は事故じゃない」
その一文が、白い部屋の中心へまっすぐ落ちる。
雛乃が肩を震わせる。
希夢の心臓も、重く打つ。
ここまでは、仮説だった。
ログ。
記憶断層。
先生の欠落。
Gate-X。
それらを繋いで立ててきた推測。
けれど今、鹿島先輩自身の声が、はっきりとそれを否定した。
事故ではない。
記録像の輪郭の奥で、白い波形がひとつ深く沈む。
「私が、選んだ」
その瞬間、希夢の胸の奥で何かが冷たく、そして決定的に噛み合った。
選んだ。
巻き込まれたのではない。
落ちたのでもない。
機材の暴走に飲まれたのでもない。
鹿島先輩は、自分で選んだのだ。
何を。
なぜ。
どこまで分かっていたのか。
その全部はまだ次の言葉を待たなければならない。
それでも、この一言だけで、世界の見え方はもう戻らないところまで変わった。
雛乃が、ほとんど聞こえないほど小さく言う。
「……事故じゃ、なかった」
希夢は、返事をしなかった。
できなかった。
鹿島先輩の記録像は、なお静かにこちらの知らない真相の縁へ立っている。
白い部屋。
無数の観測ログ。
その中心の台座の上で、
いま過去そのものが“事故”という仮の形を剥がし始めていた。
「でも、本当は事故じゃない」
「私が、選んだ」
その言葉が落ちたあと、白い部屋はしばらく完全に音を失ったみたいだった。
希夢は、呼吸をすることさえ少し遅れた。
事故ではない。
選んだ。
その二つは、似ているようでまったく違う。
事故なら、巻き込まれたことになる。
避けられなかった不運として、少なくとも“本人の意志ではない”場所へ置ける。
でも、選んだのなら違う。
鹿島先輩は、あの白い中心の前で、何かを理解し、何かを引き受けた上で、なお自分で一歩を決めたことになる。
台座の上の波形が、もう一度だけ浅く揺れた。
記録像の鹿島先輩は、白い部屋の中で静かに立っている。
表情は落ち着いていた。
落ち着いているからこそ、その奥にある緊張の方が痛いほど伝わる。
「最初の揺れが出た時点で、もう普通の停止手順じゃ間に合わなかった」
希夢の胸の奥で、第九章の断片が呼応する。
最初の爆ぜ。
白い中心。
手を伸ばす右手。
止めようとしていた背中。
やはりあの時、鹿島先輩は“ただ異変に巻き込まれた”のではなかった。
すでに何かが手遅れになる速度で進んでいることを知っていたのだ。
記録像の向こう、白い空間の奥に、ごく淡い揺らぎが浮かぶ。
光だった。
はっきりした柱でも、球でもない。
空間の一部だけが、白より深い白としてざらりと震えている。
その震えは、希夢が白い扉の前で感じたものとも、Gate-X の縁に走っていた脈動とも、同じ質を持っていた。
「あれは機材の異常じゃない。
観測されることで、逆にこっちの側へ形を持ち始める光だった」
雛乃が、すぐ隣で小さく息を詰める。
希夢は、目を逸らせない。
鹿島先輩の声は静かだ。
静かなまま、いままで仮説でしかなかったものを、次々に現実へ落としてくる。
記録像の鹿島先輩は、ゆっくりと右手を上げる。
事故の記憶断層で見た動きと、ほとんど同じだった。
だが今は、背中越しの断片ではない。
真正面から、その選択の手前が見えている。
「誰かが見続ければ、向こうは“観測された形”で固定される。
でもその時、固定されるのは向こうだけじゃない」
白い揺らぎが、台座の上で少しだけ濃くなる。
その周囲の光が、ごく浅く沈む。
黒い楕円にはまだならない。
けれど、Gate-X が生まれる直前の輪郭そのものだった。
「こっちの記憶も、位置も、順番も、巻き込まれる」
希夢の喉が、ひどく乾く。
位置。
順番。
記憶。
教室の机のズレ。
音の遅れ。
仲田先生の欠落。
全部、そこに繋がっていた。
記録像の鹿島先輩は、右手を白い揺らぎの方へ向けたまま、低く続ける。
「だから、切るしかなかった」
その一言で、空間の意味が変わる。
止める、ではない。
切る。
希夢は、そこで初めて理解する。
鹿島先輩がしようとしていたのは、単なる機材停止でも、観測の中止でもなかった。
向こうとこちらのあいだに一度生まれた接続そのものを、途中で断ち切ることだったのだ。
だが、断つためには、誰かがその接続点へ自分から触れなければならない。
記録像の鹿島先輩は、白い揺らぎへ一歩だけ近づく。
その瞬間、光の表面がわずかに反応する。
呼ぶみたいに。
受け入れるみたいに。
あるいは、最初からその一歩を待っていたみたいに。
「触れれば、たぶん私は向こうへずれる。
でも、ここで誰も触れなければ、もっと広い範囲が巻き込まれる」
雛乃が、小さく首を振る。
否定したいのだろう。
でも、それはもう起きた過去の中にある。
希夢は、胸の奥が強く痛むのを感じながら、記録像を見つめる。
鹿島先輩は、分かっていたのだ。
触れたら戻れないかもしれないことを。
いや、戻れない可能性の方が高いことを。
それでも、選んだ。
記録像の手が、白い揺らぎへ伸びる。
白い線がその指先に絡む。
次の瞬間、それは“光に触れた”というより、
光の側が、鹿島先輩という輪郭を選び取った
みたいに見えた。
希夢の息が止まる。
揺らぎは、黒を孕む。
薄黒い楕円が、白の中心にゆっくりと形成される。
Gate-X。
事故の日、自分が断片でしか見られなかったものが、今ここでついに因果の順番を持って立ち上がる。
鹿島先輩は、光の揺らぎに飲まれたのではない。
自分から触れ、接続点の側へ身体を置いたのだ。
「事故に見える方がいい。
その方が、あとから近づく人間が少なくなる」
その言葉は、あまりにも静かで、あまりにも痛かった。
つまり鹿島先輩は、自分の失踪が事故として処理されることまで含めて、選んでいた。
隠蔽のためではない。
封印のためだ。
これ以上、同じ白へ引かれる人間を増やさないために。
記録像の輪郭が、少しずつ不安定になる。
肩。
腕。
指先。
輪郭から先に、白へ近づいていく。
それでも声だけはまだ残る。
「私は、“落ちた”んじゃない」
波形が深く揺れる。
「向こうへ行くことを選んだ」
希夢は、手を握りしめる。
事故の真相。
それは暴走ではなく、選択だった。
鹿島先輩の失踪は、災害ではない。
接続の拡大を切るために、自分自身をその接続点へ差し出した結果だったのだ。
そして、その選択があったからこそ、
あの日、入口側にいた自分は、まだ“こちら側”へ残れたのかもしれない。
白い部屋の中心で、記録像の鹿島先輩はなお静かに立っていた。
だが、その姿はいまや事故の被害者ではなく、
Gate-X を封じるために自分から光へ触れた者
として、決定的に意味を変えていた。
Thought for 21s
了解しました。
第十二章『光の底で、過去はひとつになる』
Part B-4:先輩が残した“理由” を進めます。
第十二章
光の底で、過去はひとつになる
Part B:真相(後半)
B-4:先輩が残した“理由”
「私は、“落ちた”んじゃない」
「向こうへ行くことを選んだ」
その言葉が白い部屋の中心へ沈んだあと、記録像の鹿島先輩はしばらく動かなかった。
いや、動いていないように見えただけかもしれない。
実際には、輪郭の方が少しずつ白に近づいていた。
肩の端。
指先。
髪の先。
そういう細いところから順番に、“人の形”としての確かさが薄くなっていく。
それでも、声だけはまだ残っていた。
希夢は、喉の奥をひどく乾かせたまま、その次の言葉を待つ。
事故ではない。
選んだ。
そこまではもう確定した。
けれど、本当に知りたかったのはその先だった。
なぜ、鹿島先輩がそれを選んだのか。
何を守るために、自分から白い揺らぎへ触れたのか。
そして、なぜあの日、あの瞬間、
「見ないで、希夢」
と呼んだのか。
台座の上の波形が、ひとつだけ細く震える。
記録像の鹿島先輩が、わずかに視線を落とした。
それは自分の選択を後悔している人の顔ではなかった。
むしろ逆に、引き返せないと知った上で、最後まで言葉だけは正しく置こうとしている人の顔だった。
「……希夢には、見てほしくなかった」
その一文が落ちた瞬間、希夢の胸の奥で何かが強く、静かに痛んだ。
来る、と分かっていた言葉だった。
それでも、本人の声で聞くと重さが違う。
見てほしくなかった。
拒絶ではない。
突き放す響きでもない。
その言い方の奥には、むしろ触れたくて触れられないものを、自分から遠ざける時の痛みが滲んでいた。
雛乃が、すぐ隣で小さく息を呑む。
希夢は、目を逸らせない。
記録像の鹿島先輩は、白い揺らぎの方ではなく、どこかこちらに近い場所を見ていた。
まっすぐ希夢を見ているわけではない。
けれど、その言葉の向きだけははっきりしている。
「あの時、もし希夢がちゃんと見たら」
波形が、浅く沈む。
「向こうは、私じゃなくて、希夢の方を取ったかもしれない」
希夢の呼吸が、そこで一度止まった。
私じゃなくて、希夢の方を取る。
それはもう比喩ではなかった。
Gate-X が“誰を接続点として確定するか”を選ぶ可能性。
観測者。
名前での指定。
もう一人の観測者。
そこまで繋がっていた断片が、ここで決定的な意味を持つ。
つまり、鹿島先輩はただ危険なものを見せたくなかったのではない。
希夢が“見てしまう”ことそのものが、接続の成立条件になりうる
と知っていたのだ。
記録像の声は静かだった。
だが、その静けさの下にある切迫は、事故の中で叫んだ声よりも深い。
「希夢は、たぶん“残る側”だった」
希夢の胸の奥が、重く鳴る。
残る側。
その表現はやさしい。
だが同時に残酷でもあった。
残る、ということは、向こうへ行く者がいることを前提にしている。
誰かがこちらに残らなければ、あとでこの白へもう一度届くことはできない。
切られた記憶も、途中で終わった存在も、全部そのまま沈んでしまう。
鹿島先輩は、その役割を、事故の瞬間にもう見ていたのかもしれない。
「私が行けば、少なくとも一本で済む」
その一言に、雛乃がかすかに首を振る気配がした。
希夢も、胸が痛む。
一本で済む。
犠牲の数を数えるみたいな、冷たい言い方だった。
でもそれは、きっと自分の感情を切り落としてでも言葉を正確にしようとした結果なのだろう。
接続が広がれば、巻き込まれる範囲も増える。
記憶も、位置も、順番も、複数人ぶん歪む。
だから、接続点をひとつに束ねて、自分だけが向こうへずれる形を選んだ。
そういう意味だ。
記録像の鹿島先輩は、そこで初めて少しだけ苦しそうに目を伏せた。
ほんの一瞬だった。
けれど、その一瞬だけは、理屈ではなく感情の方が表に出た気がした。
「本当は、見つけてほしくないと思った」
希夢は、思わず手を握りしめる。
見つけてほしくない。
それは、忘れてほしいという意味ではない。
むしろ逆だ。
探し続ければ、希夢はまたここへ来る。
白い部屋へ。
Gate-X の前へ。
観測者としての位置へ。
それを分かっていたからこそ、鹿島先輩は“事故”として閉じた方がいいと考えたのだろう。
でも、記録は残した。
完全には消さなかった。
そこに矛盾がある。
鹿島先輩の声が、その矛盾へ自分から触れるように続いた。
「でも、全部を消したら、今度は本当に誰も戻れなくなる」
白い部屋の空気が、そこで少しだけ深くなる。
誰も戻れなくなる。
その“誰も”の中に、鹿島先輩自身だけでなく、裕也も、記憶を切られた人たちも、そして希夢自身も入っている気がした。
だから鹿島先輩は、消しきらなかったのだ。
事故に見えるようにはした。
近づく人間を減らすために。
でも、完全には閉じなかった。
あとで届くべき“残る側”の誰かのために。
希夢は、その意味があまりにも重くて、うまく息ができなくなる。
記録像の鹿島先輩は、今度こそわずかに顔を上げた。
視線が、初めてこちらへ近づく。
直接見ているわけではない。
けれど、言葉の行き先だけは、もうはっきりと希夢へ向いていた。
「希夢には、見てほしくなかった」
もう一度、その言葉が落ちる。
今度は少しだけ違う響きだった。
拒絶ではない。
守ろうとした結果の言葉だと、痛いほど分かる。
「でも、いつか見るなら」
その先で、記録像の輪郭が少し揺れた。
声もまた、ほんのわずかにかすれる。
「“引かれる側”じゃなくて、“見届ける側”でいてほしかった」
希夢は、そこでついに目を細めた。
見届ける側。
観測者。
残る側。
引かれる側ではなく。
その全部が、ひとつの意味へ収束する。
鹿島先輩は、希夢を遠ざけたかったのではない。
もっと正確に言えば、
Gate-X に取られる形で近づいてほしくなかった
のだ。
感情のまま。
名前を呼ばれるまま。
白に応えてしまうまま。
そういう形で接続してしまえば、希夢まで向こうへずれる。
だから“見ないで”になる。
でも、完全に切り捨てることはしない。
あとで“見届ける側”として辿り着く可能性だけは残す。
その矛盾した願いの形が、いまようやく言葉になった。
記録像の鹿島先輩は、最後にほんの少しだけ口元を緩めたように見えた。
笑ったのではない。
でも、ひどく微かな安堵に近いものが、そこにあった。
「だから、もしここまで来たなら」
波形が、細く震える。
「ちゃんと見て」
その一文は、命令ではなかった。
託しだった。
あの日は見ないでほしかった。
でも、いまは違う。
ここまで来たなら、もう目を逸らさずに見届けてほしい。
事故ではなく選択だったことも。
自分がなぜ向こうへ行ったのかも。
残された記録が何を守っていたのかも。
その全部を。
希夢は、胸の奥がひどく熱く、そして冷たくなるのを同時に感じていた。
鹿島先輩が残した“理由”は、単純な自己犠牲じゃない。
ただ守りたかったからでもない。
希夢を“残る側”“見届ける側”に保つため
だったのだ。
それは、あまりにも重かった。
そして、あまりにもまっすぐだった。




