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光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
夕暮れの扉、その前で
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真相の扉へ

 「……行く」


 その一言を口にしたあと、希夢はしばらく動かなかった。


 夕暮れは、もうほとんど終わりかけている。

 空の低いところにだけ薄く色が残り、その上から夜の青が静かに広がってきていた。

 屋上のコンクリートも、昼の温度を手放し始めている。

 風は冷たくはない。

 けれど、もう“これから先へ進む時間”の匂いを持っていた。


 希夢は、フェンスの向こうの空を見たまま、自分の中で今言った言葉の重さを確かめていた。


 行く。

 最深部へ。

 観測施設へ。

 白い壁の前へ。


 そこには、事故の中心がある。

 Gate-X がある。

 鹿島先輩の気配があるかもしれない。

 裕也の最後の痕跡も、たぶんそこに続いている。

 そして、自分の欠けた記憶の続きも。


 怖い。

 その気持ちは、もう消さないと決めた。

 会いたい、という感情も。

 知りたい、という欲求も。

 全部、自分の中にあるままでいい。


 でも、それらを抱えたままでもなお、最終的に足を前へ出す理由は別のところへ置かなければならない。

 そうしなければ、向こう側に呼ばれた時、自分の輪郭が先にほどける。


 希夢は、ゆっくりと雛乃の方を向いた。


 雛乃は、さっきからずっとこちらを見ていたらしい。

 夕方の薄い光の中で、その目だけが妙にまっすぐだった。

 泣いたあとの弱さも残っている。

 けれど、それ以上に、いまここで一緒に決めようとする強さがある。


 希夢は、ひとつ息を吸ってから言った。


「……観測施設に行く」


 短い。

 でも、その短さの中に、もう曖昧さはなかった。


 旧観測棟、ではない。

 あの古い建物を、ただの廃れた校舎の名前ではなく、

 観測と記憶と現実の境界が集まる場所

 として呼んだのは、たぶん初めてだった。


 雛乃は、その言葉を聞いて小さく目を伏せる。

 驚きではない。

 確認だった。


「……はい」


 その返事は、震えていないわけではなかった。

 でも、逃げてもいなかった。


 希夢は続ける。


「最深部まで行く。

 たぶん、そこにしか残ってない」


 事故の答えも。

 裕也の続きも。

 もう一人の観測者の名前も。

 鹿島先輩が何を止めようとしていたのかも。


 教室の違和感や、先生の欠落や、夢の断片をどれだけ並べても、最後の一歩だけはまだ埋まらない。

 その一歩を埋める場所は、もう分かっている。


 雛乃は、スマホを胸元で握り直した。


「……今日、ですよね」


 その問いに、希夢は頷く。


「うん。

 もう待てないと思う」


 待てば安全になるわけじゃない。

 むしろ、世界のひずみは今も少しずつこちら側へ返ってきている。

 机の位置。

 音の遅れ。

 記憶の欠落。

 それらが小さいうちに、核へ触れなければならない。


「これ以上、向こうの方に時間を渡したくない」


 それは自分でも驚くほど冷静な言葉だった。


 向こう側。

 Gate-X。

 観測と干渉の折り返し点。

 そこがまだ“こちらを書き換える余白”を持っているなら、先に近づかなければいけない。


 雛乃は、その言葉を聞いて少しだけ唇を引き結ぶ。


「……分かります」


 その声は、小さい。

 でも本物だった。


 屋上の空気は、ますます夜へ傾いていく。

 遠くの街に灯る明かりが増え、校舎の窓にも少しずつ蛍光灯の白が浮き始めていた。

 学校はまだ終わっていない。

 けれど、今この屋上だけは、もう日常の時間から半歩ずれている。


 希夢は、自分の足元を見る。


 フェンスの影。

 雛乃の影。

 自分の影。

 さっきまで少し離れていたそれらが、光の角度のせいで、今はところどころ細く重なっている。


 最深部へ向かう。

 それは単に建物の奥へ進むことではない。

 ここまで積み上がってきた感情と記憶と責任を、もう一段深い場所へ持っていくことだ。


 そして、そこから戻ってこられるかどうかは、まだ分からない。


 その不確かさを考えた時、希夢の胸の奥が少しだけ痛んだ。

 怖さとは違う。

 もっと静かな、決意の副作用みたいな痛みだった。


「……もし」


 雛乃が、風に声を乗せるみたいに言う。


 希夢は顔を向ける。


「もし、最深部で……

 本当に全部つながっちゃったら」


 その言葉の続きを、雛乃はすぐには言えなかった。

 でも希夢には分かった。


 記憶。

 事故。

 鹿島先輩。

 裕也。

 自分の名前。

 もう一人の観測者。

 その全部が一気に繋がってしまったら、自分たちは今のままではいられないかもしれない。


 希夢は、少しだけ考えてから答えた。


「それでも、行くしかない」


 その返事に飾りはなかった。

 勇ましさもない。

 ただ、ここまで来てようやく残った、削れない本音だけだった。


「つながらないまま残る方が、たぶんもっと悪い」


 断片のまま、欠落のまま、途中で止まったまま。

 それは一見やさしい。

 でも実際には、そのまま少しずつこちら側の現実を軋ませ続ける。


 だから、答えが重くても、痛くても、

 そこへ行かなければならない。


 雛乃は、目を伏せて、それから静かに頷いた。


 その頷きは、まだ完全な覚悟ではない。

 でも、希夢が今どれだけ本気でそこへ向かおうとしているかを受け取った人の頷きだった。


 希夢は、夕暮れの最後の色が空から消えていくのを見た。

 夜が来る。

 最深部へ向かう時間が近づいている。


 今ここで決意を言葉にしたことで、何かが確定してしまった気もする。

 でも、それでよかった。

 曖昧なままでは、きっと白い壁の前で足元をすくわれる。


「……行こう」


 希夢は、最後にそう言った。


 それはまだ歩き出す合図ではない。

 けれど、もう戻らないと決めた者の声だった。


 観測施設へ。

 最深部へ。

 真相の扉の前へ。


 夕暮れの屋上で交わされたその決意は、夜の入口で静かに形を持ち、

 その先に待つ白い扉へまっすぐ伸び始めていた。


「……観測施設に行く」


 希夢のその言葉は、夕暮れの屋上で思った以上に重く響いた。


 風は吹いている。

 フェンスも、いつも通り小さく鳴っている。

 遠くの校庭からは、部活の終わり際みたいな声がまだ薄く届く。


 それなのに、雛乃だけはしばらく動かなかった。


 まるで今の一言が、風にも空にも溶けず、そのまま胸の真ん中へ落ちてきてしまったみたいに、静かに立ち尽くしている。


 希夢は、急かさなかった。


 反対されるかもしれないと思った。

 危ないからやめてください、と言われるかもしれないとも思った。

 あるいは、分かっていても言葉にできないまま、この屋上の沈黙だけが長く続くのかもしれない、とも。


 けれど雛乃は、すぐにそれらのどれも選ばなかった。


 スマホを胸元で抱く手に、少しだけ力が入る。

 指先が白くなるほどではない。

 でも、そこに迷いがあることだけは分かる。


「……分かってました」


 ようやく落ちた声は、驚くほど静かだった。


 希夢は、目を向ける。


 雛乃は視線を逸らしていない。

 夕方の光はもうほとんど消えているのに、その目だけがはっきりしていた。


「たぶん、希夢さん、そう言うだろうなって」


 その言い方に、少しだけ苦さが混じる。

 責めているわけではない。

 でも、最初からどこかで分かっていたからこそ、止める言葉を探す時間もあったのだろう。


 それでも、止める言葉を口にしなかった。

 できなかった。


 希夢は、小さく息を吐く。


「止めないの」


 問いというより、確認に近かった。


 雛乃は、それにすぐには答えない。

 少しだけ視線を落として、屋上の床へ伸びた自分たちの影を見る。


 影は長い。

 夜に押されて、形が少し曖昧になっている。


「……止めたいです」


 やがて、雛乃は正直にそう言った。


 希夢の胸が、少しだけ痛む。


「本当は、行かないでほしいです。

 危ないって、もう分かってるから。

 最深部まで行ったら、何が起きるか分からないし……

 Gate-X が本当にあそこにあるなら、

 希夢さんの記憶だって、また何かされるかもしれない」


 その言葉のひとつひとつが、ただの不安じゃないことは分かった。

 雛乃は、怖さを曖昧なまま言っているのではない。

 ここまで見てきた事実をちゃんと踏まえた上で、それでも止めたいと思っている。


「それに」


 雛乃は、少しだけ唇を噛む。


「希夢さん、ひとりで行くつもりだったでしょう」


 希夢は、否定できなかった。


 雛乃の支えを受け取る前まで、自分は確かにそう考えていた。

 最深部の前では、結局ひとりになるのだと。

 なるべきだとさえ、どこかで思っていた。


 その沈黙だけで、雛乃には十分だったらしい。

 彼女は、小さく目を伏せてから、もう一度顔を上げる。


「……だから、止めたいです」


 繰り返されたその言葉は、さっきより少しだけはっきりしていた。


「でも」


 その一音が落ちた瞬間、雛乃の中で何かが決まる気配がした。


 風が吹く。

 長い髪が頬にかかる。

 けれど彼女はそれを払わず、そのまま真っ直ぐ希夢を見る。


「希夢さんだけを行かせる方が、もっと嫌です」


 その言葉は、屋上の空気を静かに変えた。


 止めたい。

 でも、置いていくのはもっと嫌だ。


 そこにあるのは理屈じゃない。

 安全性の比較でも、役割分担の判断でもない。

 もっと直接的で、もっと個人的な拒否だった。


 希夢は、思わず息を止める。


 雛乃は、もう一歩だけ言葉を進める。


「……私も、一緒に行きます」


 その一文は、小さいのに少しも揺れていなかった。


 言い切ったあとで、自分の声の重さに驚いたのか、雛乃の指先が少しだけ震える。

 それでも、言葉はもう取り消されない位置に置かれていた。


 希夢は、すぐには何も返せなかった。


 雛乃が同行を望んでいることは、さっきからもう気配としては十分に分かっていた。

 でも、それがこうしてはっきり言葉になると、重みが違う。


 一緒に行く。

 それは、ただ近くにいるという意味じゃない。

 最深部へ。

 白い扉の前へ。

 Gate-X の近くへ。

 事故と失踪と欠落の中心へ。


 その全部を含んだ上で、なお一緒に行くと言っている。


「……雛乃」


 ようやく名前を呼ぶと、雛乃はほんの少しだけ眉を寄せた。


「危ないよ」


 その言葉は、反射に近かった。


 けれど雛乃は、すぐに返す。


「知ってます」


「たぶん、教室や廊下の比じゃない」


「分かってます」


「夢の続きが本当にあったら、

 雛乃だって巻き込まれるかもしれない」


 そこまで言うと、雛乃は一度だけ目を伏せる。

 でも、逃げなかった。


「……それでもです」


 その返答に、希夢は言葉を失う。


 それでも。

 たった四文字なのに、その中にある覚悟は軽くない。


 雛乃は、胸元のスマホをぎゅっと握り直す。


「私、夢を見ました。

 裕也くんの痕跡も持ってます。

 先輩の気配のことも、聞いてもらいました」


 希夢は、黙って聞く。


「ここまで来て、

 “あとは希夢さんが行ってください”なんて言えないです」


 その一言は、責任感だけでは説明しきれなかった。


 もちろん責任もあるのだろう。

 夢を見たこと。

 裕也のスマホを再解析したこと。

 最深部へ続く断片をいくつも持っていること。


 でも、それだけなら“情報は渡したから、気をつけて”で済む。

 それを選ばないのは、もっと別の理由があるからだ。


 希夢は、それをちゃんと感じ取ってしまう。


 雛乃は、少しだけ声を弱める。


「……ひとりで行って、

 ひとりで呼ばれて、

 ひとりで全部思い出して、

 もし、そのまま戻ってこなかったらって思うと」


 そこで、言葉が切れる。


 最後まで言わなくても、もう分かった。


 それが嫌なのだ。

 考えるだけで耐えられないくらいに。


 希夢の胸の奥が、静かに痛む。


「だから」


 雛乃は、今度はゆっくり、でも確かに言う。


「私も行きます」


 さっきと同じ言葉。

 でも、今度はさらに深かった。


 もう勢いじゃない。

 反射でもない。

 自分の怖さも、危険も、全部分かった上でなお置かれた言葉だった。


 希夢は、目を閉じかけて、やめた。


 断ればいいのか。

 守るために置いていくべきか。

 そういう考えが一瞬よぎる。


 でも、それも違う気がした。


 雛乃はもう、見送る側ではいられないところまで来ている。

 夢を見てしまった。

 名前を呼ばれてしまった。

 裕也の最後の痕跡を拾ってしまった。

 そして今、自分の意志で一緒に行くと言っている。


 その選択を、希夢の側が“危ないから”だけで切ってしまうのは、

 裕也の選択を誰か一人の責任へ押し込めるのと、どこか似た乱暴さを持っている気がした。


「……分かった」


 希夢がようやくそう言うと、雛乃は少しだけ息を止めた。


 驚いたのかもしれない。

 反対されることを、どこかでまだ覚悟していたのだろう。


 希夢は続ける。


「でも、ひとつだけ」


 雛乃が、静かに頷く。


「無理はしない。

 向こうで何かおかしいと思ったら、ちゃんと言う。

 ひとりで抱え込まない」


 その条件は、自分自身にも向けられていた。


 雛乃は、それを聞いて、ごく小さく目元を緩める。

 笑った、というほどではない。

 でも、少しだけ強張りがほどけた。


「……はい」


 その返事は、さっきまでより少しだけしっかりしていた。


「希夢さんも、です」


 希夢は、少しだけ息を吐く。


「うん」


 屋上の空は、もう夜の色にかなり近づいている。

 ふたりの影も、さっきよりはっきりと重なる時間が増えた。


 観測施設へ向かう。

 それはもう、希夢ひとりの決意ではなくなった。


 雛乃の反応は、反対でも逡巡でも終わらなかった。

 怖さを知った上で、同行を選ぶという、もっと重い形へ変わった。


 夕暮れの扉、その前で。

 ふたりはようやく、同じ方向を向き始めていた。


 屋上を出る時、空はもうほとんど夜の手前まで沈んでいた。


 扉を閉めると、金属の軋む音が短く響く。

 その音は、昼間の廊下で感じたような不自然な吸われ方はしなかった。

 小さいまま、ちゃんとそこに残った。


 希夢は、そのことにほんの少しだけ安堵する。


 夕暮れの屋上で交わした言葉は重かった。

 雛乃の夢。

 裕也の最後の痕跡。

 鹿島先輩の気配。

 自分の怖さ。

 そして、ふたりで最深部へ行くという決意。


 どれも軽くはない。

 軽くないからこそ、今こうして歩き出した時、かえって世界の方が静かに見えた。


 希夢と雛乃は、並んで階段を下りる。


 近すぎない距離。

 遠すぎもしない距離。

 肩が触れることはない。

 でも、どちらかが立ち止まれば、すぐに分かるくらいの距離だった。


 足音が、階段のコンクリートへ小さく返る。

 こつ、こつ、と順番に落ちるその音が、今は妙にありがたい。


 さっきまで話していたことは、どれも現実の輪郭を壊しかねないものだった。

 だからこそ、靴底が段差を踏むというただそれだけの当たり前が、少しだけ自分たちをこちら側へ繋ぎ止める。


 踊り場へ着く。

 窓の外には、もう夕焼けの赤みはほとんど残っていない。

 校庭の端にだけ薄い光があり、その向こうで部活帰りの生徒が二、三人歩いている。


 雛乃は、何も言わない。

 希夢も、無理に言葉を作らなかった。


 沈黙はある。

 でも、それは屋上での“言えない沈黙”とは違っていた。

 今はもう、言葉の代わりに同じ方向へ歩いていることそのものが会話になっている。


 校舎の一階へ下りると、廊下の空気は昼より少しだけ冷えていた。


 照明が点き始めている。

 白い蛍光灯。

 床の鈍い反射。

 掲示板の紙。

 どれも学校の夕方の風景そのものだ。


 それなのに、不思議と昼間ほどの気味悪さはなかった。


 消えたわけではない。

 世界のひずみが終わったわけでもない。

 でも、今はそれがごく浅く、表面の下へ沈んでいる。


 教室で感じた机の位置のズレも、音の遅れも、光の筋も、

 ここではまだ予兆のまま静かに息を潜めているだけだった。


 雛乃が、廊下の先を見ながら小さく言う。


「……今は、静かですね」


 希夢は頷く。


「うん」


 そして少しだけ間を置いてから付け加える。


「でも、消えたわけじゃないと思う」


「はい」


 雛乃の返事も低い。

 否定も期待もしない、ただ正確でいようとする声だった。


 校舎の端を曲がる。

 渡り廊下へ出ると、外気が少しだけ強くなる。


 夕方から夜へ移るこの時間、校舎の外は不思議なほど音が薄い。

 遠くの自転車置き場で金属が鳴る。

 誰かの話し声がかすかに流れる。

 それでも、世界全体がいちど呼吸を浅くしているみたいに静かだ。


 ふたりの影が、長く床へ伸びる。


 校舎の壁際では離れている。

 照明の位置が変わると、影は少し近づく。

 渡り廊下の真ん中あたりでは、細く重なって見えた。


 希夢は、その影を見た。


 重なって、離れて、また少し重なる。

 まるで、今の自分たちの距離そのものみたいだった。


 雛乃は同行を選んだ。

 希夢もそれを受け入れた。

 でも、だからといってすべてがひとつになったわけではない。


 それぞれに怖さがあり、抱えている感情があり、

 まだ言葉になりきっていないものもある。


 それでも、同じ方向へ歩いている。

 そのことだけが、いまは確かだった。


「……影」


 雛乃が、足元を見ながら言う。


 希夢も視線を落とす。


 ふたりの影は、街灯の角度でまた少し形を変えていた。

 長く伸びて、いったん離れて、次の光の下では肩のあたりだけが重なる。


「重なったり、離れたりしますね」


 その言い方があまりにも静かで、希夢は少しだけ胸の奥を打たれる。


「うん」


 短く答える。


 それ以上うまい言葉は見つからなかった。


 渡り廊下を抜け、旧観測棟へ続く側の通路へ入る。

 ここまで来ると、人の気配はさらに薄い。

 校舎本体のざわめきが一歩ぶん遠ざかり、壁の白さだけが静かに前へ出てくる。


 でも、まだ異常は最小限だった。


 音はちゃんと床へ残る。

 空気も、昼間みたいに薄すぎはしない。

 ただ、ごく微細に、世界の継ぎ目だけが静かに硬くなっていく感じがある。


 それは予兆だった。

 これ以上先へ行けば、またあの揺らぎへ近づくのだと、身体の方が先に知っている。


 雛乃も同じだったのか、歩調がほんのわずかに慎重になる。


 希夢は、その変化に気づきながら何も言わない。

 代わりに、自分の歩幅を少しだけ雛乃に合わせた。


 その小さな調整だけで十分だった。

 言葉にしなくても、置いていかないと伝わる。


 通路の窓から見える空は、もう群青に近い。

 ガラスへ校舎の灯りが映り、内と外の境界が少し曖昧になる。

 その曖昧さの中で、ふたりの影はまた重なり、そして離れた。


 希夢は、ふいに思う。


 最深部へ向かうのは、自分ひとりの孤独だと思っていた。

 でも今は違う。

 完全に分かち合えるわけではない。

 怖さも、想いも、責任も、それぞれ少しずつ違う。

 それでも、ひとりで歩くのとは確かに違う夜の入口がここにある。


 雛乃が、前を見たまま小さく言った。


「……戻れなくなるかもしれないって、まだ思ってます」


 希夢は、その言葉を受け止める。


「うん」


「でも、置いていかれる方が嫌です」


 その一言は、もう繰り返しではなかった。

 屋上で言った言葉の続きとして、いま歩きながらもう一度自分の中へ定着させている響きだった。


 希夢は、少しだけ目を伏せる。


「置いていかないよ」


 自然に、そう言っていた。


 強い約束ではない。

 絶対に守れる保証もない。

 それでも今この時間、この場所で、自分が言える一番本当の言葉だった。


 雛乃は、ほんの少しだけ息を詰めたあと、小さく頷く。


「……はい」


 それだけで十分だった。


 通路の先に、旧観測棟へ続く暗がりが見え始める。

 白い壁。

 沈んだ空気。

 まだ扉そのものは見えない。

 でも、そこから先の世界の密度だけがもう違う。


 予兆は最小限。

 だからこそ、余計に分かる。

 これは嵐の前の静けさに近い。

 本当の揺らぎは、あの先にある。


 希夢と雛乃は、並んだまま歩き続けた。


 影が重なる。

 離れる。

 また重なる。


 その繰り返しの中で、夕暮れは完全に夜へ変わり、

 ふたりの足元には、これから向かう白い扉の気配だけが、静かに近づいてきていた。


 旧観測棟の奥へ進むにつれて、空気の質は少しずつ変わっていった。


 校舎側に残っていた夜の気配。

 人のいる場所の温度。

 廊下にまだわずかに残っていた生活の気配。

 そういうものが、歩くたびに一枚ずつ後ろへ剥がれていく。


 代わりに前から満ちてくるのは、白かった。


 明るいわけではない。

 照明が強いわけでもない。

 ただ、暗くなりきれない白さだけが、建物の奥からじわじわとにじみ出してくる。


 希夢は、そこで一度だけ足を緩めた。


 雛乃も、すぐ隣で同じように速度を落とす。


 言葉はない。

 でも、ここから先はもう、屋上で話していた“これから”ではなく、

 実際にその中へ入っていく“今”なのだと、ふたりとも分かっていた。


 通路の壁は古い。

 塗装はところどころかすれ、手すりにも細かな傷がある。

 それなのに、最深部へ近づくほど、その古さは逆に見えにくくなった。


 白さの方が強いのだ。


 表面の汚れや、年月のざらつきより先に、

 この場所を覆っている別の白が目に入る。


 希夢は、自分の呼吸が少しだけ浅くなるのを感じた。


 教室で感じた違和感。

 廊下で吸われた音。

 記憶の断片の中で見た白い部屋。

 全部が、この先にある一枚の面へ静かに集まり直していく。


 角をひとつ曲がる。


 その瞬間、通路の先に扉が見えた。


 白い扉だった。


 ただ白く塗られた金属製の扉。

 取っ手があり、蝶番があり、学校の施設の中にあってもおかしくない形をしている。


 なのに、見た瞬間に分かる。

 これはもう、普通の意味での扉ではない。


 希夢は、足を止めた。


 雛乃も止まる。


 扉は閉じている。

 完全に。

 隙間もなく、静かに、そこにある。


 だが、その“閉じ方”が不自然だった。


 閉ざしているというより、

 向こう側の何かを、こちら側の形へ無理に押しとどめている

 ように見える。


 白い面は平らだ。

 平らなのに、見ていると、ごく浅く呼吸しているみたいに揺れる。

 脈打つ、とまではいかない。

 でも、光がその表面のすぐ下で、薄く、細く、生きている。


 雛乃が、小さく息を呑むのが聞こえた。


「……ここ」


 声はほとんど囁きだった。


 希夢は、ゆっくり頷く。


「うん」


 ここだ。


 事故の日の白。

 雛乃の夢の白。

 裕也の最後の呼吸が残った空間。

 Gate-X の折り返し点。

 そして、自分の欠けた記憶の中心。


 その全部が、この扉の向こうに続いている。


 希夢は、一歩だけ前へ出る。


 靴音が、小さく床へ落ちた。

 だが、その音は途中で少しだけ薄くなり、

 最後は扉の前の白さに吸われるように消える。


 やはり、ここから先は空間の方が違う。


 雛乃も、少し遅れて一歩ついてくる。

 その足音もまた、同じように短く削られる。


 ふたりの影が、扉の手前で並ぶ。

 廊下の灯りは弱い。

 それでも、白い扉の前だけは、影の輪郭が妙にはっきりしていた。


 希夢は、扉を見つめたまま言う。


「……開けたら、戻れないかもしれない」


 確認のような言葉だった。


 雛乃は、すぐには返事をしなかった。

 扉の白い面を見たまま、少しだけ唇を結ぶ。


 やがて、低く答える。


「もう、途中までは来てます」


 その言葉に、希夢は少しだけ目を閉じたくなった。


 途中までは来ている。

 たしかにそうだ。


 名前を呼ばれた。

 夢を見た。

 記憶を欠かれた。

 痕跡を拾った。

 仮説を立てた。


 扉を開ける前から、もう自分たちはこの“向こう側”に半分だけ触れている。


 だからこそ、ここで引き返すことは、何も知らなかった場所へ戻ることにはならない。


 希夢は、扉の前まで歩み寄った。


 近づくほど、白さは強くなる。

 照明の反射ではない。

 扉そのものの内側から、ごく微細な光が滲んでいる。


 扉の縁。

 枠と金属板のわずかな段差。

 そのラインに沿って、細い光が震えていた。


 まるで向こう側の何かが、

 この形を通してこちらへ出ようとするのを、ぎりぎりで思いとどまっているみたいに。


 希夢の胸が、ひどく静かに鳴る。


 Gate-X の気配だ。

 まだ見えてはいない。

 黒い楕円も、手招きする軌道もない。


 けれど、その前段階の震えだけはもう、扉の縁へはっきり出ている。


 雛乃が、少しだけ近づく。


「光……」


 その囁きは、夢の中の白を見た人間の声だった。


 希夢は、扉の取っ手へ視線を落とす。


 古い金属。

 冷たそうな質感。

 学校の設備としてはなんでもない、ただの取っ手。


 でも、その向こうへ続く意味だけが、あまりに重い。


 鹿島先輩。

 裕也。

 もう一人の観測者。

 自分の事故当日の位置。

 全部が、この先にある。


 希夢は、手をゆっくり持ち上げた。


 ほんの少しだけ震えている。

 怖いからだ。

 怖いと、もう認めている。

 それでも、止めない。


 手のひらが取っ手へ触れる。


 冷たい。


 だが、ただ冷たいだけではない。

 金属の奥で、ごく細い振動が生きていた。

 機械の振動とも違う。

 脈拍でもない。

 もっと不規則で、もっと静かで、

 光が形を持つ直前の震え

 みたいなものだった。


 その瞬間、扉の縁の白が、わずかに強くなる。


 ひとすじ。

 またひとすじ。

 細い光が扉枠の輪郭をなぞる。


 希夢の背中に冷たいものが走る。


 開ける前から、向こう側は反応している。


 雛乃が、すぐ後ろで小さく息を吸った。


 でも、逃げなかった。

 希夢も、手を離さなかった。


 白い扉は、震えていた。


 大きくではない。

 壊れそうでもない。

 ただ、そこにある形を保ちながら、その奥で別の現実が薄く触れてくる時の、静かな揺れ方で。


 希夢は、扉に触れたまま、低く言う。


「……行くよ」


 その声は、自分のためでもあり、雛乃のためでもあり、

 扉の向こうにいるかもしれない誰かへ向けた確認でもあった。


 雛乃の返事は、すぐ後ろで落ちる。


「……はい」


 短い。

 でも揺れていない。


 白い光はなお、扉の縁を細く照らしていた。

 それは歓迎にも拒絶にも見えない。

 ただ、ここから先が本当に“扉”なのだと、静かに証明している光だった。


 夕暮れは完全に終わり、

 ふたりの前には、最深部の白い扉だけが、震える光をまとって立っていた。

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