表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
夕暮れの扉、その前で
43/56

希夢の葛藤

 雛乃の

 「裕也を途中で終わらせないこと」

 という返事が、風の中へ静かに残っていた。


 屋上の空は、もう夕焼けの色をほとんど手放しかけている。

 橙の名残は低い雲の端に細く残り、その上から薄い青と紫がゆっくり重なってきていた。


 希夢は、フェンスの向こうを見たまま、しばらく何も言わなかった。


 雛乃の痛みを受け止めた。

 裕也の痕跡も、最深部へ続いていると分かった。

 行くべき場所も、もう曖昧ではない。


 それなのに、胸の奥にはまだ別の重さが残っていた。


 それは雛乃の罪悪感とは少し違う。

 裕也の不在の痛みとも、鹿島先輩の気配への切なさとも、少しだけ違う。


 もっと個人的で、もっと言葉にしづらいものだった。


 希夢は、ゆっくり息を吸う。


 屋上の空気は、教室や廊下よりちゃんと肺へ入ってくる。

 それなのに、胸の奥の詰まりだけは消えない。


「……俺(私)は」


 気づけば、声がこぼれていた。


 雛乃が、静かに顔を向ける。


 希夢は、すぐにはその先を言えなかった。

 一人称がまた揺れたことに、自分で少しだけ苦くなる。


 俺。

 私。

 どちらも間違いではない。

 どちらも完全でもない。

 その不安定さごと、いまの自分なのだと、もう否定もできなかった。


 風が吹く。

 フェンスの影が、床の上で少しだけ揺れる。


「……本当は、怖い」


 その一言は、思っていたよりもずっと静かに落ちた。


 雛乃は、何も言わない。

 慰めない。

 すぐに大丈夫とも言わない。


 その沈黙が、逆にありがたかった。


 希夢は、自分の言葉の続きを、自分の中からゆっくり引き上げる。


「最深部に行くって決めたし、

 行くべきだとも思ってる」


 白い壁。

 Gate-X。

 観測と干渉の折り返し点。

 事故の中心。

 裕也の最後の痕跡。


 そこへ行かなければならない理由は、もういくつもある。


「でも……」


 そこで、喉の奥が少しだけ詰まる。


「行きたくない気持ちも、ちゃんとある」


 その言葉を認めた瞬間、胸の奥で何かが少しだけほどける。


 今までの自分は、進む理由ばかりを集めていた。

 Gate-X がもうこちら側へ返ってきていること。

 先生の記憶が欠けたこと。

 裕也の呼吸が最深部近くで残っていたこと。

 鹿島先輩の声の意味が変わったこと。


 全部、本当だ。

 全部、前へ進むための根拠になる。


 でも、その根拠の下に、

 それでも怖い

 という感情が、ずっと押し込められていた。


「記憶を見るのが怖いんじゃない」


 希夢は、ゆっくりと言う。


「たぶん……記憶の中にいる自分の方が、怖い」


 雛乃の目が、少しだけ揺れる。


 希夢は、そのまま続けた。


「事故の日、あそこにいた。

 鹿島先輩は、俺(私)の名前を呼んだ。

 “もう一人の観測者”の話も出てる」


 そこまで言うだけで、胸の奥が冷えていく。


「だから、最深部へ行ったら、

 たぶん“何があったか”だけじゃなくて、

 “俺(私)が何だったか”も出てくる」


 それが、一番怖かった。


 Gate-X の正体よりも。

 先生の欠落よりも。

 裕也がどうなったかという現実よりも。


 事故の日の自分が、ただ巻き込まれた後輩ではなく、

 もっと中心に近い何かだったとしたら。


 観測者として指定されていた。

 名前で呼ばれていた。

 もう一人の観測者かもしれない。


 そこまで来ると、

 最深部で暴かれるのは真相だけではない。

 自分の輪郭そのものだ。


「……先輩のことも」


 希夢は、少しだけ目を伏せる。


 鹿島先輩。

 あの背中。

 白い中心の前に立つ姿。

 “見ないで”と叫んだ声。


「ちゃんと見なきゃいけないって分かってる。

 でも、見たら……」


 そこで言葉が切れる。


 見たら、戻れない気がする。

 あの人を、もう曖昧な先輩のままでは置けなくなる。

 事故の中で止まった人でも、ただ守ってくれた人でもなく、

 自分の記憶の中心にいる人として、引き受けなければならなくなる。


 その重さを、希夢はまだ完全には持ちきれない。


「……鹿島先輩に向き合うのも、怖い」


 その告白は、風にさらされながらも、ちゃんと自分の声として残った。


 雛乃は、やはり何も急がなかった。

 ただ、少しだけ希夢の方へ体を向ける。


 それだけで十分だった。


 希夢は、夕暮れの空の下で、自分の中の言葉をさらに掘り起こしていく。


「もし最深部で、

 先輩が本当にまだ何かを守ろうとしてたって分かったら……

 俺(私)は、たぶんそれを受け取らなきゃいけない」


 受け取る。

 その一語が重い。


 託されたもの。

 止めきれなかったもの。

 観測者として残された位置。

 そういうもの全部を、今度は自分の側が引き受ける番になるのかもしれない。


「でも、それってたぶん」


 希夢は、唇を少しだけ噛む。


「もう“昔の事故の真相を知る”じゃ済まないんだよね」


 雛乃が、かすかに頷く。


 彼女も分かっているのだろう。

 ここから先は、調査でも考察でもない。

 感情と責任と記憶の全部を巻き込んだ選択になる。


「怖いよ」


 希夢は、あらためてそう言った。


「向こう側に飲まれるのも怖いし、

 記憶が抜けるのも怖いし、

 裕也みたいに“ずれる”のも怖い」


 そこまでは、かなり率直な恐怖だった。


「でも、それだけじゃなくて」


 風が吹き、言葉の切れ目を少しだけ引き延ばす。


「全部が分かった時に、

 今までの自分でいられなくなるのも怖い」


 それが、一番本当のところだった。


 人は真相を知れば楽になるとは限らない。

 むしろ、知ったことで今まで支えにしていた曖昧さを失うこともある。


 鹿島先輩への気持ち。

 事故の日の自分の立ち位置。

 裕也に対して自分が何を背負うのか。

 雛乃の夢と、名前を呼ぶ声の意味。


 それら全部がひとつに繋がった時、

 今の“まだ完全には決まっていない自分”ではいられなくなるかもしれない。


 屋上の空気は冷えてきているのに、希夢の額には薄く熱がこもっていた。


 雛乃が、そこで初めて静かに口を開く。


「……それでも」


 その一言に、希夢は目を向ける。


 雛乃の目元には、まだ涙の名残がある。

 けれど、ただ泣いているだけの顔ではなかった。

 自分の怖さも抱えたまま、それでもここに立っている人の顔だ。


「希夢さん、行くんですよね」


 問いではない。

 確認だった。


 希夢は、少しだけ息を吐く。


 怖い。

 その告白は本物だ。

 飾りでも、決意を深く見せるための演出でもない。

 むしろ、今ここでそれを言えたからこそ、自分の中の輪郭が少しだけ整った気がした。


「……うん」


 そう答える。


「怖いけど、行く」


 その言葉は、前の章までの

 “行かなければならない”

 とは少し違っていた。


 責任だけでもない。

 理屈だけでもない。

 怖さを認めた上で、それでも選ぶという、ひとつ後の段階の決意だった。


 希夢は、自分の手を一度だけ開いて、また握る。


「たぶん、向こうで待ってるのは答えだけじゃない」


 白い壁。

 Gate-X。

 鹿島先輩の気配。

 裕也の最後の痕跡。

 もう一人の観測者。


「でも、答えじゃないからって行かないままでいたら、

 それこそ全部が途中のまま残る気がする」


 裕也も。

 鹿島先輩も。

 自分自身も。


 雛乃は、その言葉を静かに聞いていた。

 やがて、ごく小さく頷く。


「……分かります」


 その返事は、完全な理解というより、

 同じ怖さの形を少しだけ共有している人の声だった。


 夕暮れはさらに沈み、屋上の色もゆっくりと夜へ近づいていく。

 それでも、希夢の中にはさっきまでとは違う静けさがあった。


 怖い。

 でも、それを言えた。

 言えた上でなお、行くと決めた。


 それだけで、最深部へ向かう自分の足元が、ほんの少しだけ現実へ戻った気がした。


「怖いけど、行く」


 希夢がそう言ったあと、屋上の風は少しだけやわらいだ気がした。


 実際には、風の強さなんて変わっていないのかもしれない。

 夕方から夜へ移るその途中で、空の色も、空気の冷たさも、静かに同じ流れを続けているだけなのかもしれない。


 けれど、希夢の中では何かが少しだけ変わっていた。


 怖い。

 そう口にした。

 口にしたうえで、それでも行くと決めた。


 その一連の言葉を、雛乃は何も遮らずに受け止めていた。

 軽く励ますことも、無理に前向きな言葉へ変えることもしなかった。


 それが、希夢にはありがたかった。


 雛乃は、しばらく黙っていた。

 けれど、その沈黙はもうさっきまでの

 “言えない”

 沈黙ではない。


 ちゃんと聞いた。

 ちゃんと受け取った。

 そのうえで、自分の言葉を探している沈黙だった。


 夕暮れの光が、彼女の頬の輪郭を薄く撫でる。

 涙の痕はまだ完全には消えていない。

 それでも目はもう、さっきみたいに揺れているだけではなかった。


 雛乃は、胸元で重ねていた手をゆっくりほどく。


 片方の手が少しだけ宙で迷い、それから、ほんの半歩だけ希夢の方へ体を向けた。


「……ひとりにしません」


 その声は、小さかった。

 けれど、驚くほどまっすぐだった。


 希夢は、わずかに目を見開く。


 慰めの言葉ではない。

 大丈夫、とか、なんとかなる、とか、そういう軽い明るさのある言葉でもない。


 もっと静かで、もっと重い。


 ひとりにしません。


 それは励ましというより、同行の表明に近かった。


 希夢は、すぐには返事ができなかった。


 ひとりにしない。

 その意味は単純に見えて、いまの自分たちには重すぎるほど重い。


 最深部へ行く。

 白い壁の前まで進む。

 Gate-X の近くへ立つ。

 事故の中心と、裕也の痕跡と、鹿島先輩の気配に向き合う。


 その全部を含んだ上で、なお“ひとりにしません”と言っているのだとしたら。


 それはもう、ただそばにいるという意味では済まない。


「……雛乃」


 希夢が名前を呼ぶと、雛乃は少しだけ唇を引き結んだ。


「怖いの、私も同じです」


 彼女は、視線を逸らさずにそう言った。


「最深部なんて、本当は行きたくないです。

 夢の続きが本当にあったらって思うと、今でも足が止まります」


 その正直さに、希夢は胸の奥が少しだけあたたかくなるのを感じた。


 雛乃も怖い。

 それは当然だ。

 でも今こうして、その怖さを隠さずに言葉にしている。


「でも」


 雛乃は、少しだけ息を吸った。


「希夢さんだけに行かせるのは、もっと嫌なんです」


 その一言は、静かだった。

 けれど、希夢には十分すぎるほど強かった。


 ただ支える、ではない。

 ただ見送る、でもない。

 希夢がひとりであの場所へ向かうことそのものが、彼女には耐えがたいのだ。


 希夢は、そこではじめて、雛乃の言葉の奥にあるものへうっすら触れる。


 責任感だけじゃない。

 裕也のためだけでもない。

 鹿島先輩の夢を見たから、という理由だけでもない。


 もっと個人的な感情が、そこに混じっている。


 それはまだ、はっきりした名前を持っていない。

 持たせようとすれば、この夕暮れの静けさが少し壊れてしまう気がした。


 でも、ないとはもう言えなかった。


 雛乃は、少しだけ視線を落とす。


「希夢さん、ずっと……

 ひとりで抱えようとするから」


 その言い方は、責めるというより、知っている人の言い方だった。


 教室でも。

 旧観測棟でも。

 事故の断片に触れた時も。

 希夢はいつも、自分の中で先に引き受けてから言葉にしようとする。

 雛乃はたぶん、その癖をもうずっと見てきたのだろう。


 希夢は、否定しなかった。

 できなかった。


 雛乃は、風に少し髪を揺らしながら続ける。


「ちゃんと怖いって言ってくれて、よかったです」


 その言葉に、希夢の胸がかすかに痛む。


 よかった。

 その一語に、雛乃がどれだけ心配していたかが静かに滲んでいた。


 決意しているように見える人ほど、

 その内側でひとりで壊れていくことがある。

 雛乃はそれを怖がっていたのかもしれない。


「言わなかったら」


 雛乃は、少しだけ眉を寄せる。


「たぶん私、もっと怖かった」


 希夢は、息をゆっくり吐く。


 自分の恐れを口にすることは、弱さを見せることだと思っていた。

 でもいま雛乃の前では、それが逆に

 “まだこちら側にいる”

 という証明になっているのかもしれなかった。


 雛乃は、また半歩ぶんだけ希夢の方へ体を向けた。


 距離はまだある。

 近づきすぎてはいない。

 でも、最初に屋上で向かい合った時より、その距離の意味は確かに変わっていた。


「だから」


 彼女は、ゆっくり言う。


「最深部に行くなら、私も行きます」


 その言葉は、まだPart Dで明確な同行宣言として置かれるには少し早い。

 けれど、ここではもう感情の層としてはっきり存在していた。


 ひとりにしない。

 置いていかない。

 見送るだけの位置にいない。


 希夢は、その気配を受け取りながら、同時にもうひとつ別のものも感じていた。


 雛乃のこの言葉の奥には、

 友情や責任だけでは説明しきれない、もっと静かな熱がある。


 それは今ここで確かめるべきものではない。

 問いかけてしまえば、きっと彼女を傷つける。

 でも、気づかないふりだけをするには、もうあまりにも近かった。


 雛乃は、目を伏せたまま、少しだけ声を弱める。


「……ひとりで行って、

 ひとりで全部思い出して、

 ひとりで全部引き受けるなんて」


 そこで、言葉が切れる。


 続きは言わない。

 言えないのか、言わないようにしたのか、その境目は曖昧だった。


 けれど、希夢には分かった。


 それを想像すること自体が、雛乃にはつらいのだ。


 ただ危険だからではない。

 希夢という人間が、そういう孤独の中へ押し出されることそのものが嫌なのだ。


 希夢は、風に冷えた空気をひとつ吸う。


 胸の奥に、かすかな熱が残る。

 それは、最深部へ向かう決意の熱とは少し違っていた。


 支えられている、という感覚に近い。

 しかも、言葉だけではないところで。


「……ありがとう」


 希夢がそう言うと、雛乃は少しだけ目を上げた。


 希夢は、続ける。


「たぶん私、

 ひとりで行くつもりだったから」


 その自覚を口にすると、少しだけ苦かった。


 もちろん、雛乃や裕也や先生を無視していたわけではない。

 でも、最深部へ向かう最後のところでは、どうしても

 “自分だけが行くもの”

 として捉えていた。


 事故の日の記憶。

 観測者。

 鹿島先輩。

 名前を呼ばれること。

 それらが自分に近すぎたからだ。


 けれど今、雛乃はその孤独に静かに手をかけている。

 壊さないように。

 でも、見過ごさないように。


 雛乃は、少しだけ困ったように笑いそうになって、結局ちゃんとは笑えなかった。


「……そういうところです」


 その言い方には、呆れと心配と、言葉にしきれないやわらかさが混ざっていた。


 希夢は、その声音の揺れに、また胸の奥を小さく打たれる。


 ああ、と思う。


 たぶん雛乃は、もうずっと自分のことを見ていたのだ。

 事故や夢や裕也のこととは別に、

 希夢がひとりで抱え込み、言葉にしないまま前へ進もうとする癖まで含めて。


 その視線の長さに触れた瞬間、屋上の夕暮れは少しだけ別の色を帯びる。


 恋だ、と簡単に言い切るにはまだ早い。

 でも、ただの仲間や同級生の支えだけでは、もう足りない。


 希夢は、その気配をはっきり感じながらも、そこへ名前を置くことはしなかった。


 今はまだ、最深部の前だ。

 感情の輪郭を確定しすぎるには、世界の方が不安定すぎる。


 それでも、雛乃の

 「ひとりにしません」

 が、ただの決意表明ではなく、

 彼女自身のもっと深いところから来た言葉だということだけは、もう十分に分かっていた。


 風が、もう一度ふたりのあいだを通る。


 今度は冷たすぎない。

 ただ、少しだけ夜の匂いを連れている。


 希夢は、夕暮れの中で立つ雛乃の輪郭を見ながら、

 最深部へ向かう前に自分が受け取った“支え”の重さを、静かに胸の中へ置いていた。


了解しました。

第十一章『夕暮れの扉、その前で』

Part C-3:鹿島先輩への想いの片鱗 を進めます。


第十一章

夕暮れの扉、その前で

Part C:希夢の葛藤

C-3:鹿島先輩への想いの片鱗


 雛乃の

 「ひとりにしません」

 という言葉は、まだ希夢の胸の奥に残っていた。


 夕暮れの屋上。

 風。

 フェンス。

 少しずつ夜へ近づいていく空。

 その全部の中で、自分はもう完全にひとりではないのだと、ようやく少しだけ実感できる。


 それなのに、胸の奥にはまだ別の痛みがあった。


 雛乃の支えを受け取って、少しだけ息がしやすくなったからこそ、逆に浮かび上がってくる種類の痛みだった。


 希夢は、フェンスの向こうへ視線を流す。


 校舎の屋上から見える街は、もう昼の輪郭を失いかけている。

 窓に灯りがともり始め、遠くの建物のガラスが最後の夕陽を細く返していた。


 その光景を見ているはずなのに、頭の奥ではまた別の白が揺れる。


 旧観測棟の最深部。

 白い壁。

 Gate-X。

 そして、その前に立っていた鹿島先輩の背中。


 細い肩。

 右手。

 振り返りきらない首筋。

 “見ないで”と名前を呼んだ声。


 それらはもう、事故の記録の断片というだけでは済まなかった。


「……希夢さん?」


 雛乃の声で、希夢は少しだけ現実へ戻る。


「ん」


 短く返したあと、またすぐ黙る。


 雛乃は、何かを察したのか、それ以上は急がない。

 その沈黙がありがたくて、同時に少しだけ苦しかった。


 希夢は、ゆっくりと言葉を探す。


「先輩のこと、考えると」


 そこまで言って、喉の奥が少し詰まる。


 考えると、何なのか。

 悲しいのか。

 苦しいのか。

 会いたいのか。

 怖いのか。


 どれも少しずつ本当で、どれか一つに決めるには足りなかった。


「……うまく、言えないんだけど」


 希夢は、目を伏せたまま続ける。


「事故の真相とか、

 観測者とか、

 そういう言葉で先輩のこと考えてるはずなのに」


 雛乃は、静かに聞いている。


「途中で、そういうのじゃなくなる」


 風が吹く。

 フェンスの向こうで、夕暮れの色がまた少し沈む。


 希夢は、自分の胸の中へ落ちてくる感覚を、そのまま見つめるみたいに言った。


「“知りたい”だけじゃないんだと思う」


 それは、今の自分にとってかなり危うい告白だった。


 知りたい。

 真相を。

 事故を。

 Gate-X を。

 それはもちろん本当だ。


 でも、鹿島先輩に向かう感情は、もうそれだけじゃない。


 記憶断層の中であの背中を見るたびに、

 胸の奥のもっと柔らかいところが静かに痛む。


 守ってくれたから、とか。

 名前を呼んだから、とか。

 そういう理由を並べることもできる。


 けれど、理由を並べても、なお少し足りない。


「先輩があの時、何を思ってたのか知りたいっていうのもあるし、

 何を守ろうとしてたのか確かめたいっていうのもある」


 希夢は、そこで少しだけ息を止めた。


「でも……」


 この“でも”の先にあるものこそが、今まで自分がなるべく言葉にしないできたところだ。


「ただ、もう一回ちゃんと先輩を見たい、って気持ちもある」


 その一言が落ちたあと、屋上の空気が少しだけ薄くなった気がした。


 雛乃は驚かなかった。

 ただ、少しだけ目を伏せる。


 希夢は、その反応を見るのが怖くて、また空の方へ視線を逃がす。


 ちゃんと見たい。

 それは、記録としてでも、痕跡としてでもなく。

 事故の象徴としてでもなく。

 鹿島先輩という人を、曖昧な背中や断片の声ではなく、もう一度人として受け取りたいという気持ちに近い。


 その願いは、理屈よりもずっと個人的だった。


「……俺(私)、たぶん」


 一人称が揺れる。

 でも今は直さない。


「先輩のこと、ずっと曖昧なまま抱えてたんだと思う」


 雛乃は、ようやく小さく口を開く。


「曖昧、って」


 希夢は、少しだけ苦く笑えそうになって、結局笑えなかった。


「憧れてた、で済むのか。

 助けられたから特別なのか。

 事故の中心にいる人だから引っ張られてるだけなのか」


 そのどれも、少しずつ当たっている気がする。

 でも、どれも全部じゃない。


「分からないまま、先輩のことを考えると苦しくなる」


 夕陽の残りが、希夢の横顔をかすかに照らす。

 その光の中で、自分の言葉が少しずつ形を持っていくのが分かった。


「それって、たぶん……」


 そこで希夢は止まる。


 好き、という言葉はまだ早い。

 軽すぎる気もした。

 重すぎる気もした。

 事故と記憶と死の気配がこんなに近い場所で、その一語だけをきれいに取り出すことが、どうしてもできない。


 でも、何もないとも言えない。


 雛乃は、その迷いを見越したみたいに、静かに言う。


「名前がつかなくても、あるものはあります」


 その言葉に、希夢は少しだけ目を見開く。


 優しい言い方だった。

 でも、逃がしてくれるわけではない。

 曖昧なままでも、本物は本物だと、そう言われている気がした。


 希夢は、ゆっくり息を吐く。


「……そうかも」


 その肯定は小さい。

 けれど、自分の中では思っていたより大きな意味を持った。


 名前がつかない。

 でも、ある。


 鹿島先輩のことを思う時、自分の中で揺れるもの。

 背中を見るだけで苦しくなる感じ。

 守ろうとしていた気配に触れると、痛みと同時にどうしようもなく引き寄せられる感じ。


 それは、たしかに存在している。


「先輩が、まだ完全に向こうのものになってないかもしれないって聞いて」


 希夢は、雛乃の夢の話を思い返しながら言う。


「安心したんだよね、少し」


 雛乃が、静かに頷く。


「……私もです」


「でも同時に、余計に苦しくなった」


 それも本当だった。


 もし完全に失われた存在なら、悲しみの向け方はまだ単純だったかもしれない。

 けれど鹿島先輩は違う。

 まだ何かを守ろうとしているかもしれない。

 まだ境界の向こうでこちらを見ているかもしれない。


 そうなると、事故の中で止まった過去の人ではいられなくなる。

 “今もなお関わってくる人”になる。


 その近さが、苦しい。


「……会いたいって、思う」


 希夢は、ほとんど息みたいな声でそう言った。


 言った瞬間、胸の奥が小さく震える。


 これもまた、完全な意味での再会を望んでいるわけじゃない。

 そんなことができるのかも分からない。

 でも、気配や記録や背中の断片じゃなく、

 鹿島先輩が何を残して、何を守って、何を自分に託したのかを、

 ちゃんと受け取りたいという気持ちはもう隠せなかった。


 雛乃は、その言葉にすぐ返事をしなかった。


 少しだけ目を伏せて、風に揺れる髪を押さえる。

 その仕草の中に、ほんのわずかに痛みが混じった気がした。


 希夢は、その揺れに気づく。


 雛乃の

 「ひとりにしません」

 の奥にある別の想いに、自分はもう薄く触れている。

 そして今、自分が鹿島先輩への想いの片鱗を言葉にしたことで、

 雛乃の中にもまた別の痛みが立ち上がったのかもしれない。


 でも彼女は、それを表には出さない。

 ただ、静かに受け止めている。


 それが、余計に痛かった。


「……ごめん」


 希夢がそう言うと、雛乃はすぐに首を振った。


「謝らないでください」


 その声は、少しだけ掠れていた。


「そういうの、隠される方が……たぶんつらいです」


 希夢は、その言葉に胸の奥を打たれる。


 雛乃はちゃんと知ろうとしているのだ。

 Gate-X のことも。

 裕也のことも。

 そして、希夢の中で鹿島先輩がどういう存在になりつつあるのかも。


 それを知った上で、それでもそばにいようとしている。


 その事実の重さに、希夢は少しだけ目を伏せた。


「先輩への気持ちが何なのか、まだ分からない」


 正直にそう言う。


「でも、何もないとは、もう言えない」


 夕暮れの最後の光が、屋上の端で薄くほどける。

 夜が近い。


 雛乃は、その言葉を黙って受け止めてから、ひどく静かに言った。


「それでいいと思います」


 その一言は、優しかった。

 でも、どこか少しだけ寂しさも混じっていた。


 希夢は、その寂しさを感じ取る。

 感じ取ってしまう。

 でも今は、そこへ言葉を返すことができない。


 最深部の前夜。

 事故と失踪と観測仮説の只中。

 その中で立ち上がってきた感情は、どれもまだ途中だ。


 それでも、片鱗はもう十分だった。


 鹿島先輩への想いは、記憶の中心に近づくにつれて、

 ただの敬意や罪悪感では説明しきれないものへ変わり始めている。


 そして、その変化を、雛乃もまた静かに見つめている。


 夕暮れの屋上には、そのことだけが、まだ言い切られないまま細く残っていた。


「……会いたいって、思う」


 その言葉を口にしたあと、希夢はしばらく顔を上げられなかった。


 夕暮れの屋上。

 風。

 フェンス。

 夜へ沈みかける空。

 その全部がまだそこにあるのに、自分の中で言葉にしてしまったものだけが、少し遅れて重く落ちてくる。


 鹿島先輩に会いたい。

 もう一回ちゃんと見たい。

 それは、真相を知りたいという気持ちとは少し違う。

 事故の中心にいた人を、記録や痕跡ではなく、人として受け取り直したいという、ひどく個人的な願いだった。


 でも、その願いのまま最深部へ向かっていいのかと問われれば、希夢はすぐには頷けなかった。


 会いたいから行く。

 知りたいから行く。

 そう言ってしまうのは、どこか危うい気がした。


 白い壁の前で名前を呼ばれた時から、もう分かっている。

 最深部は、感情のまま近づいていい場所ではない。

 あそこは人の記憶も、現実の接続面も、名前の意味さえも揺らがせる場所だ。


 もし、会いたいという気持ちだけで行けば。

 もし、鹿島先輩への想いだけを頼りに一歩を出せば。

 それは真相へ近づくことではなく、向こう側へ引かれる形で“接続”してしまう危うさに近い。


 希夢は、ゆっくりと息を吸う。


 冷たい。

 屋上の空気はちゃんと肺へ入る。

 それなのに胸の奥だけが重い。


「……だめだな」


 ぽつりと、そう漏れる。


 雛乃が、少しだけ首を傾げる。


「何がですか」


 希夢は、空を見たまま答えた。


「会いたいっていう気持ちだけで行ったら、たぶんだめだ」


 その言葉は、自分へ向けた確認でもあった。


 鹿島先輩への想いがある。

 それはもう否定できない。

 でも、それをそのまま最深部へ持ち込めば、Gate-X にとっては格好の“引き”になるかもしれない。


 名前を呼ぶ声。

 観測を成立させる呼びかけ。

 直接つながる危うさ。


 鹿島先輩自身が

 「見ないで」

 と止めたのは、まさにそこだったはずだ。


 感情のまま繋がるな。

 その見方で直接踏み込むな。

 それでも観測者としての位置は失うな。


 あの声の意味を、いまの自分はもう知ってしまっている。


 だからこそ、希夢はゆっくりと首を振った。


「……行く理由は、それだけじゃない」


 雛乃は黙って聞いている。


 その沈黙に押されるみたいに、希夢の中で別の言葉が形を取り始める。


 裕也の最後の三秒。

 観測室の反響を含んだ呼吸。

 先生の記憶の欠落。

 教室や廊下にまで返ってきた世界のひずみ。

 “もう一人の観測者”という切られた名前。

 そして、ここまで残された痕跡たち。


 それらは全部、自分の感情とは無関係に、すでに進行している現実だった。


「裕也を途中で終わらせたくない」


 その一言は、今度は迷いなく出た。


「先生の記憶も、このまま欠けたままにしたくない。

 鹿島先輩が何を守ろうとしたのかも、

 “なかったこと”にされたままにしたくない」


 風が吹く。

 フェンスの向こうの街は、もう灯りを持ち始めている。


「それに」


 希夢は、そこで一度だけ言葉を切る。


「今、教室も廊下も、もう少しずつおかしくなってる」


 机の位置。

 声色。

 音の遅れ。

 光の筋。

 その微細な再構成は、まだ小さい。

 でも、小さいからといって放っていいものではない。


「これ以上進んだら、

 たぶん誰か一人の話じゃ済まなくなる」


 裕也だけではない。

 雛乃だけでもない。

 自分と鹿島先輩だけの因縁でもない。


 学校全体。

 日常そのもの。

 こちら側の現実の残り方が、静かに軋み始めている。


 なら、最深部へ行くのは、もう個人的な感情のためだけではない。


 止めるため。

 あるいは、少なくとも何が起きているのかを知り、

 “途中で切られたもの”をこれ以上増やさないため。


 その責任が、いつの間にか自分の足元へ来ている。


 希夢は、自分の手をゆっくり開いて、また握る。


「……怖いけど」


 それは、さっきと同じ言葉だった。

 でも、意味は少し変わっていた。


「もう、行くしかない」


 雛乃が、静かに息を呑む。


 希夢は、そのまま続けた。


「会いたいから、だけじゃない。

 知りたいから、だけでもない。

 たぶん今は……」


 視線を、夕暮れの向こうから、まっすぐ雛乃の方へ戻す。


「責任として、行くしかない」


 その一言は、自分の中でひどく重く、そしてひどく自然だった。


 責任。

 それは偉そうな言葉ではない。

 誰かを救えると確信しているわけでもない。

 自分だけが選ばれた正しい人間だと思っているわけでもない。


 ただ、ここまで見てしまった者として。

 名前を呼ばれ、記憶の断片に触れ、仮説を立て、痕跡を繋いでしまった者として。


 もう、見なかったふりも、知らないふりもできない。

 その位置に立ってしまったからこその責任だった。


 雛乃は、しばらく何も言わなかった。


 けれど、その沈黙は重くはなかった。

 むしろ、希夢の言葉が正しく届くのを待っているみたいに、静かだった。


「……責任」


 やがて、彼女が小さく繰り返す。


 希夢は頷く。


「うん」


「自分のためじゃなくて?」


 その問いに、希夢は少しだけ考える。


 完全に自分のためじゃない、とは言えない。

 鹿島先輩への気持ちもある。

 自分の記憶の空白だって、放っておけない。


 でも、それだけにしてはいけない。

 それだけで最深部へ行けば、たぶん道を誤る。


「自分のためでもある」


 希夢は、正直に言った。


「でも、それだけにしたくない」


 雛乃の目が、少しだけやわらぐ。


 希夢は、空の色がさらに沈むのを見ながら続ける。


「たぶん、あの場所に行くなら、

 感情だけで選んじゃだめなんだと思う」


 Gate-X は呼ぶ。

 名前を呼ぶ。

 揺れを返す。

 だからこそ、行く理由を自分の中で定めておかなければ、引かれるだけで終わる。


「怖いって分かった上で行く。

 会いたい気持ちがあるって分かった上で行く。

 その上で、それでも行く理由を“責任”にしておく」


 それは、自分を無理に固めるための言葉ではない。

 むしろ、最深部の前でこれ以上自分を失わないための、最後の足場に近かった。


 雛乃は、その言葉を静かに受け止めてから、小さく言う。


「……重いですね」


 希夢は、少しだけ苦く息を吐く。


「うん。重い」


 でも、その重さは必要だった。

 軽い決意では、たぶんあの場所へは入れない。

 怖さも、感情も、未練も、全部抱えたままで、なお一歩を出すためには。


 責任という言葉が、今の自分にはいちばん嘘が少なかった。


 夕暮れの最後の光が、屋上の端からほとんど消える。

 ふたりの影は長く伸びたまま、ゆっくり夜の色へ溶け始めていた。


 希夢は、その影を見ながらもう一度だけはっきりと言う。


「……行く」


 短い言葉だった。

 でも、その中には、ここまでの全部が入っていた。


 怖い。

 会いたい。

 知りたい。

 失わせたくない。

 途中で終わらせたくない。


 その全部を、責任という形で束ねて、最深部へ持っていく。


 それが、今の自分にできる唯一の選び方なのだと、希夢はようやく腹の底で理解していた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ