裕也の痕跡(後半)
雛乃の夢の話がひと区切りついたあと、屋上には少しだけ別の静けさが落ちた。
さっきまでの沈黙は、言葉の前にある圧だった。
けれど今の静けさは、一度言葉になったものが、ふたりのあいだでゆっくり形を変えている最中のものだった。
風が吹く。
夕暮れの色はさらに深くなり、空の端には薄い紫が混じり始めている。
フェンスの影も長くなって、床の上で細かく揺れていた。
雛乃は、ようやくフェンスから両手を離した。
けれどその手はすぐに落ち着く場所を見つけられず、胸元のあたりで小さく重なる。
希夢は、その手元を見ながら静かに言った。
「……もうひとつ、あるんだよね」
雛乃の肩が、小さく揺れる。
夢の話だけではない。
ここへ呼び出した理由がもう一つあることは、さっきから薄く分かっていた。
雛乃は、少しだけ躊躇ってから頷いた。
「はい」
その返事は、先ほどよりも少し現実的な重さを持っていた。
夢ではない。
記憶の気配でもない。
もっと手で触れられる種類の痕跡の話だと、その声だけで分かる。
「……裕也くんのスマホです」
その一言で、希夢の胸の奥が静かに緊張する。
旧観測棟の前で見つかったスマホ。
Last Observation。
Pattern-X3。
trace remains。
あの黒い画面に残されていたものは、まだ全部読み切れていない。
そしておそらく、まだ“最後まで見ていない”部分がある。
雛乃は、スカートのポケットから自分のスマホを取り出した。
握る指先には、まだ少し力が入っている。
「昼休みに、もう一回聞いたんです」
「聞いた?」
「昨日の……最後のログ」
希夢は、わずかに目を細める。
波形ばかりに目を取られていた。
画面。
白い揺れ。
ログの文字列。
そこにばかり意識が向いていて、“音”の方を十分に見ていなかったのかもしれない。
雛乃は、スマホを開いたまま言う。
「最初は、何もないと思ったんです。
ノイズしか入ってないみたいに聞こえて……」
夕方の風が、また少し吹いた。
希夢は、その先を待つ。
「でも、ヘッドホンで何回か聞き直して、
音量も上げて……
ノイズの下だけ拾うみたいに聞いてたら」
雛乃の喉が小さく動く。
「最後の三秒だけ、呼吸みたいな音が残ってたんです」
その一言で、希夢の背中に冷たいものが走る。
「呼吸音」
思わず繰り返すと、雛乃は頷いた。
「すごく小さいです。
ちゃんと“はぁ、はぁ”って聞こえるわけじゃないです。
でも、息を吸う前の空気の擦れ方みたいな……
胸の奥で一度だけ浅く引っかかる感じの音が、三秒のあいだに二回」
希夢は、呼吸を止める。
裕也は完全に無音のまま消えたのではない。
少なくとも、その最後の三秒にはまだ、身体の側の痕跡が残っていた。
それは大きい。
あまりにも大きい。
「……生きてる音だった?」
問う声が、自分でも少し掠れているのが分かった。
雛乃は、すぐには頷かなかった。
言葉を選んでいる。
「生きてる、って断定できるほどはっきりじゃないです。
でも、機械音でも環境音でもないと思います」
「裕也の?」
「たぶん……」
その“たぶん”が、かえって重かった。
無責任な曖昧さではない。
ここで断定してしまう方が危ういと分かっている人の、ぎりぎり正確な言い方だった。
雛乃は、スマホを見たまま続ける。
「しかも、その呼吸音のあとに、
ほんの少しだけ音の反響があるんです」
「反響」
「はい。
狭いところで録った音じゃないです。
教室とか廊下とも違う。
もっと……白くて広いところで、でも音はあまり返ってこない感じ」
その表現に、希夢はゆっくり目を見開く。
白くて広い。
でも音はあまり返ってこない。
それは第九章で自分が実際に踏み込んだ、観測施設の中心部の空気そのものに近かった。
最深部へ近づくほど、音は壁に返らない。
吸われる。
空間の密度そのものが、音の残り方を狂わせる。
だから、呼吸ひとつでさえ普通の部屋とは違う響きになる。
「……観測室」
希夢が低く呟くと、雛乃は静かに頷いた。
「たぶん、そうです」
その肯定は、夢の話とはまた違う重さを持っていた。
夢ではなく、記録媒体。
しかも裕也本人のスマホに残っていた最後の音。
そこに“観測室の反響”が残っているのなら、もう逃げ場は少ない。
裕也は、本当に最深部の近くまで行っていた。
Gate-X と同じ揺れを持つログを残し、
その最後の三秒に、観測室の空間特有の呼吸の反響を残して。
希夢は、ゆっくりと息を吐く。
頭の中で、また線が一本繋がる。
夢。
波形。
失踪。
そして今、最後の三秒の呼吸音。
断片だったはずのものが、どんどん現実へ寄ってくる。
「……聞かせて」
希夢が言うと、雛乃は一瞬だけ迷った。
でも、すぐに頷く。
「はい」
彼女はスマホを操作し、音声データらしき画面を開く。
再生バーは終端近くで止まっている。
「最後のところだけにしてあります」
そう言って、雛乃はスマホをふたりのあいだへ差し出した。
屋上の風がある。
部活の音も遠くにある。
決して静かな環境じゃない。
それでも、今ここで聞かなければならないと思った。
雛乃が再生する。
最初は、ほとんど何も聞こえない。
ざらついたノイズ。
遠い白い擦れ。
録音失敗みたいな、曖昧な空白。
けれど、その“何もなさ”の中へ耳を押し込むみたいに聞いていると、確かにあった。
――……、……っ
ごく小さい。
空気が一度だけ胸の奥で引っかかって、すぐに吸われるような音。
それが、一拍置いてもう一度。
――……、……っ
そして、そのあとに来る、微かな返り。
返響、というほど明瞭ではない。
だが、たしかに“何かの空間の内側”を一度だけ触って戻ってきた音の尾がある。
希夢は、思わず目を閉じかけて、やめた。
これは想像ではない。
錯覚でもない。
微弱すぎるだけで、たしかに残っている。
「……いた」
ほとんど無意識に、その言葉が漏れた。
雛乃は、再生を止める。
スマホを持つ手が少しだけ震えている。
「はい」
彼女の返事も、痛いほど小さい。
「最後まで、完全に無音じゃなかったです」
その事実は、残酷でもあり、希望でもあった。
完全に途切れたのではない。
少なくとも最後の三秒には、まだ身体があった。
呼吸があった。
観測室の空間の中で、裕也はまだ“こちら側と噛み合った何か”を残していた。
希夢は、夕暮れの空を少しだけ見上げる。
色はさらに沈み、屋上の風も冷たくなり始めている。
それでも胸の奥には、別の熱がじわじわ広がっていた。
最深部の近くまで行っている。
そして最後の三秒、まだ呼吸がある。
それはつまり、
裕也は“消えた”のではなく、その直前まで確かにそこにいた
ということだ。
雛乃は、スマホを見下ろしたまま小さく言う。
「最初に聞いた時、怖かったです」
希夢は、黙って聞く。
「でも、今は……
怖いだけじゃないです」
「うん」
「まだ、痕跡がある」
その一言に、希夢は静かに頷いた。
そうだ。
夢だけではない。
筆箱だけでもない。
波形だけでもない。
呼吸。
最後の三秒。
観測室の反響。
そこまで揃った以上、裕也の失踪はもう“空白”ではない。
現実に近い位置で残された、具体的な痕跡へ変わっている。
「……最深部の近くまで行ってる」
希夢がそう言うと、雛乃の目元が少しだけ揺れた。
「はい」
それは確認だった。
そして同時に、次の章段階へ進むための痛みを伴った固定でもあった。
裕也は、最深部の近くまで行った。
Gate-X に近づいた。
その最後の三秒には、まだ呼吸が残っていた。
なら、もう行くしかない。
最深部へ。
白い扉の向こうへ。
痕跡がまだこちら側に残っているうちに。
裕也のスマホから拾われた、最後の三秒。
その微かな呼吸音の余韻は、再生を止めたあともしばらく屋上の空気に残っている気がした。
実際には、もう何も鳴っていない。
雛乃のスマホの画面は静かに暗くなりかけていて、
夕暮れの風がフェンスを小さく鳴らしているだけだ。
それでも希夢の耳の奥には、あの音がまだ残っていた。
浅い、引っかかるような吸気。
短い。
弱い。
けれど、機械のノイズとは違う、生きた身体の内側からしか出ない種類の音。
そして、そのあとにあった、ほんのわずかな返り。
音の尾。
空間のかすかな応答。
それが、ただの屋外や教室の反響ではないことを、希夢の身体の方がもう知ってしまっていた。
「……もう一回」
希夢がそう言うと、雛乃は黙って頷いた。
スマホの画面を操作し、最後の数秒だけをもう一度再生する。
ざらついたノイズ。
白い擦れ。
何もないように思える空白。
そして、その奥に沈んでいる呼吸。
――……、……っ
希夢は、今度は目を閉じた。
目で補強しない。
ただ音だけを追う。
すると、一回目には曖昧だった“空間の形”が、耳の中で少しだけ輪郭を持ち始めた。
狭い場所の音ではない。
ロッカーの陰や階段の踊り場みたいな、近い壁に囲まれた場所の反響ではない。
でも、屋外ほど抜けてもいない。
広い。
なのに、音が伸びない。
一度だけ浅く返って、それ以上はどこかへ吸われる。
その返り方に、希夢ははっきりと覚えがあった。
旧観測棟の内部。
特に、最深部に近づくほど強くなった、あの音の死に方。
壁へ当たって広がるはずの音が、途中で薄く削られ、
“空間として残る前”にどこか別の層へ渡されるような消え方。
呼吸音の尾にあるのは、まさにそれだった。
希夢は、ゆっくり目を開ける。
「……観測室だ」
その言葉は、今度はほとんど確信に近かった。
雛乃は、スマホを持つ手を少しだけ強く握る。
「やっぱり……」
「うん」
希夢は、夕暮れの空気をひとつ吸ってから続ける。
「普通の教室なら、もっと平たい音になる。
廊下なら、もう少し細く返る。
屋上みたいな外なら、ほとんど返ってこない」
雛乃は、黙って聞いている。
「でも、これは違う。
広さがあるのに、音が生き残らない」
その矛盾した感じこそが、観測室の空気だった。
最深部の近くは、広がりを持っている。
白い。
空いている。
けれど、音がそこに定着しない。
反響はするのに、反響として“続いてくれない”。
まるで、空間そのものが音を一度だけ受け取って、
そのあと別の場所へ薄く引き渡してしまうみたいに。
雛乃は、小さく言う。
「私も、最初は確信なかったです」
希夢は視線を向ける。
「でも、教室で聞く音でも、廊下でも、屋上でもなくて……
どこかで聞いた“嫌な静けさ”に似てると思って」
その表現に、希夢は頷いた。
嫌な静けさ。
それは単に無音だから嫌なのではない。
音があるのに、世界の表面へきちんと残らないから嫌なのだ。
観測室の近くでは、それが顕著だった。
人の呼吸さえ、空間の中でちゃんと“生きた音”として留まれない。
だからこそ、この最後の三秒は重要だった。
もし裕也が普通の場所で消えたのなら、
スマホに残る最後の痕跡も、もっと別の形をしていたはずだ。
教室のざわめき。
廊下の足音。
外気の広い抜け。
そういうものが混ざっていたはずだ。
でも、残っていたのは違う。
息。
そして、観測室の反響。
それはつまり、裕也がその三秒の時点で、
すでに観測室の空間の内側にいた
ということだった。
「……最深部の近く、じゃないかもしれない」
希夢が低く言うと、雛乃が小さく瞬きをする。
「え」
「もしかしたら、もう“手前”じゃない」
夕暮れの空が、さらに色を沈める。
屋上の影も少しずつ濃くなる。
希夢は、自分の言葉の重さを確かめるみたいに、ゆっくり続けた。
「呼吸音が残ってるってことは、
まだ身体はあった。
でも、その音が観測室の反響を持ってるなら……
裕也は、かなり深いところまで入ってる」
雛乃の目元が揺れる。
最深部の近く、という表現でぎりぎり保っていた心の距離が、
さらに半歩ぶんだけ壊れる。
裕也は“近くまで行った”のではない。
もしかしたら、もう最深部の空気の中で呼吸していた。
それは痛いほど現実的だった。
希夢は、雛乃のスマホを見つめる。
小さな画面。
そこに保存されたたった三秒の音。
でも、その三秒だけで、空間は嘘をつけない。
波形はごまかせても、
記録は切り取られても、
音の反響パターンだけは、その場所の形をまだ裏切りきれていない。
「……正体って」
雛乃が、かすれた声で言う。
「呼吸音そのもの、っていうより……」
希夢は、静かに頷いた。
「うん。
その呼吸が“どこにいたか”の方」
それが本質だった。
呼吸していたかどうか。
もちろんそれも大事だ。
でも、この音の決定的なところは、
呼吸音の周囲にまとわりついた空間の癖の方にある。
呼吸音の正体は、裕也の身体の痕跡であると同時に、
観測室の内部にいた者の痕跡でもあるのだ。
希夢は、ようやくその認識を言葉にする。
「これは“裕也の呼吸”っていうだけじゃない」
雛乃が、じっと聞いている。
「“観測室の中で残された裕也の呼吸”だ」
その一文が落ちた瞬間、屋上の風が少しだけ強く吹いた。
雛乃は、スマホを胸元へ引き寄せるように持ち直す。
その目元には、もう涙の手前の光がある。
「じゃあ……」
彼女の声は小さい。
「裕也くん、本当にあそこに……」
「うん」
希夢は、今度はもう迷わなかった。
「いた」
断定するにはまだ怖い。
でも、ここで曖昧にする方が違うと思った。
最後の三秒。
呼吸。
観測室の反響。
そこまで揃った以上、
裕也の痕跡はもう“推測の影”ではなく、かなりはっきりした場所を持っている。
雛乃は、そこでついに小さく涙をこぼした。
声は出さない。
泣き崩れもしない。
ただ、ようやくここまで積み上がった現実が、静かに身体へ落ちてきたのだろう。
希夢は、その涙を見ながら、自分の胸の奥にも別の痛みがひろがるのを感じていた。
裕也は、夢の向こうの人ではない。
抽象的な喪失でもない。
観測室の空気の中で、最後の三秒、まだ呼吸していた。
それは救いだ。
でも同時に、あまりに遅く、あまりに近い救いでもあった。
最深部は、もう物語の終点ではない。
そこには、まだ現実の体温を持った痕跡が残っている。
ならば行かなければならない。
ふたりとも、もうそのことだけは分かっていた。
「観測室の中で残された裕也の呼吸」
その言葉が落ちたあと、屋上の空気はしばらく動かなかった。
風は吹いている。
フェンスも小さく鳴っている。
遠くの部活の声も、まだ完全には消えていない。
それなのに、いま希夢と雛乃のあいだだけ、別の静けさが降りていた。
雛乃は、スマホを胸元へ引き寄せたまま立っている。
画面はもう暗くなりかけているのに、その小さな黒い面の中へ、まだ裕也の最後の三秒が沈んでいる気がした。
呼吸。
観測室の反響。
最深部に近い空間。
そこまで揃ってしまうと、
“裕也くんはどこかへ行った”
という曖昧な不在は、もう保てなかった。
希夢は、夕暮れの空を少しだけ見上げる。
橙は薄くなり、代わりに青紫が空の高いところからゆっくり降りてきている。
一日の輪郭が閉じかける時間だ。
その閉じかけた光の下で、裕也の不在だけが逆に、ひどく具体的になっていく。
「……最深部の近くまで行ってる」
希夢が、あらためてそう言う。
それはもう推測の語尾ではなかった。
断定しきるにはまだ怖い。
でも、ここで曖昧にぼかす方が違うと分かる程度には、現実の重みを持っていた。
雛乃の肩が、小さく震える。
それから、彼女はやっとのことで頷いた。
その頷きは同意というより、今この現実を身体に通すための動きに近かった。
「……はい」
声は細い。
けれど、逃げてはいない。
希夢は、そこで初めて、裕也の痕跡が“夢やログの向こう側にあるもの”ではなく、
最深部へ向かう自分たちの導線そのもの
になっているのだと、はっきり理解する。
スマホが残った。
筆箱が残った。
そして最後の三秒に、呼吸が残った。
順番に残っている。
日常の物。
身体の痕跡。
それはまるで、裕也がこちら側へ
戻るための目印を、少しずつ落としていった
みたいだった。
その考えが浮かんだ瞬間、希夢の胸の奥がひどく痛んだ。
そうであってほしい。
でも、そうと断定するにはまだ足りない。
希望に寄りかかりすぎれば、次に見つかる痕跡がもっと残酷だった時に立っていられない。
それでも、今はもう分かっていた。
裕也の最後の痕跡は、スマホでも筆箱でもない。
もっと近い。
もっと深い。
最深部の空気の中に残った呼吸
それが、いま分かっている限りで一番最後の、そして一番人間的な痕跡だった。
雛乃が、スマホを強く握りしめる。
「私……」
その声は、涙の少し手前だった。
「最初にこれ聞いた時、
怖いっていうより、分からなくなったんです」
希夢は、静かに耳を傾ける。
「裕也くんがいない、って現実と、
でも最後にちゃんと息がある、って痕跡が、
頭の中で一緒にならなくて」
その言葉は正確だった。
いない。
でも、いた。
最後の三秒には、まだいた。
失踪という言葉は、そのあいだをうまく繋いでくれない。
だから苦しいのだ。
空白ではなく、途中で切られた連続として残っているから。
「……私が夢の話をしなければ」
雛乃は、そこでやっと目を伏せる。
ぽつり、と落ちる声。
「裕也くん、あそこまで行かなかったかもしれない」
希夢は、すぐには返せなかった。
それは、彼女の中でずっと膨らみ続けていた罪悪感なのだろう。
夢を話した。
先に異変を知っていた。
それなのに止められなかった。
むしろ、その話が裕也の行動を後押ししたのではないか。
そう考えてしまうのは自然だ。
あまりにも自然で、だからこそ痛い。
雛乃は、続ける。
「私が言ったから、裕也くんは気になって、
あの場所に行って……
そのまま」
最後までは言えなかった。
消えた。
ずれた。
吸い込まれた。
どの言葉も、まだ決定的すぎるのだろう。
希夢は、ゆっくりと息を吸う。
ここで曖昧に慰めるのは違うと思った。
“大丈夫”とも“雛乃のせいじゃない”とも、軽くは言えない。
彼女が感じている因果は、完全な思い込みではないからだ。
夢の話は、たしかに裕也を動かしたかもしれない。
でも、それだけで全部を説明することもまた、違う。
「……違う」
希夢は、低く言った。
雛乃が、ゆっくり顔を上げる。
「夢の話がきっかけになったのは、あるかもしれない」
その一言に、雛乃の目が少しだけ揺れる。
否定から入らなかったことに、一瞬だけ痛みを感じたのかもしれない。
でも、希夢は続けた。
「でも、それだけじゃない」
風が、ふたりのあいだを抜ける。
「裕也は、自分で選んだんだ」
その言葉は、思ったより静かに落ちた。
責めるためではない。
むしろ逆だ。
裕也を、誰かの言葉に押された受け身の存在にしたくなかった。
「気になったから行った。
確かめたかったから近づいた。
その判断をしたのは、裕也自身だよ」
雛乃の目元に、また涙が滲む。
「でも……」
「うん」
希夢は、その続きを遮らずに受け止める。
「後悔するのは分かる。
私だって、もっと早く気づけたかもって思う」
鹿島先輩の時も。
裕也の時も。
自分はいつも、核心の半歩手前でやっと追いつく。
その遅さが胸に刺さる。
「でも、裕也があそこへ行ったのを、
全部雛乃のせいにしたら違う」
希夢は、まっすぐ雛乃を見る。
「裕也は、知ろうとしたんだ」
その一言には、少しだけ痛みがあった。
知ろうとした。
それは、いま自分たちがしていることと同じだ。
真相へ近づこうとすること。
光の正体を確かめようとすること。
Gate-X に飲まれない形で、でも逃げずに見ようとすること。
もしそれを否定すれば、自分たちのこれからも否定してしまう。
雛乃は、唇を強く結んだまま、ぽろりと一粒涙を落とした。
でも、今度は崩れなかった。
ただ、その一粒だけを屋上の風に晒すみたいに、その場に立っている。
「……最後の痕跡って」
雛乃が、かすれた声で言う。
「呼吸なんですね」
希夢は、ゆっくり頷く。
「うん」
それはスマホでもない。
筆箱でもない。
記録の文字列でもない。
まだ身体がそこにあった証拠。
呼吸。
最深部の空気を一度だけ内側へ入れ、また出そうとした痕跡。
それが最後に残っている。
「……やだな」
雛乃が、小さく言う。
その言い方に、希夢は胸の奥が少しだけ痛くなる。
理屈じゃないのだ。
観測仮説も、Gate-X も、記憶の欠落も。
そういう言葉をいくら重ねても、最後に残るのは
“裕也が息をしていた”
というあまりに人間的な事実の痛みだった。
希夢は、夕暮れの空を見る。
色はさらに落ちて、屋上は少しずつ夜へ近づいている。
最深部へ向かう時間も、もう遠くない。
「……でも」
希夢は、ゆっくりと言う。
「最後の痕跡が呼吸ってことは、
まだ“完全に終わった”とは言えない」
雛乃が、わずかに目を開く。
希望を言っているわけではない。
楽観でもない。
ただ、事実の位置を正確に置こうとしている。
呼吸が残っている。
観測室の反響がある。
そこまでは確かだ。
なら、その先を確かめに行く意味がある。
最深部へ行くことは、もう抽象的な真相解明ではない。
裕也の最後の痕跡を辿ること
でもあるのだ。
雛乃は、スマホを胸元へ押し当てるように持ちながら、静かに頷いた。
その頷きの中には、悲しみも、怖さも、まだ消えない罪悪感も残っている。
でも同時に、それらを抱えたままでも前へ進むしかないという理解も宿っていた。
裕也の最後の痕跡は、最深部の近くにある。
それだけは、もう揺らがない。
「違う。裕也は自分で選んだんだ」
その言葉を口にしたあとも、希夢の胸の奥には鈍い痛みが残っていた。
正しいと思った。
少なくとも、雛乃の肩へ全部を押しつける言い方よりは、ずっとましだと。
けれど、正しい言葉と、楽になる言葉は違う。
屋上の風は少し冷たくなっていた。
夕暮れの色も、さっきまでの橙から、ゆっくりと青紫へ傾き始めている。
フェンスの影は長く、床の上で網目の形を伸ばしていた。
雛乃は、スマホを胸元へ抱えたまま、しばらく俯いていた。
「……そうかもしれないです」
ようやく出た声は小さい。
「でも、私が話したのは本当です」
希夢は黙って聞く。
「夢のこと。
裕也くんに、あの白い場所の話をしたのも、
私です」
その一言一言を、雛乃は自分の中へ刺すみたいに言う。
誇張ではない。
言い逃れでもない。
自分のしたことの輪郭を、できるだけ正確に自分で受け取ろうとしている声音だった。
「だから……」
雛乃の指先が、スマホの縁へ少しだけ強く食い込む。
「全部じゃなくても、
何も関係ない、とは言えないです」
希夢は、そこでゆっくり息を吐いた。
それも正しいと思った。
たしかに雛乃の話は、裕也を動かした一因だったのだろう。
夢の中で見た白い場所。
光に引かれていく影。
先に異変へ触れてしまった人間の言葉は、どうしたって現実へ影響を落とす。
だからこそ、ここで
「雛乃は何も悪くない」
と軽く切ってしまうのは違う。
でも、そこから
「だから雛乃のせいで裕也が消えた」
へ飛ぶのも、やはり違うのだ。
希夢は、フェンスの向こうの空を見ながら言った。
「関係は、あると思う」
雛乃の肩が小さく揺れる。
その揺れに、希夢はすぐ続けた。
「でも、“原因”とは違う」
雛乃が、ゆっくり顔を上げる。
目元はまだ濡れている。
でも、そこにあるのは拒絶ではなく、必死に言葉の続きを待つ目だった。
「夢の話を聞いたから、裕也は動いたかもしれない」
希夢は、ひとつずつ置くように言う。
「でも、聞いたあとにどうするかを選んだのは裕也だよ」
風が、ふたりのあいだを通り抜ける。
「気になった。
知りたかった。
確かめたかった。
だから行った」
それは、責任逃れのための理屈ではなかった。
むしろ、裕也という人間の輪郭を守るための言い方に近かった。
もし、雛乃の話だけが彼を動かしたのだとしたら、
裕也はただ他人の言葉に押された受け身の存在になってしまう。
でも、そうじゃない。
あいつは、自分で動く時は動く。
怖さを抱えたままでも、妙にまっすぐなところがある。
そういう人間だった。
希夢は、そのことを思い出しながら続けた。
「裕也は、誰かに命令されて行ったんじゃない。
自分で“行く”って決めた」
雛乃は、唇を強く結ぶ。
その言葉を受け取っても、すぐに楽にはなれないのだろう。
自分の話がきっかけになったかもしれないという事実は、やはり残る。
それでも、彼女はちゃんと聞いていた。
「……でも」
雛乃の声は、まだ震えている。
「私、止められたかもしれないです」
希夢は視線を向ける。
「もっと強く言ってたら。
夢の話をしたあとに、
“絶対に行かないで”ってちゃんと言ってたら……」
その悔い方は痛かった。
“私が話したから”より、もっと深い。
“私はあの時、どこまで本気で止められたか”という悔いだ。
それはもう、単なる罪悪感ではない。
失われたかもしれないものへ向けて、自分の行動の細部を何度も巻き戻してしまう種類の痛みだった。
希夢は、少しだけ目を伏せる。
自分にも、それは分かる。
鹿島先輩のこと。
事故のこと。
裕也のこと。
いつだって、あとになってからなら
“もっと早く気づけたかもしれない”
“あの時、別の言葉を選べたかもしれない”
という分岐ばかりが増えていく。
でも、増えていく分岐は、後から見えるから多いだけだ。
その場にいた人間は、そんなにたくさんの道を持っていない。
「……それ、たぶん終わらないよ」
希夢がそう言うと、雛乃は小さく瞬いた。
「え……」
「あとからなら、いくらでも言えるから」
希夢は、自分の言葉が自分にも返ってくるのを感じながら続ける。
「もっと強く止められたかも。
違う言い方をしたら変わったかも。
話さなければよかったかも。
そういうのって、あとからは無限に出てくる」
夕暮れの光が、少しずつふたりの足元から引いていく。
「でも、その時の自分が持ってた材料って、そんなに多くない」
雛乃は、黙ったまま聞いていた。
「夢を見た。
怖かった。
誰かに言いたかった。
だから話した」
それは、その時の雛乃にとって自然な流れだったはずだ。
少なくとも、悪意や軽率さだけで括れるものではない。
「裕也も同じだよ」
希夢は、静かに言う。
「聞いた。
気になった。
知りたかった。
だから行った」
言葉にすると、あまりにも単純だ。
でも、たぶん本質はそこから大きく外れていない。
「私たち、あとから全部をつなげて見ちゃうけど」
希夢は、雛乃の手の中のスマホへ視線を落とす。
「その時は、その時の断片しか持ってなかった」
それが、自己責任の痛みを完全に消すわけではない。
でも、少なくとも
全部を自分ひとりの罪にまとめる暴力
からは少しだけ遠ざけてくれる。
雛乃は、スマホを見下ろしたまま言う。
「……それでも、私、たぶんこのことずっと引きずきます」
「うん」
希夢はすぐに頷いた。
「引きずくと思う」
その返事に、雛乃は少しだけ驚いた顔をした。
慰められると思っていたのかもしれない。
大丈夫だとか、忘れられるとか、そういう言葉を。
でも、希夢には言えなかった。
こういうものは、なかったことにはならない。
うまく整理されるとも限らない。
むしろ、残るだろう。
痕みたいに。
いつか思い出して、胸が痛くなる形で。
「でも」
希夢は、そのあとに続ける。
「引きずくのと、全部を自分のせいにするのは違う」
その一言は、雛乃の目の奥へ少し深く入ったようだった。
「後悔は残る。
たぶん消えない。
でも、“だから私が悪い”って固定しちゃうと、
裕也が自分で選んだことまで奪う」
雛乃は、ゆっくり息を吸う。
その呼吸はまだ不安定だ。
でも、さっきまでよりは少し深い。
「……選んだ」
「うん」
希夢は、はっきり言った。
「裕也は自分で行った。
それは、あいつの責任でもある」
責任。
その単語は冷たい。
けれど、ここでは必要だった。
自分で選ぶということは、自分の行為の結果を引き受けるということだ。
それは怖い。
でも、その怖さごと持っていなければ、人の選択はすぐに誰かのせいか、誰かのおかげにすり替えられてしまう。
雛乃は、そこでようやく涙を一度拭った。
「……自己責任、ってことですか」
その言い方には、少しだけ棘があった。
当然だと思う。
そんな簡単な言葉で片づけられたくないのだろう。
希夢は、少し考えてから首を振った。
「その言葉だと、切りすぎる」
雛乃が、目を上げる。
「“自分で選んだ”のは本当。
でも、人ってひとりだけで選んでるわけじゃないから」
夢を聞く。
誰かの不安を受け取る。
空気の異常に触れる。
過去の事故の気配を感じる。
そういうもの全部の中で、人は選ぶ。
「だから、誰も無関係じゃない。
でも、誰か一人の責任にもならない」
雛乃は、その言葉を黙って受け止めた。
風が吹く。
今度は少し弱い。
夕方の冷たさだけが、やわらかく残る。
「……じゃあ、私」
雛乃がゆっくりと言う。
「何を持てばいいんですか」
その問いは真っ直ぐだった。
全部を背負うのではない。
でも、何も背負わないわけにもいかない。
そのあいだで、自分は何を引き受ければいいのか。
希夢は、少しだけ考える。
そして、ひとつだけはっきりしていることを言う。
「裕也を、途中で終わらせないこと」
雛乃の目が、静かに揺れる。
「“私のせいで消えた人”にしないで、
ちゃんと最後まで追うこと」
それが、今の自分たちにできる一番正しい引き受け方だと思った。
罪悪感の中で丸めてしまわない。
喪失の中で固定してしまわない。
最深部まで辿って、何が起きたかを確かめる。
それが、残された側の責任なのだろう。
雛乃は、しばらく何も言わなかった。
やがて、胸元のスマホを少しだけ強く握って、小さく頷く。
「……はい」
その返事は、まだ弱い。
でも、さっきまでの
“全部を自分の罪にしたい痛み”
とは少しだけ違っていた。
痛みは残っている。
後悔も消えない。
それでも、その痛みを
“最深部まで一緒に持っていくもの”
へ変え始めている返事だった。
希夢は、夕暮れの空を見上げる。
もうすぐ夜になる。
最深部の白い扉へ向かう時間も近い。
そして、そこで問われるのはきっと、自分の責任だけではない。
誰の選択をどう引き受けるか。
どこまでを自分で選び、どこからを他人の選択として尊重するか。
そういうことまで含まれているのだと、希夢は静かに感じていた。




