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光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
夕暮れの扉、その前で
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雛乃の告白

 放課後の校舎は、昼間より少しだけ広く感じられた。


 授業が終わったあとのざわめき。

 部活へ向かう足音。

 廊下の端で交わされる短い会話。

 それらはまだ学校の中に残っている。

 けれど、一日の終わりへ近づくにつれて、音は少しずつ薄くなり、空気の中へ沈んでいく。


 希夢は、階段を上りながら、ポケットの中の手を一度だけ握った。


 雛乃に呼ばれたのは、授業が終わってすぐだった。


 ――放課後、屋上で話したいです。


 それだけの短い言葉。

 いつもみたいに曖昧に笑ってごまかす余地のない、まっすぐな文面だった。


 だから、断れなかった。


 いや、断るという発想そのものが最初からなかったのかもしれない。

 第十章の終わりで、行くべき場所はもう分かった。

 観測施設の最深部。

 白い壁の前。

 Gate-X の核。


 そこへ向かう前に、雛乃が何を言おうとしているのかを聞かずに進むことだけは、どうしてもできなかった。


 階段の最後の踊り場を曲がると、屋上へ続く重い扉が見える。


 金属の取っ手。

 少し色の褪せた塗装。

 この学校のどこにでもありそうな、古い設備の一部。

 それなのに、いまの希夢には、その扉がまるで別の章への境目みたいに思えた。


 手をかける。

 押す。


 きい、と小さく軋んだ音がして、扉が開く。


 夕方の空気が、正面から流れ込んできた。


 冷たいわけではない。

 けれど、昼の教室や廊下にこもっていた薄い違和感とは違う、外側の広さを持った空気だった。

 空はもう真昼の青ではなく、橙と薄紫のあいだに静かに沈み始めている。


 希夢は、屋上へ足を踏み出す。


 フェンス。

 コンクリートの床。

 端の方に置かれた古い設備箱。

 そして、風。


 風だけが、今日一日の中で初めて“ちゃんと自分の順番で届いた”気がした。


 屋上の中央より少しフェンス寄りの場所に、雛乃は立っていた。


 すぐに見つかった。

 探す必要もなかった。


 夕陽が、彼女の輪郭を淡く照らしている。


 白いシャツの肩。

 スカートの裾。

 少しだけ風に揺れる髪。

 その全部が、夕方の光の中でひどく静かに浮いていた。


 希夢は、一瞬だけ足を止める。


 雛乃は、まだこちらに気づいていないみたいだった。

 いや、気づいているのかもしれない。

 でも、振り返るまでに少しだけ時間が必要なのだと、その背中を見ただけで分かった。


 細い。

 けれど今は、ただ華奢な背中ではない。

 何かを言わなければならないと知っていて、その言葉を喉の近くで必死に удержっている人の背中だった。


 夕陽が、フェンスの隙間を通って細い影を床へ落とす。

 雛乃の影も、その網目のあいだで薄く伸びている。


 希夢は、ゆっくり近づいた。


 足音は、屋上ではちゃんと床を打った。

 教室や廊下のように途中で吸われない。

 その当たり前さに、逆に少しだけ安堵しそうになる。


「……雛乃」


 名前を呼ぶ。


 雛乃の肩が、ごく小さく揺れた。


 それから、ゆっくり振り返る。


 顔色は悪くない。

 でも、落ち着いているとも言えなかった。

 目元は少しだけ緊張していて、唇もきれいに結ばれている。

 泣いてはいない。

 それなのに、もう少し何かが重なれば簡単に崩れてしまいそうな、そんな張りつめ方だった。


「……来てくれて、ありがとうございます」


 声は静かだった。

 けれど、少しだけ掠れている。


「うん」


 希夢は、それ以上うまく言えなかった。


 ありがとう、なんて距離じゃない。

 大丈夫、とも言えない。

 ここまで来たら、もう言葉はそういう表面的なものから落ちてしまっている。


 雛乃は、そこでまた少しだけ視線を外した。


 屋上の向こう、沈みかけた空の方を見る。

 夕焼けは強く燃えているわけではなかった。

 むしろ、静かに色を薄めながら、一日の輪郭だけを長く残している。


 その光が、雛乃の横顔を淡く照らす。


 希夢は、その表情を見て、今日ここで話されるのは“相談”ではないのだと改めて知る。


 もっと深い。

 もっと個人的で、戻せないものだ。


「……教室じゃ、だめだったので」


 雛乃が、小さく言う。


 その理由は聞かなくても分かる気がした。


 教室は、もう普通の空間ではない。

 机の位置。

 声色。

 音の遅れ。

 光の筋。

 あそこでは、言葉の意味さえ途中で別の形へずらされてしまいそうな気配がある。


 屋上なら安全、とは言えない。

 でも少なくとも、空が見える。

 外の風がある。

 閉じた白い壁の前ではない。


 それだけで、ここはまだ“話すための場所”として成立していた。


「……うん」


 希夢は、もう一度だけ頷く。


 雛乃は、その返事を聞いてもすぐには続けなかった。

 フェンスへ向き直るでもなく、完全にこちらを向ききるでもなく、半端な角度のまま立っている。


 その沈黙の長さが、かえって痛い。


 無言でいられるほど軽い話じゃない。

 でも、言葉にした瞬間に戻れなくなることも、たぶん彼女は分かっている。


 風が、少しだけ強く吹く。


 雛乃の髪が揺れ、夕方の光がその表面を薄く滑る。

 希夢は、その揺れを見つめながら、自分の胸の奥にも別の緊張が静かに広がっていくのを感じていた。


 最深部へ行く。

 その決意はもう揺らがない。

 けれど、その前に雛乃がここへ呼び出したということは、

 彼女の中にもまた、最深部へ行く前にどうしても置いておかなければならないものがあるのだろう。


 夕陽は少しずつ傾いていく。


 屋上のコンクリートは、昼よりもやわらかい色をしていた。

 フェンスの影は長い。

 その影の隙間に、希夢と雛乃の影もまた、少し離れたまま並んでいる。


 まだ重ならない。

 でも、まったく別の方向を向いているわけでもない。


 雛乃は、指先をゆっくりと握り直した。

 その動きだけで、次に来る言葉がどれだけ重いか分かってしまう。


 希夢は、何も急かさなかった。


 空。

 風。

 夕暮れ。

 その全部が、今だけはまだ、ふたりの沈黙を壊さずに受け止めている。


 やがて雛乃が、小さく息を吸う。


 まだ言葉にはならない。

 でも、その呼吸の置き方は、もう告白の手前にある人のものだった。


 希夢は、夕陽に照らされた彼女の輪郭を静かに見つめながら、この屋上が

 真相へ向かう直前に、最後に感情を置くための場所

 になっているのだと、はっきり感じていた。


 雛乃は、すぐには話さなかった。


 屋上のフェンスの前。

 夕陽を横から受けたまま、ただ立っている。

 さっきから何度も息を吸っているのに、そのどれもが言葉の形までは届かない。


 希夢は、少し離れた位置でその沈黙を見ていた。


 急かせば、壊れる。

 そう分かった。

 今の雛乃の中にあるものは、問いかければ出てくる種類の話ではない。

 むしろ、問いを置いた瞬間に別の言葉へ逃げてしまう気配があった。


 風が吹く。


 フェンスがごく小さく鳴る。

 校庭の方から、遠くの部活の声が薄く届く。

 教室や廊下で感じた“音が吸われる感じ”と違って、ここでは音がまだちゃんと外の広さを持っていた。


 それでも、この屋上だけは静かだった。


 静かなのは空間のせいではない。

 雛乃がまだ何も言えていないせいだと、希夢には分かった。


 彼女の右手が、フェンスの横棒を握っている。


 細い指。

 白いシャツの袖口。

 そこへ夕陽がかかって、金属の冷たい光と肌のやわらかい色が重なっている。


 けれど、その手に入っている力はやわらかくなかった。


 指が白くなるほど、強く握っている。


 爪の先にまで力が入っていて、今にも金属の冷たさをそのまま骨へ流し込みそうな握り方だった。


 希夢は、その手を見て胸の奥が少しだけ痛くなる。


 言葉が出ない時、人は何かを掴む。

 机の端。

 自分の袖。

 鞄の持ち手。

 そうやって身体のどこかへ現実の硬さを渡しながら、内側で崩れそうなものをどうにか留める。


 今の雛乃にとって、そのフェンスがそうなのだろう。


「……雛乃」


 希夢は、できるだけ静かに名前を呼んだ。


 雛乃の肩が、小さく揺れる。


 返事はない。

 でも、聞こえていないわけではなかった。

 むしろ逆で、ちゃんと聞こえてしまったからこそ、次の呼吸が少し浅くなったのが分かる。


 雛乃は、なおもフェンスの向こうを見ていた。


 校庭の先。

 住宅街の屋根。

 電線。

 沈みかけた空。


 何か特定のものを見ているわけじゃない。

 視線を自分の内側へ落としきらないために、外の景色へ預けているだけだ。


 希夢は、その横顔を見つめる。


 泣いてはいない。

 でも、平静でもない。

 目元はまだ崩れていないのに、その少し手前でずっと踏みとどまっている顔だった。


 風がまた吹く。


 雛乃の髪が揺れて、頬にかかり、それを払うこともできないまま元へ戻る。

 その一連の動きさえ、どこか慎重すぎて見えた。


 まるで今は、髪を払う程度の何でもない仕草でさえ、

 余計な一歩になってしまうのを恐れているみたいに。


「……ごめんなさい」


 ようやく出た言葉は、それだった。


 小さい。

 ほとんど風の中へ溶けるくらいの声。


 希夢は、すぐには返さない。


 ごめんなさい。

 その一言の中に、何が入っているのかがまだ多すぎた。


 呼び出したことか。

 待たせていることか。

 言えないことか。

 あるいは、これから言おうとしている内容そのものか。


 雛乃は、フェンスを握る手にさらに少しだけ力を込めた。


「何から言えばいいのか、分からなくて……」


 声はかすかに震えていた。

 でも、泣き声にはまだなっていない。


 希夢は、そこでようやく短く答える。


「順番じゃなくていい」


 雛乃が、ほんの少しだけ顔を動かす。

 振り返るまではいかない。

 でも、声だけはちゃんと受け取ったのだと分かる。


「言えるところからでいい」


 その言い方が正しいかどうかは分からなかった。

 けれど、少なくとも“きれいに説明しなくていい”ことだけは伝えたかった。


 事故のことも、夢のことも、Gate-X のことも、

 ここまで来てなお順序立てて話せるものなんてひとつもない。

 むしろ、断片のままでしか出てこないからこそ本物のこともある。


 雛乃は、黙ったまま小さく頷いた。

 でも、そのあとまた沈黙が落ちる。


 夕方の光が少しずつ低くなる。

 屋上の床へ落ちたフェンスの影が長くなり、

 その隙間に雛乃の影も細く伸びる。


 希夢は、その影を見る。


 少し震えている。

 風のせいだけじゃない。

 立っている本人の内側にある揺れが、そのまま影へ出ているのだ。


 雛乃は、ようやくこちらへ半分だけ向き直る。

 完全にではない。

 逃げ場を残した角度のまま。


 そのまま、何か言おうとして、やはり言葉にならない。


 喉が動く。

 唇が少し開く。

 けれど、その先で止まる。


 希夢は、今度こそ本当に急かさなかった。


 この沈黙は、空白ではない。

 言葉の前にある圧だ。

 感情がまだ輪郭を持ちきらず、でももう喉元まで上がってきている時の沈黙。


 それを無理に崩したら、きっと別の、もっと軽い言葉へ変わってしまう。


「……先輩のことですか」


 気づけば、希夢はそう言っていた。


 問いというより、確認に近かった。

 雛乃がいま抱えている重さの中心に、何があるのかを。


 雛乃の目が、そこで初めてはっきり揺れる。


 それだけで十分だった。

 答えはもう出ている。


「……はい」


 やっと落ちた返事は、息に近かった。


 希夢の胸の奥で、静かに何かが沈む。


 やはりそうだ。

 裕也のことだけではない。

 最深部へ行くかどうかの話だけでもない。

 雛乃はここへ、鹿島先輩に関わる何かを持ってきている。


 風がまた吹く。


 今度は少し強く、雛乃のスカートの裾と髪を揺らした。

 彼女は反射的にフェンスを握り直す。


 指先が白い。

 それほどまでに、今の自分を保つために力が要るのだろう。


 希夢は、その手から目を離さずに言う。


「無理しなくていい」


 すると雛乃は、かすかに首を振った。


「無理じゃないと、言えない気がするんです」


 その返答に、希夢は何も言えなかった。


 正しいと思ったからだ。


 こういう話は、自然には出てこない。

 痛みや恐れや、認めたくないものを、少しだけ無理に押し上げて、やっと言葉になる。


 雛乃は、目を伏せる。


 夕陽がまつ毛の影を頬へ落とす。

 その影まで繊細で、少し触れただけで崩れそうに見えた。


「……今日ずっと、考えてたんです」


 雛乃の声は、まだ小さい。

 でも、さっきまでよりは少しだけ前へ出てきていた。


「教室でも、授業中でも、

 ノート見てる時も……

 ずっと」


 希夢は、静かに聞く。


「何を」


 その問いに、雛乃はすぐには答えない。

 ただ、フェンスを握る手の力だけがさらに強くなる。


「言ったら、変わるかなって」


 ぽつり、と落ちる。


 希夢は、そこで初めて少しだけ息を詰める。


 言ったら変わる。

 それは、この物語の中ではあまりに重い感覚だった。


 記憶は切られる。

 名前は抜ける。

 現実は少しずつ再構成される。

 そういう世界の中で、“言葉にすること”はただの表現では済まない。


 雛乃もそれを、もう知ってしまっているのだ。


「でも」


 雛乃が、かすかに顔を上げる。


「言わないまま行く方が、たぶんもっとだめで……」


 その一言で、希夢はようやく分かる。


 彼女はただ思い出を打ち明けたいのではない。

 これから最深部へ向かう前に、

 言葉にしておかなければ置き去りになるものを、ここへ置こうとしているのだ。


 鹿島先輩のこと。

 夢のこと。

 自分の感情のこと。


 それを言わないまま最深部へ行けば、

 また何かが途中で抜け落ちるかもしれない。

 だから、今ここで置く必要がある。


 希夢は、ゆっくり頷いた。


「……うん」


 それ以上は言わない。

 たぶん今の雛乃に必要なのは、励ましよりも“ここで言っていい”という静かな許可だけだ。


 雛乃は、やっとフェンスから片手を離す。

 けれど、もう片方はまだ強く握ったままだ。


 その半端さが、彼女の今の状態そのものだった。

 少しだけこちらへ来ている。

 でも、まだ全部は手放せない。


 夕陽が、さらに傾く。


 屋上の空気は少し冷え始めていた。

 それでも、雛乃の頬だけは夕方の光でほのかに温かく見える。


 彼女は、息をひとつ吸った。

 今度の呼吸はさっきまでと違う。

 まだ震えている。

 けれど、次に来る言葉のために置かれた呼吸だった。


 希夢は、何も言わずにその瞬間を待つ。


 フェンス。

 夕陽。

 風。

 沈黙。

 その全部が、次の一言のためにだけ静かに揃っているようだった。


 雛乃は、しばらく唇を結んだままだった。


 夕暮れの屋上。

 フェンスを握る片手。

 風に揺れる髪。

 その全部が、言葉になりきらない感情をぎりぎりのところで支えているみたいに見えた。


 希夢は、何も急かさなかった。


 もう分かっている。

 次に出てくる言葉は、軽い思いつきでも、曖昧な相談でもない。

 雛乃が今日一日ずっと胸の奥で抱えて、何度も飲み込みかけて、それでも最終的にはここへ持ってこなければならなかったものだ。


 風が吹く。

 雛乃の指が、フェンスの横棒をまた少し強く握る。


「……昨日の夜」


 ようやく落ちた声は、ひどく小さかった。


 でも、はっきりしていた。

 もう逃げないと決めた人の声だった。


 希夢は、静かにその先を待つ。


「先輩の夢を見たんです……」


 その一文が、夕暮れの空気の中へ落ちた瞬間、屋上の風景が一段だけ遠くなる。


 希夢は、胸の奥で小さく息を止めた。


 先輩。

 ここで雛乃がそう呼ぶ相手は、もうひとりしかいない。


 鹿島先輩。


 事故の日、白い中心の前に立っていた人。

 「見ないで、希夢」と名前を呼んだ人。

 止めようとして、それでも止めきれなかった人。


 雛乃は、まだこちらを見ていない。

 横顔のまま、少しだけ伏せた目で言葉を続ける。


「最初は、夢だってすぐ分かりませんでした」


 声は震えていた。

 だが、その震えは崩れそうな弱さというより、

 思い出してはいけないものを丁寧に手前まで引き寄せている時の震えだった。


「ただ、白かったんです。

 前にも見たのと少し似てて……

 でも、いつもの夢の白さとは違ってました」


 希夢は、そっと問い返す。


「どう違ったの」


 雛乃は、すぐには答えない。

 言葉を探すためにではなく、その感覚へもう一度触れ直しているみたいだった。


「……静かすぎたんです」


 やがてそう言う。


「何もない感じじゃなくて、

 何かが、ずっと息をひそめてるみたいな静けさで」


 その表現に、希夢の背中が小さく冷える。


 それは旧観測棟の最深部に近い。

 音が消えたわけではない。

 でも、そこにあるはずのものが、別の層へ沈みながら静まっているような感じ。


 雛乃は、少しだけ俯いたまま続ける。


「その中に、先輩がいたんです」


 希夢の胸の奥が、静かに縮む。


 鹿島先輩。

 夢の中で。


「立ってた、っていうのとも少し違って……」


 雛乃の指が、フェンスの上でわずかに震える。


「そこに、ちゃんと気配があったんです。

 輪郭も見えて、背中も見えて、

 でも、夢の中の普通の人みたいに“いる”感じじゃなくて……

 白い中で、そこだけがやっと人の形を保ってるみたいな」


 希夢は、思わず喉を鳴らした。


 それは、自分が記憶断層の中で見た鹿島先輩の残り方に近い。

 はっきりした人物でありながら、同時に白へ飲み込まれかけている輪郭。


 雛乃は、そこで初めて少しだけこちらへ顔を向ける。


 目元が揺れていた。

 泣いてはいない。

 でも、あと少しで涙になりそうな透明な緊張がある。


「先輩、こっちを見てたわけじゃないんです」


 希夢は、黙って聞く。


「でも、私には分かったんです。

 あ……これ、私に向かってるって」


 その言い方は、ひどく静かだった。


 夢の中で、直接目が合ったわけではない。

 でも、意識の向きだけがはっきり自分へ触れた。

 その感覚は、希夢にも想像がついた。


 白い壁の前で、自分の名前だけを呼ばれた時と似ている。


「それで」


 雛乃は、唇を少しだけ噛む。


「先輩が、名前を呼んだんです」


 希夢の鼓動が、一段だけ重く落ちる。


 やはり、そこへ来る。


「……誰の?」


 問い返しながらも、半分は分かっていた。


 雛乃は、ごく小さく答える。


「私のです」


 風が、ふたりのあいだを抜ける。


 夕暮れの屋上。

 フェンス。

 長く伸びた影。

 その全部が、今の一言だけを受け止めて静かになった気がした。


「“雛乃”って」


 彼女は続ける。

 声はもう、ほとんど囁きだった。


「すごくはっきり聞こえたわけじゃないんです。

 でも、夢の中で確かに、

 ああ、いま先輩が私の名前を呼んだ、って分かって……」


 希夢は、胸の奥に言いようのない重さが広がるのを感じる。


 鹿島先輩は、事故の日に自分の名前を呼んだ。

 そして今、雛乃の夢の中でも彼女の名前を呼んだ。


 それは単なる偶然ではない。

 観測者。

 名前での指定。

 夢という未固定の接触面。

 それらが、また別の形で重なっている。


 雛乃は、目を伏せたまま言う。


「怖かったです」


 その言葉は正直だった。


「でも、それだけじゃなくて……

 悲しい感じがしたんです」


 希夢は、ゆっくり息を吸う。


「悲しい?」


 雛乃は、小さく頷く。


「呼び方が、助けを求める感じじゃなかった」


 そこで少し言葉が切れる。

 それから、苦しいほど慎重に続きを置く。


「……置いていく前の呼び方、みたいだったんです」


 その一文に、希夢の胸が強く痛む。


 置いていく。

 それは別れの響きを持っている。

 でも、完全な断絶ではない。

 むしろ、届かなくなる前に最後に名前だけを置いていくような、そういう切なさだ。


 雛乃の声は、そこからさらに細くなった。


「夢の中で、先輩の声、すごく遠くはなかったんです。

 でも近くもなくて。

 手を伸ばしたら届きそうなのに、

 その“届きそう”のところだけが白くぼやけてて……」


 希夢は、目を閉じかけて、やめる。


 その情景は、あまりにも痛いほど分かってしまったからだ。


 事故の日の記憶断層。

 白い中心。

 鹿島先輩の背中。

 手を伸ばしても、そこだけが現実として繋がらない距離。


 雛乃は、そこで初めてフェンスから片手を離した。

 だが、離した手は行き場をなくしたみたいに胸の前で小さく揺れ、それからそっと自分の腕を抱く。


「私、最初は……」


 少しだけ掠れた声。


「夢の中の先輩が、助けてって言ってるのかと思ったんです」


 希夢は、何も言わない。

 言えない。


「でも違った」


 雛乃は、ゆっくり首を振る。


「助けて、じゃなくて……

 もっと静かで……

 ただ、そこにいるって知らせるみたいな呼び方で」


 その表現に、夕暮れの空の色が急に遠くなる。


 ただ、そこにいる。

 助けを求めるのではなく、自分がまだ完全には消えていないことだけを、名前のかたちで渡してくる。


 それは、希望にも絶望にも片寄らない。

 だからこそ、いちばんつらい。


「……雛乃」


 希夢がようやく名前を呼ぶと、雛乃はそこで小さく目を閉じた。


「ごめんなさい」


 またその言葉だった。

 でも今度は、呼び出したことへの謝罪ではない。


「私、先輩のこと、ちゃんと受け取れなかった気がして」


 その一言に、希夢は息を詰める。


 夢の中の名前。

 悲しみを含んだ気配。

 そこに込められていたものを、自分は読み切れなかった。

 そういう後悔が、彼女の中にはもう生まれているのだ。


 けれど希夢には、今の時点でそれを責めることなんてできなかった。


 むしろ逆だ。

 夢という不安定な接触の中で、名前を呼ばれたこと、それをここまで言葉にして持ってきたこと自体が、すでに十分すぎるほど重い。


「……それで、今日ずっと考えてたんです」


 雛乃は、ゆっくりと目を開ける。


「これ、言わないで最深部に行ったら、

 また途中で切れる気がして」


 希夢は、静かに頷いた。


 その感覚は、たぶん正しい。

 記憶は欠ける。

 名前は抜ける。

 現実は少しずつ再構成される。

 そういう世界の中で、まだ言葉になるうちに置いておかなければならないものがある。


 鹿島先輩が、夢の中で雛乃の名前を呼んだ。

 それはもう、偶然の印象では済まない。


 希夢は、夕暮れの光の中で揺れる雛乃の輪郭を見つめながら、その告白が

 最深部へ向かう前に渡された、もうひとつの“観測の痕”

 なのだと感じていた。


 雛乃の

 「先輩の夢を見たんです……」

 という言葉の余韻は、すぐには夕暮れの空へ溶けなかった。


 屋上の風はまだ吹いている。

 フェンスは小さく鳴る。

 遠くの部活の声も、途切れ途切れに届く。


 それでも、希夢にはもう、ここが学校の屋上というだけの場所には思えなかった。


 いま雛乃が見ていた夢の残り香が、まだこの場に少しだけ重なっている。

 そんな気がした。


 雛乃は、自分の腕を抱いたまま、しばらく空を見ていた。

 夕陽はもう強くはない。

 光というより、輪郭だけをやわらかく残す色に近い。


「先輩の気配が……」


 雛乃が、ぽつりと続ける。


「普通の夢の人と違ったんです」


 希夢は、静かにその先を待つ。


「そこにいるのに、

 ちゃんとここにいない感じで」


 言葉を探しながら、雛乃は少しだけ眉を寄せた。


「近いのに、遠くて。

 遠いのに、こっちのことだけはちゃんと知ってるみたいで……」


 その表現は、希夢の胸の奥へ深く落ちた。


 知っている。

 自分も、似た感覚に触れている。


 事故の日の記憶断層で見た鹿島先輩。

 白い中心の前に立ち、自分の名前を呼び、振り返ろうとしていた背中。

 あの人もまた、近いのに届かない場所にいた。


 雛乃は、フェンスから離した手を胸元で握る。


「先輩、悲しそうだったんです」


 その声は、ひどく小さい。

 けれど、そこにはさっきまでのためらいより、もっとはっきりした確信があった。


「泣いてるとかじゃないんです。

 苦しそうでもなくて。

 でも……」


 一度、言葉が止まる。


 希夢は急かさない。


 雛乃は、ゆっくり息を吸ってから続けた。


「もう取り返せないことを知ってる人の悲しさ、みたいな感じで」


 希夢は、喉の奥が静かに痛くなるのを感じた。


 それは派手な絶望じゃない。

 叫びでも、怒りでもない。

 もっと静かな、でもそれだけに逃げ場のない感情だ。


「それに」


 雛乃の視線が、ようやく希夢の方へ少しだけ向く。


「後悔も、あった気がするんです」


「後悔」


 希夢が繰り返すと、雛乃は頷く。


「はい。

 何かを守れなかった、とか……

 間に合わなかった、とか……

 そういう感じ」


 その言葉は、鹿島先輩の記憶断層の姿と、痛いほど自然に重なった。


 白い中心の前で、右手を伸ばしていた先輩。

 何かを止めようとしていた背中。

 そして、最後に

 「見ないで、希夢」

 と叫んだ声。


 あの声の奥にあったものが、いま雛乃の夢の中では

 悲しみと後悔の混ざった気配として現れているのかもしれない。


 風が少し強く吹く。


 雛乃の髪が頬にかかり、彼女は今度はちゃんとそれを耳へかけた。

 さっきまで出来なかった小さな動作が、ようやく一つできたことに、希夢はほんの少しだけ安堵する。


「でも、一番強かったのは」


 雛乃が、静かに言う。


「守ろうとしていた感じでした」


 希夢は、そこで息を止めた。


「守ろうとしていた?」


「はい」


 雛乃は、今度ははっきりと頷く。


「私を、って言い切れるかは分からないです。

 でも、夢の中の先輩の気配って、

 怖がらせる方じゃなくて……

 何かがこっちへ来ないように、ぎりぎりで立ってる感じだったんです」


 その一文で、希夢の中にあった断片がまた一つ繋がる。


 事故の日。

 鹿島先輩は白い中心と希夢のあいだへ身体を入れようとしていた。

 ただ真相の中心にいたのではなく、

 何かがこちら側へ届くのを止めようとしていた。


 その姿勢が、雛乃の夢の中では

 “守ろうとしていた気配”

 として別角度から現れていたのだ。


「名前を呼ばれた時も」


 雛乃は、少しだけ震える声で続ける。


「呼ばれてうれしいとか、

 近づきたいとか、そういう感じじゃなかったんです」


 希夢は黙って聞く。


「むしろ逆で……

 あ、これ以上行ったらだめなんだ、って思ったんです」


 その感覚に、希夢ははっきり頷いた。


 白い壁の前で名前を呼ばれた時、自分が感じたものと似ている。

 引かれる。

 でも同時に、そこに応えたら決定的に何かが変わるとも分かる。

 そして鹿島先輩の声は、まさにその“越えてはいけない一歩”の手前で響いていた。


「……だから」


 雛乃は、ゆっくりと言う。


「先輩の夢だったのに、

 先輩に会えた、とは思えなかったんです」


 その一言は、ひどく切実だった。


 会えた、ではない。

 気配が届いた。

 名前を呼ばれた。

 でも、それは再会ではなく、

 まだ完全には切れていない痛みの延長に近い。


 雛乃は、目を伏せる。


「悲しかったです。

 でも、それ以上に……

 先輩、まだあの場所で何かを止めようとしてる気がして」


 希夢の胸の奥が、ゆっくり締まる。


 事故は過去で終わっていない。

 Gate-X は折り返し点として残り、現実へ干渉を返している。

 そう仮説が立った今、この夢の意味もまた変わる。


 鹿島先輩の気配は、単なる残留思念みたいなものではないのかもしれない。

 むしろ、いまだに続いている“防壁の意志”のようなものが、雛乃の夢という柔らかい接触面にだけ触れたのだとしたら。


「……雛乃」


 希夢は、静かに名前を呼ぶ。


 雛乃は顔を上げる。


「その夢の中で、先輩はこっちへ来なかった?」


 問いは慎重だった。

 もし来ていたなら、意味が変わる。

 守るのではなく、引き寄せる側になる可能性もある。


 だが雛乃は、すぐに首を振った。


「来なかったです」


 その答えははっきりしていた。


「ずっと、あっち側にいた。

 でも、完全に向こうへ消えた感じでもなくて……

 その場所から動けないまま、

 こっちを見てるような、そういう気配でした」


 動けない。

 それは、縛られているのか、留まっているのか。

 まだ分からない。


 けれど少なくとも、鹿島先輩の気配は

 “こちらを引き込もうとするもの”

 ではなかった。


 むしろ、境界の向こう側から、ぎりぎりのところで見守るものに近い。


 希夢は、そこでようやく深く息を吐く。


 少しだけだが、救いだった。

 白い壁の奥にいるものが、すべて同じ方向を向いているわけではないと分かったからだ。


 Gate-X は呼ぶ。

 名前を指定する。

 観測を成立させようとする。

 だが、その近くにあってもなお、鹿島先輩の気配は別の方向を保っている。


 雛乃は、小さく続ける。


「だから私……

 怖かったけど、少しだけ安心もしたんです」


 希夢は、目を細める。


「安心?」


「はい」


 雛乃は、夕陽の方を見ながら言う。


「先輩、完全には向こうのものになってない気がして」


 その言葉は、希望というより、細い観測だった。


 断定ではない。

 でも、夢の中で触れた気配の質からすれば、そうとしか言えない。

 そういう慎重な希望。


 希夢は、その言葉の重さを静かに受け止める。


 鹿島先輩は、事故の日に消えた過去の人ではないのかもしれない。

 少なくとも、白い中心の近くでいまだに“守ろうとする側”の気配を残している。


 それは、最深部へ向かう自分たちにとって恐ろしい事実であると同時に、

 わずかな救いでもあった。


「……ありがとう」


 希夢がそう言うと、雛乃は少しだけ驚いた顔をした。


「え」


「言ってくれて」


 それは慰めではなかった。

 この夢は重い。

 聞いたからといって楽にはならない。

 でも、ここまで来た今、鹿島先輩の気配が

 “悲しみと後悔”だけでなく“守ろうとする意志”を保っていたと知れたことは、大きかった。


 雛乃は、しばらく黙ってから、小さく頷く。


 夕暮れの光は、もうかなり低い。

 ふたりの影は長く伸び、フェンスの影と重なって、少しだけ形を曖昧にしている。


 それでも今は、その曖昧さが嫌ではなかった。


 雛乃の夢が持ってきたのは、ただの不穏さじゃない。

 最深部へ向かう前に置かれた、

 鹿島先輩の“まだ守ろうとしている気配”

 という、かすかな方向性だった。

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