世界のひずみ
翌朝、教室へ入った瞬間、希夢は足を止めた。
見た目は、いつもの朝だった。
窓から差し込む光。
まだ少し眠たげな空気。
机の列。
黒板の上に掛かった時計。
廊下の向こうで誰かが笑って、別の誰かが急いで走っていく音。
何ひとつ、壊れていない。
それなのに、教室の空気だけが少し薄かった。
冷たいわけでもない。
乾いているわけでもない。
ただ、ひと息吸うたびに、肺の奥まで届くはずの空気が、途中でほんの少しだけ軽くなる。
希夢は、無意識にもう一度息を吸った。
吸える。
苦しくはない。
でも、どこか足りない。
まるでこの教室だけが、昨日までの現実からごくわずかにずれて、
同じ形をした別の空気に置き換わってしまったみたいだった。
「……おはよう」
後ろから声がした。
希夢は振り返る。
クラスメイトの女子が、鞄を肩にかけたままこちらを見ていた。
「あ……おはよう」
自分の返事は普通に出た。
けれど、その直後だった。
相手が椅子を引く音が、
ほんの一拍だけ遅れて耳に届く。
希夢は、瞬きをした。
気のせいかと思う。
でも、次に誰かが机へ教科書を置いた音も、
廊下で鳴った足音も、
黒板の前で先生がチョークを持ち替えるかすかな音さえ、
全部がごくわずかに“あとから”来る。
ズレは小さい。
一秒もない。
だから、普通にしていれば見落とせる程度だ。
けれど、いまの希夢にはその微細な遅れが、
ひどく不気味だった。
自分の見ている世界と、
自分の聞いている世界が、
同じ場所を指していない。
そんな感じがした。
希夢は、自分の席へ向かう。
足元の床はいつも通りだ。
硬さも、歩幅も、変わらない。
それなのに、机の列のあいだを抜ける間じゅう、
教室全体が薄い膜を一枚かぶったみたいに遠い。
席の横で立ち止まる。
机。
椅子。
ノート。
筆箱。
自分の持ち物は、昨日までと同じようにそこにある。
でも、“そこにある”という感覚が少しだけ弱い。
希夢は、机の縁へ指先を置いた。
木の硬さが返ってくる。
けれど、その感触まで、ほんの少し遅れて認識される。
「……何これ」
小さく漏れた声は、自分にしか届かないくらいの弱さだった。
教室の後ろでは、誰かが今日の小テストの話をしている。
前の方では、朝の提出物を集める係が友達と何か言い合っている。
日常はちゃんと動いている。
むしろ、普段より静かに整いすぎているくらいだ。
その“整いすぎている感じ”が、逆に希夢を落ち着かなくさせた。
昨日までなら、何か異常が起きればもっと分かりやすく空気が乱れた。
夢やノイズや、白い揺れの気配が先に来た。
けれど今朝は違う。
異常は、もっと静かだ。
静かすぎて、
現実そのものの接合部だけがわずかにずれているように見える。
希夢は、視線を横へ流した。
裕也の席がある。
空いていた。
昨日と同じように。
そしてその空席は、昨日よりもさらに“静かにそこにある”ように見えた。
不在の輪郭だけが、まわりの空気より少し濃い。
希夢の胸の奥が、小さく痛む。
だが今朝の違和感は、裕也の空席だけではなかった。
教室全体が、裕也の不在を中心にして、
ごくわずかに軋んでいる。
その軋みは音にならない。
誰にも聞こえない。
でも、希夢の身体にははっきり分かった。
窓際のカーテンが少しだけ揺れる。
その揺れに、外の風の音が半拍遅れて重なる。
誰かが笑う。
その笑い声の最後だけが、妙に長く残る。
椅子の脚が床を擦る。
けれど、その擦れる音は床の上ではなく、
教室のどこかもう一枚奥の空間で鳴っているみたいに聞こえる。
希夢は、そこでふいに怖くなる。
この教室は、いつもの教室のはずだ。
登校して、席について、朝のホームルームを待つだけの場所のはずだ。
なのに今は、
旧観測棟の白い壁の前で感じた“向こう側の呼吸”と、
まったく別の形で地続きになっている。
白い壁はここにはない。
Gate-X も見えていない。
それでも、現実の表面だけが少しずつ軋み、
こちら側の世界そのものが、
何かに観測されたあとの残り方へ近づいている気がした。
「希夢さん」
低い声に、希夢ははっと顔を上げる。
雛乃だった。
いつの間にか、席の横まで来ている。
おはよう、といつもの調子で言おうとしたのだろう。
でも、その前に希夢の顔色を見て止まったらしい。
「……どうかしました?」
雛乃の声は小さい。
そして、やはりほんの少しだけ遅れて耳に届く。
希夢は、思わず苦く笑いそうになる。
でも笑えなかった。
「雛乃、なんか……」
言いかけて、うまく言葉が見つからない。
空気が薄い。
音が遅い。
現実が少しだけずれている。
そんなことをそのまま言えば、
自分がもう普通の感覚の側にいないと、改めて認めることになる。
けれど雛乃は、希夢が言い淀んだ時点で、もう半分理解していたみたいだった。
彼女もまた、教室を一度ゆっくり見回してから、
ひどく小さな声で言う。
「……ありますよね」
希夢は、目を見開く。
雛乃は、かすかに頷く。
「音、変です。
あと……空気も」
その一言で、希夢の背中を冷たいものが走る。
自分だけじゃない。
気のせいじゃない。
雛乃も、この教室の“わずかなズレ”を感じている。
朝の光はまだ柔らかい。
窓の外では、運動部が校庭を横切っていく。
教室の時計も動いている。
何も壊れていない。
それでも、現実の側がもう少し前から、
静かに軋み始めていた。
しかもその軋みは、
誰かが騒げば見つかるような大きな異常ではない。
日常の形を保ったまま、
ごくわずかに因果の噛み合わせだけを狂わせていく種類のものだった。
希夢は、自分の席へゆっくり腰を下ろす。
椅子の音が、また少しだけ遅れて聞こえる。
その一拍の遅れが、今朝の世界を決定的にしていた。
現実は、もう崩れてはいない。
そのもっと手前で、
静かに軋み始めている。
雛乃が「ありますよね」と言ったあと、希夢はしばらく何も返せなかった。
自分だけじゃない。
その事実は救いになるはずだった。
けれど実際には、違った。
もしこの教室の違和感が自分だけのものなら、
疲れているとか、昨日のことを引きずっているとか、そういう言葉でまだ片づけられた。
でも雛乃も同じように感じているなら、
これはもう“自分の内側だけの揺れ”では済まない。
教室そのものが、少しだけずれている。
希夢は、机に肘をつかないように気をつけながら、もう一度だけ教室全体を見渡した。
最初に気づいたのは、机の列だった。
乱れているわけではない。
誰かがふざけてずらしたような派手な違いでもない。
けれど、前から三列目の窓側、男子の机が、ほんの数センチだけ内側へ寄っている。
昨日までなら、通る時にもう少し肩がぶつかりそうになったはずの幅が、今日は妙に広い。
「……あれ」
小さく呟く。
雛乃が視線を辿る。
「机ですか」
「うん」
希夢は目を細める。
「位置、ちょっと違わない?」
雛乃はすぐには答えず、教室の列を慎重に見た。
その見方が、もう普通の朝の女子高生のものではなかった。
夢の断片と現実のズレを照合する人の見方だった。
「……違います」
やがて、雛乃が小さく言う。
「少しだけですけど」
その一言で、希夢の胸がまた静かに冷える。
机の位置なんて、些細なことだ。
誰かが掃除で動かしただけかもしれない。
休み時間にふざけて寄せたのかもしれない。
でも、今朝はそういう“いくらでもある説明”が、どれも決定打にならない。
なぜなら、この教室の違和感は机だけではないからだ。
前の方の席で、女子二人が何か話して笑った。
その笑い声に、希夢はふっと視線を向ける。
顔も、動きも、いつも通りだ。
片方はよく通る声で、もう片方は少し鼻にかかった笑い方をする。
毎日聞いている、ありふれた朝の会話だった。
なのに、その“声色”だけが少し違う。
高いとか低いとか、そういう単純な違いじゃない。
もっと微妙だ。
たとえば、普段ならもう少し明るく跳ねる語尾が、今日は半音だけ沈んでいる。
逆に、穏やかな声の方に、わずかに乾いた硬さが混ざっている。
声そのものは同じ人のものなのに、
声が乗っている“感情の厚み”だけがずれている。
希夢は、無意識に背筋を伸ばす。
「……変」
雛乃も、小さく同じことを言った。
視線が合う。
二人とも、まったく同じ場所を見ていたらしい。
「声もですよね」
雛乃の囁きに、希夢は頷く。
「ちょっとだけ、合ってない」
その表現がいちばん近かった。
偽物みたいに露骨ではない。
誰か別人の声にすり替わっているわけでもない。
でも、日常の中で長く聞いてきた音の“馴染み方”が、ほんの少しだけ狂っている。
クラスメイトたちは普通にしている。
誰もおかしがっていない。
つまり、希夢と雛乃にだけ、この微細なずれが見えているのかもしれない。
その考えに至った瞬間、希夢は机の下で指先を握り込んだ。
Gate-X。
白い壁。
名前を呼ぶ声。
それらを見たあとで戻ってきた“現実”が、本当に昨日までと同じである保証は、もうどこにもない。
黒板の前で、係の男子がプリントを数えている。
その指の動きはいつも通りだ。
紙を揃える癖も、少しだけ猫背になる立ち方も変わらない。
けれど、紙の角を整える音だけが、奇妙に小さい。
いや、小さいというより、音が出たあとに“そこに定着しない”。
教室の中の音は、みんな少しだけ薄い。
響かない。
残らない。
その代わり、意味だけが遅れて届く。
希夢は、視線を自分の机へ落とした。
ノートの位置。
筆箱の向き。
椅子との距離。
全部、自分で昨日置いたはずのままだ。
なのに、そこにもまた妙な違和感がある。
ノートが、ほんの数ミリだけ右に寄っている気がする。
いや、右というより、
“昨日置いた座標”から微妙にずれたところへ再配置されている感じだった。
「……ねえ」
希夢が言うと、雛乃がすぐ顔を向ける。
「雛乃の机、違和感ない?」
雛乃は一瞬だけ固まり、それから自分の机を見下ろした。
教科書。
ペンケース。
ハンカチ。
すぐには分からない。
でも、三秒ほど見つめたあと、その顔がわずかに曇る。
「……あります」
「どこ」
「位置っていうより……」
雛乃は言葉を探すみたいに、机の端へそっと触れる。
「ちゃんと置いてあるのに、
昨日、自分が置いた感じが少し薄いです」
その一言に、希夢は息を止めた。
まさにそれだった。
物の配置が完全に変わっているわけではない。
ただ、“自分がここへ置いた”という連続性だけが薄くなっている。
それは机や教室だけの違和感ではない。
もっと根本的に、
現実と記憶の接着面そのものが浮いている感覚だった。
雛乃の指先が、机の縁で小さく震える。
「昨日の続き、ですよね」
その声は、ひどく低かった。
希夢は、すぐには答えなかった。
でも、答えはもう半分決まっている。
第九章の終わりに見た白い壁。
名前を呼ぶ声。
不完全な Gate-X。
あの前で自分は問いを置いた。
ここで、俺(私)は何を選べばいい?
その答えはまだ返っていない。
だが、その問いを置いたことで、現実の側に何かの反作用が始まったのかもしれない。
「……たぶん」
ようやく、希夢はそう言う。
「向こうで何かが動いたせいで、
こっちの“普通”の方が少しずつずれてる」
言ってしまうと、言葉は妙にしっくりきた。
現実が壊れたんじゃない。
もっと静かで、もっと不気味な変化だ。
普通の形をしたまま、普通の中身だけが少しずつ合わなくなっていく。
その時、教室の前扉が開いた。
数人の生徒が入ってくる。
そのうちの一人が「やば、間に合った」と笑った。
その声に、希夢はまた小さくぞっとする。
言葉は合っている。
表情も合っている。
でも、その笑い方の“温度”だけが、微妙に他人みたいに遠い。
教室の中にいる全員が、少しずつ昨日の連続から外れている。
いや、外れているのは自分たちの方なのかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、希夢の胸の奥で何かがひどく静かに軋んだ。
雛乃も同じだったのか、机に置いた手をそっと引く。
「……落ち着かない」
その言葉は、泣きそうでも怯えきってもいない、
もっと手前の正直な違和感だった。
希夢は、教室全体をもう一度見る。
いつもの机。
いつもの人たち。
いつもの朝。
なのに、その“いつも”を構成している微細な要素が、どれもほんの少しずつずれている。
まるで、昨日までの世界を正確に複写しようとして、
細部の位相だけを微妙に間違えた再構成みたいに。
その不気味さは、派手な異常よりもずっと深かった。
了解しました。
第十章『現実は、静かに軋んでいた』
Part A-3:希夢の視界の“揺らぎ” を進めます。
第十章
現実は、静かに軋んでいた
Part A:世界のひずみ
A-3:希夢の視界の“揺らぎ”
教室の“僅かな違い”に気づいてしまってから、希夢はもう元の見方へ戻れなくなっていた。
机の位置。
声色のずれ。
音の遅れ。
それらはどれも小さい。
小さすぎて、普通なら無視できる程度のものだ。
けれど、一度その継ぎ目を見つけてしまうと、世界の表面は急に脆く見え始める。
希夢は、教室の中央より少し窓側へ寄った空間を、ぼんやりと見ていた。
そこには何もない。
誰も立っていない。
机もない。
窓の光が床へ落ちているだけの、ただの空白だ。
そのはずだった。
なのに、次の瞬間、希夢の視界の中でそこへ細い光の筋が浮いた。
「……っ」
息が止まる。
筋、といってもはっきりした線ではない。
白い糸を空中へ一本だけ引いたような、極薄い揺れ。
長くはない。
数センチか、せいぜい十数センチほど。
それが何もない空間の中で、ふっと現れて、すぐに消える。
残像かと思った。
朝の光がガラスに反射しただけかもしれない。
目の疲れで、一瞬だけ視界の中に光が走ったのかもしれない。
そう考えて、希夢は一度だけ強く瞬きをする。
だが、消えたはずのその場所に、今度は少しだけ角度を変えて、また同じような細い筋が浮かんだ。
今度は見間違いではなかった。
細い。
揺れている。
真っ白ではない。
むしろ、白になりきれない光の輪郭だけが、空間の表面へ一瞬だけにじみ出たような見え方だった。
しかもその消え方が、ひどく嫌だった。
ぱっと消えるのではない。
薄くなっていくのでもない。
何もなかった場所へ、そのまま“戻る”ように消える。
希夢の背中を、冷たいものがゆっくり走る。
知っている。
この揺れ方を。
旧観測棟の中心部。
白い壁。
手招きするように軌道を描いていた光。
そして、その中で不完全な形のまま浮かび始めた黒い楕円。
Gate-X。
完全な穴になる前の、
こちら側の空間へ“揺れ”としてにじみ出るあの前兆と、
今、教室の何もない空間に浮いては消えた光の筋は、
同じ質感を持っていた。
「……希夢さん?」
雛乃の声が、すぐ横から小さく届く。
その声で、希夢は自分がかなり長く一点を見つめていたことに気づいた。
「今、何か……」
言いかけて、止まる。
何かが見えた。
そう言うのは簡単だ。
だが、“何”なのかを説明しようとした瞬間、教室の空気がまた一段だけ薄くなる気がした。
雛乃は、希夢の視線の先を追う。
何もない空間。
窓からの光。
床の一部。
それだけだ。
「見えたんですか」
その問いは、驚きよりも確認に近かった。
雛乃も、もうこういう問い方をするようになってしまっている。
希夢は、喉の奥を小さく鳴らしてから答える。
「……光」
「光?」
「筋みたいなのが、浮いた」
雛乃の表情が、かすかに強張る。
「どこに」
希夢は、さっきの空間を指さす。
その瞬間、指先の先でまた細い揺れが生まれた。
今度は先ほどよりさらに短い。
けれど、はっきり見えた。
白い線ではない。
淡い光の皮膚だけが、空間の上を一瞬だけ裂いていくみたいな揺れ。
希夢の呼吸が浅くなる。
「今」
雛乃が、すぐにそちらを見る。
けれど、彼女は小さく首を振った。
「私は……見えないです」
その返答に、希夢の胸の奥がまたひとつ冷える。
やはり自分だけだ。
音の違和感や机のずれは共有できた。
だが、この揺らぎだけは、いまのところ自分の視界にしか現れていない。
教室の前方で、誰かが立ち上がる。
椅子が擦れる音が、また少しだけ遅れて届く。
その何でもない動きのすぐ手前を、今度はもう少し長い光の筋が斜めに走る。
誰にもぶつからない。
何にも触れない。
ただ、空間の中にだけ現れて、すぐに戻る。
まるで、見えない何かの境界が、
教室の中へ薄く侵入し始めているみたいだった。
「……Gate-X と同じだ」
希夢が、思わずそう呟く。
雛乃の目が大きく揺れる。
「同じって……」
希夢は、視線を揺らぎから外せないまま答える。
「形は違う。
でも、揺れ方が同じ」
寄って、消えるのではない。
浮いて、消えるのでもない。
空間そのものが、一瞬だけ“向こう側の位相”へ触れて、また戻る。
あの感じだ。
旧観測棟の最深部で見た光の軌道は、もっと濃かった。
もっと意志を持って、自分の一歩を待っていた。
でも、今教室の中に現れている細い筋は、その“予告編”みたいだった。
まだ小さい。
まだ不安定だ。
けれど、同じ原理の揺れが、もう日常の空間へ染み出している。
希夢は、そこで初めて本気で怖くなる。
旧観測棟の中でだけ起きているなら、まだ“場所の問題”として考えられた。
危険な施設。
封じられた事故現場。
そこに近づかなければいい、という理屈も残せた。
けれど今は違う。
教室の中。
朝の光の中。
クラスメイトたちが何も知らずに笑っているこの場所に、
Gate-X と同じ揺れ方をした光が、薄く、しかし確実に現れている。
それはもう、現象が“あちら側”へ閉じていないということだった。
「……広がってる」
希夢の声は、ほとんど息に近かった。
雛乃が顔色を変える。
「何が」
「向こうの揺れが」
言ってしまったあとで、その言葉が妙にしっくりきてしまうのが嫌だった。
向こう。
白い壁の奥。
Gate-X の向こう側。
記憶の断層。
失われたものが沈んでいく場所。
その揺れが、もう施設の最深部だけに留まっていない。
自分の周囲の現実へ、ごく薄い筋となってにじみ始めている。
雛乃は、何も見えていないはずなのに、その空間をじっと見つめたまま小さく言う。
「……嫌な感じがします」
希夢は、ゆっくり頷く。
見える見えないの差はあっても、雛乃もこの場所の質の変化は感じているのだろう。
空間が少しだけ軽くなり、音が遅れ、机や声や物の位置がわずかにずれる。
その延長線上に、この光の筋がある。
教室の後ろで、誰かが鞄を落とした。
がたん、と大きめの音がして、周囲が少し笑う。
その日常の真ん中を、今度は二本の細い揺らぎが交差するように浮かんで、すぐに消えた。
希夢の指先が、机の縁を強く掴む。
あれは偶然ではない。
もう一度見えた。
しかも今度は、ただ一筋ではなかった。
白い壁の前で見た軌道の、ごく細くごく弱い断片が、
この教室の空間そのものへ浮かび始めている。
Gate-X は、まだここに出現していない。
黒い楕円も見えていない。
それでも、そこへ至る“揺れの文法”だけが、もう現実へ入り込んでいた。
希夢は、そこでようやく視線を雛乃へ戻す。
「たぶん、始まってる」
雛乃の顔が、静かに強張る。
「何が」
希夢は、教室全体を一度だけ見渡した。
机。
光。
クラスメイト。
日常。
その全部の上に、薄い膜のように重なる微細な揺らぎ。
「現実の方が」
その答えは、自分でも嫌になるほど自然に出た。
壊れたわけじゃない。
まだ誰も消えていない。
何かが大きく裂けてもいない。
でも、静かに、確実に、
向こう側の揺れ方がこちら側の空間へ学習され始めている。
その不気味さだけは、もうごまかしようがなかった。
了解しました。
第十章『現実は、静かに軋んでいた』
Part A-4:静かすぎる廊下 を進めます。
第十章
現実は、静かに軋んでいた
Part A:世界のひずみ
A-4:静かすぎる廊下
一時間目の開始前、希夢は教室を出た。
理由があったわけではない。
トイレへ行くふりをしたのか、空気を吸いに出たかったのか、自分でもうまく説明できない。
ただ、あの教室の中で“何もない空間に浮く光の筋”を見続けているのが、もう限界だった。
雛乃は何も言わなかった。
止めもしない。
でも、希夢が席を立った瞬間に、小さく目だけを上げた。
その視線に、
戻ってきてください
という言葉にならない温度があるのを感じながら、希夢は教室の前扉を開けた。
廊下へ出た瞬間、違和感はさらに深くなった。
静かすぎる。
授業前の廊下なら、もっと音があるはずだった。
隣のクラスから漏れてくる笑い声。
プリントを配る紙の擦れる音。
階段を駆け上がる足音。
誰かが友達の名前を呼ぶ声。
そういう小さな日常の音が、いつもなら何層にも重なって漂っている。
なのに今は、廊下が妙に広く感じられるほど音が少なかった。
無音ではない。
遠くで誰かが話している気配はある。
別の教室で椅子が引かれる音も、かすかには聞こえる。
けれど、それらは全部、壁や床に触れる前に薄く削られてしまう。
廊下の空気そのものが、音を吸っているみたいだった。
希夢は、扉を閉めたまま、その場で一度立ち止まる。
白い壁。
古い掲示物。
窓から差し込む朝の光。
どれも見た目は変わらない。
それなのに、この廊下だけが
音の死んだ場所
みたいに感じられた。
右の方から、男子生徒が二人歩いてくる。
普段なら、靴底が床を打つ音だけで誰か分かるくらい、それぞれの歩き方には癖がある。
だが今日は、その足音が奇妙に浅かった。
こつ、こつ、と鳴っている。
鳴っているはずなのに、すぐ消える。
音が反響しない。
いや、反響する前にどこかへ吸われる。
希夢は、その二人が自分の横を通り過ぎるまでじっと見ていた。
会話している。
笑っている。
口は動いている。
でも、その笑い声の輪郭だけが薄く、何を言っているかより先に“発話した”という事実だけが遅れて残る。
「……変」
小さく呟いた自分の声さえ、廊下の中ほどまで届かずに落ちた気がした。
希夢は、廊下の窓際へ歩く。
数歩分の距離なのに、いつもより長い。
音がついてこないせいで、自分の身体だけが先に進み、世界が半歩遅れて後ろからついてくるみたいだった。
窓の外には校庭が見えた。
運動部の朝練がまだ終わっていないらしく、数人が走っている。
その姿は普通だ。
だが、外から聞こえてくるはずの掛け声まで、今日は妙に遠い。
遠いだけではない。
いったん校庭で鳴った音が、校舎の壁へ届く前にどこか別のところへ抜けているような、妙な空白がある。
希夢は、廊下の床へ視線を落とす。
ワックスの残る鈍い光沢。
窓枠の影。
自分の靴先。
その床の上に、また一瞬だけ光の筋が浮いた。
「……っ」
細い。
白い。
何もないはずの空間を、斜めに短く裂くような揺れ。
教室で見たものと同じだった。
だが、こっちの方が少しだけ長い。
そして消え方がもっと不気味だった。
浮いて、消えるのではない。
床の表面へにじみ出た何かが、
廊下の奥へ吸い込まれるように引いていく。
希夢の喉がひどく乾く。
この廊下は静かなのではない。
音がないのでもない。
音も光も、どこかへ流れている。
その“流れ先”が、はっきり見えないだけだ。
希夢は、ゆっくりと廊下の奥を見る。
階段へ続く角。
曲がり角の先。
掲示板の端。
どこにも異常はない。
けれど、空間の密度だけが均一ではなかった。
奥へ行くほど薄い。
薄いのに、重い。
それは第九章で旧観測棟の内部を進んだ時に感じたものと、よく似ていた。
施設の最深部へ近づくほど、音が吸われ、空気が帯電し、光が別の呼吸を始める。
今、この学校の普通の廊下でも、同じ種類の変化がごく弱く起きている。
希夢は、背中に冷たいものが走るのを感じる。
Gate-X は、まだここに見えていない。
白い壁もない。
名前を呼ぶ声もない。
それでも、向こう側の“受け皿”だけが少しずつ用意され始めている。
その時、教室の中からチャイム前の小さなざわめきが漏れた。
いつもなら、廊下の壁に当たって柔らかく広がるはずの音だった。
だが今日は違う。
教室の内側から出てきた音が、廊下の途中で急に薄くなり、
まるで見えない裂け目に吸われるみたいに、形を失う。
希夢は、その音の消え方を見た気がした。
実際に見えるはずがない。
それでも、あまりに不自然だった。
音が死んでいる。
というより、
音が“こちら側の廊下”として残る前に、別の層へ渡されている。
「……世界が、軋んでる」
そう呟いた時、自分の声だけがやけに生々しく耳へ戻った。
戻った、というより、
いったん消えかけたあと、少し遅れて自分の後頭部の近くへ返ってきたような聞こえ方だった。
希夢は、ぞっとして振り返る。
誰もいない。
当然だ。
自分の声なのだから。
でも、その“遅れて返る感じ”は、教室で感じた音の遅れよりさらに直接的だった。
廊下の静けさは、単に環境音を削っているんじゃない。
聞こえるはずの順番そのものを、微妙に狂わせている。
その順番の狂いが、現実の表面にもっとも小さなひずみとして現れている。
希夢は、無意識に両手を軽く握る。
この廊下は、誰にも異常が見えないまま、静かに別の空間へ近づいている。
教室の中よりも、むしろこっちの方が露骨だった。
人がいる場所ではまだ日常の密度が保たれる。
だが、少し人の気配が薄い場所では、
向こう側の揺れ方がすぐに空間へ染み出す。
それは、あまりにも嫌な理屈だった。
学校という、いちばん普通であるはずの場所が、
静かに“別の現実の導線”へ変わり始めている。
希夢は、教室の扉へ視線を戻した。
中には雛乃がいる。
クラスメイトたちもいる。
まだ誰も、自分みたいに細い光の筋を見ている様子はない。
でも、もしこの静かすぎる廊下の感じがさらに強くなったら。
もし、音だけじゃなく、机や声色だけじゃなく、
日常そのものの接着面がもっと浮き始めたら。
その先に何が起きるのか、もう想像したくなかった。
希夢は、深く息を吸おうとして、やめた。
この廊下では、空気まで少しだけ薄い。
それを確かめるほど、現実の異常がはっきりしてしまう気がしたからだ。
ただ、扉の前へ戻る。
一歩ずつ。
自分の足音は、やはり短く吸われる。
残らない。
響かない。
それが、この廊下の静けさをいちばん不気味にしていた。
静かだから怖いのではない。
音がちゃんと存在できない場所
になり始めているから怖いのだ。
希夢は、教室の扉の前で立ち止まった。
向こうから、雛乃の気配がかすかにする。
まだこちら側だ。
まだ日常の側へ戻れる。
けれど、その“まだ”の時間は、思っているより短いのかもしれないと、廊下の静けさが静かに告げていた。




