選択前夜
通路の奥へ進むにつれて、白さの質がまた少し変わっていった。
上階の白は、古い蛍光灯が無理に空間を照らしているだけの白だった。
だがここは違う。
照明が白いのではなく、空間そのものが白を含んでいるみたいだった。
希夢は、筆箱を抱えたまま歩く。
一歩。
また一歩。
足音は浅い。
だが、消えるわけではない。
短く折れて、それでもどこか別の層へ染み込むように残る。
通路の終わりに近づくほど、その残り方が変わる。
音が壁に跳ね返るのではなく、前方へ吸われる。
まるで、この先の空間が音まで飲み込みながら待っているみたいだった。
希夢の喉が、静かに乾く。
天井の照明は、相変わらず浅く脈打っている。
だが、ここまで来ると“照明が脈動している”のではなかった。
照明の白さが、前方の何かと呼吸を合わせているだけだと、身体の方が先に知ってしまう。
通路の最後の角を曲がる。
そこで、空間が開けた。
広い、というほどではない。
けれど、ここまでの通路や踊り場とは明らかに違う。
中心部。
その言葉が、説明より先に胸へ落ちる。
部屋というより、施設の心臓部だけを切り出したような空間だった。
天井は少し高い。
壁は白い。
床は灰色に近い色をしているのに、そこにも薄く白が沈んでいる。
四方の輪郭はある。
あるのに、どこか一点へ向かって全部が引かれている気配がある。
希夢は、その入口で立ち止まった。
そして、見た。
白い壁。
最初は、ただの壁に見えた。
奥の正面にある、大きく平たい白い面。
旧観測棟の他の部屋にもありそうな、何の変哲もない壁。
だが、次の瞬間、その見え方が静かに反転する。
ただ白いのではない。
白が深すぎる。
塗装の白ではない。
照明が当たった白でもない。
もっと奥行きのない奥行きを持った白だった。
見ていると、壁面そのものがごく浅く呼吸しているように見える。
膨らむ。
沈む。
また膨らむ。
その拍に合わせて、天井の光もわずかに揺れた。
「……っ」
希夢の頭の奥に、白い圧が戻る。
痛み。
それでも、さっき階段で受けたような一気の奔流ではない。
もっと静かで、もっと深い。
記憶が押し寄せるというより、記憶の中心が目の前にあることで、頭の内側が勝手に共鳴し始める痛みだった。
筆箱を持つ手が、小さく震える。
希夢は、空いた方の手で壁際の金属フレームに触れた。
冷たい。
その冷たさはまだ現実のものだ。
そのことだけが、かろうじて“ここに立っている今の自分”を保っている。
けれど視線は、正面の白から切れなかった。
白い壁の表面に、ごく薄い揺らぎが走る。
最初は、照明の反射かと思った。
だが違う。
反射なら、光源の位置に従って動くはずだ。
いま壁に現れているそれは、もっと内側からの揺れだった。
白の表面を、細い軌道がすべる。
線ではない。
点でもない。
淡い光の粒が、まとまりきらないまま一定の軌道を描いて動いている。
ゆっくり。
しかし、迷いなく。
希夢の呼吸が止まりかける。
その動きには見覚えがあった。
第七章の白い部屋で、机の少し上に集まり始めた粒。
Pattern-X3 の波形が、寄ってほどけてまた寄るあの呼吸。
雛乃が夢で見た、光が面になる手前の揺れ。
それらが今、ここでは軌道として見えている。
光がただ存在しているのではない。
動いている。
しかも、その動きは自然現象の散漫さではなかった。
手招きみたいに見えた。
外へ向かって広がるのではない。
中心へ引き込み、また少しだけ戻し、もう一度深く引く。
誘うような、試すような、こちらの一歩を待つような軌道。
希夢の背中に冷たいものが走る。
「……やめろ」
小さく呟く。
だが、その声には自分でも分かるほど力がなかった。
光の軌道は止まらない。
白い壁の前で、いや、白い壁の中で、ごく浅く円を描くように揺れ続ける。
その揺れを目で追った瞬間、希夢の身体のどこかが一歩前へ出そうとした。
自分で命じたわけじゃない。
足が勝手に進んだわけでもない。
ただ、進む手前の力だけが、膝の奥に生まれる。
希夢は、歯を食いしばってそれを止める。
ここまで来ると分かる。
この施設の中心部は、ただ記憶を呼び戻す場所ではない。
こちらの身体の重心そのものへ働きかけてくる。
光の軌道が、また一度だけ深くなる。
白い壁の中央に近い位置で、淡い粒が内側へ沈み、すぐに少しだけ戻る。
まるで、
ここまで来い
と無言で示すみたいに。
希夢の胸が、きしむように痛む。
鹿島先輩が止めようとしていたもの。
裕也が引かれていったもの。
雛乃の夢に現れた白い揺れ。
その全部が、ここではひとつの動きとしてまとまっていた。
白い壁は、壁ではないのかもしれない。
少なくとも、普通の意味での壁ではない。
遮るためにあるのではなく、
何かの境界を白く塗りつぶして“こちら側に見える形”へしているだけなのかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、頭の奥で白いノイズがざらりと鳴る。
階段で見た記憶の断層。
鹿島先輩の右手。
最初の爆ぜ。
白の奥に差した黒の気配。
それらが一気に、目の前の白い壁へ繋がる。
「……ここか」
声は、ほとんど息に近かった。
事故の中心。
観測の臨界点。
裕也の不在が吸い込まれていった先。
そして、自分の欠けた記憶が最後に口を閉ざした場所。
この施設の中心部は、ただ奥にある広い部屋ではない。
全部の断片が最後に集まる白い面だった。
希夢は、無意識に一歩だけ前へ出る。
床は硬い。
でも、その硬さの奥で、何か別の膜が薄く揺れた気がした。
天井の照明が、今まででいちばん浅く、しかし長く脈動する。
白い壁。
揺らぐ天井。
手招きするような光の軌道。
ここはもう、事故のあとに残った施設ではない。
まだ選択が起き続けている場所だ。
希夢の喉がひどく乾く。
怖い。
それでも、目を逸らせない。
なぜなら、あの光の軌道の中に、自分が何を選ばされるのかの輪郭が、まだ言葉になる前の形で含まれていると感じてしまうからだ。
白い壁の前で、希夢はしばらく立ち尽くしていた。
壁は相変わらず、ただの壁の形をしている。
四角い面。
白い塗装。
目立った継ぎ目もない。
なのに、見ているほど“物としての壁”から遠ざかっていく。
表面は静かだ。
だが、その静けさの下で、白さそのものがごく浅く脈を打っている。
天井の照明の揺れと同期し、床の薄い反射とも呼応して、
この空間の中心だけが別の呼吸を続けている。
希夢は、筆箱を抱えた腕へ少しだけ力を込めた。
冷たい。
その冷たさが、まだ現実の重さを持っている。
裕也の筆箱。
教室の延長にある、どうしようもなく普通の物。
それを抱えている限り、自分はまだこちら側にいる。
そう思いたかった。
けれど、正面の白い壁の中で揺れる光の軌道は、その細い安心を静かに削ってくる。
手招きしているように見える。
だが、誰かが手を振っているわけじゃない。
光の粒の流れそのものが、
一歩だけ、こちらへ来い
と無言で誘っている。
希夢は、喉の奥をひとつ鳴らす。
「……見えてるだけだ」
自分へ向けてそう言う。
だが、その声は白い空間の中ですぐに薄くなり、ほとんど何も残さない。
その時だった。
白い壁の奥で、ごく浅い揺れが生まれる。
光の軌道が、ふっと止まる。
止まったように見えた次の瞬間、白の深さそのものが少しだけ変わる。
奥行きがないはずの白の中に、
さらに奥の白
が生まれる。
希夢の背中に、細い冷気が走った。
声が来る。
理由もなく、そう分かった。
耳で聞く前に、胸の奥の方が先に知る。
これは音じゃない。
少なくとも最初の入り方は、空気の振動ではない。
名前を呼ばれる前の、
“自分へ向けられた意識だけが先に触れる感覚”だった。
白い壁の深部が、ほんのわずかに脈打つ。
どくん。
その拍に合わせて、希夢の鼓動も一拍だけ遅れる。
胸が、空白を抱えたまま静かに引き絞られる。
そして、来る。
――希夢。
声は大きくない。
叫びでもない。
むしろ驚くほど静かだった。
けれど、その静けさの方が恐ろしかった。
耳元で囁かれたわけじゃない。
壁の向こうから響いたわけでもない。
もっと直接、
自分の名前だけが、身体の中心へ落ちてくる
みたいな届き方だった。
「――っ」
希夢の呼吸が止まる。
今のは、鹿島先輩の声ではない。
少なくとも、第七章や第九章前半で記憶の断層から届いた
「見ないで、希夢」
の声とは違う。
温度がない。
怒りも焦りもない。
優しさも、切迫もない。
なのに、拒めない。
その声は、感情で押してくるのではなく、
最初から自分の名前を知っているものの静かな確信として届いていた。
「……誰」
希夢の口から、かすれた声が漏れる。
返事はすぐには来ない。
だが、白い壁の光の軌道が、ほんの少しだけ深くなる。
呼ばれた。
その事実だけで、膝の奥に“前へ出る手前の力”がまた生まれる。
希夢は、歯を食いしばってそれを止める。
だめだ。
この声は危ない。
そう頭のどこかは分かっている。
けれど同時に、どうしても切れない感覚がある。
知っている。
この呼ばれ方を。
思い出せるわけじゃない。
でも、自分の欠けた記憶の奥に、
こういうふうに名前だけを静かに呼ばれた場所
が確かにある。
その既視感が、強すぎる。
白いノイズが、頭の奥でざらりと揺れる。
痛みにはまだならない。
だが、記憶の断層がまた開く直前の、あの薄い危うさがある。
白い壁の中の光は、今度は手招きというより、
ゆっくりと円を描くように軌道を変える。
寄る。
沈む。
また寄る。
その動きの中心から、もう一度だけ声が落ちる。
――希夢。
今度は、少し近い。
近いのに、距離では説明できない。
前方から来るのではなく、
名前を呼ばれたという事実だけが内側で完成する。
希夢の胸が、きしむ。
呼ばれている。
誰かにではない。
光そのものに。
その理解が生まれた瞬間、足元の硬い床が一瞬だけ遠く感じられた。
物理的な距離が変わったわけじゃない。
ただ、自分の重心だけが少し前へ引かれる。
希夢は、とっさに抱えた筆箱へ意識を戻す。
冷たい。
手の中にある。
裕也の物。
日常の重さ。
その現実を掴み直さなければ、次の瞬間にもう一歩出てしまうと分かった。
「……違う」
小さく、しかし必死に呟く。
「お前じゃない」
誰へ向けた言葉か、自分でもはっきりしない。
白い壁か。
呼ぶ声か。
それとも、自分の中でその声に応えかけている何かへか。
だが、白い壁は答えない。
ただ、呼吸みたいな脈動だけを続ける。
その静けさの中で、希夢は気づく。
この声は、問いかけていない。
「来い」とも「見ろ」とも言っていない。
ただ、名前を呼ぶだけだ。
それが一番深い。
命令なら反発できる。
誘惑なら疑える。
でも、ただ静かに名前だけを呼ばれると、
応える側の意志の方が先に試されてしまう。
希夢は、唇を強く結ぶ。
自分の名前。
観測者:KIRISHIMA。
鹿島先輩が守ろうとした入口側の希夢。
全部が、この呼び声の中へ静かにつながっていく。
この施設の中心部は、事故の残骸ではない。
まだ、選別を続けている。
誰を呼ぶのか。
誰が応えるのか。
どこで境界を越えるのか。
その選択の手前で、白い壁はずっと静かに待っていたのだと、
希夢はようやく理解する。
名前を呼ばれる。
それは単なる接触じゃない。
もっと直接的に、
観測者としてこちらを指定する行為
なのだ。
希夢の背中に、冷たい汗がにじむ。
怖い。
それでも、耳を塞いでも意味がないことも分かっていた。
この声は耳から入っていない。
目を閉じてもたぶん変わらない。
名前という形で、自分の中心へ直接触れてくる。
「……っ」
喉の奥から、短い息が漏れる。
すると、白い壁の光がごくわずかに柔らかくなる。
反応した。
自分の呼吸に。
その事実が、希夢の恐怖をさらに深くする。
やはり待っている。
こちらの揺れを。
応答を。
たった一歩の重心の移動を。
白い壁の中で、淡い軌道がもう一度だけ円を描く。
その中心から、三度目の声が落ちる。
――希夢。
今度は、ほとんど優しかった。
優しい、ように聞こえた。
でもそれは救いの優しさではない。
拒絶を解いてしまうための、最も危うい柔らかさだった。
希夢は、そこでようやく本能的に悟る。
この声に応えたら、たぶん戻り方が変わる。
いままでのように“見てしまった側”では済まない。
自分から名を受け取り、向こうの呼びかけに返してしまった瞬間、
観測者であることが受動ではなく、選択へ変わってしまう。
だから、声は名前しか呼ばないのだ。
選べ、とも言わずに。
ただ、名だけを渡してくる。
希夢は、筆箱を胸元へ強く引き寄せたまま、その白い壁を見返していた。
応えない。
でも、聞いてしまった。
その段階まで、もう来ている。
――希夢。
白い壁の奥から落ちてくるその呼び声を、希夢はまだ拒みきれずにいた。
応えていない。
返事もしていない。
それでも、名前を呼ばれたという事実だけが、もう身体の中心へ深く入り込んでいる。
筆箱を抱えた腕へ力を込める。
冷たい。
その冷たさだけが、辛うじて“いまここにあるもの”の輪郭を渡してくる。
けれど、その輪郭さえ、少しずつ薄くなる。
白い壁の前に立ったまま、希夢はふいに足元の感覚が遠のいていくのを感じた。
床はある。
コンクリートの硬さも、靴底へ返ってくる重さも、確かにある。
なのに、その硬さが“自分を支えている”という感覚だけが、静かに抜け落ちていく。
「……っ」
息を呑む。
落ちるわけではない。
穴が開くわけでもない。
でも、足下に積み重なっていた時間だけが、少しずつ剥がれていくような感覚があった。
教室。
昼休み。
雛乃の涙。
裕也の空席。
仲田先生の目を逸らす顔。
それらが、いまこの施設の中心部から見ると、ひどく遠い場所の出来事に思えてしまう。
遠いだけではない。
そこへ戻るための足場そのものが、ゆっくり崩れている。
希夢は、とっさに視線を背後へ向けた。
通路がある。
来た道のはずだ。
白い壁。
曲がり角。
脈打つ照明。
それは見えている。
なのに、“あの先に雛乃がいる”という実感が、さっきよりずっと薄い。
声を出せば届くかもしれない。
でも、その“届くかもしれない”に確信が持てない。
孤独、という言葉が浮かぶ。
ひとりでいることとは違う。
物理的に誰もいないことでもない。
もっと厄介で、もっと深い。
自分の名前を知っているものが前にいて、
自分の名前を呼び戻してくれるはずの人の気配が後ろで薄くなっていく時の孤独。
それが、いまの希夢の胸へ静かに広がっていた。
白い壁の中の光の軌道が、またゆっくりと円を描く。
寄る。
沈む。
また寄る。
その動きに合わせて、足元の時間がひとつずつ抜けていく気がする。
高校一年の春。
理科室のにおい。
部室の机。
裕也の乾いた声。
雛乃のノートの字。
そういうものが、消えるわけではないのに、一歩ずつ“いまの自分を支える重み”を失っていく。
「……やめろ」
希夢は小さく言う。
だが、白い壁は答えない。
ただ静かに、こちらの孤独が深くなるのを待っているみたいだった。
その時、頭の奥で、また過去の断片が浮かぶ。
鹿島先輩の背中。
右手。
「見ないで、希夢」という声。
あの時も、自分は入口側にいた。
守られる側にいた。
誰かが間に立ってくれる位置にいた。
でも、今は違う。
いま白い壁の前に立っているのは、自分だけだ。
鹿島先輩はいない。
裕也もいない。
雛乃は後ろにいるはずなのに、この白の中心から見ると、もう“届く側”ではなくなりかけている。
その事実が、希夢の胸の奥を空洞みたいに冷たくする。
自分だけが残っている。
そう思った瞬間、足元の感覚がさらに一段だけ浅くなる。
床が消えたわけじゃない。
でも、過去の記憶が足下を抜け落ちていく。
鹿島先輩といたはずの時間。
裕也と過ごした日常。
雛乃に名前を呼ばれて戻ってこられた時間。
そういうものが、今ここでは“支え”ではなく“向こう側に失われたもの”として、下へ沈んでいく。
希夢は、急にひどく怖くなった。
このまま立っていたら、
自分は過去を思い出すのではなく、
過去の支えを全部失った状態で、名前だけを呼ばれる存在になってしまうのではないか。
それは、観測者というより、
白い壁の前で選択だけを迫られる空の器に近かった。
「……俺(私)は……」
言葉が漏れる。
一人称がまた揺れる。
それは記憶が混ざっているからだけではない。
いまここで“自分を自分として支えていたもの”が少しずつ足元から抜け落ちているからだ。
俺。
私。
どちらで呼んでも、少し足りない。
少し遅い。
その不安定さが、孤独をさらに深くする。
白い壁の中の光が、ごく浅く脈打つ。
また名前が来る。
そう分かる。
分かるだけで、胸がきしむ。
そして案の定、静かな声が落ちる。
――希夢。
優しくも、冷たくもない。
ただ、確実だ。
その確実さが残酷だった。
ここでは、誰も自分を説明してくれない。
鹿島先輩のように守ってくれる人もいない。
雛乃のように「戻ってきて」と呼んでくれる声も、いまは遠い。
あるのは、自分の名前だけだ。
そして、その名に応えるかどうかという、剥き出しの選択だけ。
希夢は、そこでようやく悟る。
孤独とは、誰もいないことじゃない。
選ぶ瞬間に、どの記憶もどの関係も自分の代わりになってくれないことだ。
鹿島先輩の記憶は、自分をここまで連れてきた。
裕也の筆箱は、失われたものの痛みを教えた。
雛乃の夢は、向こう側の形を示した。
でも、この白い壁の前で、最後に一歩を出すか止まるかだけは、自分にしか決められない。
その当たり前が、圧倒的だった。
希夢は、筆箱を抱く腕をさらに強くする。
手の中の冷たさ。
布のざらつき。
中で転がる小さな文具の重み。
それだけが、まだこちら側の現実として残っている。
だからこそ、なおさら孤独だった。
これを持っているのは自分だけ。
裕也の続きを知ろうとしているのも自分だけ。
呼ばれているのも、自分だけ。
足元の時間が、また一枚だけ剥がれる。
教室の昼の光。
雛乃の震える手。
その記憶が、いまは“遠いもの”として胸の後ろへ沈む。
希夢は、そこで初めてはっきりと寂しさに似たものを感じた。
怖い。
痛い。
でもそれよりも、
誰にも代われない位置へ押し出されている寂しさ
の方が、いまは強かった。
白い壁の光は、なお静かに手招きする軌道を描いている。
それは急かさない。
脅しもしない。
ただ、孤独が十分に深くなるのを待っているみたいに、何度も同じ円をなぞる。
希夢は、その白を見返したまま、唇を強く結ぶ。
応えない。
まだ、応えない。
けれど、孤独の深さだけはもう否定できなかった。
自分の過去が足元から抜け落ちていく。
それでもなお、自分の名前だけはここに残される。
その状態で、白い壁の前に立っている。
それがどれほど圧倒的かを、希夢はようやく身体で知ってしまっていた。
――希夢。
白い壁の奥から落ちてくるその呼び声を、希夢はまだ拒みきれずにいた。
応えていない。
返事もしていない。
それでも、名前を呼ばれたという事実だけが、もう身体の中心へ深く入り込んでいる。
筆箱を抱えた腕へ力を込める。
冷たい。
その冷たさだけが、辛うじて“いまここにあるもの”の輪郭を渡してくる。
けれど、その輪郭さえ、少しずつ薄くなる。
白い壁の前に立ったまま、希夢はふいに足元の感覚が遠のいていくのを感じた。
床はある。
コンクリートの硬さも、靴底へ返ってくる重さも、確かにある。
なのに、その硬さが“自分を支えている”という感覚だけが、静かに抜け落ちていく。
「……っ」
息を呑む。
落ちるわけではない。
穴が開くわけでもない。
でも、足下に積み重なっていた時間だけが、少しずつ剥がれていくような感覚があった。
教室。
昼休み。
雛乃の涙。
裕也の空席。
仲田先生の目を逸らす顔。
それらが、いまこの施設の中心部から見ると、ひどく遠い場所の出来事に思えてしまう。
遠いだけではない。
そこへ戻るための足場そのものが、ゆっくり崩れている。
希夢は、とっさに視線を背後へ向けた。
通路がある。
来た道のはずだ。
白い壁。
曲がり角。
脈打つ照明。
それは見えている。
なのに、“あの先に雛乃がいる”という実感が、さっきよりずっと薄い。
声を出せば届くかもしれない。
でも、その“届くかもしれない”に確信が持てない。
孤独、という言葉が浮かぶ。
ひとりでいることとは違う。
物理的に誰もいないことでもない。
もっと厄介で、もっと深い。
自分の名前を知っているものが前にいて、
自分の名前を呼び戻してくれるはずの人の気配が後ろで薄くなっていく時の孤独。
それが、いまの希夢の胸へ静かに広がっていた。
白い壁の中の光の軌道が、またゆっくりと円を描く。
寄る。
沈む。
また寄る。
その動きに合わせて、足元の時間がひとつずつ抜けていく気がする。
高校一年の春。
理科室のにおい。
部室の机。
裕也の乾いた声。
雛乃のノートの字。
そういうものが、消えるわけではないのに、一歩ずつ“いまの自分を支える重み”を失っていく。
「……やめろ」
希夢は小さく言う。
だが、白い壁は答えない。
ただ静かに、こちらの孤独が深くなるのを待っているみたいだった。
その時、頭の奥で、また過去の断片が浮かぶ。
鹿島先輩の背中。
右手。
「見ないで、希夢」という声。
あの時も、自分は入口側にいた。
守られる側にいた。
誰かが間に立ってくれる位置にいた。
でも、今は違う。
いま白い壁の前に立っているのは、自分だけだ。
鹿島先輩はいない。
裕也もいない。
雛乃は後ろにいるはずなのに、この白の中心から見ると、もう“届く側”ではなくなりかけている。
その事実が、希夢の胸の奥を空洞みたいに冷たくする。
自分だけが残っている。
そう思った瞬間、足元の感覚がさらに一段だけ浅くなる。
床が消えたわけじゃない。
でも、過去の記憶が足下を抜け落ちていく。
鹿島先輩といたはずの時間。
裕也と過ごした日常。
雛乃に名前を呼ばれて戻ってこられた時間。
そういうものが、今ここでは“支え”ではなく“向こう側に失われたもの”として、下へ沈んでいく。
希夢は、急にひどく怖くなった。
このまま立っていたら、
自分は過去を思い出すのではなく、
過去の支えを全部失った状態で、名前だけを呼ばれる存在になってしまうのではないか。
それは、観測者というより、
白い壁の前で選択だけを迫られる空の器に近かった。
「……俺(私)は……」
言葉が漏れる。
一人称がまた揺れる。
それは記憶が混ざっているからだけではない。
いまここで“自分を自分として支えていたもの”が少しずつ足元から抜け落ちているからだ。
俺。
私。
どちらで呼んでも、少し足りない。
少し遅い。
その不安定さが、孤独をさらに深くする。
白い壁の中の光が、ごく浅く脈打つ。
また名前が来る。
そう分かる。
分かるだけで、胸がきしむ。
そして案の定、静かな声が落ちる。
――希夢。
優しくも、冷たくもない。
ただ、確実だ。
その確実さが残酷だった。
ここでは、誰も自分を説明してくれない。
鹿島先輩のように守ってくれる人もいない。
雛乃のように「戻ってきて」と呼んでくれる声も、いまは遠い。
あるのは、自分の名前だけだ。
そして、その名に応えるかどうかという、剥き出しの選択だけ。
希夢は、そこでようやく悟る。
孤独とは、誰もいないことじゃない。
選ぶ瞬間に、どの記憶もどの関係も自分の代わりになってくれないことだ。
鹿島先輩の記憶は、自分をここまで連れてきた。
裕也の筆箱は、失われたものの痛みを教えた。
雛乃の夢は、向こう側の形を示した。
でも、この白い壁の前で、最後に一歩を出すか止まるかだけは、自分にしか決められない。
その当たり前が、圧倒的だった。
希夢は、筆箱を抱く腕をさらに強くする。
手の中の冷たさ。
布のざらつき。
中で転がる小さな文具の重み。
それだけが、まだこちら側の現実として残っている。
だからこそ、なおさら孤独だった。
これを持っているのは自分だけ。
裕也の続きを知ろうとしているのも自分だけ。
呼ばれているのも、自分だけ。
足元の時間が、また一枚だけ剥がれる。
教室の昼の光。
雛乃の震える手。
その記憶が、いまは“遠いもの”として胸の後ろへ沈む。
希夢は、そこで初めてはっきりと寂しさに似たものを感じた。
怖い。
痛い。
でもそれよりも、
誰にも代われない位置へ押し出されている寂しさ
の方が、いまは強かった。
白い壁の光は、なお静かに手招きする軌道を描いている。
それは急かさない。
脅しもしない。
ただ、孤独が十分に深くなるのを待っているみたいに、何度も同じ円をなぞる。
希夢は、その白を見返したまま、唇を強く結ぶ。
応えない。
まだ、応えない。
けれど、孤独の深さだけはもう否定できなかった。
自分の過去が足元から抜け落ちていく。
それでもなお、自分の名前だけはここに残される。
その状態で、白い壁の前に立っている。
それがどれほど圧倒的かを、希夢はようやく身体で知ってしまっていた。




