失われたもの
涙を拭ったあともしばらく、希夢は壁にもたれたまま動けなかった。
頭痛は、さっきまでの鋭さではない。
けれど、消えたわけでもない。
白い圧が、額の裏で薄く脈を打ち続けている。
そのたびに、事故の日の白い部屋が、視界の奥でまだ完全には閉じていないことを思い知らされる。
鹿島先輩の声。
伸ばされた右手。
最初の爆ぜ。
そして、暗転。
前半しか見せられなかった記憶の断層は、かえって希夢の胸の中へ重く残った。
終わっていない。
まだ先がある。
その感覚だけが、冷たく、しかし確実に今の自分を押している。
階段の踊り場は静かだった。
上へ戻れば、外階段がある。
雛乃の声がまだ届く位置も、たぶんそこだ。
戻ることはできる。
今なら、まだ。
希夢はそう考える。
だが次の瞬間、その考えは自分の中でひどく薄いものに感じられた。
戻る。
その選択肢を頭では理解しているのに、身体の方が最初から別の方向を知っている。
施設の中央。
その言葉が、どこからともなく浮かぶ。
地図を見たわけじゃない。
案内表示もない。
この旧観測棟の構造を覚えている記憶なんて、意識の上にはないはずだ。
それなのに、いまいる階段の先、さらに下か、あるいは奥へ折れた先に、“中心”があることだけを、身体がひどく自然に知っていた。
「……なんで」
小さく呟く。
返事はない。
あるのは、天井の照明がごく浅く脈打つ白だけだった。
希夢は、壁から背を離す。
膝はまだ少し重い。
でも立てないほどではない。
立ち上がった瞬間、頭の奥で白いノイズが一度だけざらりと走る。
記憶の再流入ではない。
もっと微細な、位置合わせみたいな感覚だった。
そっち。
言葉ではない。
でも、方向だけがはっきりしている。
希夢は、ゆっくりと階段の下を見た。
薄暗い。
けれど、完全な暗闇ではない。
白い蛍光灯がところどころにあり、その光が途中でわずかに沈みながら、下の踊り場へ届いている。
その沈んだ光の先に、廊下が見えた。
まっすぐではない。
途中で右へ折れている。
だが、その先へ視線を向けた瞬間、希夢の胸の奥が小さく締まる。
知っている。
見覚えがある、というより、
足がその曲がり方をすでに知っている。
希夢は、一段だけ下りる。
足裏に返るコンクリートの硬さ。
手すりの冷たさ。
現実の感触は、まだちゃんとある。
それでも、進むごとに妙なことが起きる。
考えるより先に、身体がわずかに進路を調整するのだ。
階段の中央を外し、壁際へ少し寄る。
踊り場では、まっすぐではなく、右側を通る。
何も見ていないはずなのに、角を曲がる前に自然と減速する。
まるで、以前ここを歩いたことがある人間の身体だけが残っていて、
今の意識はその後ろから遅れてついてきているみたいだった。
「……道、覚えてないのに」
希夢は、階段を下りながらそう呟く。
本当に覚えていない。
この施設の下層に来た記憶なんて、自覚の上ではない。
なのに、どこで曲がるか、どこに段差があるか、どこで天井が少し低くなるか、身体だけは妙に正確だった。
踊り場へ降りる。
そこで右へ折れた瞬間、空気の質がまた変わる。
静電気みたいなざわつきは、もう皮膚の表面だけではない。
胸の奥、肋骨の裏、喉の少し下。
そのあたりにまで、ごく細い粒の感覚が沈んでくる。
希夢は思わず足を止める。
止めたのに、次の一歩を出すべき位置だけは、なぜかもう分かっている。
廊下は短い。
両側の壁は白い。
だが、その白は上階のものと少し違う。
塗装の問題ではない。
光の反射が浅すぎるのだ。
まるで、昔ここを満たしていた別の白が、表面のどこかにまだ残っていて、今の照明の白さを薄く押し返しているみたいだった。
希夢は、その白さの中を進む。
一歩。
また一歩。
すると、また奇妙なことが起きる。
前方の角に差しかかる前に、右手が無意識に壁から少し離れる。
次の瞬間、そこには古い配線カバーの出っ張りがあり、もし普通に歩いていれば腕が触れていたはずだった。
避けた。
意識では見ていなかったのに、身体だけが先に知っていた。
希夢の背中が、ぞくりとする。
これは勘ではない。
偶然でもない。
もっと、嫌な正確さを持っている。
思い出しているのではなく、戻っている。
その感覚が、胸の奥でひどく静かに形を持つ。
廊下の先、もう一つの角を曲がる。
すると、そこは少し開けた空間になっていた。
中央ホール、と呼べるほど広くはない。
だが、施設の“中心部へ繋がる前室”みたいな気配がある。
天井がわずかに高くなり、照明の位置も変わっている。
空気のざらつきも、ここで一段だけ深くなる。
希夢は、そこでまた足を止めた。
止めたというより、身体が一度だけ“ここを確認しろ”と命じたような感覚だった。
周囲を見る。
白い壁。
古い床材。
閉まった扉がひとつ。
奥へ続く通路がもう一本。
そして、その奥の方へ視線が向いた瞬間、希夢の頭の奥で何かが小さく弾けた。
記憶の断片ではない。
名前でもない。
ただ、そこへ行かなければならないという、理由のない確信だけが急に深くなる。
裕也がいる、とはまだ言えない。
でも、痕跡ならある。
そういう種類の引きだった。
希夢は、自分の呼吸がまた少し浅くなるのを感じる。
怖い。
それは確かだ。
でも、怖さと同じくらい、進路の自然さがある。
昨日までの自分なら、もっとためらったはずだ。
部屋の中へ入る前に何度も止まり、雛乃の声を思い出し、理屈を探したはずだ。
けれど今は違う。
記憶の奔流に触れたことで、“この施設の中を歩いたことのある身体”の方が一歩だけ前へ出ている。
それに引かれるように、いまの自分の意識が遅れてついていく。
「……勝手に進むなよ」
自分の足に向けて言ったつもりだった。
だが、その声はあまりにも弱く、説得力がなかった。
次の瞬間、希夢はもう奥の通路へ向けて歩き出していた。
自分で決めたのか。
身体が先に選んだのか。
その境界はもう、かなり曖昧だった。
それでも、はっきりしていることがひとつある。
施設の中央は近い。
そしてその近さは、単に距離の問題ではない。
記憶の底と、いまの自分の位置が、少しずつ重なり始めている。
希夢は、呼吸を浅くしたまま、道を覚えていないはずの足に導かれるように、さらに奥へと進んでいった。
了解しました。
第九章『記憶の底で、光が呼ぶ』
Part C-2:床に落ちている裕也の筆箱 を進めます。
第九章
記憶の底で、光が呼ぶ
Part C:失われたもの
C-2:床に落ちている裕也の筆箱
奥へ続く通路を数歩進んだところで、希夢の足がふいに止まった。
自分で止めたというより、
足元の何かが、そこから先へ進むことを一瞬だけ拒んだような感覚だった。
薄暗い通路。
白い壁。
照明の浅い脈動。
そして、その床の中央より少し壁際に寄った位置に、黒いものが落ちている。
最初は、ただのケースかと思った。
けれど、その細長い形と、角についた薄い擦れ傷を見た瞬間、胸の奥がひどく冷たくなる。
「……筆箱」
声に出した途端、それはただの物ではいられなくなった。
希夢は、ゆっくり近づく。
黒地の布製。
ファスナーの持ち手に小さな金属リング。
側面の片隅に、白い糸で雑に補修した跡。
見覚えがあった。
教室で何度も見た。
裕也が机の上に無造作に置いていた、あの筆箱だ。
希夢の喉が、静かに締まる。
こんな場所にあるはずがない。
旧観測棟の、しかもここまで奥に近い通路に、学校帰りの高校生の筆箱だけが落ちているなんて、あまりにも不自然だった。
それなのに、落ちている。
しかもそれは、さっきのスマホと同じだった。
壊れた感じがない。
乱暴に投げ出された形でもない。
ただ、持ち主だけが不自然に抜け落ちて、物だけが時間を止めたみたいに残っている。
希夢は、その場にしゃがみ込んだ。
すぐには触れない。
触れた瞬間に何かがまた開く気がしたからだ。
筆箱は床の白っぽい照明を鈍く吸っている。
この施設の空気のせいか、黒い布地の輪郭まで少し薄く見えた。
ファスナーは閉じている。
中身が飛び出した形跡もない。
なのに、その閉じ方がひどく嫌だった。
きれいすぎる。
途中で落としたなら、もっと雑にずれるはずだ。
ファスナーの金具も、もう少し別の角度で止まるはずだ。
これは落としたんじゃない。
スマホと同じだ。
そこに残されたのだ。
希夢は、ようやく指先を伸ばす。
布地へ触れた瞬間、背中の奥を細い冷気が走った。
「……冷たい」
思わず呟く。
気温のせいではない。
コンクリートの床へ長く置かれていた物の冷え方とも違う。
もっと、“時間の流れから一度外れた物”の冷たさに近かった。
人の手の温度を知っているはずなのに、
その記憶だけが抜け落ちたみたいな冷たさ。
希夢は、息を浅く吸う。
筆箱を持ち上げる。
軽い。
だが、その軽さがやけに現実味を持っているせいで、かえってつらい。
これは本当に裕也の持ち物だ。
夢でも、記憶の断片でもない。
いまこの手にある。
その瞬間、頭の奥で何かが小さく軋んだ。
白いノイズではない。
もっと鈍く、もっと重い。
教室の机。
昼休みの笑い声。
シャープペンの芯を出す乾いた音。
裕也が筆箱を開ける手元。
その平凡な断片が、急にこの冷たい通路の中へ差し込んでくる。
「……なんで」
希夢は、筆箱を両手で持ったまま、呆然と呟く。
なんでここにある。
なんでスマホの次はこれなんだ。
なんで、裕也だけがいなくて、持ち物だけが順番に置き去りにされている。
その問いに、当然答えはない。
だが、答えのないままでもひとつだけ分かることがある。
裕也は、この先へ進んだ。
少なくともスマホを持って、
そしてこの筆箱も持って、
ここまで来た。
そこから先のどこかで、
スマホが残り、
さらに先で筆箱が残った。
つまり、裕也の輪郭は、ここへ来るまでのあいだに少しずつ現実から剥がれていったのかもしれない。
その考えが浮かんだ瞬間、希夢はひどく強い喪失感に襲われた。
いなくなった。
その言い方では足りない。
裕也は突然消えたのではなく、
ここへ至るまでの通路のどこかで、少しずつ“こちら側に属するもの”を落としていったのではないか。
スマホ。
筆箱。
次は何だ。
そして最後に残るのは、何も持たない人の形だけなのか。
希夢の胸が、きしむように痛む。
筆箱を持つ指先へ力が入りすぎて、関節が少し白くなる。
その痛みで、かろうじて今の自分の手だと分かる。
希夢は、筆箱の側面を親指でなぞった。
補修した白い糸。
少し毛羽立った布。
学校生活の中でついた小さな擦れ傷。
どれも見慣れたもののはずなのに、今はその全部が“失われた日常の断片”みたいに見える。
すると、ふいに筆箱の中で、小さく何かが転がる音がした。
から、と乾いた音。
希夢の呼吸が止まる。
中身がある。
当たり前のことなのに、その当たり前がひどくつらかった。
消しゴムか、シャープペンか、芯ケースか。
裕也が昨日まで普通に使っていたものが、まだこの中に入っている。
それなのに、持ち主だけがいない。
「……やめろよ」
誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。
この施設にか。
光の揺らぎにか。
それとも、ここへ物だけを順番に残していった見えない流れそのものにか。
声は小さく、しかしひどく切実だった。
希夢は、その場でしばらく動けなかった。
筆箱は冷たいままだ。
でも、その冷たさの中に、昨日までの裕也の手の気配が薄く残っている気がして、手放すこともできない。
通路の奥からは、何の音もしない。
天井の照明だけが、ごく浅く白く脈打っている。
その脈動に合わせるように、希夢の胸の奥でも、別の痛みがゆっくり広がっていく。
記憶の痛みとは違う。
もっと単純で、もっと人間的な痛みだった。
失ったかもしれないという痛み。
そしてそれは、記憶の欠落よりも、観測者の役割よりも、今この瞬間の希夢を強く揺らした。
裕也の筆箱は、ただの証拠じゃない。
ただの痕跡でもない。
ここまで来てしまったことの、
そしてこの先に“人ではなく物から先に失われていく過程”があることの、
あまりにも静かな証明だった。
希夢は、筆箱を胸の近くへ引き寄せるようにして立ち上がる。
足元はまだ不安定だ。
けれど、もう止まっているわけにはいかなかった。
スマホに続いて、筆箱まで残っていた。
なら、その先にはもっと決定的なものがある。
そう分かってしまったからだ。
Thought for 19s
了解しました。
第九章『記憶の底で、光が呼ぶ』
Part C-3:雛乃の夢との接続 を進めます。
第九章
記憶の底で、光が呼ぶ
Part C:失われたもの
C-3:雛乃の夢との接続
筆箱を胸の近くへ引き寄せたまま、希夢はしばらくその場に立ち尽くしていた。
通路は静かだった。
白い壁。
脈を打つ天井の照明。
奥へ続く薄暗さ。
そのどれもが、さっきまでと同じ形をしている。
それなのに、手の中に裕也の筆箱があるという事実だけで、景色の意味がひとつ変わってしまっていた。
裕也は、ここまで来た。
スマホだけじゃない。
筆箱までここにあるなら、もっと確かだ。
教室から持ち出した日常が、施設の奥へ進むにつれて少しずつ剥がれ落ちている。
その考えに触れた瞬間、雛乃の声が、記憶の底から静かに浮かぶ。
裕也くん、少しずつ……その光の方に引かれていったんです。
体の輪郭の方が先に、光に持っていかれて。
希夢は、呼吸をひとつ止めた。
夢の話として聞いていた時とは、重さが違う。
いまはその夢の途中に、自分が立っている。
筆箱の冷たさ。
通路の薄い白。
脈打つ照明。
その全部が、雛乃の夢を“外から聞いたもの”ではなく、“ここに起きたことの別の見え方”へ変え始める。
希夢は、通路の奥を見た。
白い。
だが、均質ではない。
奥へ行くほど、光が沈む。
沈んでいるのに、見えなくはならない。
むしろ、白の深さだけが増していく。
そしてその白の中へ、視線を少しだけ長く置いた瞬間だった。
影が見えた。
実際に人が立っているわけじゃない。
通路の角度と照明の位置が作る、ごく薄い暗がりにすぎない。
それなのに希夢には、その影だけがひどく“人の輪郭に近い途中”として見えた。
肩。
背中。
少しだけ前へ傾いた体重。
歩いているのではなく、引かれている時の姿勢。
「……裕也」
名前が、ほとんど反射でこぼれる。
その瞬間、頭の奥で白いノイズが小さく弾けた。
視界の奥に、雛乃の夢の断片が差し込む。
白い場所。
立っている裕也。
こっちを見ない横顔。
その前で揺れる白。
そして、足元からではなく輪郭の外側から、少しずつ薄くなっていく影。
希夢の胸が、ひどく静かに痛む。
今まで雛乃の夢には、まだどこか曖昧さが残っていた。
見間違いかもしれない。
不安が夢の形を借りただけかもしれない。
そう思おうとする余地が、ほんの少しだけあった。
けれど、もう無理だった。
スマホ。
筆箱。
ここまで続く施設の導線。
そして、この通路の奥に一瞬だけ立ち上がった“引かれていく姿勢の影”。
その全部が揃ったことで、雛乃の夢の中で光に吸い込まれていた影が、ただの抽象ではなくなってしまう。
あれは、裕也だった。
希夢は、無意識に筆箱を握りしめる。
中でまた、小さく何かが転がる。
乾いた音。
その日常的な軽さが、かえって残酷だった。
筆箱の中には、まだ裕也の“学校生活”が入っている。
シャープペンや消しゴムや芯ケースの重さが、たぶんそのまま残っている。
でも、その持ち主の輪郭だけが、夢の中の白へ吸い込まれていく。
日常だけがこちら側に残り、
人だけが向こう側へずれていく。
その構図が、あまりにもはっきりした。
「……そういうことか」
希夢の声は、かすれていた。
通路の白が、またひとつ浅く脈打つ。
それに合わせるように、奥の影も一瞬だけ揺れた気がした。
もちろん、実際に動いたわけじゃない。
希夢の中で、雛乃の夢と目の前の施設の白が重なっただけだ。
だが、その重なり方こそが決定的だった。
夢は予兆ではなかった。
比喩でもなかった。
少なくとも今ここでは、
現実の別角度から見た記録
に近かった。
雛乃は、揺らぎのこちら側から夢を見た。
自分は、観測者としてその導線を踏んでいる。
そして裕也は、その中間で本当に“失われたもの”になりかけている。
希夢は、通路の奥へ一歩だけ進む。
足音は浅い。
白い壁に吸われるように短く折れる。
その音の消え方さえ、雛乃の夢の終わりに似ている気がした。
静かになって、消えたように見えるのに、終わっていない。
trace remains。
痕跡は残る。
裕也の不在も、まさにそれだった。
消えたのではない。
終わったのでもない。
こちらから見える層だけが薄くなり、その先へ引かれている。
希夢は、そこでようやくはっきりと認める。
朝、空席に感じた“どこかへ行っている”不在。
旧観測棟前に残されたスマホ。
この通路に落ちていた筆箱。
雛乃が見た、吸い込まれる影。
それらは全部ひとつの出来事の、異なる表面だった。
しかも、その中心はこの施設のさらに奥にある。
希夢の喉が、静かに乾く。
裕也は、まだ見つかっていない。
でも、いなくなった理由の輪郭だけは、もう十分すぎるほど近い。
そしてその輪郭に、自分の欠けた記憶まで重なっている。
鹿島先輩が止めようとしていたもの。
裕也が引かれていったもの。
雛乃の夢に現れた白い揺れ。
そのすべてが、結局は同じ“向こう側”の開き方をしているのだとしたら。
自分もまた、その導線の上に立っている。
その事実が、希夢の背中をひどく冷たくした。
それでも、足は止まらない。
夢との接続がはっきりしてしまった今、
もう引き返す理由は“安全のため”では弱すぎた。
むしろ、ここまで分かってしまった以上、
この先を見ずに戻れば、裕也はただ“吸い込まれた影”としてしか残らなくなる。
それだけは、どうしても嫌だった。
希夢は、筆箱を抱え直すように持ち直し、もう一度だけ通路の奥を見る。
白い。
揺れている。
そしてその奥に、雛乃が夢で見たはずの“吸い込まれる影”の続きを、現実の側から確かめられる場所がある。
そう思った瞬間、胸の痛みはさらに深くなった。
でも、その痛みの中にはもう迷いだけはなかった。
筆箱を抱えたまま、希夢はその場でしばらく動けなかった。
通路の奥は、相変わらず白く沈んでいる。
照明は点いているのに、光が届いているという感じが薄い。
まるで、この施設のさらに奥だけが、こちらの世界の明るさをうまく受け取らないまま、別の白さで静かに満たされているみたいだった。
その白の中へ、裕也が引かれていった。
雛乃の夢がそう言っている。
スマホのログも、筆箱の残り方も、それを裏打ちしている。
そして今、自分の身体もまた、その方向を否定できなくなっている。
希夢は、筆箱の端を親指でなぞる。
布の擦れ。
補修した白い糸。
小さな毛羽立ち。
どれも日常の手触りだ。
教室の机の上に置かれていた時には、こんなふうに“失われたものの輪郭”として触れる日が来るなんて、考えもしなかった。
胸の奥が、ゆっくりと痛む。
頭痛とは違う。
白いノイズの圧とも違う。
もっと鈍くて、もっと人間的な痛みだった。
失ったかもしれない。
その考えが、ようやく感情の方へ落ちてきたのだ。
今までの希夢は、追いつこうとしていた。
事故の断片へ。
鹿島先輩の残り方へ。
自分の欠けた記憶へ。
観測者としての位置へ。
けれど、裕也の筆箱を持った瞬間に、それらとは別のところから一気に押し寄せてきたものがある。
ただ、いなくなることへの痛み。
それは理屈じゃなかった。
観測だとか、揺らぎだとか、Gate-X の予兆だとか、そういう言葉を全部剥がしたあとに残る、もっと単純なものだった。
希夢は、思わず目を閉じそうになって、やめた。
閉じればまた、白い部屋の記憶が近づく。
だから、開いたまま耐える。
通路の白い壁。
奥へ続く薄暗さ。
手の中の筆箱。
それだけを見ようとする。
けれど、見ようとすればするほど、別の記憶がその隙間から滲み出てくる。
鹿島先輩の背中。
振り返ろうとした首筋。
「見ないで、希夢」という声。
白い中心。
最初の爆ぜ。
そして今度は、その並びの中に裕也の姿まで入ってくる。
白い揺れの前に立つ影。
輪郭から先に、静かに薄くなっていく人。
雛乃の夢で見たそれが、もうただの夢ではなく、自分のいるこの施設の奥と細く接続してしまっている。
希夢の呼吸が、少しだけ乱れる。
もし本当に、裕也があの光の向こうへずれていったのだとしたら。
もしそれが、鹿島先輩の事故と同じ系統の現象なのだとしたら。
自分はまた、誰かが失われていくその場の近くにいたことになる。
その「また」が、突然ひどく重くなった。
「……俺(私)はまた……」
言葉が、ほとんど無意識にこぼれる。
また。
何が、また、なのか。
裕也を失うかもしれないことか。
鹿島先輩を止められなかったことか。
あるいは、自分の手の届く場所にいた誰かが、こちらではない場所へ消えていくのを、見ているしかないことか。
そこまではまだ言葉にならない。
でも、“また”だけははっきりしていた。
これは初めての痛みじゃない。
初めての喪失でもない。
記憶が欠けていても、その傷み方だけは身体の方が覚えている。
希夢は、通路の壁へ空いた方の手をついた。
冷たい。
現実の冷たさだ。
そのことが少しだけ救いになる。
でも、手のひらの奥では別の感覚もある。
まるでこの壁の向こうに、もっと白い部屋の壁が重なっていて、自分は二つの喪失のあいだに立たされているみたいな感覚。
鹿島先輩。
裕也。
時期も、状況も、完全には同じじゃない。
それでも、希夢の中ではどこか同じ深さに沈んでいく。
「……やだな」
声は、小さかった。
誰に向けたものでもない。
ただ、胸の奥から漏れた本音だった。
嫌だ。
また何かを失うのは。
また、誰かの背中を見送る側に立たされるのは。
また、気づいた時にはすでに遅い場所に立っているのは。
その嫌さが、ようやく感情として立ち上がったことで、希夢は逆に少しだけ立っていられなくなる。
膝が、ひどく重い。
通路の途中だというのに、ここでまた座り込んでしまいそうになる。
けれど、筆箱を落としたくなくて、希夢は必死に踏みとどまる。
それが、奇妙に現実的だった。
スマホもそうだった。
筆箱もそうだ。
残されているのは、日常の物ばかりだ。
だからこそ余計につらい。
壮大な異常ではなく、
教室と机とペンと休み時間の延長にあるものが、ここで失われていく
ということが。
希夢は、筆箱を抱えたまま壁へ額を軽くつけた。
冷たい。
その冷えが、少しだけ熱を奪ってくれる。
「……俺(私)はまた……」
今度はもう少しだけ先まで出かかった。
守れなかった。
そう続きそうになる。
でも、最後までは言えなかった。
言った瞬間、裕也まで“もう失ったもの”として確定してしまいそうだったからだ。
まだだ。
まだ、それは違う。
いなくなったわけじゃない。
少なくとも、そう断定するにはまだ早い。
雛乃の夢も、ログも、筆箱も、みんな同じ方向を向いている。
それでも、まだ“どこかへ移動している”だけかもしれない。
戻せるかもしれない。
届くかもしれない。
そのわずかな可能性だけが、希夢の喪失感を完全な絶望へ落とさずにいた。
けれど、可能性があるからこそつらい。
届くかもしれないのに届かないかもしれない。
見つけられるかもしれないのに、見つけた時にはもう元の位置にいないかもしれない。
その不確定さが、胸の奥をゆっくり削っていく。
通路の奥で、白がまた浅く脈打つ。
その揺れを見た瞬間、希夢の中で痛みの形が少しだけ変わる。
ただ失うことへの痛みではない。
失わせたくないという痛みだ。
鹿島先輩の時には、もう遅かったのかもしれない。
記憶は前半で暗転し、決定的な瞬間をまだ見せてくれない。
でも裕也は、まだこの施設のどこかに痕跡を残している。
スマホも、筆箱も、こちら側との接続を完全には失っていない。
なら、まだ終わっていない。
その考えが、喪失感の底に細い反発を生む。
痛い。
苦しい。
それでも、このまま立ち止まって“また失う側”に自分を置き続けるのは、もっと嫌だった。
希夢は、壁から額を離す。
呼吸をひとつ整える。
筆箱を持つ手に、まだ震えはある。
けれど、さっきまでの受け身の痛みとは少し違っていた。
胸の奥には、依然としてはっきりした喪失感がある。
裕也がどこかへ引かれていったかもしれないという実感も、消えない。
それでも、その痛みはもうただ自分を座り込ませるためだけのものではなかった。
希夢は、通路の奥を見る。
白い。
深い。
静かに呼んでいる。
そこに、裕也の続きを確かめるものがある。
自分の空白の続きも、たぶんある。
そして今は、そのどちらも切り離せなかった。




