事故の真相(前半)
壁に背を預けたまま、希夢はしばらく動けなかった。
膝の角度。
手のひらに残るざらついた塗装の感触。
頭上でゆっくり脈打つ蛍光灯。
それらをひとつずつ確かめることで、かろうじて“いまこの階段にいる”輪郭をつなぎ止めている。
けれど、その輪郭はもう薄かった。
現実が消えたわけではない。
ただ、現実の表面のすぐ下に、別の時間がぴたりと貼りついている。
少しでも呼吸を乱せば、そちらが表へ滲み出してくる。
そんな感覚だった。
天井の光が、またひとつ脈打つ。
白が深くなる。
希夢は反射的に目を細める。
次の瞬間、階段の踊り場の輪郭が、急に平たく薄くなった。
奥行きが消える。
壁が壁ではなく、白い面になる。
手すりの影が、床の上の線ではなく、どこか別の場所に焼きついた痕みたいに見える。
希夢は、息を止めた。
これはもう奔流ではない。
もっと違う。
もっと“見せられる形”に近い。
視界の端から、薄いざらつきが走る。
砂嵐というほど荒くない。
映像ノイズというほど粗くもない。
むしろ逆だ。
白い粒が、視界の上に極薄く一枚乗り、その向こうにあるものの輪郭だけを静かに選び直していく。
そして突然、切り替わる。
階段の白い壁は消えない。
だが、その上に、別の空間の像がそのまま重なる。
白い部屋。
今度は断片ではなかった。
机の位置。
壁の圧。
天井の光の並び。
床の反射の浅さ。
それらが、一枚の映像としてはっきり視界へ現れる。
ただし、それは映画みたいに滑らかではない。
連続する時間がそのまま流れているのではなく、
いくつもの記憶片が、同じ一秒を別角度から押しつけてくるような見え方だった。
希夢は、無意識に壁へついた手へ力を込める。
視界は、完全に事故の日へ寄っていた。
白い部屋の空気は薄い。
昨日の旧観測棟の残り香ではない。
もっと生きている。
もっと、これから何かが起きる直前の、妙に澄んだ緊張を含んでいる。
机の上には観測装置。
その少し上で、白い粒が集まりかけている。
そして、その向こう。
鹿島先輩がいる。
もう影ではない。
もう痕跡でもない。
記憶の中の“その日の先輩”が、そこに立っている。
希夢の胸が、ひどく重くなる。
先輩は机の正面ではなく、やや壁際に寄った位置にいる。
右肩が少し前へ出ていて、体の向きは机上の白い中心へ開いている。
あの立ち方だ。
第六章で壁の痕跡から逆算した位置と、ほとんど同じだ。
違うのは、いまはまだ“結果”ではないことだった。
まだ起きていない。
まだ、止めようとしている時間の中にいる。
白い粒が、また深くなる。
希夢の視界は、その瞬間だけ急にノイズを増した。
部屋全体がざらつく。
輪郭がいったん崩れ、すぐにまた戻る。
映像だ。
そのことに、希夢はようやく気づく。
これはただ記憶が開いたのではない。
記憶の断層そのものが、視界の中で映像の形式を取り始めている。
つまり、思い出すのではなく、
過去の断裂面そのものが、いまここで“再上映”されている。
だから、連続しない。
だから、一秒の中に複数の角度が同時に混ざる。
だから、自分がそこにいる感覚と、外から見ている感覚が、同じ視界の中でぶつかる。
希夢は、喉の奥で小さく息を漏らす。
視界がまた切り替わる。
今度は少しだけ近い。
鹿島先輩の右手。
装置へ向かって伸びかけている。
止めようとしているのか、設定を変えようとしているのか、そこまではまだ分からない。
だが、少なくとも“ただ見ているだけ”ではない。
先輩は、何かを食い止めようとしている。
その指先の向こうで、白い中心が脈動する。
どくん。
光が深くなる。
どくん。
空気が少しだけ遅れて引かれる。
その拍に合わせるみたいに、希夢の頭痛もまた強くなる。
「っ……」
視界の端に、さらに別の像が差し込む。
部屋の入口側。
少し離れた位置。
そこに、誰かがいる。
見えている。
なのに、顔はまだはっきりしない。
自分だ。
そう身体は知っている。
けれど、そこに立つ“自分”は、まだいまの希夢とは完全に重ならない。
小さくて、近い。
見てはいけないものを見ようとしている位置に立っている。
その構図が見えた瞬間、希夢は息を呑んだ。
鹿島先輩と白い中心。
その少し外側にいる、自分。
そして、そのあいだに張られた、ひどく静かな圧。
事故の真相は、最初から断片の形をしていた。
今ならそれが分かる。
誰かが全部を順番に記憶しているわけではない。
最も強い場面だけが、致死点の周囲で焼きつき、それが断層として残っている。
だから、いま見えているのも完全な流れではない。
それでも十分だった。
先輩は、机上の何かを止めようとしている。
自分は、その場にいた。
しかも、ただの傍観者ではない。
そこまで見えた瞬間、部屋の白が急に深く沈む。
脈動が大きい。
次に何かが来る。
そう分かるだけの密度が、空間全体に満ちる。
先輩の口元が動く。
声になる。
だが、まだ完全には届かない。
白いノイズがそこへかぶさり、音を半分削る。
それでも、意味だけは残る。
見ないで、希夢。
今度は、はっきりしていた。
ノイズの中ではない。
残響でもない。
事故の日のその一瞬に、鹿島先輩が確かに自分の名前を呼んでいる。
希夢の背中に、冷たいものが走る。
自分の名前。
観測者:KIRISHIMA。
ラストフレームで振り返ろうとした先。
全部が、この一言の中で急につながってしまう。
先輩は、“誰か”に向けて叫んだのではない。
最初から、自分へ向けて言っていたのだ。
視界がまたざらつく。
白い部屋の映像が、今度は少しだけ横へ流れる。
まるで、記憶のフィルムが噛み合わずに、コマ送りになりかけているみたいだった。
先輩の手。
白い中心。
入口側の自分。
そして、光が弾ける寸前の静まり方。
希夢は、その一秒の手前で、また強く呼吸を乱す。
ここが断層だ。
事故はここで、まだ爆ぜていない。
だが、次の一瞬で全部が変わると、身体が知っている。
だからこそ、記憶はこの位置で何度も止まり、何度もここだけを見せる。
これ以上先は、まだ受け止めきれないのだとでもいうように。
希夢は、壁に背を押しつけたまま、視界の中で事故の日を見ていた。
現実の階段と、記憶の部屋。
その両方の上に、いま自分の意識がまたがっている。
苦しい。
痛い。
それでも、目を逸らせない。
だってもう、ここで鹿島先輩が何を言ったのかを、知ってしまったから。
見ないで、希夢。
その呼びかけが、自分の名前を持って記憶の中から届いた瞬間、
事故はもう“知らない過去”ではいられなくなっていた。
了解しました。
第九章『記憶の底で、光が呼ぶ』
Part B-2:鹿島先輩が何かを止めようとしている を進めます。
第九章
記憶の底で、光が呼ぶ
Part B:事故の真相(前半)
B-2:鹿島先輩が何かを止めようとしている
見ないで、希夢。
その声が、自分の名前を持って届いたあと、視界の中の事故の日は、ひとつだけ深く沈んだ。
記憶の断層はまだざらついている。
白い粒が薄くかぶさり、輪郭の端を少しずつ削っていく。
それでも、今はもう分かる。
鹿島先輩は、ただそこに立っていたんじゃない。
止めようとしている。
希夢は、壁へ背を預けたまま、視界の奥の白い部屋を見つめる。
机の上には観測装置。
黒い筐体。
平らな観測面。
その少し上で、白い粒がひとつの中心へ寄り始めている。
呼吸するような揺れ。
静かに、だが確実に深くなる密度。
何かが“起きる”前の白だ。
鹿島先輩の右手は、その中心へ向かって伸びていた。
まっすぐではない。
触れようとしているのか、遮ろうとしているのか、最後の数センチだけがまだ曖昧だ。
けれど、その手の緊張ははっきりしている。
ためらっていない。
怖れていないわけではない。
それでも、退いていない。
希夢は、息を浅く吸う。
先輩の肩が少しだけ前へ出る。
体重が、机の方へかかる。
その姿勢は、“観測している人”のものじゃない。
間に入ろうとしている人の姿勢だ。
その事実が、遅れて胸へ落ちてくる。
白い中心は、ただの観測対象ではなかった。
装置の上に現れた現象でも、珍しいデータでもない。
もっと直接的に、もっと危険な何かだった。
だから先輩は、見ているだけではいられなかった。
記憶の映像が、少しだけ近づく。
断層のざらつきが一瞬薄くなり、先輩の横顔の輪郭がわずかに見える。
正面ではない。
完全な表情は分からない。
それでも、唇の強張りと、目元の硬さだけで十分だった。
必死だ。
静かに見えていたその背中の中に、
もう限界まで張り詰めた判断がある。
「……先輩」
希夢の口から、また小さく声が漏れる。
だが、記憶の中の鹿島先輩は振り返らない。
振り返らないまま、もう一度だけ右手を前へ押し出す。
その瞬間、白い中心が強く脈動した。
どくん。
光が跳ねたわけではない。
爆ぜてもいない。
ただ、空間の方が一度だけ大きく呼吸して、その中心に合わせて部屋全体が少し沈んだ。
希夢の頭痛が、その拍に合わせて深くなる。
「っ……!」
壁へついた手に力が入る。
現実の階段の冷たい塗装。
その感触がまだある。
だが、視界はもう事故の日から目を逸らせない。
鹿島先輩の手が、白い中心の手前でぴたりと止まる。
触れた、とはまだ言えない。
でも、そこには目に見えない抵抗があるように見えた。
ただ空中へ手を伸ばした時の止まり方じゃない。
何かに押し返されている。
あるいは、それ以上先へ入れない境界がそこにある。
希夢の喉が、ひどく乾く。
白い粒の集まりは、装置の少し上で薄い面を作りかけていた。
雛乃の言った夢の光の壁。
Pattern-X3 の波形が一度だけ平らになるあの瞬間。
それらが、ここで現実の形を取り始めている。
鹿島先輩は、それを止めようとしている。
装置の電源を落とすためではない。
データを守るためでもない。
もっと根本的に、
その面が“向こう側”へ開くのを止めようとしている
ように見えた。
希夢の視界が、また少しだけぶれる。
今度は、部屋の入口側の像が濃くなる。
そこに立つ自分。
まだ幼い。
まだ何が起きるのか、正確には理解していない。
それでも、見てしまっている。
その位置へ向かって、鹿島先輩の声がもう一度飛ぶ。
見ないで、希夢。
今度はさっきより少しだけ切羽詰まっていた。
単なる制止ではない。
祈りに近い。
見てはいけない。
来てはいけない。
ここで止まれ。
その全部が、短い一言へ押し込められている。
そして希夢は、そこでようやく理解する。
鹿島先輩が止めようとしていたのは、
目の前の白い中心だけじゃない。
その中心と、自分とが接続してしまうこと
を、止めようとしていたのだ。
だから、装置へ手を伸ばす。
だから、光の面の前に立つ。
だから、振り返らずに、自分だけを押し返す。
その順序が見えた瞬間、記憶の映像は一段だけ鋭くなる。
先輩の右手。
張り詰めた肩。
一歩も退かない足。
白い中心の向こうで、空間がわずかに黒を孕み始める気配。
まだ Gate-X ではない。
まだそこまで形を持っていない。
けれど、白の奥に“穴の予兆”みたいな暗さが一瞬だけ差す。
鹿島先輩は、それを見ている。
いや、見ているだけじゃない。
先に気づいている。
だからこそ、その手は装置よりもさらに前、
白と黒の境目に近い場所へ伸びているのだ。
「……止めてた」
希夢が、かすれた声で呟く。
その言葉は、現実の階段に落ちる。
けれど同時に、事故の日の白い部屋にも静かに重なる。
鹿島先輩は、何かを止めようとしていた。
事故が起きたあとに対処したんじゃない。
起きる前に、ぎりぎりのところで食い止めようとしていた。
それなのに、止まらなかった。
その事実が、まだ起きてもいないはずのこの場面の中に、すでに重く沈んでいる。
希夢は、呼吸を乱しながら、それでも視界から目を逸らせない。
先輩の腕がわずかに震える。
白い中心の脈動が、また一段深くなる。
部屋の空気が、静かに引かれる。
あと少しで何かが越える。
その“越える直前”の圧だけが、部屋全体に満ちていた。
そして希夢は、その張り詰めた一瞬の中で、
鹿島先輩が最後まで守ろうとしていたものが、
装置でも記録でも施設でもなく、
入口側にいた自分だったことを、もう否定できなくなっていた。
鹿島先輩の右手が、白と黒の境目へ伸びた、その直後だった。
最初に起きたのは、爆発ではなかった。
音もない。
閃光も、まだない。
ただ、白い中心の奥で、何かがほんのわずかにほどけ損ねる。
その感覚だけが、希夢の全身へ一気に伝わってきた。
「――っ」
壁に預けた背中が、小さく跳ねる。
光が弾けた、と後からなら言える。
けれど、その最初の一瞬はもっと静かだった。
白い粒の集まりが、ひとつの面になりかける。
その面の中心に、ごく小さな歪みが生まれる。
歪みは黒ではない。
穴でもない。
ただ、白が白のまま保てなくなる薄い裂け目だった。
その裂け目に触れた瞬間、鹿島先輩の右手がわずかに止まる。
押し返されたのか。
それとも、触れたことで何かの位相が変わったのか。
そこはまだ分からない。
分かるのはひとつだけだった。
ここまでは、まだ“止められるかもしれない時間”だった。
けれど、この裂け目が生まれた瞬間に、その可能性が一段だけ薄くなった。
白い部屋の空気が、深く息を吸う。
どくん。
天井の光。
机の上の白。
壁際の淡い反射。
その全部が、同じ拍で少しだけ内側へ沈む。
次の瞬間、白い中心の輪郭が外側へ跳ね返る。
爆ぜる。
それは火花ではない。
炎でもない。
もっと冷たく、もっと無音に近い爆ぜ方だった。
白い粒が放射状に散る。
だが散ったまま消えない。
飛んだ軌跡だけが、空気の中へ白い線として一瞬残る。
希夢の視界が、そこで強くざらついた。
階段の壁。
記憶の部屋。
鹿島先輩の腕。
全部が一瞬だけ二重にぶれて、それからまた同じ場所へ戻る。
「っ、あ……!」
頭痛が、今まででいちばん鋭く深くなる。
けれど、目は逸らせない。
光の最初の爆ぜは、ただの現象ではなかった。
それが起きた瞬間、部屋の中の“もの”の意味が少しずつ変わっていくのが見えたからだ。
机の上の観測装置。
その黒い筐体の角が、白い粒のかすかな線に触れた場所から、わずかに色を失っていく。
焼けるのではない。
溶けるのでもない。
表面だけが白さを奪われて、別の質感へ置き換わっていく。
希夢は、息を呑む。
第六章で見た床の細い変色。
壁に残った白い痕。
あの“焦げ”とも“汚れ”とも違う残り方が、まさにこの瞬間に生まれている。
光は、物を壊していない。
それよりもっと厄介な仕方で、
存在の表面だけをこちら側から剥がしている。
鹿島先輩が、半歩だけ踏み込む。
右手はまだ前へ出ている。
その肩口に、散った白い線のひとつがかすめる。
そこで初めて、希夢は“焼痕が形成される”という意味を本能的に理解した。
焼けるのではない。
そこにあった輪郭が、白に触れた部分からうまく戻れなくなるのだ。
先輩の肩の外側。
黒い制服の線が一瞬だけ白く浮き、次の瞬間には色を失った薄い痕として沈む。
「……やめて」
希夢の声は、現実の階段で漏れたのか、記憶の中で飲み込まれたのか、自分でも分からなかった。
鹿島先輩は振り返らない。
ただ、左足で床を踏み直し、さらに身体を前へ入れる。
その動きは明らかだった。
光の中心から自分を守ろうとしているのではない。
入口側にいる希夢とのあいだへ、自分の身体ごと入り込もうとしている。
爆ぜは一度で終わらない。
最初の線が散ったあと、中心はむしろ静かになる。
静かになって、次の拍のためにまた深く沈む。
どくん。
今度は、白の奥に黒が差す。
ほんの一瞬。
だが確かに、中心の最深部だけが色を失うのではなく、
白の裏側から黒い楕円の気配が覗く。
まだ Gate-X とは呼べない。
形も安定していない。
けれど、それはもう“穴の予兆”でしかなかった。
鹿島先輩の右手が、その前でさらに強く止まる。
指先が震えている。
押しているのか、抑えているのか、境界を保とうとしているのか。
そこまでの仕組みは分からない。
ただ、その手の形には明確な意志があった。
これを、ここで越えさせない。
希夢の胸が、ひどく痛む。
事故は偶発ではない。
少なくとも、この一瞬だけを見ればそうだった。
何かが起きる兆しがあり、
それを止めようとした人がいて、
それでも止まらず、最初の爆ぜが起きてしまった。
その順序が、今ここで記憶の中に映像として固定されている。
そして、その爆ぜの線が、壁へ届く。
白い粒の細い軌跡が、部屋の右側の壁面へ触れた瞬間、壁は一度だけ明るく息を吸い、それからすっと色を引く。
あの痕だ。
第六章で見た、ただ明るいのではなく“白さだけが抜けた”みたいな痕。
それが今、この最初の爆ぜの一拍の中で生まれている。
床にも、小さな線が走る。
点ではない。
短く、しかし方向を持った細い変色。
希夢は、視界の奥で現実と記憶がまた重なりそうになるのを感じた。
旧観測棟の階段の壁。
事故の日の白い部屋の壁。
いま自分が手をついている冷たい塗装。
その全部が同じ“残り方”の連続に見えてしまう。
「っ……!」
思わず壁へついた手にさらに力が入る。
現実の痛み。
爪の先の圧。
それが、かろうじて希夢を“いま”に留める。
それでも記憶の映像は止まらない。
鹿島先輩の肩。
白い線に触れた痕。
床へ走る最初の細い変色。
壁に生まれる白抜けの痕。
そして、その向こうでなお深くなっていく中心。
最初の爆ぜは、事故の始まりというより、
止めきれなかったことが物理に変換された最初の徴候
だった。
だから音がない。
だから破壊が遅い。
だから、痕跡だけが異様に静かに残る。
希夢は、そこでようやく分かる。
事故の真相は、“突然起きた大きな出来事”ではない。
白い中心が少しずつ現実をずらし、その最初のズレが光の線として露出した瞬間こそが、本当の始まりだったのだ。
鹿島先輩は、その最初の爆ぜを目の前で受け止めていた。
受け止めながら、まだ入口側へ向けた意志を失っていない。
次の一拍が来る。
そう分かった瞬間、希夢の背中に冷たいものが走る。
最初の爆ぜは、まだ序章でしかない。
ここから先で、もっと大きな“決定的な変化”が来る。
その手前に、自分はいま座り込みながら触れている。
最初の爆ぜが終わったあと、白い部屋は一度だけ、異様な静けさに沈んだ。
音が消えたわけではない。
最初から大きな音などなかった。
けれど、空気の方が何かを失ったみたいに、急に薄くなる。
鹿島先輩の肩に残った白抜けの痕。
壁へ走った細い光の線。
床に刻まれ始めた変色。
それら全部が、まだ起きたばかりのものとして部屋に残っているのに、
次の瞬間へ進む直前の時間だけが、妙に引き延ばされていた。
希夢は、壁に背を預けたまま、その静けさに呑まれそうになる。
記憶の中の白い部屋と、現実の階段の踊り場。
その二つはまだ完全には分かれていない。
階段の冷たい壁へ触れている手のひらと、事故の日の空気を知っている身体の感覚が、同じ皮膚の上で重なっている。
鹿島先輩は、まだ立っていた。
右手は前へ出されたまま。
肩には最初の痕が残り、制服の輪郭がわずかに白を失っている。
それでも退かない。
その背中には、いまこの瞬間にもまだ「止める」という意志が残っていた。
希夢の胸の奥が、ひどく痛む。
止められなかったのではない。
まだ、止めようとしている最中なのだ。
だからこそ、この場面はつらい。
結果を知っているのに、記憶の中の先輩だけが、まだそこに手を伸ばしている。
白い中心が、もう一度深く沈む。
どくん。
今度はさっきより重い。
部屋全体がその拍へ引かれ、天井の白が少しだけ脈動を深くする。
観測装置の表面に、白い粒の反射ではない別のゆらぎが走る。
鹿島先輩の口元が動く。
今度は、言葉がはっきり届く前に、希夢の視界の方が乱れた。
白い粒が、一気に増える。
部屋の輪郭の上へ薄いざらつきがかぶさり、映像そのものが崩れかける。
「……っ」
希夢は、現実の階段で小さく息を詰めた。
もう限界が近い。
そう身体が告げている。
それでも、まだ切れない。
記憶の断層は、最初の爆ぜだけでは終わらない。
白い部屋の中で、鹿島先輩がわずかに振り返ろうとする。
完全には向かない。
だが、入口側へ意識を向けるその動きだけで十分だった。
希夢は知っている。
このあとラストフレームへ繋がるのだと。
最後の最後でこちらを見ようとした、その途中の首筋が、記録の末尾に焼きついていたのだと。
その理解と同時に、胸の奥で何かが強く引き絞られる。
鹿島先輩の目は、まだ見えない。
けれど、いまこの一瞬だけ、
“こちらを見ようとしている意志”
だけが痛いほどはっきり分かった。
次の瞬間、白い中心の奥で黒が深くなる。
白の裏側。
裂け目のさらに奥。
そこに、形を持ちきらない暗さが生まれる。
穴ではない。
まだ楕円でもない。
だが、部屋の光がその一点だけを避けるように流れたことで、
希夢は本能的に悟る。
これが、向こう側だ。
鹿島先輩の右手が、その手前で震える。
押し返している。
抑え込もうとしている。
でも、もう完全には止めきれない。
白い中心は、最初の爆ぜによって“現実に触れる方法”を見つけてしまったのだ。
「見ないで、希夢!」
今度は、はっきりと叫びに近かった。
短い。
だが強い。
そしてその声の直後、白い部屋の映像が一気に崩れる。
視界全体へノイズが走る。
階段の壁。
白い部屋の壁。
鹿島先輩の背中。
床の線。
全部が一瞬だけ重なり、どちらが現在なのか判別できなくなる。
希夢の喉の奥から、掠れた音が漏れた。
声にならない。
叫びにもならない。
ただ、胸の奥の痛みだけが前へ出ようとして、うまく言葉にならない。
見てはいけない。
でも、もう見てしまっている。
その矛盾の中で、記憶の映像はさらに深く白へ飲まれていく。
鹿島先輩の輪郭がぶれる。
肩の痕が広がる。
壁の白抜けが増える。
床の線が少し長くなる。
それなのに、決定的な瞬間だけはまだ来ない。
まるで記憶そのものが、その先を見せることを拒んでいるみたいだった。
ここまでが前半。
ここから先は、まだ希夢に耐えられない。
そう判断しているみたいに。
白い部屋の光が、急に遠のく。
消えるのではない。
奥へ引く。
引きながら、鹿島先輩の背中と、白い中心と、入口側にいた自分の位置だけを薄く残す。
その残り方が、ひどくつらい。
まだ、助けられるかもしれない形を保ったまま、
時間だけがそこで切断されるからだ。
「……先輩」
今度は希夢の声が、涙に近い音を帯びた。
それと同時に、現実の階段の冷たさが急に強く戻ってくる。
手のひらのざらつき。
壁の硬さ。
腿へ伝わるコンクリートの冷え。
天井の蛍光灯の鈍い唸り。
事故の日の白い部屋は、そこから一歩だけ遠ざかる。
でも完全には消えない。
視界の奥でまだ薄く明滅しながら、ゆっくりと暗転していく。
希夢は、そこで初めて、自分の頬に温かいものが流れているのに気づいた。
涙だった。
いつから流れていたのか分からない。
最初の爆ぜを見た時か、
鹿島先輩の声を聞いた時か、
振り返ろうとする気配を見た時か。
ただ、もう止まらなかった。
壁に背を預けたまま、希夢は息を整えようとする。
けれど、呼吸のたびに胸の奥が痛む。
苦しいのではない。
喪失に近い痛みだった。
まだ何かを失ったと確定したわけではない。
それでも、事故の前半だけで十分だった。
鹿島先輩は、自分を守ろうとしていた。
何かを止めようとしていた。
そして、最初の爆ぜはもう起きてしまった。
その事実だけで、胸はひどく重い。
記憶の映像は、最後にもう一度だけ白く脈動し、それから音もなく沈んでいく。
白い部屋。
鹿島先輩。
中心の裂け目。
入口側の自分。
そのすべてが、暗転の向こうへ薄く引いていく。
残されたのは、現実の階段と、涙だけだった。
希夢は、頬を拭おうとして、途中で手を止めた。
手のひらが少し震えている。
その震えは恐怖だけではない。
いま見たものが、もう取り消せない形で自分の中に沈み始めている震えだった。
前半が終わった。
そうとしか言えない感覚があった。
事故の真相すべてではない。
決定的な瞬間まではまだ見えていない。
それでも、ここまでで十分に分かってしまったことがある。
自分は、その場にいた。
鹿島先輩は止めようとしていた。
そして、最初の爆ぜはもう、誰にも止められなかった。
希夢は、壁にもたれたまま、静かに涙を流していた。




