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光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
記憶の底で、光が呼ぶ
33/56

記憶の奔流

 旧観測棟の扉を開けた瞬間、空気がひとつ薄くなった。


 冷たい、ではない。

 湿っているわけでもない。

 ただ、外の夕方と比べて、ここだけが少しだけ“密度の違う場所”になっている。


 希夢は、扉の内側で一度だけ立ち止まった。


 後ろには、まだ外階段の光がある。

 薄い夕方。

 手すりの影。

 踊り場に残る雛乃の気配。


 完全に切れたわけではない。

 けれど、扉一枚を挟んだだけで、その世界はもう一段遠い。


 廊下は静かだった。


 昨日見たままの白い壁。

 古い配線カバー。

 天井の低さ。

 何も動いていないはずなのに、視界のどこかで“待っていた場所”の呼吸だけが続いている気がする。


 ポケットの中のスマホが、ひどく冷たく感じられた。

 裕也のスマホ。

 黒い画面の奥に、Last Observation / Pattern-X3 がまだ眠っている。

 それがただの物じゃなく、導線みたいに思えて、希夢は無意識に指先でその輪郭を確かめた。


 雛乃は来なかった。


 来られなかった、と言った方が近い。

 止めようとしてくれた。

 それでも最後には、戻れなくなる前に呼んで、と託される形になった。


 その声は、まだ背中の少し後ろに残っている。

 振り返れば届く位置。

 でも、ここから先はその距離が少しずつ伸びていくのだろうと、希夢はもう知っていた。


 廊下の奥へ進む。


 足音が浅い。

 昨日も感じた、広がる前に折り畳まれるような響き。

 それが今日はさらに短く感じられた。

 建物が音を吸っているというより、自分の足音だけが、先へ進むほど現在から薄くなるみたいだった。


 白いノイズは、まだ強くは来ない。

 だが、静かすぎる。


 それが逆に不気味だった。

 第七章で映像の最初のフレームに触れた時もそうだった。

 大きな反応の前には、いつも一度だけひどく平坦な静けさがある。


 旧観測棟の中央へ近づく途中、右手の壁際に下り階段が見えてくる。


 昨日は、部屋の痕跡を見ることに意識が向いていて、そこまで深く見ていなかった場所だ。

 だが今日は、その階段だけが最初から輪郭を持っていた。


 下へ続いている。


 観測施設。

 その言い方が、頭の奥でやけに重く響く。

 ただの旧棟ではない。

 ただの封鎖空間でもない。

 記録があり、観測者という語があり、裕也の痕跡が残された場所。


 なら、本当の中心はもっと奥にあるのかもしれない。


 希夢は、階段の手前で足を止めた。


 そこから下は、光が少ない。

 暗闇というほどではない。

 だが、上階の白い廊下に比べると、明るさの質が違う。

 照明が届いているのに、どこか奥へ沈むような薄暗さだった。


 そして、その境目に立った瞬間、希夢は肌の表面に小さなざわつきを感じた。


「……っ」


 思わず腕をさする。


 寒いわけじゃない。

 風もない。

 それなのに、二の腕から手首にかけて、細かな粒がぱちぱちと散るみたいな感覚が走る。


 静電気に近い。

 でも、ドアノブへ触れた時の一瞬の刺激ではない。

 もっと弱く、もっと持続的で、空気そのものが薄く帯電しているみたいな感覚だった。


 階段の金属手すりへ視線を落とす。

 触れていないのに、触れればまた別の層が開くと分かるような、嫌な予感だけがある。


 希夢は、呼吸をひとつ整えた。


 戻ることもできる。

 雛乃のところへ戻って、今感じたことだけを伝えることもできる。

 それが正しい可能性も、まだ十分にある。


 けれど、足は動かなかった。

 いや、動かなかったのではない。

 下へ行くべきだという感覚の方が、もう先にそこへ立っていた。


 道を覚えているわけじゃない。

 記憶に、明確な施設の地図があるわけでもない。

 それでも、この階段が“次の場所”だということだけは、身体がひどく自然に知っている。


 希夢は、その自然さに逆にぞっとした。


 観測者として引かれているのか。

 欠けた記憶が、そこへ戻ろうとしているのか。

 裕也の痕跡が、ここへ続いているのか。

 理由はまだ分からない。


 でも、その全部が少しずつ同じ方向を向いている。


 希夢は、手すりに触れた。


 細い金属の冷たさ。

 だが、それより先に来たのは、指先から肘まで一気に走る微細なざらつきだった。


 ぱち、と弾けるほど強くはない。

 けれど、皮膚の下を細い光が走るみたいに、弱い刺激が何本も滑っていく。


「静電気……」


 小さく呟く。

 だが、その言葉だけでは足りないとすぐに分かった。


 これは単なる乾燥した季節の帯電ではない。

 もっと、“揺らぎに近い場所へ入った時の空気の変わり方”に近い。


 階段の一段目へ足をかける。


 コンクリートの角は硬い。

 重みも、ちゃんと返ってくる。

 それなのに、踏んだ瞬間だけ、足裏の下で世界が薄く反響する。


 二段目。

 三段目。


 下りるごとに、静電気みたいなざわつきが首筋へ近づいてくる。

 髪の表面が、空気に逆らうようにわずかに浮く。

 肩のあたりまで細かな粒の感覚が広がって、希夢は無意識に歯を食いしばった。


 照明が、頭上で小さく唸る。


 見上げると、白い光がほんのわずかに脈打っていた。

 まだはっきりした異常ではない。

 ただ、一定に照らしているはずの蛍光灯が、ごく浅い呼吸みたいな揺れを見せている。


 それだけで、胸の奥に第七章の記憶が薄く触れる。


 光の部屋。

 天井の白。

 呼吸するみたいな揺れ。


 希夢は、目を閉じなかった。

 閉じれば、いまの現実と記憶の境目がもっと薄くなる。

 だから、視界を開いたまま、階段を一段ずつ下りる。


 下へ進むほど、空気が静かになる。


 音が少なくなるのではない。

 むしろ、耳の奥では何か細いざわめきが増えている。

 ただ、それが“この場に属する音”として聞こえないのだ。


 白いノイズの手前。

 言葉になる前の気配。

 そういうものが、階段の途中に薄く溜まっている気がした。


 希夢は、踊り場へ降りる直前でまた一度だけ足を止める。


 ここから先は、もう上階の廊下と空気が違う。

 戻れる距離のはずなのに、すでに帰り道の輪郭が少し薄い。


 ポケットの中のスマホが、冷たいままそこにある。

 後ろには雛乃の声が、まだ届く位置に残っているはずだ。

 それでも、いま自分が立っているのは、もっと深い層へ繋がる境界だった。


 裕也を探すため。

 自分の記憶の底へ触れるため。

 その両方を曖昧なまま抱えたまま、希夢は静電気のような空気の中へ、さらにもう一段だけ足を下ろした。


 階段を下りるほど、空気のざらつきは細く深くなっていった。


 上階では、まだ“静電気に似た違和感”で済んでいた。

 けれど下へ進むにつれて、それは皮膚の表面ではなく、もっと内側へ触れてくる。


 首筋。

 耳の後ろ。

 こめかみの奥。

 目には見えない白い粒が、そこへ少しずつ集まってくるみたいだった。


 希夢は、階段の途中で足を止める。


 下へ続く踊り場は薄暗い。

 暗闇ではない。

 照明は点いている。

 それなのに、明るさが“届いている”感じが薄い。


 上を見上げる。


 天井の蛍光灯が、ひとつ、またひとつと並んでいる。

 古い器具だ。

 カバーの端に細かな曇りがあり、金属の縁には時間の鈍いくすみが残っている。


 それ自体は、昨日見た時と変わらない。


 変わっているのは、光の方だった。


 白い。

 だが、一定ではない。


 わずかに明るくなり、

 ごく短く沈み、

 また元へ戻る。


 チカチカと点滅するのではない。

 壊れた照明の不安定さとも違う。


 もっとゆっくりしている。

 もっと、生き物に近い。


 呼吸しているみたいに。


「……っ」


 その気づきと同時に、頭の奥へ痛みが戻ってくる。


 最初は、ごく浅い違和感だった。

 眉間の少し奥が、細く冷える。

 次に、その冷えが白い線になって、こめかみの内側を静かに走る。


 希夢は、思わず片手で手すりを強く掴んだ。


 痛みは鋭くはない。

 刺すようではなく、むしろ逆だ。


 白さそのものが、少しずつ頭の中へ染み込んでくる痛み。


 それが、一拍遅れて輪郭を持つ。


 天井の光が、また脈打つ。


 明るくなる。

 沈む。

 戻る。


 そのリズムは不規則に見えて、完全な乱れではない。

 何かに合わせようとして、でもこちらの時間とは噛み合っていない呼吸みたいだった。


 希夢の鼓動が、それにつられる。


 心臓が速くなるわけではない。

 ただ、照明の脈動と自分の拍のあいだに、ずれが生まれる。


 どくん。

 白が深くなる。

 間。

 光が沈む。

 どくん。

 また、少し遅れて白が膨らむ。


 噛み合わない。

 でも、完全には外れない。


 その半端な一致が、かえって頭痛を深くした。


 希夢は、目を細める。


 見ない方がいい。

 そう思う。

 けれど、視線を逸らした瞬間に、今度は視界の外側で脈動が大きくなる気がして、目を切れない。


 白いノイズが、頭の奥で静かに寄る。


 まだ記憶の奔流にはなっていない。

 だが、その手前だと分かる。

 第七章で映像の最初の一フレームに触れた時と同じだ。

 大きく崩れる直前には、いつも一度だけ、世界が過剰に澄む。


 いまもそうだった。


 蛍光灯の縁の曇り。

 壁の薄いひび。

 階段の角に溜まった白っぽい埃。

 それらが、ひどく鮮明に見える。


 鮮明なのに、現実感だけが薄い。


 まるで、この場所の輪郭だけが少し前の時間から浮いてきて、いまの自分の視界に重なっているみたいだった。


 光が、また脈打つ。


 今度は、はっきりと深い。


 階段の壁が一瞬だけ白く息を吸い、

 次の瞬間、少しだけ色を失う。


 その揺れ方に、希夢の胸の奥が強く縮む。


 思い出す。

 いや、思い出しかける。


 白い部屋。

 天井の光。

 机の少し上に集まる粒。

 光の壁。


 まだ映像にはならない。

 ただ、脈動の質だけが、第七章で触れた記憶の断片とぴたり重なってしまう。


「……同じだ」


 小さく呟く。


 自分の声は、階段の途中で短く折れて消える。

 反響が浅い。

 それがまた、ここが“普通の建物の内部”ではないことを静かに示していた。


 希夢は、額へ手を当てる。


 熱はない。

 冷たくもない。

 ただ、皮膚の下で白い圧だけがじわじわ広がっている。


 頭痛は、もう誤魔化せない。

 けれど、まだ立っていられる。

 歩けなくなるほどではない。

 だからこそ危うい。


 この程度なら進める、と思ってしまう強さだった。


 脈動が、また来る。


 今度は照明だけではなく、階段下の空気そのものが、わずかに明滅した気がした。


 光が強くなったのではない。

 むしろ、空気の方が白を含んで、すぐに吐き出したような揺れ。


 その一瞬で、希夢の頭の奥に鋭い像が落ちる。


 天井の白。

 見上げる視線。

 誰かの背中。

 そして、まだ言葉にならない圧迫感。


「……っ、あ……」


 痛みが少し強くなる。


 希夢は、階段の壁へ片手をついた。

 冷たい。

 その冷たさはありがたかった。

 いまここが現実の壁だと、手のひらがかろうじて教えてくれる。


 呼吸を整える。


 吸う。

 吐く。


 天井の照明は、相変わらずゆっくり脈打っている。

 規則ではない。

 でも、無秩序でもない。


 その揺れはまるで、

 こちらが近づくのを確かめながら呼吸を合わせてくる光

 みたいだった。


 希夢は、その感覚に強い嫌悪を覚える。


 待っている。

 この施設は、ただ閉じられているのではない。

 下へ進む者の反応に合わせて、自分の白さを少しずつ変えてくる。


 そう思った瞬間、頭痛はさらに半歩だけ深くなる。


 けれど同時に、引き返せない感覚も強まった。


 この脈動の先にあるものを見なければ、

 この痛みも、この既視感も、ずっと名前を持たないまま残り続ける。


 希夢は、壁から手を離した。


 指先は少し冷えている。

 でも、まだ感覚ははっきりしている。


 上を見ず、今度は階段の先だけを見る。

 白い光の呼吸から視線を少し外し、足元の硬さだけを頼りにする。


 一段。

 また一段。


 下りるたび、頭痛は消えない。

 むしろ、光の脈動に合わせて静かに戻ってくる。


 それでも、もう後ろへは足が向かなかった。


 天井の照明は、希夢が下りるのを見届けるみたいに、

 上でゆっくりと白く脈打ち続けていた。


 階段をさらに一段下りた、その瞬間だった。


 天井の白が、ひときわ深く脈打つ。


 明るくなったのではない。

 むしろ逆で、光の密度だけが急に増して、視界の奥行きを静かに押し潰した。


「――っ」


 希夢の足が止まる。


 頭痛が、点ではなく面で広がる。

 こめかみの奥から始まった白い圧が、額の裏、目の奥、耳の内側へ一気に薄く染み込んでくる。


 次の瞬間、階段が揺らぐ。


 崩れたわけじゃない。

 視界の方が、現在の輪郭を保てなくなっただけだ。


 白い壁。

 低い天井。

 手すり。

 コンクリートの段差。


 それらが、一度ばらける。

 ばらけて、また別の順番で組み直される。


 そして希夢は、もう知っている。


 来る。


 今度は断片じゃない。

 今までみたいに一瞬の像や、言葉になりかけた声だけでは済まない。

 もっと厚い。

 もっと、向こう側の時間そのものが押し寄せてくる。


 白いノイズが、頭の奥で一気に寄る。


 粒。

 線。

 膜。

 それらが一つに重なり、次の瞬間にはもう“ノイズ”という名前では足りなくなる。


 記憶が、開く。


 階段は消えない。

 だが、階段の上から、別の空間が流れ込んでくる。


 白い部屋。


 今まで何度も触れた、その場所。

 旧観測棟の残り方として見た部屋でも、夢の中の曖昧な光景でもない。

 今度のそれは、もっと近く、もっと重い。


 空気の薄さ。

 天井の白。

 机の少し上に集まる粒。

 壁際の圧。

 すべてが、希夢の皮膚の内側から思い出される。


 見ているのではない。

 そこにいた側の身体が、先にその空気を知っている。


 希夢は、手すりを掴んだまま息を止めた。


 白い部屋の中央に、机がある。

 その上には、黒い観測装置。

 平らな面。

 無機質な外装。

 だが、その少し上に集まり始めた白い粒の方が、装置よりずっと強く空間を支配している。


 粒は、静かに寄る。

 急激ではない。

 それなのに、見ているだけで身体のどこかが先に危険を知る。


 その机をはさんだ向こう側。


 鹿島先輩が、立っていた。


 今度は影ではない。

 残り方でもない。

 まだ、そこにいる。


 白い部屋の中で、その輪郭だけが妙に静かだ。

 黒髪。

 細い肩。

 少しだけ斜めに立った姿勢。

 何かを止めようとしているのか、見届けようとしているのか、そのどちらともつかない硬さを背中に宿している。


 希夢の胸が、深く縮む。


 知っている。

 その立ち方を。

 振り返らない首筋を。

 自分を見ないことで何かを守ろうとする、あの静かな姿勢を。


 だが、今度はそれだけじゃない。


 鹿島先輩は、ひとりではなかった。


 対峙している。


 そうとしか言えない圧が、白い粒の集まりと先輩のあいだに張っている。


 机の上の少し上。

 そこにある白は、ただの現象ではない。

 もっと意志に近い。

 こちらの視線や呼吸を測るみたいに、ゆっくりと形を変えている。


 希夢の喉が、ひどく乾く。


 あの時、先輩は何かと向かい合っていた。


 事故に巻き込まれたのではない。

 偶然そこにいたのでもない。

 何かが起きると分かっていて、なおその前に立っていた。


 白い粒が、また深くなる。


 机の少し上で、中心が生まれる。

 小さな核。

 そこへ向かって、周囲の白が静かに引かれていく。


 希夢の頭の奥に、別の断片が重なる。


 昨日のラストフレーム。

 観測者:KIRISHIMA。

 ノイズの中の 「——見ないで」。

 裕也のスマホに残された Pattern-X3。

 それら全部が、この一点へ向かって収束していく。


 希夢は、壁に手をつきたくなる衝動を必死でこらえる。


 まだ崩れるな。

 まだ見ろ。

 その二つが、胸の中でぶつかる。


 鹿島先輩が、わずかに前へ出る。


 たった半歩。

 それだけなのに、部屋全体の白がその動きを待っていたみたいに深く沈む。


 先輩の右手が上がる。

 観測装置へ向けてなのか、

 白い粒の中心へ向けてなのか、

 まだ分からない。


 けれど、その仕草にはっきり宿っていたのは、ためらいではなく制止だった。


 止めようとしている。


 希夢は、そこで初めて気づく。


 記憶の中で何度も見た“振り返らない先輩”は、すでに事故のあとの形だった。

 でも、いま押し寄せてくるこの奔流の中では、まだ事故は起ききっていない。


 起きる直前だ。


 だからこそ、先輩の動きにもまだ意志がある。

 まだ選択がある。

 まだ、止められるかもしれない時間が、ほんのわずかに残っている。


「……先輩」


 希夢の口から、かすれた声が漏れる。


 それが現実の階段で出た声なのか、記憶の中で飲み込まれた声なのか、自分でも分からない。


 だが、鹿島先輩は振り返らない。


 代わりに、白い粒の中心が一段深く脈動する。


 その脈動は、第九章のここまで感じてきた天井の照明の揺れと、完全に同じ拍を持っていた。


 上階の白い蛍光灯。

 階段の途中で感じた頭痛。

 静電気みたいな空気。

 全部が、この部屋のこの一点から逆流していたのだと、希夢はようやく理解する。


 記憶の奔流は、過去の再生じゃない。

 いま自分が近づいたことで、過去の致死点がこちら側へ開き直している。


 その理解が落ちた瞬間、痛みが一段深くなる。


「っ……!」


 視界の端が白く裂ける。


 階段の壁と、白い部屋の壁が重なる。

 手すりの冷たさと、机の脇の金属の冷たさが重なる。

 いまの自分の息と、あの時の自分の息が、ひとつの肺で動こうとしてぶつかる。


 希夢は、もう立っているだけで精一杯だった。


 それでも記憶は止まらない。


 鹿島先輩の右手。

 白い中心。

 静かに引き寄せられていく空気。

 起きる直前の、どうしようもなく澄んだ一瞬。


 その一瞬が、階段の途中にいる現在の希夢へ、容赦なく押し寄せてくる。


 夢ではない。

 推測でもない。

 想像でもない。


 自分は、この場面にいた。


 そこまでだけが、今はもう否定できなかった。


了解しました。

第九章『記憶の底で、光が呼ぶ』

Part A-4:希夢の崩れ落ち を進めます。


第九章

記憶の底で、光が呼ぶ

Part A:記憶の奔流

A-4:希夢の崩れ落ち


 自分は、この場面にいた。


 その感覚が、頭ではなく身体の中心へ落ちた瞬間だった。


 希夢の膝から、力が抜けた。


「――っ」


 踏ん張ろうとした。

 けれど、足がもう“いまの階段”だけを床として認識できていない。


 旧観測棟の下り階段。

 白い部屋の床。

 その二つが、ほとんど同じ硬さで重なってしまう。


 どちらへ体重を預ければいいのか、身体の方が分からなくなる。


 希夢は、とっさに壁へ手をついた。


 冷たい。

 ざらついた塗装の感触。

 現実の壁だ。

 そう分かるのに、その冷たさの奥から、別の白い部屋の硬い空気が逆流してくる。


 目の前の階段が揺れる。


 実際には揺れていない。

 視界の中で、現在と過去の輪郭が同じ位置を奪い合っているだけだ。


 天井の照明が脈打つ。

 階段の上の白。

 記憶の中の白。

 その二つが交互ではなく、同時に深くなる。


「……っ、あ……」


 喉の奥から、息とも声ともつかない音が漏れた。


 頭痛はもう、こめかみの痛みではなかった。

 額の裏で白い圧が膨らみ、目の奥から首筋へ降りて、背骨の内側まで薄く広がっていく。


 見えているものが多すぎる。


 階段。

 壁。

 手すり。

 蛍光灯。

 そして、白い部屋。

 観測装置。

 粒の中心。

 鹿島先輩の上がりかけた右手。


 どちらか片方だけなら、まだ耐えられた。

 けれど今は、両方が同じ密度で存在している。


 希夢は、壁へついた手にさらに力を込めた。

 爪の先が少しだけきしむ。

 それでも、身体はもう持ち直しきれない。


 膝が壁際へ折れる。

 段差の途中ではなく、踊り場の端へ身体がずるりと沈み、希夢はそのまま壁へ背を預けるように座り込んだ。


 冷たいコンクリートの感触が、遅れて腿へ伝わる。


 座った。

 そのことだけで、かろうじて“いまここにいる”輪郭がひとつ戻る。

 だが、記憶の奔流はまだ止まらない。


 白い部屋の中で、鹿島先輩が何かを止めようとしている。

 その前の空気は、もうただの空気じゃない。

 粒が寄り、面になり、呼吸するみたいに膨らむ。

 そこへ向かって、空間そのものが静かに引かれていく。


 希夢の胸が、ひどく苦しい。


 呼吸ができないわけではない。

 吸っている。

 吐いている。

 でも、そのたびに、吸うのは階段の空気で、吐くのは白い部屋の空気みたいな、気味の悪いずれがある。


「……や、め……」


 誰に向けた言葉か、自分でも分からなかった。


 鹿島先輩にか。

 白い中心にか。

 それとも、自分の記憶にか。


 声は最後まで形にならず、階段の途中で短く折れた。


 壁へ預けた肩が、小さく震える。


 立ち上がれない。

 立ち上がろうとすると、また視界の奥で白い部屋が一段深くなるのが分かったからだ。


 いま動けば、現在の身体ごと、向こうの記憶の位置へ引き寄せられる。

 そんな確信にも似た恐怖がある。


 希夢は、額を壁へ寄せるようにして目を閉じかけ、すぐにやめた。

 閉じれば、階段の輪郭まで消える。

 いま必要なのは遮断ではなく、わずかでも現実の側を視界に残すことだ。


 だから、壁の白。

 足元の段差。

 蛍光灯の縁。

 そういう“いまの情報”だけを、ひとつずつ数えるみたいに見る。


 それでも、記憶はその隙間から入ってくる。


 鹿島先輩の背中。

 右手。

 張りつめた白。

 起きる直前の静けさ。


 そして、そこにいる自分の位置。


 見ているだけじゃない。

 遠くから眺めているのでもない。

 もっと近い。

 もっと、呼ばれれば届く場所にいる。


 その距離感が、希夢の背中をぞくりと冷やした。


「……俺(私)は……」


 言葉が、こぼれる。


 また一人称が揺れる。

 でも、今はその揺れを整える余裕さえない。


「……そこに……」


 いた。

 そう言い切りそうになって、喉の奥で止まる。


 言えば、完全に決まってしまう。

 いまはまだ、身体の方が先に知ってしまっているだけで、言葉の方はその事実に追いつけていない。


 希夢は、壁へついた手を少しだけ下ろし、自分の胸元を押さえた。


 鼓動がある。

 少し速い。

 でも、ちゃんといまの身体の中にある。


 それだけが、かろうじて自分を今へ留めていた。


 天井の照明が、また脈打つ。


 今度は階段の白だけが揺れる。

 記憶の白は、その奥で少し遠のく。

 完全に消えない。

 でも、一歩ぶんだけ引く。


 希夢は、その小さな後退にすがるように、ゆっくり息を吐いた。


 吐いて、吸う。

 吸って、吐く。


 ひどく単純な動作なのに、それを繰り返すことだけで精一杯だった。


 記憶の奔流は、もう開いてしまった。

 だから、元には戻らない。

 白い部屋のあの一瞬も、鹿島先輩の動きも、自分がそこにいたらしいという感覚も、もうなかったことにはできない。


 けれど、だからこそ今は、この階段の途中で崩れきらないことだけが必要だった。


 希夢は、壁へ背を預けたまま、ゆっくり目を開ける。


 薄暗い踊り場。

 白く脈打つ照明。

 手すりの影。

 そして、自分の膝。


 そこにあるものが少しずつ“いま”へ戻ってくる。


 それでも胸の奥には、はっきり残っていた。


 これは、夢ではない。

 推測でもない。

 過去の致死点に、自分の記憶がついに触れてしまった反応なのだと。


 希夢は、壁に手をついたまま、ひどく静かに座り込んでいた。


 立てるかどうかは、まだ分からない。

 でも、ここで崩れ落ちたこと自体が、もう次の層へ入ってしまった証拠だった。

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