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光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
消えた朝の、その先へ
32/56

希夢の決断

了解しました。

第八章『消えた朝の、その先へ』

Part D-1:観測施設へ向かおうとする希夢 を進めます。


第八章

消えた朝の、その先へ

Part D:希夢の決断

D-1:観測施設へ向かおうとする希夢


 手すりに置いた希夢の手は、まだ少しだけ強張っていた。


 夕方の金属は冷たい。

 その冷たさは現実のものだ。

 旧観測棟の扉も、外階段の踊り場も、足元のコンクリートも、ちゃんとこちら側にある。


 それなのに、胸の奥では別のものが静かに押し寄せ続けていた。


 裕也の空席。

 先生の目を逸らす反応。

 旧観測棟前に残されたスマホ。

 Pattern-X3。

 雛乃の夢。

 輪郭から先に光へ持っていかれる感覚。

 そして、自分の欠けた記憶の内側が、それを“知っている”という嫌な確信。


 どれもまだ断片だ。

 けれど、断片のままではもう置いておけないところまで来ていた。


 雛乃が、壁際に座ったまま希夢を見上げる。


「……希夢さん」


 その声には、まだ呼吸の揺れが残っていた。

 さっきよりは落ち着いている。

 でも、完全には戻っていない。


 希夢は、その声を聞きながら、ゆっくりと旧観測棟の扉へ目を向けた。


 閉じている。

 昨日と同じように。

 何も変わっていない顔をして。

 だが、その前に裕也のスマホが残され、観測ログが勝手に開き、雛乃の夢がそこへ重なった以上、もうただの閉じた扉ではいられない。


 あの向こうに、まだ何かがある。

 少なくとも、裕也の不在と無関係ではない何かが。


 希夢は、その理解が胸の中で静かに固まっていくのを感じた。


 怖くないわけじゃない。

 むしろ逆だ。

 ここから先へ近づけば、自分の欠けた記憶までまとめて開くかもしれない。

 それは第七章の時点で、もう十分に分かっていた。


 でも、立ち止まることの方が危ない。

 その感覚も、今は同じくらいはっきりしている。


 雛乃の夢を聞いてしまった。

 裕也の失踪を、ただの欠席としてはもう見られない。

 そして自分の中の空白は、ここまで一致が揃った状態で放っておけば、勝手に悪い形で膨らむだけだ。


 希夢は、手すりから手を離した。


 その小さな動きだけで、雛乃の表情がはっきり変わる。

 何をしようとしているのか、もう半分以上分かってしまった顔だった。


「……行くんですか」


 問いは小さい。

 けれど、その中に止めたい気持ちが全部入っている。


 希夢は、すぐには答えなかった。

 自分の中で、その言葉を一度だけはっきりした形にしてから出したかった。


 旧観測棟の扉。

 閉ざされた白い部屋。

 残りすぎないように薄められ、それでもなお消えきらなかった痕跡。

 そこへ、もう一度向かう。


 それは好奇心ではない。

 調べたいからでもない。

 もっと切実で、もっと個人的な理由だった。


 裕也を、放っておけない。

 そして、自分の中の欠落も、このままでは放っておけない。


 希夢は、雛乃の方を向く。


 その目の中に、怖れがある。

 止めたい気持ちもある。

 でも同時に、ここで希夢が何を感じているのかを、彼女自身も少し分かってしまっている目だった。


「……見てくる」


 最初に出たのは、それだけだった。


 声は静かだった。

 強くはない。

 けれど、自分でも分かるくらい、後戻りのしにくい響きを持っていた。


 雛乃の睫毛が、わずかに揺れる。


「だめです」


 ほとんど反射みたいに、そう返る。

 まだ Part D-2 の本格的な制止ではない。

 ただ、言わずにはいられなかったのだろう。


 希夢は、その短い否定を受け止めたまま、視線を外さない。


「だめかもしれない」


 そう言ってから、小さく息を吐く。


「でも、このままはもっとだめだと思う」


 風が一度だけ吹いて、踊り場の空気を薄く揺らした。

 足元のスマホの黒い画面に、夕方の光が細く流れる。


 雛乃は、立ち上がろうとして、でもすぐには動けない。

 体力が戻りきっていないのと、希夢の言葉の重さに一拍遅れているのと、その両方だった。


 希夢は、その様子を見て、胸の奥に小さな痛みを感じる。


 本当なら、一人で行くべきじゃない。

 本当なら、もっと準備して、もっと落ち着いてから考えるべきだ。

 それも分かっている。


 けれど、いまこの夕方、この場所、このスマホ、この夢の一致のあとで、時間を置くことが正しいとも思えなかった。

 裕也が“どこかへ移動している”のだとしたら、なおさらだ。


 希夢は、足元のスマホを拾い上げる。

 もう一度だけその冷たさが掌へ伝わる。


 冷たい。

 でも、さっきとは少し意味が変わっていた。

 これは不在の証拠であると同時に、まだ途切れていない接続の痕でもある。


 その接続を辿るなら、向かう先はひとつしかない。


 旧観測棟。


 希夢は、扉を見たまま、小さく呟く。


「……俺」


 一瞬、言葉が止まる。


 まだ揺れはある。

 一人称は完全には定まらない。

 昨日、ノートへ書いた時と同じように、いまの自分の輪郭にはまだ少しだけ割れ目がある。


 それでも、続けた。


「……私が見てくる」


 その言い直しは、訂正ではなかった。

 揺れているまま、それでも前へ出るための言葉だった。


 雛乃は、はっきりと息を呑む。


 希夢は、さらに一歩だけ扉の方へ足を向ける。


 コンクリートの硬さ。

 足裏の重み。

 いまここにいる身体の感覚を、ひとつずつ確かめながら。


「裕也を放っておけない」


 その一言は、自分でも思っていたより低かった。


 嘘ではない。

 本音だ。

 けれど、それだけでもないことを、希夢は知っている。


 放っておけないのは裕也だけじゃない。

 あの部屋に残っているものも。

 自分の欠けた記憶も。

 観測者として書かれた名字も。

 全部が、もう放置の限界を越えている。


 それでも今は、その全部をまとめて口にしない。

 まだできない。


 だから、いちばん外側の真実だけを置く。


 裕也を放っておけない。

 だから行く。


 その単純な形だけが、いまの自分を動かしていることにしたかった。


 旧観測棟の扉は、相変わらず静かだった。

 だが、希夢がその方向へ体を向けた瞬間、夕方の光が踊り場へ長く差し込み、自分の影を薄く伸ばした。


 細い影。

 手すりの影と重なり、揺れる。


 その揺れ方が、一瞬だけ第六章の壁際の影に似て見えて、希夢は胸の奥を強く押される。


 自分もまた、あの側へ近づいている。


 その予感は怖い。

 でも、もう見ないふりはできない。


 希夢は、影から目を逸らし、扉へ向けてもう一歩踏み出そうとした。


 希夢が扉へ向けて足を出しかけた、その瞬間だった。


「だめです!」


 雛乃の声が、踊り場の静けさを鋭く裂いた。


 希夢の足が止まる。

 振り返るより先に、その声の切実さだけが胸へ届いた。


 雛乃はもう立ち上がっていた。

 さっきまで呼吸を乱し、壁際へ座り込むようにしていたとは思えないほど、必死な勢いで。


 けれど、その勢いは強さというより、崩れそうなものを無理に立たせているような危うい緊張に近かった。

 肩が震えている。

 呼吸もまだ完全には整っていない。

 それでも彼女は、一歩だけ前へ出ていた。


「だめです……!」


 もう一度。

 今度は少し掠れながら、それでもはっきりと。


「行っちゃだめです。

 あそこは……」


 そこで言葉が詰まる。

 旧観測棟の閉じた扉を見たまま、雛乃の喉が小さく震えた。


 希夢は、動けなかった。


 止められたからではない。

 雛乃の声の中に、自分が知っている種類の恐怖ではないものが混じっていたからだ。


 怖い。

 それだけじゃない。

 もっと、見えてしまったから止めている声だった。


「あそこは、何かがあります……!」


 ようやく出たその言葉は、叫びに近かった。


 踊り場の空気が、一瞬だけ張り詰める。


 何かがある。

 曖昧な言い方だ。

 けれど今の二人には、それで十分すぎるほど意味があった。


 白い部屋。

 Pattern-X3。

 夢の中で裕也が引かれていった光。

 残りすぎないように薄められ、それでも消えきらなかった痕跡。

 それら全部をひとまとめにしてしか言えない時、人は“何か”と言うしかない。


 希夢は、扉と雛乃を交互に見た。


「分かってる」


 静かにそう言う。

 だが雛乃は、すぐに首を振った。


「分かってないです!」


 その返しは、ほとんど泣き声だった。


「分かってるつもりでも、

 昨日と今日で、もう違うじゃないですか!」


 その一言に、希夢の胸の奥が強く痛む。


 違う。

 たしかに違う。


 昨日、自分たちは部屋の残り方を見ただけだった。

 影を見た。

 ログを見た。

 ラストフレームを見た。

 そして、観測者という言葉へ触れた。


 でも今日は、裕也がいない。

 空席があり、先生が目を逸らし、スマホが旧観測棟の前に残されていた。

 夢とログまで一致してしまった。


 昨日の“危うさ”は、もう今日の現実ではない。


 雛乃は、希夢の手にあるスマホを見た。

 黒い画面。

 その中にまだ何かが潜んでいることを知っている目だった。


「裕也くんも、たぶん見たんです。

 同じのを。

 それで……」


 その先を言い切れず、唇を強く噛む。


 それで、いなくなった。

 そう言葉にしてしまうのが怖いのだろう。


 希夢は、掌の中のスマホが急に重くなるのを感じた。


 そうだ。

 裕也もたぶん、ここまで来た。

 この踊り場に立ち、このスマホを見て、Pattern-X3 に触れた。

 その先で、こちら側から少しずれた。


 だからこそ、自分が行かなければ。

 そう思う気持ちは、まだ消えない。


 だがその一方で、雛乃の恐怖もまた、あまりに正しい。


「……それでも」


 希夢が言いかけると、雛乃はもう一歩だけ前へ出た。


「それでもじゃないです!」


 今度の声は、明確に震えていた。


「希夢さんまで、

 そっちに行ったらどうするんですか」


 その問いが、真正面から落ちる。


 裕也を放っておけない。

 自分の記憶も確かめたい。

 その全部が、ここで一度立ち止まる。


 希夢は、すぐには答えられなかった。


 “そっち”という言い方が、あまりに正確だったからだ。


 旧観測棟の中。

 光の揺れの側。

 観測者として引かれていく位置。

 そして、戻れなくなるかもしれない層。


 雛乃は、それを全部ひっくるめて“そっち”と言ったのだ。


「私……」


 雛乃は、呼吸を整えながら続ける。


「夢で見たんです。

 裕也くんが、ちゃんといたのに、

 少しずつ向こうへ行っちゃうの」


 涙がまた目元へ浮かぶ。


「だから、希夢さんが今みたいに

 あそこへ向かおうとするの、

 同じに見えるんです」


 その言葉に、希夢は足元をすくわれるような感覚を覚える。


 同じ。

 つまり、夢の中で裕也が光へ引かれていったように、

 いま自分もまた旧観測棟へ引かれているように見えているということだ。


 自分では“決めて向かう”つもりだった。

 でも、外から見ればそうではないのかもしれない。


 観測者として選ばれた者が、自分の意志だと思いながら、実は向こう側へ誘導されているだけだとしたら。


 その可能性が、ひどく静かに胸へ刺さる。


 希夢は、扉を見る。

 閉ざされたまま。

 何も言わない。

 だが、その沈黙は確かにこちらを待っているようにも見える。


 そして初めて、

 自分が向かおうとしているこの一歩が、本当に“自分で決めた一歩”なのか

 という疑いが生まれた。


 雛乃が、かすれた声で続ける。


「行くなら、せめて……

 今じゃなくて。

 こんな状態のままじゃなくて」


 それは懇願だった。

 感情だけの制止ではない。

 希夢の一人称がまだ揺れていることも、欠けた記憶がすでに強く反応していることも、雛乃はちゃんと見ている。


 今の希夢は、観測者として近づいている。

 だからこそ、もっとも危うい。


「いま行ったら」


 雛乃は、握った両手を胸元へ引き寄せる。


「希夢さん、自分がどこまで自分か、

 分からなくなる気がする」


 その一言で、希夢の中の何かが静かに止まった。


 図星だった。


 裕也を放っておけないのは本当だ。

 でも、それと同じくらい、

 自分の空白を埋めたい気持ちが、この扉へ向かわせていた。

 そしてその気持ちは、たしかに危うい。


 確かめたい。

 だが、確かめることと、引き込まれることの境目が、いまの自分にはまだ薄すぎる。


 雛乃は、涙を堪えたまま、必死に言葉を置く。


「私は、止められなかったです。

 裕也くんも。

 夢も。

 昨日のことも。

 でも、今ここで希夢さんを行かせるのは、もっとだめです」


 希夢は、ゆっくり息を吸った。


 怒りではない。

 反論でもない。

 その代わり、胸の奥に少しずつ別の感覚が広がる。


 制止されることへの苛立ちではなく、

 自分が本当に危うい位置にいるのだと、他人の口で言われた時の冷えだった。


 足を止めたまま、希夢は小さく目を伏せる。


 夕方の光が、踊り場の床に長く伸びる。

 自分の影もそこに揺れている。

 その影はさっきよりも少しだけ細く見えて、希夢はまた胸の奥を押される。


 雛乃の言う通りかもしれない。

 いまの自分は、向かっているのではなく、引かれているだけなのかもしれない。


 希夢が扉へ向けて足を出しかけた、その瞬間だった。


「だめです!」


 雛乃の声が、踊り場の静けさを鋭く裂いた。


 希夢の足が止まる。

 振り返るより先に、その声の切実さだけが胸へ届いた。


 雛乃はもう立ち上がっていた。

 さっきまで呼吸を乱し、壁際へ座り込むようにしていたとは思えないほど、必死な勢いで。


 けれど、その勢いは強さというより、崩れそうなものを無理に立たせているような危うい緊張に近かった。

 肩が震えている。

 呼吸もまだ完全には整っていない。

 それでも彼女は、一歩だけ前へ出ていた。


「だめです……!」


 もう一度。

 今度は少し掠れながら、それでもはっきりと。


「行っちゃだめです。

 あそこは……」


 そこで言葉が詰まる。

 旧観測棟の閉じた扉を見たまま、雛乃の喉が小さく震えた。


 希夢は、動けなかった。


 止められたからではない。

 雛乃の声の中に、自分が知っている種類の恐怖ではないものが混じっていたからだ。


 怖い。

 それだけじゃない。

 もっと、見えてしまったから止めている声だった。


「あそこは、何かがあります……!」


 ようやく出たその言葉は、叫びに近かった。


 踊り場の空気が、一瞬だけ張り詰める。


 何かがある。

 曖昧な言い方だ。

 けれど今の二人には、それで十分すぎるほど意味があった。


 白い部屋。

 Pattern-X3。

 夢の中で裕也が引かれていった光。

 残りすぎないように薄められ、それでも消えきらなかった痕跡。

 それら全部をひとまとめにしてしか言えない時、人は“何か”と言うしかない。


 希夢は、扉と雛乃を交互に見た。


「分かってる」


 静かにそう言う。

 だが雛乃は、すぐに首を振った。


「分かってないです!」


 その返しは、ほとんど泣き声だった。


「分かってるつもりでも、

 昨日と今日で、もう違うじゃないですか!」


 その一言に、希夢の胸の奥が強く痛む。


 違う。

 たしかに違う。


 昨日、自分たちは部屋の残り方を見ただけだった。

 影を見た。

 ログを見た。

 ラストフレームを見た。

 そして、観測者という言葉へ触れた。


 でも今日は、裕也がいない。

 空席があり、先生が目を逸らし、スマホが旧観測棟の前に残されていた。

 夢とログまで一致してしまった。


 昨日の“危うさ”は、もう今日の現実ではない。


 雛乃は、希夢の手にあるスマホを見た。

 黒い画面。

 その中にまだ何かが潜んでいることを知っている目だった。


「裕也くんも、たぶん見たんです。

 同じのを。

 それで……」


 その先を言い切れず、唇を強く噛む。


 それで、いなくなった。

 そう言葉にしてしまうのが怖いのだろう。


 希夢は、掌の中のスマホが急に重くなるのを感じた。


 そうだ。

 裕也もたぶん、ここまで来た。

 この踊り場に立ち、このスマホを見て、Pattern-X3 に触れた。

 その先で、こちら側から少しずれた。


 だからこそ、自分が行かなければ。

 そう思う気持ちは、まだ消えない。


 だがその一方で、雛乃の恐怖もまた、あまりに正しい。


「……それでも」


 希夢が言いかけると、雛乃はもう一歩だけ前へ出た。


「それでもじゃないです!」


 今度の声は、明確に震えていた。


「希夢さんまで、

 そっちに行ったらどうするんですか」


 その問いが、真正面から落ちる。


 裕也を放っておけない。

 自分の記憶も確かめたい。

 その全部が、ここで一度立ち止まる。


 希夢は、すぐには答えられなかった。


 “そっち”という言い方が、あまりに正確だったからだ。


 旧観測棟の中。

 光の揺れの側。

 観測者として引かれていく位置。

 そして、戻れなくなるかもしれない層。


 雛乃は、それを全部ひっくるめて“そっち”と言ったのだ。


「私……」


 雛乃は、呼吸を整えながら続ける。


「夢で見たんです。

 裕也くんが、ちゃんといたのに、

 少しずつ向こうへ行っちゃうの」


 涙がまた目元へ浮かぶ。


「だから、希夢さんが今みたいに

 あそこへ向かおうとするの、

 同じに見えるんです」


 その言葉に、希夢は足元をすくわれるような感覚を覚える。


 同じ。

 つまり、夢の中で裕也が光へ引かれていったように、

 いま自分もまた旧観測棟へ引かれているように見えているということだ。


 自分では“決めて向かう”つもりだった。

 でも、外から見ればそうではないのかもしれない。


 観測者として選ばれた者が、自分の意志だと思いながら、実は向こう側へ誘導されているだけだとしたら。


 その可能性が、ひどく静かに胸へ刺さる。


 希夢は、扉を見る。

 閉ざされたまま。

 何も言わない。

 だが、その沈黙は確かにこちらを待っているようにも見える。


 そして初めて、

 自分が向かおうとしているこの一歩が、本当に“自分で決めた一歩”なのか

 という疑いが生まれた。


 雛乃が、かすれた声で続ける。


「行くなら、せめて……

 今じゃなくて。

 こんな状態のままじゃなくて」


 それは懇願だった。

 感情だけの制止ではない。

 希夢の一人称がまだ揺れていることも、欠けた記憶がすでに強く反応していることも、雛乃はちゃんと見ている。


 今の希夢は、観測者として近づいている。

 だからこそ、もっとも危うい。


「いま行ったら」


 雛乃は、握った両手を胸元へ引き寄せる。


「希夢さん、自分がどこまで自分か、

 分からなくなる気がする」


 その一言で、希夢の中の何かが静かに止まった。


 図星だった。


 裕也を放っておけないのは本当だ。

 でも、それと同じくらい、

 自分の空白を埋めたい気持ちが、この扉へ向かわせていた。

 そしてその気持ちは、たしかに危うい。


 確かめたい。

 だが、確かめることと、引き込まれることの境目が、いまの自分にはまだ薄すぎる。


 雛乃は、涙を堪えたまま、必死に言葉を置く。


「私は、止められなかったです。

 裕也くんも。

 夢も。

 昨日のことも。

 でも、今ここで希夢さんを行かせるのは、もっとだめです」


 希夢は、ゆっくり息を吸った。


 怒りではない。

 反論でもない。

 その代わり、胸の奥に少しずつ別の感覚が広がる。


 制止されることへの苛立ちではなく、

 自分が本当に危うい位置にいるのだと、他人の口で言われた時の冷えだった。


 足を止めたまま、希夢は小さく目を伏せる。


 夕方の光が、踊り場の床に長く伸びる。

 自分の影もそこに揺れている。

 その影はさっきよりも少しだけ細く見えて、希夢はまた胸の奥を押される。


 雛乃の言う通りかもしれない。

 いまの自分は、向かっているのではなく、引かれているだけなのかもしれない。


 「……それでも行きたい」


 その言葉が落ちたあと、踊り場の空気はしばらく動かなかった。


 雛乃は、すぐには何も言えなかった。

 止めたいのだと分かる。

 怖いのだとも分かる。

 それでも、いまの希夢が口にしたものが、ただの衝動ではなく、もう削れない本音の層に触れていることも、彼女には分かってしまったのだろう。


 旧観測棟の扉は、相変わらず静かだった。


 何も答えない。

 開きもしない。

 ただ、そこにある。


 けれど、その沈黙の形そのものが、希夢にはすでに一つの応答みたいに思えた。

 来るなら来い。

 知りたいなら近づけ。

 そう言っているわけではない。

 もっと冷たく、もっと平坦に、

 ここにあるものは、ここに来なければ分からない

 とだけ示しているような沈黙だった。


 希夢は、手の中のスマホを見た。


 黒い画面。

 そこにはもう何も映っていない。

 けれど、Last Observation / Pattern-X3 の文字も、波形の寄り方も、trace remains の一行も、まだ掌の感覚の中に残っている。


 裕也はどこかへ行った。

 夢とログは一致した。

 自分の空白は、それに強く反応している。


 ここまで揃ってしまった以上、

 次の一歩はもう、事件の延長であると同時に、自分自身の延長でもあった。


「……ほんとに、行くんですね」


 雛乃の声は細かった。

 泣きそうなのを、ぎりぎりのところで押さえている声だった。


 希夢は、すぐには頷かなかった。

 頷けば、それで決まってしまう。

 けれど、もう決まっていることを、自分でも知っていた。


「うん」


 短く、そう言う。


 それだけの返事なのに、雛乃の肩が小さく落ちた。

 諦めではない。

 止めきれないと知った時の、静かな痛みだった。


 希夢は、その痛みを見ないふりはできなかった。

 自分が向かおうとしている先は、旧観測棟だけではない。

 雛乃が必死に握りしめてくれた“今ここ”から、半歩だけ外へ出ることでもある。


 それでも、足はもう止まらなかった。


 希夢は、踊り場の壁から背を離す。

 スマホをポケットへ滑り込ませる。

 夕方の光がその動作を細くなぞり、手の甲に淡い影を作った。


 雛乃が、また何か言いかける。


「希夢さん――」


 その呼びかけだけで、十分だった。

 止めたい。

 行かないでほしい。

 でも、もし行くなら戻ってきてほしい。

 その全部が、たった一つの名前の呼び方に入っていた。


 希夢は、振り返る。


 雛乃は踊り場の壁際に立ったまま、両手を胸元で握りしめていた。

 さっきまでの震えはまだ完全には消えていない。

 それでも、目だけは逸らしていなかった。


 その目を見た瞬間、希夢はひどく静かな痛みを覚える。


 自分は、ここから先を一人で行こうとしている。

 裕也を放っておけないと言いながら、

 自分の空白も確かめたいと言いながら、

 結局この一歩は、自分にしか踏み出せない形をしている。


 それが、急にひどく孤独に思えた。


「……たぶん」


 希夢は、小さく言う。


「ここから先は、一緒には行けない」


 雛乃の睫毛が揺れる。

 けれど、否定はしなかった。


 夢を見ることはできても、

 観測者として引かれる位置までは同じになれない。

 その温度差を、第七章でもう知ってしまっているからだ。


 希夢は、少しだけ困ったように笑う。


 笑うと言っても、口元がわずかに動いただけの、不器用なものだった。


「でも」


 続く言葉は、思ったより自然に出た。


「戻れなくなる前に、呼んで」


 雛乃の目が、大きく揺れる。


 第七章、自分が崩れかけた時、

 戻ってきてと呼んでくれたのは雛乃の方だった。

 今度は、その役目を改めて渡し直すような言葉だった。


「ちゃんと聞こえるから」


 その一言で、雛乃の喉が小さく鳴る。


 泣きそうになりながら、それでも頷く。

 声に出すと崩れそうだからか、返事は最初、首の動きだけだった。


 それから、かすれた声でやっと言う。


「……はい」


 希夢は、その返事を受けて、ようやく扉の方を向き直る。


 外階段の先に続く、薄暗い影。

 夕方の光はもう高くない。

 手すりの影が長く床へ落ち、踊り場の端から端まで細い線を引いている。


 その影の中へ、自分の影も伸びていた。


 細い。

 少し揺れている。

 風のせいかもしれない。

 あるいは、自分の呼吸の揺れがそのまま影へ伝わっているのかもしれない。


 希夢は、その影を見つめる。


 昨日、第六章の白い部屋で見た壁際の影。

 振り返らなかった後ろ姿。

 残り方だけが定着した人の形。

 それに似ている、とまた思ってしまう。


 自分も、そちらへ近づいている。

 その予感はもう、否定のしようがなかった。


 けれど同時に、影は影のままだ。

 まだ輪郭を失ってはいない。

 まだこちら側に足を置いている。


 希夢は、その事実だけを確かめるように、一歩だけ前へ出る。


 コンクリートの硬さが足裏へ返る。

 ちゃんと現実の重さがある。

 その確認が、いまは必要だった。


 後ろで、雛乃が息を止める気配がした。

 振り返らなくても分かる。

 自分の背中を見ている。

 止められないまま、それでも見送るしかない痛みの中で、ちゃんとこちらを見ている。


 その視線を感じた時、希夢は初めて、自分の背中がどれほど孤独に見えているのかを想像した。


 裕也はいない。

 雛乃はここにいる。

 それでも、扉へ向かうこの角度だけは、たしかに一人のものだった。


 希夢は、扉の前まで進む。

 昨日と同じ距離。

 それなのに、今日はもっと遠い場所へ来たように感じる。


 扉の前の空気は、少しだけ薄い。

 温度ではなく、密度の方が違う。

 その感覚に触れた瞬間、ポケットの中のスマホが微かに冷たくなるのを感じて、希夢は目を閉じかけて、やめた。


 まだだ。

 まだ、ここで立ち止まっている。


 だが、この一歩で章の重さはもう変わっていた。


 裕也の不在は、教室の空席から、

 旧観測棟前の痕跡へ、

 そして今、希夢自身の孤独な背中へ繋がってしまった。


 光が、踊り場の床でわずかに揺れる。

 それに合わせて、希夢の影もまた細く揺れた。


 その影はまだ、誰のものとも重なりきっていない。

 けれど、次の瞬間には何か別の残り方へ変わってしまいそうな、不吉な静けさだけを帯びていた。


 希夢は、扉の前で小さく息を吸う。


 後ろには雛乃がいる。

 いまここにいると呼び戻してくれる声が、まだ届く位置にいる。

 それでも、この背中を押しているものは、もう自分の内側にしかない。


 裕也を放っておけない。

 自分の空白も放っておけない。

 その両方をごまかさずに抱えたまま、

 希夢は薄暗い影の中へ、さらに半歩だけ身を沈める。

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