雛乃の呼吸の乱れ
スマホの画面が黒へ戻ったあとも、雛乃の視線だけはしばらくそのまま宙に残っていた。
もう波形は見えていない。
Pattern-X3 の表示も消えている。
それなのに、彼女の目にはまだ、あの白い揺れが焼きついたままなのだと、希夢には分かった。
「……雛乃」
静かに呼ぶ。
返事はすぐには来なかった。
雛乃は、両腕を自分の体へ抱き寄せたまま、小さく肩を上下させている。
泣いている時の呼吸ではない。
もっと浅くて、もっと細い。
息を吸えていないわけではないのに、どこまで吸っても肺の奥まで届いていないみたいな呼吸だった。
「……っ、は……」
短い。
切れる。
また吸おうとして、うまく繋がらない。
希夢の胸が、ひどく静かに冷える。
雛乃が崩れかけている。
それは涙より先に、呼吸の方へ出る種類の崩れだった。
「雛乃、こっち見て」
そう言いながら、希夢は一歩だけ距離を詰める。
旧観測棟の外階段。
夕方の薄い光。
閉じたままの扉。
その前で、雛乃の呼吸だけが、この場所の沈黙に飲まれかけていた。
雛乃は、やっと希夢の方を見た。
けれど、焦点が少し揺れている。
完全にこちらへ戻ってきていない目だった。
「……夢と、同じで」
声が、途切れ途切れに落ちる。
「それで……裕也くん、が……」
そこから先へ行けない。
言葉にしようとするたびに、呼吸の方が先に崩れる。
「大丈夫。今は言わなくていい」
希夢は、できるだけ平らな声で言った。
強く止めるのではなく、でも、これ以上内側へ潜らなくていいと伝えるための声。
そのつもりだった。
だが雛乃は、かすかに首を振る。
「ちが……わかる、から……」
ひとつ息を吸う。
浅い。
また途中で切れる。
「この、揺れの先……
わかっちゃう、から……っ」
最後の音が、かすれて崩れる。
希夢は、その言葉に背中の奥がひやりとするのを感じた。
夢と同じ。
それだけでも十分に重い。
なのに雛乃は、その先まで“分かってしまう”位置に立たされている。
それは単なる一致ではない。
夢で受け取っていたものが、今ここで現実のログと接続されたことで、
夢の続きを現実側で予感してしまう状態だ。
「雛乃さん」
後ろから、別の声がした。
仲田先生――ではない。
ただ通りかかった別の生徒かと思って振り返りかけた瞬間、希夢は違うと気づく。
それは人の声ではなく、旧観測棟の中でどこか金属が小さく軋んだ音だった。
その音に雛乃がびくりと肩を震わせる。
「……だめ」
彼女の声は、ほとんど反射だった。
「ここ、だめです……
ここで見たら、だめ……」
呼吸がさらに浅くなる。
胸だけが早く上下して、吸った空気が身体のどこにも落ち着かない。
希夢は、そこでようやく決めた。
いま必要なのは説明でも確認でもない。
とにかく、雛乃の呼吸を現実側へ戻すことだ。
「雛乃、手」
そう言って、自分の片手を差し出す。
雛乃は一瞬だけその手を見た。
理解が遅れている。
でも、完全には途切れていない。
「いいから」
希夢は、もう一度静かに言う。
「いま、私の手だけ見て」
雛乃の指先が、ようやく動く。
触れた瞬間、希夢ははっとした。
冷たい。
朝、裕也の机に触れた時のひやりとした温度を、もっと人の皮膚に近い形で持っている。
血が通っていないわけじゃない。
でも、恐怖で末端だけが先に現実から薄くなっているみたいな冷たさだった。
「……息、して」
希夢は、できるだけ自分の呼吸を見せるように、ゆっくり吸って、ゆっくり吐く。
「吸って。
吐いて。
大丈夫、まだここにいる」
雛乃は、最初の一回はうまく合わせられなかった。
吸う前に肩が上がりすぎて、すぐに息が途切れる。
「もう一回」
希夢は言う。
「ゆっくり」
今度は少しだけ長く吸える。
吐くのも、さっきよりは繋がる。
その時、雛乃の膝がふらついた。
「……っ」
崩れ落ちそうになるその体を、希夢はとっさに肩から支えた。
軽い。
けれど、重心が全部こちらへ預けられるほどではない。
自分で立っているつもりなのに、呼吸が崩れているせいで体幹だけが遅れている。
「雛乃!」
今度は希夢の声が少しだけ強くなる。
その強さに、雛乃の目がようやくこちらへ戻ってくる。
「見て。
私を見て」
旧観測棟の扉ではない。
スマホの黒い画面でもない。
自分の手と、自分の顔と、自分の声だけを見せる。
「まだ、あのログの中じゃない」
その言い方は、半分は自分自身にも向けていた。
「ここ。
外階段。
夕方。
私がいる」
雛乃の呼吸が、もう一度だけ大きく揺れて、それから少しだけ深くなる。
「……き、ゆめ……さん」
名前が、やっと出る。
それだけで希夢は少し救われる。
夢の中や揺らぎの中ではなく、今ここで、相手の名前を呼べるなら、まだ戻れる。
「うん」
希夢は短く返す。
「そう。
ここにいる」
雛乃は、差し出された手を今度は少しだけ強く握り返した。
指先はまだ冷たい。
でも、さっきよりほんの少しだけ“人の体温”に近づいている。
呼吸は完全には整わない。
それでも、吸って吐くのあいだに、もう“恐怖だけ”が入る状態ではなくなり始めていた。
「……ごめんなさい」
雛乃が、かすれた声で言う。
希夢はすぐに首を振る。
「謝らなくていい」
「でも……」
雛乃の目元がまた揺れる。
「私、分かっちゃって……
その先が……
見えそうで……」
そこでまた息が浅くなる。
だが、さっきみたいに完全には崩れない。
希夢は、雛乃の手を握ったまま答える。
「見えそうでも、今はそこまで行かなくていい」
その言葉に、雛乃はゆっくりと目を閉じた。
閉じても今度は呼吸が乱れきらない。
希夢の声が、ぎりぎり現実側の杭として届いているのだと分かる。
旧観測棟の前は相変わらず静かだった。
静かすぎて、階段下の風の音までやけに遠く聞こえる。
その静けさの中で、雛乃の呼吸だけが、少しずつ“今”へ戻ってくる。
希夢は、そこでようやく気づく。
さっきまでアンカーだったのは雛乃の方だった。
第七章で、自分が崩れた時、雛乃は名前を呼んでくれた。
現実へ引き戻す側だった。
けれど今は逆だ。
夢を見る側ほど、揺らぎの一致に深く傷つく。
その事実が、雛乃の乱れた呼吸として目の前に出ている。
そして希夢は、その崩れを支える位置へ、もう立たされていた。
雛乃の指先は、まだ希夢の手の中で小さく震えていた。
呼吸はさっきよりはましになっている。
けれど、安定したとはまだ言えない。
吸って、吐いて、そのあいだに少しだけ間ができる。
その間にまた“向こう側”の気配が入り込めるだけの隙間が残っていた。
旧観測棟の外階段は、相変わらず静かだった。
踊り場に落ちる夕方の光も、手すりの冷たい影も、何も変わっていない。
それなのに、さっきから二人のあいだにある空気だけが、別の場所と細く接続されたまま戻りきらない。
希夢は、雛乃の手を握ったまま、ゆっくり息を吸った。
「……大丈夫。
いまは、ここだけ見て」
自分の声が、思っていたより落ち着いて聞こえて、希夢は少しだけ驚く。
胸の奥にはまだ重さが残っている。
裕也のスマホも、Pattern-X3 も、黒くなった画面の向こうでまだ続いている感じがする。
それでも今は、自分の内側より先に、雛乃の崩れそうな輪郭を支えなければならなかった。
雛乃は、目を閉じたまま小さく頷く。
その頷きの途中で、また肩が震える。
「……ごめん、なさい」
「だから、謝らなくていい」
希夢は静かに言った。
言いながら、自分でもその言葉が少しだけ以前の雛乃の声に似ていることに気づく。
第七章で、自分が崩れかけた時。
名前を呼ばれ、ここにいると何度も言われた時。
あの時の細い橋を、いまは自分がかける側に回っている。
その事実が、胸の奥を静かに刺した。
雛乃の手は冷たかった。
外気に触れていたから、ではない。
夕方の風に冷やされた指先の温度とは違う。
もっと内側から、血の気だけが先に引いていったみたいな冷たさだった。
その冷えの奥で、震えが続いている。
希夢は、もう片方の手もそっと重ねた。
包み込むように。
でも、閉じ込めないように。
「……冷たい」
思わずそう漏らすと、雛乃がうっすら目を開ける。
「すみません」
「だから、そういうのじゃない」
希夢は小さく首を振る。
「ただ、ほんとに冷えてる」
雛乃の指は細い。
いつもノートの端を押さえたり、ペンを持ったりしている時には、もっと柔らかく見える手なのに、いまは力の入れ方が分からなくなったみたいに固くなっていた。
希夢は、その手に少しだけ自分の体温を移すみたいに、握り方を整える。
「……離さないでください」
雛乃が、ほとんど囁くように言った。
その一言の弱さに、希夢は息を詰める。
夢を見る側。
いつもは揺らぎの気配を先に受け取る側。
それでも、今はこんなふうに明確に支えを求めている。
希夢は、迷わず答えた。
「離さない」
短い言葉だった。
でも、それで十分だと思った。
雛乃は、その返事を聞いたあと、ようやくほんの少しだけ呼吸を深くする。
吸う。
吐く。
まだ浅い。
けれど、さっきみたいに途中で砕ける感じではなくなり始めていた。
希夢は、手を握ったまま、雛乃の肩へ視線を移す。
震えは完全には止まっていない。
それでも、崩れ落ちる方向の揺れではなく、踏みとどまろうとする揺れに変わっている。
「座る?」
希夢が聞くと、雛乃は少しだけ迷ってから頷いた。
二人は踊り場の壁際へゆっくり寄る。
その間も、希夢は手を離さない。
雛乃の足取りは軽くない。
でも、完全に力が抜けているわけでもない。
自分で歩こうとしていることだけが分かる。
壁際に並ぶようにして腰を下ろすと、旧観測棟の扉がすぐ目の前に入った。
その閉じたままの気配に、雛乃の肩がまたわずかに強張る。
「見なくていい」
希夢がすぐに言う。
雛乃は、扉ではなく自分たちの手元へ視線を落とした。
握られたままの指先。
冷たい手。
そこにだけ、かろうじて今の現実がある。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
風が一度だけ手すりを鳴らし、遠くで部活の掛け声が薄く響く。
学校はまだ普通に続いている。
だがこの場所だけ、普通の時間の外縁に薄く寄りかかっているみたいだった。
やがて、雛乃がぽつりと言う。
「希夢さん、昨日……
私のこと、こうやって戻してくれましたっけ」
希夢は、一瞬だけ言葉を失う。
正確には逆だった。
第七章で、自分を呼び戻してくれたのは雛乃の方だ。
教室で、部室で、声をかけて、手を置いて、ここにいると何度も言ってくれた。
だから希夢は、少しだけ苦く笑う。
「昨日は、雛乃の方が支えてくれてた」
雛乃が、かすかに首を振る。
「でも、今は……」
その先は続かない。
それでも十分だった。
いま、立場が反転している。
そのことを、二人とももう知っている。
夢に近い側ほど、現実と一致した時に深く揺れる。
そして観測者に近づいた側ほど、今度はそれを支える位置へ押し出される。
希夢は、雛乃の冷たい手を見ながら思う。
観測者として選ばれることは、声を聞くことや記憶に触れることだけじゃない。
こうして誰かの揺れを受け止める側になることでもあるのかもしれない。
「……いまは、私が支える」
希夢がそう言うと、雛乃の目が少しだけ揺れた。
強い宣言ではない。
ただ、いまの位置をそのまま口にしただけだ。
それでも、その一言は踊り場の冷たい空気の中で、思っていたよりはっきりと残った。
雛乃は、もう一度だけ息を吸って、少し長く吐く。
その吐息の終わりで、震えがほんのわずかに弱まる。
「……ありがとうございます」
今度の声は、さっきより少しだけ人間の体温を取り戻していた。
希夢は答えずに、ただ手を離さなかった。
裕也のスマホは、膝の横で黒いままだ。
画面は消えていても、その中にある Pattern-X3 がなくなったわけではない。
旧観測棟の扉も、閉じたままだ。
あの向こうにあるものが静まったわけでもない。
それでも今は、ひとつだけ確かなことがある。
雛乃の手の震えは、まだ残っている。
けれど、その震えはもう“飲み込まれかけた崩れ”ではなく、
誰かに支えられながら、かろうじてこちら側に踏みとどまっている震えになっていた。
希夢は、その変化を手の中で感じながら、静かに思う。
裕也がいなくなり、夢とログが一致し、旧観測棟の前で残されたスマホが勝手に開いた。
状況はどんどん悪くなっている。
それでも、この章の中で失ってはいけないものがあるとしたら、たぶんこういう小さな接続なのだ。
誰かの名前を呼ぶこと。
冷たい手を握ること。
いまここにいると、細く言い続けること。
光の揺らぎに対抗できるのがそれだけだとは思わない。
けれど少なくとも、それがなければ、自分たちはもっと早く崩れていた。
しばらくのあいだ、雛乃は何も言わなかった。
旧観測棟の外階段。
壁際に並んで腰を下ろしたまま、希夢はまだ彼女の手を握っている。
指先の冷たさは少しだけやわらいだが、完全には戻っていない。
呼吸も、さっきより深くはなった。
それでも、ときどき途中で薄く揺れる。
黒くなったスマホは、二人の足元の少し横に置かれていた。
画面は消えている。
けれど、その沈黙の中に Pattern-X3 の波形がまだ潜んでいることを、二人とももう知ってしまっていた。
風が一度だけ、手すりのあたりを鳴らした。
それからまた、静けさが戻る。
希夢は、急がなかった。
雛乃が何かを抱えているのは分かっている。
でも、それをこちらから引きずり出すような聞き方はしたくなかった。
やがて、雛乃が小さく息を吸う。
「……昨日の夜」
その声は、まだ少し掠れていた。
希夢は、何も言わずに続きを待つ。
「私、夢を見たんです」
その一文が落ちた瞬間、踊り場の空気がもう一段だけ薄くなる。
夢。
その言葉は、今の二人にとってただの睡眠中の映像ではない。
第五章からずっと、雛乃の夢は現実の揺らぎと奇妙な一致を続けてきた。
だからこそ、その告白にはもう最初から重さがある。
雛乃は、視線を足元へ落としたまま続ける。
「昨日、帰ってから……
なんだかずっと落ち着かなくて。
眠っても、浅くて。
それで、やっと寝たと思ったら、すぐに」
そこまで言って、唇を少しだけ噛む。
言いたくないのではない。
言葉にした瞬間、それが“ただの夢”では済まなくなるのが分かっているから、身体の方が少しだけ止まるのだ。
希夢は、握った手へほんの少しだけ力を返した。
話しても大丈夫だと伝えるための、最小の動きだった。
雛乃は、その重さを受けて、ようやく言う。
「……裕也くんが、いたんです」
希夢の胸の奥が、静かに縮む。
雛乃の声は震えている。
でも、逃げてはいない。
「どこに?」
希夢が静かに聞くと、雛乃は少しだけ目を閉じた。
「白いところ」
それは曖昧な表現だった。
けれど、いまの二人には十分すぎるほど具体的だった。
旧観測棟の白い部屋。
天井の光。
粒の集まり。
揺らぎ。
壁のようになる光。
雛乃は、言葉をひとつずつ選ぶみたいに、ゆっくり続ける。
「最初は、部屋って分からなかったです。
ただ、白くて……
どこが壁で、どこが床かも少し曖昧で。
でも、光だけがすごくはっきりしてて」
希夢の頭の奥に、第七章で開いたフラッシュバックの断片が、薄く触れる。
白い部屋。
天井の強い光。
机の少し上に集まる粒。
雛乃は、そこへさらに言葉を重ねる。
「その中に、裕也くんが立ってたんです」
握った手が、また小さく震える。
希夢は、息を止めないように意識しながら聞いていた。
「立ってる、っていうか……
最初は、ちゃんとそこにいたんです。
こっちに背中を向けてるとかじゃなくて、
少し斜めで。
何かを見てるみたいに」
その描写に、希夢はすぐに反応できなかった。
鹿島先輩の背中ではない。
裕也。
しかも“見ている側”として、その場に立っている。
それはもう、夢というより継続だった。
昨日、自分たちが観測ログへ触れたところから、その先へ裕也だけが踏み込んでしまったみたいな夢。
「何を見てたの」
希夢の問いは、気づけば少しかすれていた。
雛乃は、首を小さく横に振る。
「分からないです。
でも、裕也くんの前に、白い揺れがあって……
それが、スマホのログと同じで」
希夢は、足元に置いた黒いスマホを見た。
画面は消えている。
けれど、そこに残っていた波形は、雛乃の夢の中でも同じ形を取っていたのだ。
雛乃は、そこで呼吸をひとつ整える。
さっきほど乱れない。
でも、次に言うことがいちばんつらいのだと、その呼吸の置き方で分かった。
「それで……」
声が細くなる。
「裕也くん、少しずつ……
その光の方に引かれていったんです」
希夢は、無意識に雛乃の手を握り直した。
引かれていく。
その言い方は、朝から自分が感じていた“不在の質”とひどく近い。
消えたのではない。
なくなったのでもない。
どこか別の層へ、少しずつ移動していく。
雛乃は、目を開けたまま、遠いものを見るみたいな顔で続ける。
「急に消えたんじゃないんです。
吸い込まれる、っていうのが一番近くて……
足元から、じゃなくて、
体の輪郭の方が先に、光に持っていかれて」
その表現に、希夢の背中の奥がゆっくり冷える。
輪郭の方が先に持っていかれる。
それは第六章で見た“残り方”と同じだった。
人そのものが消えるのではなく、まず形が白へほどけていく。
「声、かけたの?」
希夢が聞くと、雛乃はすぐに頷いた。
「何回も」
その答えは、早かった。
「でも、届いてない感じで。
裕也くん、こっちを見なかった」
鹿島先輩と同じだ。
希夢は、そう思ってしまった自分に小さく息を呑む。
振り返らない。
こちらを見ない。
何か別のものを見続けたまま、光の方へ引かれていく。
雛乃は、そこでついに声を少しだけ震わせた。
「最後に、一瞬だけ振り返りそうになったんです」
希夢の鼓動が、ひとつ重く落ちる。
「でも、顔までは見えなくて。
その途中で、もう……
光の中に、薄くなっていって……」
言葉が切れる。
その先は、希夢にも言えなかった。
言わなくても分かってしまったからだ。
裕也は、夢の中で“いなくなった”のではない。
光の揺らぎの向こうへ移動し、そのまま輪郭を失っていく形で消えた。
それはただの失踪より、もっとたちが悪い。
見つからないかもしれないという意味ではない。
見つかっても、それが同じ位置にいるとは限らない
という意味で。
雛乃は、ようやく希夢の方を見た。
目元にはまた涙が浮いている。
でも今度は、さっきの崩れかけた涙とは少し違う。
見たものを隠しきれなくなった人の涙だった。
「だから、朝……」
小さな声。
「裕也くんの席、見たときに……
いない、じゃなくて……
どこかへ行ってる感じがしたんです」
希夢は、その言葉に静かに頷く。
同じ感覚だった。
空席。
冷たい机。
終わっていない不在。
その全部が、いま雛乃の夢の描写でひとつの方向を持ってしまった。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
風がもう一度だけ吹いて、階段の踊り場に長い影を作る。
旧観測棟の扉は閉じたままだ。
でも、その向こうにあるものが、もう朝の時点よりずっと近くなっている気がした。
やがて希夢が、静かに問う。
「……どうして、今まで言わなかったの」
責めるためじゃない。
ただ、そこだけは知っておきたかった。
雛乃は、少しだけ唇を震わせてから答える。
「言ったら、本当になる気がして」
その返事は、痛いほど分かりやすかった。
夢は、言葉にしないうちはまだ逃げ道がある。
でも、一度こうして外へ出してしまえば、現実との一致がより強くなる。
雛乃はそれを、本能的に恐れていたのだろう。
「でも……もう無理でした」
彼女は、足元のスマホを見た。
「ログが、同じだったから」
希夢は、そこでようやく深く息を吐いた。
夢。
ログ。
失踪。
そして、自分の欠けた記憶。
全部が、嫌になるほど同じ方向へ揃い始めている。
「……ありがとう」
希夢がそう言うと、雛乃は少しだけ驚いた顔をした。
「え」
「言ってくれて」
それは慰めではなかった。
この夢は重い。
聞いたからといって、何かが楽になるわけでもない。
それでも、いま必要だったのは、曖昧な不安ではなく、具体的な形だった。
裕也は、光の中に吸い込まれていく夢を、雛乃は見た。
それが、現実のログと一致した。
そこまで来た以上、もう目を逸らす方が危険だ。
雛乃は、涙の残る顔で小さく頷いた。
「……止めたかったです」
その一言が、希夢の胸に深く落ちる。
夢を。
昨日の続きを。
あるいは、裕也がどこかへ行ってしまうその瞬間を。
でも、もうそこは“止められなかった後”の場所だった。
雛乃の告白が終わったあとも、希夢はすぐには何も言えなかった。
旧観測棟の外階段。
足元に置かれた黒いスマホ。
閉じたままの扉。
夕方へ少しずつ傾いていく光。
景色はそのままなのに、胸の内側だけが静かに崩れ始めている。
裕也くんが、光の中に吸い込まれていく夢を見た。
雛乃のその言葉は、ただの不穏な話として聞き流せる種類のものではなかった。
なぜなら、その夢の形が、もうあまりにも揃いすぎているからだ。
白い揺れ。
壁のようになる光。
輪郭から先にほどけていく人の形。
そして、消えたのではなく、どこかへずれていく不在。
それは第六章の部屋と同じで、
第七章で開いた記憶の入口と同じで、
さっきスマホに表示された Pattern-X3 の揺れ方と、同じ方向を向いていた。
希夢は、足元のスマホへ目を落とした。
黒い画面。
そこにはもう何も映っていない。
けれど、見えないだけで、さっきの波形はまだその中にある。
trace remains。
痕跡は残る。
その言葉が、妙に生々しく胸に残っていた。
もし裕也が、本当に夢の中みたいに光の揺れの中へ移動してしまったのだとしたら。
もしそれが、昨日自分たちが見たログや映像の続きなのだとしたら。
そしてもし、その入り口に自分だけが観測者として近づいているのだとしたら。
そこまで考えた瞬間、頭の奥で白いノイズが小さく寄る。
強くはない。
でも、いやに深い。
希夢は、息をゆっくり吐こうとして、途中で止まった。
嫌な感じがした。
これは雛乃の夢の話を聞いているだけの動揺ではない。
もっと別の、もっと自分自身に近い場所が反応している。
輪郭から先に光へ持っていかれる。
その描写を聞いた瞬間、胸の奥でひどく静かな既視感が立ち上がったのだ。
「……知ってる」
気づけば、そう呟いていた。
雛乃が顔を上げる。
涙の残る目が、まっすぐこちらを見る。
「え?」
希夢は、すぐには続きを言えなかった。
知っている。
でも、何をどこまで知っているのか、自分でもまだ分からない。
夢を聞いて想像しただけなのか、
それとも、自分の欠けた記憶の中にも似た感覚がすでにあるのか。
白いノイズが、また少し寄る。
今度は光の粒ではなく、
もっと薄い、剥離の感覚に近かった。
自分の輪郭が、外側から少しずつ薄くなっていく感じ。
皮膚の表面ではない。
もっと“いまここにいる自分”の縁取りそのものが、静かにずれていくような感覚。
希夢は、無意識に自分の腕を掴む。
そこにある。
袖の布も、体温も、ちゃんとある。
でも、今ほしいのはその物理的な確認じゃなかった。
同じ感覚を、自分も知っているのではないか。
その疑いが、急に重くなる。
「希夢さん」
雛乃の声が近い。
「どうしたんですか」
希夢は、ぎこちなく首を振る。
「……分からない」
それは本当だった。
分からない。
けれど、分からないままでは済まない気配だけがある。
「雛乃の言ったこと……
たぶん、ただ聞いてるだけじゃない」
「どういう……」
雛乃が言いかけて、そこで止まる。
彼女の方も、半分はもう察してしまったのだろう。
希夢は、喉の奥をひとつ鳴らす。
「輪郭が先に持っていかれるっていう感じ、
私も……」
そこで言葉が切れる。
言い切るのが怖かった。
その一言を最後まで出した瞬間、
自分の欠けた記憶が、ただの断片ではなく“実際にあったこと”へ傾いてしまう気がした。
雛乃は、握られた手の中でまた小さく震える。
「覚えてるんですか」
希夢は、すぐには答えられない。
覚えている、とはまだ言えない。
でも、知らないものへの反応ではないとも言い切れる。
「……覚えてる、じゃない」
ようやく出たのは、そんな曖昧な言葉だった。
「でも、
記憶のない場所が、それを知ってる感じがする」
その言い方は、自分でもぞっとするほど正確だった。
思い出せるわけじゃない。
映像みたいに再生できるわけでもない。
ただ、欠けているところの輪郭だけが、その話にぴたりと合ってしまう。
鹿島先輩が振り返ろうとしたラストフレーム。
“見ないで”という声。
観測者:KIRISHIMA。
そして、光に吸い込まれていく裕也の夢。
全部が、自分の中の空白へ向かって集まり始めている。
希夢は、急にひどく落ち着かなくなった。
ここに座っているのが危険なわけじゃない。
旧観測棟の前が危険なわけでもない。
むしろ逆で、立ち止まっていることで、欠けた記憶の方から追いつかれそうな感覚があった。
何もしないでいると、夢とログと映像が、勝手にひとつの形になって自分の中へ沈んでくる。
それがたまらなく嫌だった。
希夢は、突然立ち上がりかけて、そこで自分でも驚く。
雛乃がびくりと肩を震わせる。
「希夢さん?」
希夢は、慌てて完全には立ち上がらず、踊り場の手すりへ片手をついた。
呼吸が、少し荒い。
「ごめん……」
そう言いながらも、胸の奥のざわつきは収まらない。
裕也がいなくなった。
夢が一致した。
ログが残った。
自分の記憶の空白が、そこへ反応している。
この状態で、何もしないまま夜まで過ごせる気がしなかった。
「……だめだ」
希夢が低く言う。
雛乃の目が、不安に揺れる。
「何が」
「このままじゃ」
希夢は、旧観測棟の閉じた扉を見る。
昨日、自分たちはあそこまで踏み込んだ。
でも、まだ決定的なところには届いていない。
部屋の残り方を見ただけだ。
記録の端を見ただけだ。
鹿島先輩のラストフレームの手前までしか行っていない。
その不足が、今になって全部こちらへ返ってきている。
「裕也のことも、
自分のことも、
中途半端にしか分かってない」
その言葉は、自分でも驚くほど静かだった。
焦っているのではない。
むしろ、焦りのさらに奥にある冷えた理解に近い。
雛乃は、何か言おうとして口を開く。
でも、まだその前段階にいる。
止めたい。
でも、希夢が何を感じているのかも少し分かってしまう。
その揺れが、目の中にそのまま出ていた。
希夢は、手すりを握ったまま思う。
観測者として選ばれること。
それは“聞こえる”とか“見える”とか、そういう現象だけではない。
一致してしまった断片の中心へ、自分から行かずにはいられなくなることなのかもしれない。
その時、足元の黒いスマホに、夕方の光が細く映り込んだ。
黒いはずの画面の中に、一瞬だけ自分の顔がぼんやり映る。
その曖昧な反射が、希夢にはひどく不安だった。
自分の顔なのに、どこか少し欠けて見える。
輪郭だけが先に向こうへ引かれていく夢の話を聞いた直後だからかもしれない。
けれど、その“少し欠けて見える感じ”が、いまの自分そのものに思えてしまった。
希夢は、そこでようやくはっきり理解する。
裕也の失踪は、ただ裕也を失う話ではない。
それは、自分の欠けた記憶をこれ以上保留できなくなる話でもある。
だから、動揺する。
だから、立ち止まれない。
だから、怖いのに、扉の方を見てしまう。




