残された携帯
昼休みが終わるころには、教室の空気は表面だけいつもの形に戻っていた。
ノートを閉じる音。
弁当箱のふたを重ねる音。
廊下を走る足音。
誰かが次の授業の小テスト範囲を確認して、半分だけ笑いながら悲鳴を上げる。
日常は、壊れたと宣言しない。
少しずれていても、そのまま続いてしまう。
けれど希夢と雛乃の中では、朝から何ひとつ終わっていなかった。
裕也の空席。
仲田先生の目を逸らす反応。
雛乃の涙。
そして、ただの欠席ではないとしか思えない不在の質。
その全部が、午後の授業を一枚薄く遠くした。
放課後、チャイムが鳴ると同時に、二人はほとんど言葉を交わさず教室を出た。
目的地を確認する必要もなかった。
足が自然に、理科棟の裏手へ向かっていた。
旧観測棟。
昨日、自分たちが踏み込みすぎた場所。
壁の白い痕、机の空白、残された断片。
そして、裕也が最後まで一緒にいた場所。
校舎の奥へ回るほど、音が少なくなる。
その静けさに触れた瞬間、希夢は朝の違和感が別の形で胸へ戻ってくるのを感じた。
消えたのではない。
どこかへずれた。
その感覚の延長線上に、旧観測棟はあまりにも近すぎる。
雛乃も、今日は普段よりずっと無口だった。
泣いたあとの赤みはもう目立たない。
けれど、その代わりに、呼吸の浅さだけが残っている。
「……あると思いますか」
理科棟の角を曲がる手前で、雛乃が小さく聞いた。
「何が」
希夢はそう返しながらも、意味は分かっていた。
「裕也くんの、痕跡」
その言葉に、希夢はすぐには答えられなかった。
あるかもしれない。
あってほしくない。
どちらも本当だった。
「……分からない」
結局そう言うしかなかった。
「でも、何もないって感じもしない」
雛乃が、黙って頷く。
旧観測棟へ続く外階段が見えてくる。
金属製の手すり。
コンクリートの段。
途中の踊り場。
昨日と同じはずの景色なのに、今日は“待っていた場所”みたいに見えた。
希夢は、そこで足を止める。
踊り場の中央より少し端。
壁際に近い位置に、黒いものが落ちていた。
最初は、ただの小さなポーチかと思った。
けれど、夕方の薄い光を受けたその角が、鈍く反射する。
「……あれ」
雛乃の声が、ひどく小さくなる。
二人は同時に階段を上がった。
急ぎすぎない。
でも、遅くもない。
その中途半端な速さが、かえって焦りを露呈していた。
踊り場へ出た瞬間、それが何かははっきり分かった。
スマートフォンだった。
画面は伏せられている。
黒いケース。
角の小さな擦れ。
側面に貼られた、少し剥がれかけた透明シール。
見覚えがある。
昨日、部室で裕也が机の横へ置いていたものと同じだった。
希夢の胸の奥が、音もなく冷える。
「……裕也くんの」
雛乃が、信じたくないものを確認するみたいに呟く。
希夢は、しゃがみ込んだ。
すぐには拾わない。
まず見る。
旧観測棟に近づいてから、二人の慎重さはもう癖になっていた。
スマホは、ただ落ちたようには見えなかった。
角度が不自然に整っている。
踊り場の壁と平行に近く、手すりからも微妙に等距離だ。
滑って転がったというより、
そこへ置かれたあと、持ち主だけが消えたような配置だった。
「……落とした感じ、しないですね」
雛乃の声は掠れていた。
「うん」
希夢は、短く答える。
落下なら、もっとどこかへ寄る。
壁に当たるか、段の縁へずれるか、少なくともこんなふうには静止しない。
踊り場の真ん中で、物だけが妙に整って残っている。
それは今朝見た裕也の机と同じ不気味さを持っていた。
人だけがいなくて、痕跡だけが整いすぎている。
希夢は、ようやくスマホへ手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、小さく息を止める。
冷たい。
朝、裕也の机に触れた時の冷たさと似ていた。
外階段に置かれているのだから、多少冷えていて当然だ。
でも、それだけではない。
この冷たさは、ただ気温に触れていた物の温度ではない。
もっと、“人の手から長く切り離されていた物”の冷たさに近い。
希夢は、ゆっくりと持ち上げる。
重さは、知っているスマホの重さだった。
軽すぎもしない。
壊れた感じもない。
画面も割れていない。
それが逆に不気味だった。
「昨日のまま、みたい」
雛乃がそう言って、口元を押さえる。
たしかにそうだった。
落としたのなら、もっと“出来事”の跡があるはずだ。
傷。
急いで掴んだ指紋。
少しの土埃。
そういうものがない。
スマホだけが、時間をあまり通らずにそこへ残されたみたいだった。
希夢は、画面を上へ向ける。
黒い。
消灯している。
それでも、その黒い面の奥に、何かがまだ微かに動いているような気配がした。
「……裕也くん、ここまで来たんだ」
雛乃の声はもう、半分泣いていた。
希夢は、旧観測棟の入口の方を見る。
扉は閉じている。
昨日と同じように。
何も変わっていないように見える。
なのに、その前にこのスマホが残っているだけで、建物の沈黙そのものが別の意味を持ち始める。
入ったのか。
入ろうとしたのか。
あるいは、ここで何かを見て、スマホだけを残したのか。
答えは何もない。
だが、ひとつだけ確かなことがある。
裕也の不在は、もう教室の中だけの違和感ではない。
旧観測棟のすぐ前に、物理的な痕跡として置かれてしまった。
希夢は、スマホを両手で持ち直す。
そのときだった。
掌の中で、ごくかすかな振動が走った気がした。
「……え」
雛乃が息を呑む。
希夢も、反射的に画面を見る。
まだ黒い。
だが、その黒の奥に、光が立ち上がる直前の薄い気配だけが、確かにあった。
旧観測棟の前。
失踪した裕也のスマホ。
そして、いま、まだ誰も何も触れていないのに、
その沈黙の中で、次の層が開きかけている。
希夢の掌の中で、スマホはもう一度だけ、ごく弱く震えた。
着信のような強い振動ではない。
通知音もない。
ただ、内部で何かが小さく目を覚ましたみたいな、短い震えだった。
次の瞬間、黒かった画面がふっと明るくなる。
「……っ」
雛乃が息を呑む。
希夢も、反射的に指へ力を入れた。
電源ボタンには触れていない。
画面をタップしたわけでもない。
それなのに、スマホは自分の意志みたいに静かに立ち上がっていく。
ロック画面。
壁紙は、昨日までと同じだった。
無地に近い暗い青。
画面の端に、時刻。
日付。
通知の小さなアイコンがいくつか並んでいる。
それだけなら、ただのスマホだ。
持ち主が近づいた拍子にスリープ解除したと言えなくもない。
けれど、希夢の胸の奥は、その程度では済まなかった。
時刻表示の下、通知欄の最上段に見慣れないアイコンがある。
白い円環みたいなマーク。
その横に、細い文字列。
観測ログアプリ
雛乃の声が、掠れる。
「そんなの……ありましたっけ」
「知らない」
希夢は短く答える。
裕也のスマホを頻繁に見るような間柄ではない。
だから、本当に知らないアプリなのか、ただ自分が気づいていなかっただけなのか、すぐには判断できない。
だが、通知の文面だけははっきり読めた。
最新観測データを確認してください
その一文が、夕方の薄い光の中でひどく平坦に光っている。
“確認してください”。
自動通知の定型文らしい、温度のない言い方。
それなのに今この場所で読むと、まるで誰かに静かに呼ばれたみたいに感じる。
「……開かないでください」
雛乃が、ほとんど反射で言った。
声は小さい。
でも、そこにははっきりした恐れがあった。
希夢は、すぐには答えない。
開けば何かが進む。
その感じが、通知文そのものから滲んでいた。
旧観測棟の白い部屋。
隠しディレクトリ。
観測者:KIRISHIMA。
それらに触れたときと同じ種類の、“次へ行く前の静けさ”が、いまこの小さな画面の中にもある。
その時だった。
ロック画面が、勝手に切り替わる。
「え……」
雛乃が後ずさる。
希夢も、一瞬だけ指を緩めかけた。
パスコード入力画面が出たわけではない。
認証を求める表示でもない。
通知をタップしたはずもない。
それなのに、白い円環のアイコンだけがふっと拡大し、黒い背景の上に細い読み込み線が走る。
アプリが、自動で開いていく。
まるで、持ち主の指紋や顔認証なんて最初から必要じゃなかったみたいに。
「……おかしい」
希夢が呟くと、雛乃はすぐに頷いた。
「勝手に……」
その先を言いきれない。
“動いた”と言えばまだ軽い。
“開いた”の方が近い。
けれど今このスマホで起きていることは、ただ機能が作動したよりも、もっと意図のある動きに見えた。
画面が暗転し、次の瞬間、白い線だけで構成された簡素なインターフェースが現れる。
黒地。
中央に円環。
その下に、細い数字列。
時刻、観測座標、揺らぎ強度らしき値。
学校の公式アプリでも、市販の計測アプリでもない。
もっと内向きで、用途を知っている者だけが使うような画面だった。
希夢の喉が、ゆっくり乾く。
観測ログアプリ。
その名前だけでも十分に嫌だったのに、表示されたUIは、昨日PCで見た隠しログの整理の仕方と、妙に同じ空気を持っていた。
整いすぎている。
余計なものがない。
そして何より、人に見せるためではなく、記録を続けるためだけに作られた画面に見える。
「……昨日の、ログと似てる」
希夢がそう言うと、雛乃の顔色がさらに悪くなる。
「やっぱり……つながってるんですね」
“つながってる”。
その言葉が、旧観測棟の前の空気をさらに冷やした。
スマホは、ただ残されていたんじゃない。
裕也の不在と、観測ログと、旧観測棟の沈黙とを、そのまま細い線で結び続けている。
画面の円環が、ゆっくりと脈打つ。
白い。
でも、ただ明るい白ではない。
どこか、第五章や第六章で何度も見てきた“揺らぐ白”に近い。
希夢の頭の奥で、白いノイズが小さく寄る。
強くはない。
まだ痛みにもならない。
だが、その円環の呼吸みたいな動きが、夢の粒や壁の痕の残り方とひどく近いことだけは、身体が先に分かってしまう。
「閉じますか」
雛乃の声は震えていた。
だが希夢は、すぐには頷けなかった。
閉じれば終わるのか。
いや、終わらない。
少なくとも、この画面がここで勝手に開いたという事実は消えない。
それなら、今見えるところまでは見るべきだという感覚が、静かに浮かぶ。
「……少しだけ」
希夢は、小さく言った。
「いま何が出てるかだけ、確認する」
雛乃は唇を強く結んだが、止めなかった。
止めたい気持ちはある。
でも、見ないままでいる方が、後でずっと悪い形で残ることも、彼女はもう知っている。
画面下部に、小さなログ一覧が表示されている。
最新。
保存済。
同期待機。
その並びのいちばん上が、自動で選択状態になっていた。
タイトル欄。
Last Observation
その下に、さらに小さな補助表示。
Pattern-X3
雛乃が、ほとんど声にならない息を漏らす。
「……これ」
希夢も、目を離せなかった。
“最後の観測”。
そして、Pattern-X3。
その名前は、ただの識別コードのはずだった。
けれど、いまこのスマホが旧観測棟の前で勝手に開き、そこへ自動で到達している以上、もはや単なるファイル名には見えない。
裕也が残した最後の観測。
あるいは、裕也が見せられた最後の揺らぎ。
そのどちらであっても、この画面はもう十分すぎるほど不穏だった。
希夢は、唾を飲み込む。
白い円環はまだゆっくり脈打っている。
Pattern-X3 の文字列の周囲だけ、画面の黒が少し深く見える。
次に開けば、たぶんもう一段、向こう側へ近づく。
その予感だけが、掌の中の冷たいスマホから静かに伝わってきていた。
Last Observation / Pattern-X3
その表示を見たまま、希夢はしばらく指を動かせなかった。
旧観測棟の前。
裕也のスマホ。
勝手に開いた観測ログアプリ。
それだけでも十分に異様なのに、その先頭に並んだ文字列は、まるで二人がここへ来るのを待っていたみたいに静かだった。
雛乃が、掠れた声で言う。
「……最後、って」
その先を言い切れない。
“最後の観測”という語が、あまりにも直接的すぎたからだ。
裕也が最後に見たもの。
あるいは、裕也が最後に残したもの。
どちらの意味にしても、その言葉は不吉に整いすぎている。
希夢は、呼吸をひとつ整えた。
「開く」
小さくそう言って、画面の最上段へ指を伸ばす。
触れた瞬間、円環が一度だけ深く脈打った。
白い。
けれど、ただのUIの発光ではない。
どこか生きたものの呼吸に近い、わずかな“間”を持つ揺れだった。
次の瞬間、画面が切り替わる。
黒い背景。
その中央に、細い白線で描かれた波形が現れる。
横軸に時刻。
縦軸には強度らしい数値。
下部には小さな注記と、途切れ途切れの自動記録欄。
希夢の胸の奥が、静かに重くなる。
それは、見覚えのある揺れ方だった。
普通のセンサー記録なら、線はもっと機械的に上下する。
ノイズなら、もっと散る。
だが、画面に表示されている Pattern-X3 は、そのどちらでもない。
線は、ゆっくりと深くなり、
少しだけ平たく伸び、
それから細かい粒立ちを伴ってほどける。
そのあと、また寄る。
呼吸しているみたいな揺れだった。
「……これ」
雛乃が、息を呑む。
希夢は、すぐには返せなかった。
画面の波形を見ているだけなのに、頭の奥で白いノイズが薄く寄り始めているのが分かったからだ。
強くはない。
まだ痛みにもならない。
だが、この揺れの質は、もう何度も見てきたものに近すぎる。
第五章の、映像の最後の一秒。
第六章の、壁に残った白い痕。
第七章の、ノイズの奥から届いた 「——見ないで」。
それら全部と同じ方向を向いている。
希夢は、表示を少し下へスクロールした。
記録欄には、短い時刻付きの自動注記が並んでいる。
stability loss
phase drift
pattern transition
X3 fixed
どれも事務的な英語だった。
人間の感情はない。
だからこそ、その無機質さの中に異様な緊張がある。
“fixed”
という単語に、希夢はひっかかる。
固定。
検出、ではない。
発生、でもない。
まるで、揺らぎの形がある時点で一つに定まったことを示すみたいな言い方だった。
「……Pattern-X3 って」
希夢が画面を見たまま言う。
「ただの揺れの種類、って感じじゃない」
雛乃が、小さく頷く。
「“形になった揺れ”みたいです」
その表現が、ひどく正確に思えた。
波形は、乱れているわけじゃない。
むしろ、異常なほどまとまっている。
何かが崩れている記録ではなく、
何かがひとつの揺れ方として定着してしまった記録に見える。
希夢は、画面の中央にある拡大表示へ触れた。
波形が少し大きくなる。
細部が見える。
その瞬間、背中に冷たいものが走った。
山の形が、ただ上下しているだけではない。
大きなうねりの表面に、さらに細かな粒の集まりがいくつも寄っている。
寄って、ほどけて、また寄る。
まるで、光の粒そのものが、
波形の中へ押し込められているみたいだった。
「……気持ち悪い」
希夢が、思わずそう漏らす。
雛乃は否定しなかった。
彼女も同じ感覚を持っている顔だった。
これは数値のグラフなのに、
数値として見られない。
見れば見るほど、波形そのものが“光の揺れ”として立ち上がってしまう。
希夢は、さらに下へ視線を移す。
時刻の末尾。
記録の最後に近い区間だけ、波形が急に浅くなる。
消えるのではない。
むしろ逆だ。
大きな揺れが静まり、
代わりに、細く高密度の振動だけが残っている。
その残り方に、胸の奥がざわつく。
「……最後、静かになってる」
雛乃が、かすれた声で言う。
「でも、終わってない」
希夢は、その言葉に小さく頷いた。
そうだ。
途切れた感じではない。
むしろ何かが、別の層へ移って、そのまま記録の表面からは見えなくなったような静まり方だ。
朝、裕也の机に感じた“どこかへずれたまま戻っていない”不在。
その感覚と、画面の末尾の静けさが、嫌なほどよく似ていた。
裕也は、消えたのではない。
この波形の終わり方みたいに、
こちらから見える層だけを静かに抜け落ちたのではないか。
そんな考えが浮かび、希夢は無意識にスマホを持つ手へ力を入れた。
その時だった。
画面の右端、波形末尾の横に、ごく小さな補助表示が浮かぶ。
自動追記らしい一行。
trace remains
希夢は、瞬きを忘れた。
「……痕跡、残存」
日本語に置き換えるように、小さく呟く。
雛乃の呼吸が浅くなる。
「やっぱり……」
そこまで言って、彼女は言葉を失う。
記録は終わっている。
だが、痕跡は残っている。
それは昨日、自分たちが旧観測棟の部屋で見たものそのものだった。
壁の白い痕。
机の空白。
床の線。
人の形になりきらない影。
残りすぎないように薄められて、それでもなお消えきらなかったもの。
今このスマホの中の Pattern-X3 も、同じだった。
観測は終わっている。
でも、揺らぎの痕跡だけがなお続いている。
希夢は、息を浅く吐く。
ここで初めて、裕也の失踪とこのログが、単なる時系列の近さではなく、もっと直接的に結びついてしまったのを感じた。
裕也がこのスマホを持ってここまで来た。
あるいは、ここでこのログを見た。
そして、Pattern-X3 は最後に trace remains を残した。
そのあとに、裕也だけがいない。
雛乃が、ついに小さく後ずさる。
「……これ、だめです」
その声は震えていた。
「この揺れ……」
希夢は、まだ画面から目を離せない。
彼女が何を言おうとしているのか、もう半分分かってしまっていたからだ。
波形の寄り方。
ほどけ方。
最後の静まり方。
それは、夢の中の光の粒と、あまりにも似すぎている。
雛乃は、唇を震わせながら、波形を見つめる。
その表情には、驚きよりも先に、
知ってしまっている者の青ざめが浮かんでいた。
雛乃の後ずさりは、大きな動きではなかった。
ほんの半歩。
それだけなのに、希夢にはその距離がひどく決定的に見えた。
旧観測棟の外階段。
夕方の薄い光。
掌の中で白く脈打つスマホ画面。
その小さな画面の中の波形だけが、いまこの場所の空気を別の層へ引き寄せている。
Pattern-X3。
寄って、ほどけて、また寄る。
呼吸するみたいな揺れ。
そして末尾に残された、trace remains。
雛乃は、その波形を見たまま動けなくなっていた。
肩が小さく震えている。
泣いている時の揺れとは違う。
もっと細かくて、もっと身体の深いところから上がってくる震えだった。
「……雛乃」
希夢が呼ぶと、雛乃はすぐには返事をしなかった。
目を逸らせないのだ。
怖いのに、見てしまう。
その感じが、希夢には痛いほど分かった。
夢を見た者だけが、現実の中に“同じ揺れ”を見つけた時の反応。
それは驚きより先に、知ってしまっていたことが現実になった恐怖として来る。
雛乃の喉が、小さく鳴る。
「……この揺れ」
声は、ほとんど空気に溶けそうだった。
希夢は、スマホを持つ手の力を少しだけ抜く。
落とさないように。
でも、画面を雛乃の方へ押しつけすぎないように。
雛乃は、そこでようやく一度だけ強く瞬きをした。
「私の夢と……」
また言葉が切れる。
その切れ方が、ただの動揺ではないことを希夢は感じ取る。
言葉が出ないのではない。
出してしまうと、夢が完全に“ただの夢ではなかった”ことになるから、身体の方が最後の一歩を拒んでいるのだ。
それでも、雛乃は逃げなかった。
唇を震わせたまま、もう一度だけ波形を見る。
白い線。
細かな粒の寄り方。
末尾に向かって静まりながら、それでも消えきらない残滓。
「……同じです」
ようやく、その一言が落ちた。
旧観測棟の前の空気が、ひどく静かになる。
希夢の胸の奥が、音もなく重く沈む。
やはり、という感覚と、言葉になってしまったことへの重さが、同時に来た。
雛乃は、今度ははっきりと続ける。
「この揺れ、私の夢と同じです……」
その声には、確信と恐怖が両方入っていた。
断定したくてしている声ではない。
違っていてほしいと願いながら、それでも違うとは言えなくなった人の声だった。
希夢は、ゆっくり息を吸う。
「どこが」
問い返しながらも、半分は分かっていた。
それでも言葉にしてもらわなければ、この一致はただの直感のまま残ってしまう。
雛乃は、画面を見たまま答える。
「最初の寄り方」
小さな声。
「急に大きくなるんじゃなくて、
静かに集まってくる感じ」
希夢は、波形の上部に視線を戻す。
たしかにそうだった。
山が跳ねるのではなく、周囲の細かなざらつきがひとつの中心へ向かって深くなっていく。
「それから」
雛乃は、息を浅くしながら続ける。
「途中で、少し平らになるところ」
希夢の指が、無意識に画面のその位置を追う。
「夢の中でも、
光が一回そこで“壁みたいに”なったんです」
その一言で、白い部屋のフラッシュバックが希夢の頭の奥に薄く触れる。
天井の白。
机の少し上に集まる粒。
そして、面になる直前の揺れ。
希夢は、喉の奥が静かに冷えるのを感じた。
「……光の壁」
そう呟くと、雛乃は小さく頷いた。
「はい」
その返答は震えていた。
「夢の中で見たのも、
急に光るんじゃなくて……
粒が集まって、
少しだけ“面”になって、
それからまた、ほどけるんです」
希夢は、掌の中のスマホが急に軽くなったような錯覚を覚える。
軽くなったのではない。
ただ、持っているものの意味が重くなりすぎて、物理の感覚の方が薄くなったのだ。
夢。
ログ。
映像。
旧観測棟の痕跡。
それらが、ここでまたひとつに収束してしまう。
雛乃は、そこで急に両腕を自分の体へ抱き寄せた。
寒いわけではない。
けれど、見ているだけで体温が少しずつ抜けていくような顔をしていた。
「……裕也くん」
掠れた声。
「これ、見たんですよね」
希夢は、すぐには答えられなかった。
答えは、たぶん yes だ。
このスマホがここで勝手に開いた以上、裕也が最後に見たのはこれに近いものだと考えるのが自然だった。
だが、その自然さを言葉にすること自体が、残酷だった。
「……たぶん」
ようやくそう言うと、雛乃の睫毛が強く震えた。
「じゃあ、やっぱり」
その先は言葉にならない。
やっぱり、この揺れの先へ行った。
やっぱり、夢はただの不安じゃなかった。
やっぱり、自分たちは昨日、取り返しのつかないところまで踏み込んだ。
その全部が、言葉にならないまま雛乃の顔に浮かんでいた。
希夢は、スマホの画面を少しだけ下げる。
雛乃がこれ以上まともに波形を見続けるのは危ないと感じたからだ。
だが、雛乃は自分から目を逸らさなかった。
「最後のところも、同じです」
希夢は、思わず彼女を見る。
雛乃の目には涙が浮き始めている。
でも、声はまだ保とうとしていた。
「夢でも、最後は静かになるんです。
消えたみたいに見えるのに、
終わってない感じだけが残る」
trace remains。
その英語の表示が、希夢の頭の中でゆっくり日本語へ変わる。
痕跡、残存。
消えきらない揺れ。
雛乃は、そこでようやく唇を噛んだ。
「だから……」
声が、少しだけ割れる。
「裕也くんも、
いなくなったんじゃなくて……」
その続きが言えない。
言えば、本当にそうなってしまう気がするのだろう。
希夢は、自分の胸の奥の重さごと、静かに答える。
「どこかへ、ずれた」
雛乃は、涙の縁を震わせながら頷いた。
その頷きは、同意であると同時に、認めたくないものを認めてしまった動きでもあった。
希夢は、その横顔を見て、雛乃がいま崩れかけているのが分かった。
昨日までなら、彼女は夢を見る側だった。
夢の断片を持ち帰り、言葉にしようとしていた側だった。
でも今は違う。
夢と現実のログが一致してしまったことで、夢の逃げ道そのものが失われている。
そして優しい人ほど、
“自分が先に感じていたのに止められなかった”
という形で、いちばん深く傷つく。
「雛乃」
希夢は、静かに呼ぶ。
雛乃は、ぎこちなく顔を向けた。
目元がもう少しで崩れそうだ。
「見なくていい」
その言葉は、命令ではなく、切実な提案だった。
「これ以上は、今は」
雛乃は、そこで初めて視線を画面から外した。
外した瞬間、肩が一段だけ落ちる。
緊張で持ち上がっていたものが、少しだけ現実の重力へ戻ってきたのだろう。
「……怖いです」
彼女は、ほとんど子どもみたいに小さな声でそう言った。
希夢は、その正直さに救われる。
ここで強がられるより、ずっといい。
「うん」
短く返す。
「私も」
完全な同じではない。
雛乃が怖がっているのは夢と一致したこと。
希夢が怖がっているのは、そこへ観測者として引かれていること。
温度差はある。
でも、“怖い”という一点だけは、いま同じ場所に置けた。
雛乃は、涙を拭う前にもう一度だけ言う。
「……この揺れ、私の夢と同じです」
さっきと同じ言葉。
でも今度は、確認ではなく宣告に近かった。
夢の中だけにあったはずのものが、
裕也のスマホの中で、
観測ログとして、
しかも Last Observation の名で残っている。
その一致が、裕也の不在をただの失踪ではいられなくしてしまう。
希夢は、スマホの画面をゆっくりスリープさせた。
今はもう、これ以上見せるべきではないと思った。
黒く戻った画面に、二人の顔がぼんやり映る。
その曖昧な反射さえ、どこか“向こう側に飲まれかけた者たち”みたいに見えて、希夢は小さく息を吐いた。




