裕也の失踪
朝の教室は、いつもより少しだけ明るすぎる気がした。
窓から入る光は柔らかい。
机の列も、黒板の白いチョーク跡も、廊下から聞こえる足音も、何ひとつ変わっていない。
それなのに、教室の空気だけが、どこか薄く張っていた。
希夢は、教室へ入った瞬間に足を止めた。
最初は、自分でも何に引っかかったのか分からなかった。
誰かが騒いでいるわけでもない。
ざわつきがあるわけでもない。
朝のホームルーム前らしい、眠たげで少しばらついた空気が、いつも通りそこにある。
けれど、その“いつも通り”の中に、ひとつだけ、妙に静かな場所があった。
裕也の席だった。
椅子が引かれていない。
鞄もない。
机の上も、昨日のまま何かを急いで片づけた形跡はなく、ただきれいに空いている。
空席。
それだけのことのはずなのに、希夢の胸の奥は、ひどく静かに重くなった。
遅刻かもしれない。
寝坊かもしれない。
体調不良で休んだだけかもしれない。
いくらでも理由はある。
なのに、そのどれを当てはめても、目の前の空席だけがうまく説明されない。
ただ“いない”のではなく、
席だけが先に不在を知っているみたいに見えた。
「……裕也くん?」
後ろから来た雛乃が、小さく言った。
希夢は振り返らずに頷く。
「まだ来てない」
言葉にすると、それはただの事実になる。
だが、事実になったからといって、胸の奥の違和感までは薄くならなかった。
雛乃も、自分の席に荷物を置く前に、裕也の机の方を見た。
その視線の止まり方で、彼女も同じものを感じ取っているのが分かる。
「連絡、ありましたっけ」
「……ないと思う」
希夢はそう答えたあと、自分でもその声が少し硬いのに気づいた。
昨日のことがある。
旧観測棟。
残された部屋。
壁際の影。
観測者:KIRISHIMA。
そして、あのあと三人で部室を出た時の、妙に言葉の少ない帰り道。
全部が、いま目の前の空席へ静かに繋がってしまう。
希夢は、ゆっくりと裕也の席へ近づいた。
机も椅子も、ただそこにある。
壊れていない。
乱れていない。
置き忘れたノートも、飲みかけのペットボトルもない。
それが逆に、不自然だった。
遅刻するだけなら、ここまで綺麗な“いなさ”にはならない。
そう思った瞬間、自分が何を基準にそんなことを感じているのか分からなくなり、希夢は小さく息を止める。
机の縁へ、そっと指先を触れる。
ひんやりしていた。
朝の教室の机が冷たいこと自体は、別に珍しくない。
窓際でもないし、特別冷えやすい位置でもない。
なのに、裕也の机の表面だけは、教室の空気から少し切り離された温度を持っていた。
冷たい、というより、
人の体温が長く触れていない冷たさだった。
希夢の指先が、わずかに強張る。
昨日の旧観測棟の扉を思い出す。
あの“温度の薄さ”。
誰の手にも長く触れられていないものの感触。
いま目の前の机は、あれほど異様ではない。
けれど、方向はひどく似ていた。
「……冷たいですか」
雛乃が、少しだけ声を落として聞いた。
「うん」
希夢は答える。
「朝だから、ってだけじゃない気がする」
雛乃は、机に触れようとして、途中で手を止めた。
その仕草には、もう第六章以降の慎重さが染みついている。
何にでもすぐ触れない。
まず見る。
まず受け取る。
それが今の二人の共通の癖になっていた。
教室の後ろでは、誰かが今日の小テストの話をして笑っている。
前の方では、委員の生徒が黒板の日付を書き直している。
日常はちゃんと動いている。
それなのに、裕也の席のまわりだけが、ひどく静かだった。
まるで、そこに残っているのが“不在”ではなく、
移動の途中で切り取られた空白みたいに。
希夢は、その感覚にぞくりとする。
消えた。
そうではない。
まだ、それとは違う。
ここにいない。
でも、完全に失われた感じでもない。
もっと嫌な言い方をするなら、
どこかへずれたまま、戻ってきていない感じだった。
「希夢さん」
雛乃の声が、少し近づく。
「大丈夫ですか」
希夢は、机から手を離した。
指先には、まだひやりとした感触が残っている。
それはただの木の冷たさのはずなのに、どうしてもそれだけには思えなかった。
「……大丈夫」
そう答えてから、希夢は小さく首を振る。
「いや、よくないかも」
雛乃が、黙ってこちらを見る。
その視線に、希夢はようやく自分の中の違和感を言葉にする。
「姿はないのに、
“いない”って感じが薄い」
「……え?」
「普通の欠席なら、空席って感じがするじゃん」
希夢は、裕也の椅子を見る。
「でも、これ……
まだどこかに続いてる感じがする」
言ったあとで、自分でもその表現の異様さに気づいた。
けれど、ほかに近い言い方がなかった。
裕也の席は、終わった空白ではない。
途中で止まった空白。
そのせいで、ただの欠席よりもずっと落ち着かない。
雛乃の顔が、少しだけ青ざめる。
「やめてください」
その声は、小さかった。
でも、冗談を嫌がる時の声音ではない。
「私も……
そんな感じがしてたんです」
その一言で、教室の明るさが少しだけ遠のいた気がした。
希夢ひとりの気のせいではない。
雛乃も同じ方向の違和感を持っている。
それが確認された瞬間、裕也の不在はただの朝の遅刻ではいられなくなる。
ホームルーム開始前のベルが鳴る。
その音は正常に響いた。
教室の生徒たちも、いつものように席へ戻り始める。
日常は、まだこちら側にある。
けれど希夢には、裕也の机の冷たさだけが、そこから少しずれて残っていた。
空席。
ただそれだけのはずなのに、
その机はすでに、昨日までの連続の中にはなかった。
ホームルームのベルが鳴ったあと、教室のざわめきはいつも通りの速さで静まっていった。
椅子の脚が引かれる音。
ノートを閉じる音。
誰かが慌てて筆箱を落とし、小さく笑いが起きる。
そのどれもが、朝の教室にふさわしい軽さを持っている。
けれど、希夢にはその全部が、裕也の空席を避けるように流れている気がした。
前の扉が開き、仲田先生が入ってくる。
白衣ではなく、今日は薄いグレーのカーディガン姿だった。
片手に出席簿。
もう片方に、授業用のプリントを挟んだクリアファイル。
普段と変わらないはずの姿だ。
それなのに、教室へ入った最初の一瞬だけ、先生の視線が裕也の席で止まったのを、希夢は見逃さなかった。
ほんの一拍。
見た、というほど長くはない。
けれど、その一拍のあと、先生は何事もなかったように視線を外した。
それが、逆に不自然だった。
出席簿が開かれる。
名前が、いつもの順番で呼ばれていく。
教室のあちこちで「はい」と返事が上がる。
その中に、裕也の番が近づくにつれて、希夢の指先だけが机の上で少しずつ強張っていく。
「……霧島」
「はい」
自分の声は、思っていたより平坦に出た。
そのまま数人ぶん進み、やがて先生の視線が出席簿の下へ落ちる。
裕也の名前が、たぶんそこにある。
教室の空気が、わずかに薄くなる。
仲田先生は、ほんの一瞬だけ黙った。
それから、名前を読ばずに、出席簿の端へ視線を滑らせた。
「……欠席一名」
それだけだった。
名前を飛ばした。
誰もすぐには気づかないくらい自然に。
けれど、希夢と雛乃にははっきり分かった。
雛乃の肩が、前の席の背越しに小さく揺れる。
希夢は、視線を上げられなかった。
名前を呼ばない。
それは単なる気遣いではなく、
呼んではいけないものに触れないようにしている沈黙に見えた。
ホームルーム自体は、数分で終わった。
今日の連絡事項。
提出物の確認。
来週の実験準備。
そのどれもが普通で、普通すぎて、逆に希夢の胸には引っかかる。
裕也の席だけが異様に静かで、
先生だけがその空席の周囲で言葉を薄くしている。
最後に「何か質問あるか」と先生が言った時、
教室のあちこちで椅子が小さく軋んだ。
誰も手を挙げない。
けれど、希夢にはその沈黙そのものが質問に見えた。
雛乃が、先に立ち上がった。
「仲田先生」
その声は、思ったより静かだった。
でも、教室の中では十分に届く。
先生が顔を上げる。
雛乃を見る。
けれど、その目は一瞬だけ揺れて、すぐに柔らかく整えられた。
「……裕也くん、どうしたんですか」
真正面からの問いだった。
教室の空気が、今度こそはっきり止まる。
後ろの席で立ちかけていた生徒まで、動きを少しだけ遅らせた。
仲田先生は、すぐには答えなかった。
出席簿を閉じる。
指先で端を揃える。
そのごく短い手間の中に、返答の形を探しているのが見えた。
「……家の方にも、まだ連絡が取れなくて」
その言葉は、ひどく静かに落ちた。
希夢は、顔を上げる。
連絡が取れない。
欠席の連絡が来た、ではない。
体調不良らしい、でもない。
ただ、“取れない”。
それは、日常の範囲に留まるには少しだけ重すぎる言い方だった。
教室の中で、誰かが小さく息を呑んだ。
それが誰だったのかは分からない。
希夢自身だったかもしれない。
「それって……」
雛乃が続きを言いかける。
だが、仲田先生はその前に、ほんの少しだけ首を振った。
「詳しいことは、まだ」
そこで初めて、先生は教室全体へ視線を向けた。
だが、その目は希夢とも雛乃とも、まっすぐには合わなかった。
避けている。
そのことが、言葉より先に伝わる。
先生は隠すのが上手い方ではない。
普段なら、何かあればもっと分かりやすく眉を寄せるし、心配事はそのまま顔へ出る。
だからこそ今の、“平静を作ろうとして作りきれていない感じ”が妙に生々しかった。
「とりあえず、授業は通常通りやるから」
そう言った先生の声は、少しだけ乾いていた。
「変なこと考えすぎずに、落ち着いて」
その一言に、希夢の胸の奥がひどく冷たくなる。
“変なこと”。
先生はそれを口にした時、自分でその言い方を後悔したように一瞬だけ黙った。
まるで、考えすぎてほしくない理由が、本当は先生の中にもあるみたいだった。
雛乃が、もう一歩だけ前へ出る。
「先生、昨日――」
そこまで言って、止まる。
旧観測棟。
部室。
事故ログ。
それらをここで言っていいのか、自分でも判断できなかったのだろう。
仲田先生は、その続きを待たなかった。
「雛乃」
名前だけを呼ぶ。
その呼び方が、いつもより少し低い。
「今は、授業にしてくれ」
強く命じたわけではない。
でも、その一言にははっきりと線が引かれていた。
ここではそれ以上聞くな。
その境界の引き方が、希夢には痛いほど分かった。
雛乃は、唇を少しだけ噛んで、それ以上は言わなかった。
ゆっくり席へ戻る。
仲田先生も、出席簿を抱え直す。
だが、教室を出る前、もう一度だけ裕也の空席へ目をやった。
今度は、希夢にははっきり見えた。
先生は、あの席を“欠席している生徒の席”として見ていない。
もっと別の、触れたくない何かとして見ている。
その一瞬の視線の重さが、朝の明るい教室にひどく不釣り合いだった。
扉が閉まる。
教室のざわめきが、遅れて戻る。
けれど、もう元の音ではない。
「……連絡取れないって」
雛乃が、小さく言う。
希夢は、裕也の机を見たまま答えられなかった。
机は相変わらず静かだった。
名前を呼ばれなかったことも、先生が目を逸らしたことも、すでに最初から知っていたみたいに。
そして希夢は、はっきり思う。
これはただの欠席ではない。
先生も、そのことに気づいている。
気づいていて、まだ言葉にしていない。
だから、目を合わせなかったのだ。
だから、裕也の名前を読ばなかったのだ。
朝の教室の中で、
空席だけが先に“何かが起きた”ことを知っている。
仲田先生が教室を出たあとも、ざわめきはすぐには元に戻らなかった。
誰かが小声で「え、マジで?」と漏らし、
別の誰かが「寝坊じゃないの」と軽く返す。
そのやり取りは、日常の側へ無理に話を戻そうとする響きを持っていた。
けれど、希夢にはその軽さがひどく遠く感じられた。
裕也の席は、まだそこにある。
机も椅子も、そのままだ。
それなのに、名前を呼ばれなかったことと、先生が目を逸らしたことのせいで、その空席だけがもう普通の教室の一部ではなくなっていた。
希夢は、自分の席へ戻ったあとも、何度も視線がそちらへ引かれるのを止められなかった。
いない。
でも、いなくなった感じがしない。
その違和感は、ホームルームの前よりむしろ強くなっていた。
先生の反応を見てしまったせいで、ただの遅刻や欠席として処理できる余白が、一段狭くなったからだ。
ノートを開く。
今日の日付を書く。
シャープペンを持つ。
いつも通りの手順をなぞっても、頭の奥では別のことが静かに続いている。
連絡が取れない。
先生のその一言が、妙に乾いた音で残っていた。
病欠なら、そう言うはずだ。
家庭の事情なら、もっと別の言い方がある。
なのに先生は、“連絡が取れない”としか言わなかった。
それは、相手がどこにいるのか分からない時の言い方だった。
希夢は、無意識に裕也の机を見た。
その瞬間、胸の奥がひどく静かにざわつく。
姿はない。
当たり前だ。
席は空だ。
なのに、そこに“声だけが残っている”ような錯覚が、一瞬だけ走った。
実際に聞こえたわけじゃない。
耳で拾った音ではない。
もっと曖昧で、もっと嫌な感じだった。
たとえば、誰かが数分前までそこにいて、
次の一言だけを言い残して、急に薄くなったみたいな。
言葉の内容は分からない。
でも、“まだ終わっていない会話の気配”だけが机のまわりに残っている。
「……っ」
希夢は、思わず息を止めた。
昨日までなら、それを単なる気のせいだと切り捨てられたかもしれない。
けれど今は無理だった。
第五章で、声の断片が残った。
第六章で、部屋に残り方だけが閉じ込められていた。
第七章では、ノイズの中から 「——見ないで」 が、自分にだけ言葉として届いた。
だから、姿のない場所に“声だけが残る”という感覚を、もう簡単には否定できない。
雛乃が、前の席からそっと振り返る。
「希夢さん?」
小さな声。
周囲に聞こえないように、でも届くように調整された声だった。
希夢は、すぐには返事をしなかった。
裕也の席から視線を外せなかったからだ。
「……聞こえそうなんだよね」
ようやく口にした言葉は、自分でもひどく曖昧だった。
雛乃の目が、不安そうに揺れる。
「何がですか」
「分からない」
希夢は、正直に答える。
「声ってほど、はっきりしてない。
でも、裕也の席だけ……
まだ“どこかに続いてる”感じがする」
雛乃は、それを笑わなかった。
変なことを言っているとも言わなかった。
ただ、少し青ざめた顔で、ゆっくり頷いた。
「……私も、さっきから落ち着かないです」
その一言で、希夢はかえって怖くなる。
自分だけの過敏な反応ではない。
雛乃にも、同じ方向の不安が届いている。
教室は普通だ。
朝の一時間目が始まろうとしている。
黒板の前では先生が準備をしているし、窓際の生徒はまだ眠そうに欠伸を噛み殺している。
それなのに、その普通さの真ん中で、裕也の席だけが“別の場所と接続された穴”みたいに見えた。
希夢は、机の上の自分の手を見下ろす。
震えてはいない。
白いノイズも、今は来ていない。
でも、その静けさが逆に不気味だった。
何かが起きたあとの無音。
あるいは、これから起きるものを前にした空白。
どちらにしても、いまの裕也の不在は、ただの欠席としては静かすぎた。
その時、廊下で誰かの走る足音がした。
教室の前を通り過ぎるだけの、よくある音。
だが、その音が遠ざかったあと、希夢はまた一瞬だけ、裕也の席の方から“遅れて何かが返ってくる”錯覚を覚えた。
反響ではない。
実際の音でもない。
ただ、空席そのものが、今もどこかで動いている何かの余韻だけを引きずっているような感覚。
希夢は、そこでやっとはっきり気づく。
自分は、裕也の“不在”を見ているんじゃない。
裕也が、どこかへ移動してしまった痕跡を見ているのだ。
消えたのではない。
なくなったのでもない。
ただ、こちらの時間や場所から、少しだけずれた。
そのずれた先がどこなのかは、まだ分からない。
けれど、昨日まで三人で触れてきた“光の揺らぎ”や“観測の残り方”と、無関係だとはもう思えなかった。
「……昨日の、続きかもしれない」
希夢がそう呟くと、雛乃の肩が小さく強張った。
「やっぱり、そう思いますか」
「思いたくないけど」
希夢は、視線を落としながら答える。
「先生の反応、変だったし。
あと……」
言葉が少し止まる。
声だけが残っている、という感覚。
それをうまく説明できない。
「姿がないのに、
完全にいなくなった感じがしない」
雛乃は、そこで小さく唇を噛んだ。
それは同意の仕草だった。
彼女もまた、同じように感じているのだ。
チャイムが鳴り、一時間目が始まる。
教師の声が黒板の前から流れ、教科書をめくる音が教室のあちこちで重なる。
希夢も、ノートへ文字を書こうとする。
けれど、ひとつ式を書いては、また裕也の席へ視線が戻る。
そこに誰もいないことは分かっている。
でも、見れば見るほど、ただの空席ではなくなっていく。
まるで、そこだけが薄く“向こう側”へ口を開けていて、
裕也の身体は消えたのではなく、そこから先へ落ちたのだとでもいうように。
その想像に、希夢は自分でも少しぞっとした。
昨日、自分は「……俺(私)が、確かめる」と書いた。
観測者として、次へ進む側に半歩だけ立った。
その直後に、裕也がいなくなる。
偶然だと言い切るには、タイミングが悪すぎた。
そして何より、裕也の空席には、
まだ“言葉になる前の何か”が残っている気がしてならなかった。
一時間目が終わるまで、雛乃はほとんど顔を上げなかった。
ノートは開いている。
板書も、一応は写している。
けれど、その文字の並び方にはいつもの柔らかい整いがなかった。
線が少しだけ震えていて、漢字の止めやはねが、ところどころ弱い。
希夢は、自分のノートよりもその揺れの方が気になっていた。
裕也の空席は、授業が始まっても空席のままだった。
当たり前だ。
途中で遅れてくるなら、とっくに扉が開いている時間だった。
それでも、希夢は何度も教室の前扉を見てしまう。
次の瞬間、いつもの少し乾いた声で
「悪い、遅れた」
と言いながら裕也が入ってくる気が、どうしても消えなかった。
だが、来ない。
来ないまま時間だけが進み、そのことがかえって現実味を持ち始める。
休み時間になって、教室の空気がいっせいにほどけた時だった。
雛乃が、急に立ち上がった。
立ち上がった、というより、椅子から逃げるように離れた。
そのまま窓際の列の方へ数歩だけ進んで、そこで止まる。
「……雛乃」
希夢が呼ぶと、彼女は振り返らなかった。
細い肩が、小さく上下している。
呼吸が浅い。
泣いているのではなく、泣く直前の呼吸だった。
希夢は席を立ち、ゆっくり近づく。
急いで触れると、かえって崩れてしまいそうな気がした。
雛乃は、窓の外を見たまま言う。
「……私のせいかもしれない」
その声は、思ったよりもずっと小さかった。
でも、その小ささの中に、朝からずっと押さえ込んでいたものが全部入っていた。
「何が」
希夢は、分かっていてもそう聞いた。
言葉にさせた方がいいと思ったからだ。
雛乃の喉が、小さく鳴る。
「昨日、あの動画……見せたから」
そこで声が途切れる。
旧観測棟。
隠しディレクトリ。
事故当日のログ。
ノイズの中の声。
ラストフレーム。
観測者:KIRISHIMA。
そこまで一気に進んでしまったのは、確かに昨日だった。
そして、その全部を一緒に見たのは三人だった。
「もし、裕也くん……」
雛乃は、ようやく振り返る。
目元はまだ濡れていない。
けれど、涙になる直前の光がそこにあった。
「昨日、あれ見て、
何か……持って帰っちゃったんだとしたら」
その言葉は、希夢の胸の奥へまっすぐ落ちた。
持って帰る。
記録を。
残り方を。
揺らぎを。
あるいは、観測者として選ばれる位置そのものを。
いまの自分たちには、それがただの比喩とは思えない。
「私が、あそこで止めてたら」
雛乃の声が、ひどく細くなる。
「動画、見せる前にやめようって言ってたら……
こんなことにならなかったのかなって」
そこで、ようやく涙が落ちた。
大きく崩れる泣き方ではない。
ただ、限界まで張っていた糸が一本だけ切れたみたいに、静かに頬を伝う。
希夢は、その涙を見てすぐには言葉を返せなかった。
否定したい。
雛乃のせいじゃないと言いたい。
でも、ここまで来ると軽い慰めはすぐに空中で薄くなる。
昨日、自分たちは確かに踏み込んだ。
そして今朝、裕也はいない。
その並びだけを見れば、因果を疑うのは自然だった。
だから希夢は、別のところから言葉を探した。
「……雛乃のせいじゃない」
静かに言う。
雛乃は、泣いたままこちらを見る。
まだ完全には信じていない目だった。
「少なくとも、
雛乃が“見せたから”起きた、とは思わない」
希夢は、自分の胸の奥にある不安ごと、そのまま言葉にする。
「もし本当に昨日の続きが起きてるんだとしても、
それはたぶん、最初から俺たちの方へ来てたんだと思う」
“俺たち”と口にしてから、希夢は一瞬だけ言葉の重さを感じた。
観測者として深く引かれているのは自分かもしれない。
でも、ここで雛乃を外へ置くのは違う気がした。
雛乃は、唇を震わせる。
「でも……私、夢見たんです」
その告白は、まだ次の章の深いところまでは開かない。
ただ、朝から彼女を揺らしていた理由として十分だった。
「昨日の夜、
すごく嫌な感じがして……
でも、ちゃんと言葉にできなくて」
希夢は、そこでやっと理解する。
雛乃はただ罪悪感で泣いているんじゃない。
起きる前に、何かの気配を受け取っていたのに、それを止められなかった自分に怯えているのだ。
それは、夢を見る側の人間にしか分からない種類の恐怖だった。
窓の外では、校庭の隅でボールが跳ねる音がした。
誰かが笑う声もする。
世界は普通に朝の続きを進めている。
それなのに、この窓際だけ、別の時間の底へ少し沈んでいるみたいだった。
希夢は、雛乃の肩にそっと手を置く。
強くは触れない。
でも、触れていると分かるだけの重さで。
「……泣いていいよ」
そう言うと、雛乃は一度だけ強く目を閉じた。
それから、声を殺すみたいに小さく息を漏らす。
涙はもう止まらなかった。
「嫌です……」
かすれた声。
「裕也くんが、
ほんとにどこか行っちゃったみたいで……」
その言い方に、希夢の胸もまた静かに痛んだ。
どこかへ行った。
それは、さっき自分が感じた“不在の質”そのものだった。
消えたのではなく、ずれた。
こちら側から少し外れた場所へ移動して、そのまま戻ってきていない。
雛乃も、同じ感覚を持っている。
それが分かったことが、慰めではなく、むしろ現実の重さを増した。
希夢は、雛乃の肩に置いた手を少しだけ強める。
「……見つける」
自分でも、驚くほど低い声だった。
雛乃が、涙のまま顔を上げる。
「ほんとに?」
「うん」
その返事は、まだ決意というほど固くはなかった。
でも、ただの慰めではない温度を持っていた。
「少なくとも、
このまま“分からない”ままにはしない」
雛乃は、泣きながら小さく頷く。
その頷きの中に、罪悪感も、恐怖も、まだ全部残っている。
けれど同時に、ここで立ち止まれないことも、少しだけ共有された気がした。
裕也の不在は、ただの欠席ではない。
机の冷たさ。
先生の反応。
声だけが残っているような錯覚。
そして、雛乃の涙。
その全部が、もう十分すぎるほど次の段階を指していた。




