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光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
現実は、静かに軋んでいた
38/56

先生の告白

 教室の扉に手をかけた、その時だった。


「……霧島」


 低い声が、廊下の奥から届く。


 希夢は振り返る。


 仲田先生が立っていた。


 白衣ではない。

 朝の授業のまま、少し皺の寄ったシャツに薄いカーディガン。

 それ自体はいつも通りなのに、立っている姿だけが妙に弱かった。


 顔色が悪い。


 青白い、というほど単純ではない。

 むしろ、血の気だけが一晩でどこかへ薄く引いてしまったような、乾いた色だった。

 目の下には浅い影があり、まぶたの開き方も少し重い。

 昨夜まともに眠っていない人の顔に見えた。


 希夢は、扉から手を離す。


「……先生」


 呼び返した自分の声が、廊下の途中でまた少し遅れて返ってくる。

 だが今は、その不気味さよりも、目の前の仲田先生の異変の方が強かった。


 先生は、すぐには近づいてこなかった。

 数歩分の距離を空けたまま、希夢を見る。


 その目つきが、いつもの“生徒を見る教師の目”ではないことに、希夢はすぐ気づいた。


 確認している。

 何かがまだそこにあるかどうかを、恐る恐る確かめるように。


「……少し、話せるか?」


 声は低かった。

 けれど、その低さの奥にひどく不安定な揺れがあった。


 希夢は、小さく息を止める。


 昨日、朝のホームルームでは裕也の名前を読まなかった。

 “連絡が取れない”としか言わなかった。

 そしてそれ以上は聞かせないように、静かに線を引いた。

 その仲田先生が、今、自分から声をかけてきている。


 しかも、ただの呼び止め方ではない。

 話したいのではなく、

 話さなければならなくなった人の声だった。


 希夢は、廊下の窓際を一度だけ見る。


 教室の中へ戻れば、まだ日常がある。

 雛乃もいる。

 けれど仲田先生の顔を見た瞬間、もうそれだけでは済まないと分かってしまった。


「……はい」


 短く答える。


 仲田先生は、それにすぐ返事をしなかった。

 代わりに、右手をわずかに持ち上げて、廊下の端の空いたスペースを示す。


 その手を見た瞬間、希夢の胸の奥がひやりとする。


 震えていた。


 大きくではない。

 ごく細かく。

 紙を一枚つまもうとした時にだけ分かるような、指先の震え。


 先生はそれを隠そうとして、すぐに手を引っ込める。

 だが、遅かった。


 希夢は、はっきり見てしまった。


「先生……」


 思わずそう呼ぶと、仲田先生はほんの一瞬だけ目を伏せた。


「悪い。

 ちょっと、朝から……」


 言葉を選びかけて、途中で止まる。


 “体調が悪い”とは言わない。

 “寝不足だ”とも言わない。

 その曖昧な止まり方が、かえって本当の理由を隠しきれていない。


 希夢は、教室から少し離れた窓際の壁際へ一緒に移動する。


 廊下は相変わらず静かだった。

 別のクラスのざわめきも、どこか遠く、薄く聞こえる。

 その静けさの中で、仲田先生の呼吸だけが少し浅いのが分かった。


 先生は壁際で足を止めると、すぐに話し始めなかった。


 視線が一度、窓の外へ流れる。

 校庭。

 朝の光。

 動いている生徒たち。

 そのどれもを見ているようで、実際には何も見ていない目だった。


「……昨日のこと、だよな」


 ようやく落ちた言葉は、それだけだった。


 しかし、その一言で十分だった。


 旧観測棟。

 裕也の不在。

 スマホ。

 筆箱。

 白い壁。

 Gate-X。

 その全部が、“昨日のこと”の中に入っている。


 希夢は、ゆっくり頷く。


「はい」


 仲田先生は、喉の奥をひとつ鳴らした。


「お前たち、どこまで見た」


 その問いは低い。

 でも、責める響きではなかった。


 むしろ逆だ。

 確認しなければ、この先の言葉をどこから置けばいいのか分からない人の声音だった。


 希夢は、先生の顔を見る。


 やはり顔色が悪い。

 それだけじゃない。

 額の生え際に、ごく薄く汗が滲んでいる。

 冷や汗に近いものだ。

 校内の朝の空調でそうなる暑さではない。


 先生自身も、今ここに立ちながら何かに耐えている。


「……かなり」


 希夢は、言葉を選びながら答える。


「旧観測棟の部屋も見ました。

 事故の映像も。

 それから……」


 一拍、間が空く。


 先生の目が、その続きを聞く前から少しだけ強張る。


「観測者って言葉も、見ました」


 その瞬間、仲田先生の肩がほんのわずかに落ちた。


 安堵ではない。

 観念に近かった。


 隠してももう遅いと知った人の、小さな沈み方だった。


 先生は、壁へついたままの自分の手を見る。

 その手も、やはり細かく震えている。


「……そうか」


 かすれた声。


「そこまで、か」


 廊下の向こうで、別の教師が誰かの名前を呼ぶ。

 その声は遠く、少しだけ遅れて届き、それから何も残さずに消えた。


 静かすぎる廊下の中で、仲田先生はしばらく黙っていた。


 話すか。

 まだやめるか。

 そのぎりぎりの線を、目に見えない場所で踏み直しているように見えた。


 やがて、先生が小さく息を吐く。


「本当は、言うつもりはなかった」


 その声は低かった。


「言っていい話でもないし、

 俺の方も……」


 そこでまた止まる。


 先生は、一瞬だけ眉間を押さえた。

 頭痛か、記憶の引っかかりか、どちらともつかない仕草だった。


「……うまく繋がらないところがある」


 その一言に、希夢の背中が小さく冷える。


 繋がらない。

 昨日までなら、ただの疲れやショックによる記憶の曖昧さとして受け取れたかもしれない。

 でも今は違う。


 教室の机の位置も、声色も、音の順番も、現実そのものがごくわずかにずれている。

 その中で“大人の記憶の一部が繋がらない”という言葉は、偶然では済まない重さを持っていた。


「先生も……」


 希夢が言いかけると、仲田先生はすぐには頷かなかった。


 けれど、否定もしない。


 代わりに、視線だけが一度廊下の奥へ流れ、それからまた希夢へ戻る。


 その戻り方が妙に遅い。

 何か別のものを途中で見てしまい、それを振り切ってこちらへ焦点を戻したような目だった。


「……霧島」


 呼び方が、少しだけ変わる。

 教師としての呼び方より、確認に近い呼び方だった。


「お前、今朝からおかしいだろ」


 希夢は、息を呑む。


 先生は気づいていた。

 自分の顔色か、視線のずれか、あるいは教室で立ち止まったことか。

 何を見たのかは分からない。

 でも、希夢の側にも“普通ではない変化”が起きていることを、先生はすでに感じ取っている。


「……はい」


 ごまかす気にはなれなかった。


「教室も、廊下も、少しずつ変です」


 仲田先生の口元が、わずかに強張る。


「やっぱり、そう見えるか」


 その返しは小さかった。

 しかし、その小ささの中にぞっとするような確信があった。


 先生もまた、何かを感じている。


 それも、ただの勘ではない。

 “そう見えるか”と言ったのだ。

 つまり、自分の中にも似た認識がすでにあり、それが他者にも共有され始めたことを確認したのだ。


 仲田先生は、もう一度だけ震える手を握り込む。


 指先を隠すように。

 けれど、その動きでかえって震えが明瞭になる。


「……少し、話しておくべきかもしれない」


 その言い方は、自分に言い聞かせているようでもあった。


 希夢は、何も言わずに待つ。


 先生の顔色は相変わらず悪い。

 だが、その悪さの中に、ただ怯えているだけではない種類のものも見えた。


 覚悟だ。

 遅すぎるかもしれないと知りながら、それでもどこかで一度は口にしなければならないと決めた人の、鈍い覚悟。


 廊下の静けさはなお続く。

 音は薄い。

 光も少しだけ遅れて届く。


 その“軋んだ現実”の中で、仲田先生はようやく希夢へ正面から向き直った。


「……あの事故はな」


 そこまで言って、先生の喉が小さく震える。


 顔色はさらに悪い。

 指先の震えも、もう隠しきれていない。


 それでも、声だけは落ちた。


「ただの機材トラブルじゃなかった」


 その一文が、静かすぎる廊下の真ん中へ沈んでいく。


 希夢は、息を止めたままその続きを待った。


てほどじゃない。

 でも、正常とも言い切れない。

 波形が寄って、ほどけて、また寄る……

 そういう、説明のつかない揺れ方をしてた」


 Pattern-X3。


 その文字列が、希夢の頭の奥に即座に浮かぶ。


 先生はまだその名前を言っていない。

 けれど、同じものを別の言葉でなぞっているのが分かった。


 希夢は、壁へついた手に少しだけ力を込める。


「……それで、鹿島先輩が?」


 ようやくそう問うと、仲田先生はすぐには頷かなかった。


 だが、否定もしない。


「鹿島は、ああいう時に先に気づく奴だった」


 その言い方は、教師の評価というより、

 ひとりの人間を思い出す声音に近かった。


「感覚が鋭いとか、頭がいいとか、そういうことだけじゃない。

 空気の変化に対して、妙に早かった。

 だからたぶん……」


 そこで先生の言葉が少しだけ鈍る。


「いちばん先に“これは普通じゃない”と分かってた」


 希夢の喉が、静かに乾く。


 やはりそうだ。

 第九章の記憶断層で見た鹿島先輩は、偶然その場に立っていたのではなかった。

 何かが起きると分かっていて、止めようとしていた。


 仲田先生は、眉間へ浅く皺を寄せる。


「機材の挙動だけなら、まだ理屈で追えたかもしれない。

 でも、あの時は違った。

 “測っていたもの”の側が、逆にこっちを見返してきたような感じがあった」


 その表現に、希夢はぞっとする。


 こっちを見返してくる。

 それはまさに、白い壁の前で名前を呼ばれた時の感覚そのものだった。


「もちろん、そんな報告は書けない」


 先生は、乾いた苦笑にもならない顔で言う。


「測定対象がこちらを観測してきました、なんてな」


 廊下の向こうで、誰かが扉を閉める音がした。

 その音は、やはり少し遅れて、途中で薄くなって消えた。


 仲田先生も、その音の消え方に気づいたらしく、一瞬だけ言葉を止める。

 それから、少し声を落として続けた。


「事故のあと、記録媒体が妙だった」


 希夢は、目を上げる。


 先生の目には、はっきりした怯えがあった。


「データが飛んだ、と最初は思った。

 でも飛んだんじゃない。

 一部だけが変質してた。

 残っているところと、残っていないところの区切り方が、

 普通の故障じゃ説明できなかった」


 記録媒体。

 事故映像。

 隠しディレクトリ。

 観測ログアプリ。

 裕也のスマホ。


 いままで見てきた断片が、一気に線で結ばれていく。


「映像も、ログも、報告も、

 全部が同じように壊れたわけじゃない」


 先生は言う。


「むしろ逆だ。

 残すべきものだけ残して、

 都合の悪いところだけが切り取られた

 みたいだった」


 その言葉に、希夢の胸の奥で何かが軋んだ。


 記憶が、変えられている。

 まだそこまでは言い切れない。

 けれど、その方向はもう見え始めている。


 仲田先生は、壁へついた自分の手を見る。


 震えは、まだ続いている。

 それでも先生はもう止まらなかった。


「だから、俺はずっと気持ち悪かったんだ」


 その一言は、ひどく正直だった。


「事故そのものより、

 事故のあとに“きれいに整理されすぎた”ことが」


 希夢は、その感覚を理解できてしまう自分が嫌だった。


 教室の机の位置。

 クラスメイトの声色。

 少しずつ再構成されたみたいな日常。

 全部、同じ気持ち悪さの延長にある。


 世界は、壊れるより先に

 整いすぎた形でずれていく

 のかもしれない。


「先生」


 希夢が小さく呼ぶと、仲田先生は顔を上げた。


「事故の時、

 何を観測してたんですか」


 その問いは、重かった。


 機材トラブルではない。

 空気が変わった。

 測定対象が見返してきた。

 記録媒体が変質した。


 そこまで来たなら、何を扱っていたのかを避ける方がもう不自然だった。


 先生は、すぐには答えなかった。


 視線が希夢の肩越しのどこかへ流れる。

 思い出しているのか、

 思い出そうとして失敗しているのか、

 そのどちらともつかない目だった。


 やがて、先生はひどく低い声で言う。


「……光だ」


 その一語が、廊下の薄い空気の中へ落ちる。


「ただの照明でも、反射でもない。

 もっと別の……

 観測すると、形を変える光だった」


 希夢の心臓が、重く打つ。


 白い壁。

 名前を呼ぶ声。

 Gate-X。

 Pattern-X3。

 雛乃の夢。

 全部が、その一語の下へ静かに集まる。


 光。


 けれど、それは真実を照らすものではない。

 むしろ、見た者の記憶や現実の接合部そのものへ触れてくる種類の光だ。


 仲田先生は、そこで急に言葉を切った。


 呼吸が浅い。

 目の焦点がわずかに揺れる。

 希夢は、次に来るものを本能的に感じた。


 先生の記憶もまた、ここから先へ進むには危うい。


 それでも今は、確かなことがひとつだけあった。


 事故は、ただの機材トラブルではなかった。

 そして、その中心にあったのは

 観測すると形を変える光

 だった。


 「観測すると、形を変える光だった」


 仲田先生のその言葉のあと、廊下の静けさはまたひとつ重くなった。


 希夢は、すぐには次の言葉を継げなかった。

 光。

 その一語は、もう十分すぎるほど多くのものと繋がっている。


 旧観測棟の白い壁。

 Gate-X。

 事故映像。

 鹿島先輩の声。

 裕也の失踪。

 雛乃の夢。


 それらが全部、先生の口から出た

 「観測すると、形を変える光」

 という表現の下へ集まり始めていた。


 仲田先生も、それを分かっている顔だった。


 言ってしまった。

 もうそこまでは戻れない。

 その自覚が、先生の青白い顔色をさらに悪くしている。


 窓の外では、朝の光が校庭の端へ落ちていた。

 普通の朝だ。

 走っている生徒もいる。

 教師の声も遠くで聞こえる。


 それなのに、この廊下の壁際だけ、別の時間の底へ少し沈んでいるみたいだった。


 希夢は、呼吸をひとつ整えてから聞く。


「……事故の時、その場にいたのは」


 言葉が少しだけ慎重になる。


「鹿島先輩だけじゃ、なかったんですか」


 仲田先生の指先が、そこでぴくりと揺れた。


 ほんの小さな反応だった。

 だが、それだけで十分だった。


 図星だ。


 先生は、すぐには答えない。

 視線が一度だけ足元へ落ち、それからまたゆっくりと上がる。

 そのあいだに、何かを思い出しかけて、うまく掴めずにいるのが分かった。


「……鹿島だけじゃない」


 ようやく落ちた声は、さっきよりさらに低かった。


 希夢の胸の奥が、静かに強く鳴る。


 仲田先生は、壁に背を預けることはしなかった。

 けれど、立ち方が少しだけ不安定になる。

 まるで、その話題に触れた瞬間に、足元の現実まで薄くなるみたいに。


「もう一人、いた」


 その一言は、廊下の空気へ沈むというより、

 ずっと下の方へ落ちていくみたいに聞こえた。


 希夢は、無意識に喉を鳴らす。


「観測者、ですか」


 そう問うと、仲田先生はゆっくり頷いた。


「……そうだ」


 短い返答。

 けれど、その重さは十分だった。


 鹿島先輩だけではない。

 あの日あの場には、もう一人、観測者がいた。


 その事実だけで、今まで見てきた断片の形がまたひとつ変わる。


 事故映像のラストフレーム。

 入口側にいた自分。

 観測者:KIRISHIMA。

 そして、名前を呼ばれる側。


 希夢は、急に自分の鼓動がうるさくなるのを感じた。


 だが、まだ何も言えない。

 今ここで口を挟めば、先生の記憶の細い糸を切ってしまう気がしたからだ。


 仲田先生は、自分の右手を左手で押さえるようにしながら続ける。


「記録には、きれいに残ってなかった。

 いや、残ってないんじゃない。

 いた痕だけが残って、名前の方が抜けてるような感じだった」


 その言い方に、希夢の背中がひやりとする。


 痕だけが残る。

 名前が抜ける。

 それはまるで、第六章まで旧観測棟の中で見てきた残り方そのものだった。

 壁の白い痕。

 床の線。

 影の定着。

 存在の輪郭だけが残り、中身が抜けていく感じ。


「最初は、単なる名簿の欠落かと思った」


 先生は、苦いものを飲み込むみたいに言う。


「でも違った。

 報告書を読み返すたびに、

 “誰かもう一人いたはずだ”って感覚だけが残るんだ」


 希夢は、息を浅く吸う。


 それはもう、記録の不備ではない。

 記憶の欠落ですらない。

 もっと意図的に、

 存在の輪郭だけ残して、個人の名前や位置だけを切り離された

 ような不自然さだった。


 仲田先生の目が、わずかに揺れる。


「鹿島がひとりであそこにいた、

 っていう話の形にすると、逆におかしいんだ」


 その声には、自分で自分を説得し続けてきた長い時間の疲れが滲んでいた。


「配置が合わない。

 映像の切れ方も、機材ログの揺れ方も、

 どう考えても“もう一人の視点”が混ざってる」


 視点。

 その言葉に、希夢の心臓が重く打つ。


 もう一人の視点。


 それは単にその場に誰かがいた、という意味ではない。

 その誰かもまた、“観測していた側”だったということだ。


 仲田先生は、そこで一度だけ強く目を閉じた。


 まぶたの下で、何かを追っている。

 名前か。

 場面か。

 記録の位置か。


 希夢は、黙ったまま待つ。


 今、先生の中で何かが引っかかっている。

 それがもう見える。

 ここから先は、言えれば核心に近づく。

 けれど同時に、言おうとした瞬間に切断される気配も、すでに廊下の空気へ混じっていた。


 仲田先生が、ゆっくりと目を開ける。


「名前も……たしか、見たことがある」


 その一文に、希夢の全身が静かに強張る。


「報告書か、補助ログか、

 それとも事故のあと誰かがまとめたメモだったか……

 そこまでは、うまく繋がらない。

 でも、名前は――」


 そこで先生の声が、ほんのわずかに掠れる。


 廊下の空気が、急に薄くなる。


 さっきまで薄いながらも残っていた、遠くの教室のざわめき。

 階段の方から来るはずの足音。

 そういう日常の音が、いっせいに半歩遠ざかった。


 希夢は、目を見開く。


 来る。

 何かが。


 それは旧観測棟の白い壁の前で感じたものと、同じ種類の“前ぶれ”だった。

 大きな異常の前に、一度だけ世界の表面が過剰に静まるあの感じ。


 仲田先生も、それに気づいたらしい。


 眉間へ皺が寄る。

 視線が一瞬だけ宙を泳ぐ。


「……たしか、“き”」


 そこまでだった。


 次の瞬間、先生の表情が空白になる。


 比喩ではない。

 驚きでも、混乱でもない。

 その部分だけ、記憶の歯車が空回りした顔だった。


「……え?」


 希夢が思わず声を漏らす。


 仲田先生は、自分でも何が起きたのか分からないみたいに、口を半端に開いたまま立ち尽くしていた。


 今、確かに名前を言おうとした。

 最初の一音まで出かけた。

 それなのに、そこから先がまるごと白く削り取られたみたいに消えた。


「先生?」


 希夢がもう一度呼ぶ。


 すると仲田先生は、はっとしたように瞬きをする。

 だが、その目はまだ戻りきっていない。


「……今」


 先生は、自分の口元へ手を当てた。


「何を……」


 そこでまた止まる。

 さっきまで繋がっていた話の流れが、途中で切れているのだ。


 希夢の胸の奥が、ひどく冷たくなる。


 今のは、忘れたのではない。

 言い淀んだのでもない。

 もっと直接的に、

 名前へ触れようとした瞬間だけ、記憶の導線が断たれた。


 それはもう偶然ではなかった。


 記録媒体の変質。

 都合の悪い部分だけの欠落。

 観測すると形を変える光。

 その全部が、今この先生の口の上で、現実に起きたのだ。


 仲田先生は、呼吸を少しだけ乱しながら希夢を見る。


「……もう一人、いたんだ」


 その言い方は、さっきよりずっと弱かった。


 思い出して言っているというより、

 今しがた失ったものの輪郭だけを、必死に掴み直している声だった。


「それだけは……分かる。

 でも……」


 先生の手が、また震える。


 名前。

 その先にあったはずの具体。

 そこへ行こうとした瞬間に、何かが切れた。


 希夢は、廊下の白い壁を一度だけ見る。


 何もない。

 Gate-X のような揺らぎも、光の筋も、今は見えない。

 それでも、この学校の現実そのものがもう、ごく微細に再構成を始めているのだとしたら。


 “もう一人の観測者”の名前が抜け落ちるのも、その延長にある。


 むしろ、

 名前を失わせることこそが、この現象のいちばん深い操作

 なのかもしれない。


 仲田先生は、そこでようやく壁へ手をついた。


 その手のひらが、ほんの少しだけ滑る。

 力が入っていないのだ。


「……すまない」


 声は低く、疲れていた。


「あと少しだった気がするんだが……」


 希夢は、何も言えなかった。


 責められない。

 先生のせいじゃない。

 でも、ここで名前が抜け落ちたこと自体が、何より不気味だった。


 “もう一人の観測者”はいた。

 それは分かる。

 鹿島先輩だけではなかった。

 もう一人、観測していた者がいた。


 その存在だけが残り、

 そこへ届くはずの名前だけが、まるで最初からなかったみたいに沈んでいく。


 希夢は、自分の心臓の音を聞きながら、

 その不気味な欠落の形を、言葉にならないまま受け止めていた。


 “もう一人の観測者”の名前に触れかけた、その直後だった。


 仲田先生の表情から、何かが静かに抜け落ちた。


 驚きではない。

 混乱とも少し違う。

 もっと平坦で、もっと深刻な空白だった。


 つい今しがたまで、先生の中には確かに流れがあった。

 事故のこと。

 鹿島先輩のこと。

 観測すると形を変える光。

 そして、もう一人いた観測者。


 そこまでの言葉は、多少ぎこちなさはあっても、一本の線でつながっていた。


 それなのに今は、その線の途中だけが切り取られている。


 希夢は、息を詰めたまま先生を見る。


 仲田先生は、壁へついた手に少しだけ体重を預けていた。

 指先はまだ細かく震えている。

 けれど今の震えは、緊張だけではない。


 自分の中で何かが欠けた瞬間に、それを身体の方だけが先に知っている震え

 に見えた。


「先生」


 希夢が呼ぶ。


 仲田先生は、すぐには返事をしなかった。

 視線が一度だけ希夢の肩越しへ流れ、また戻る。

 焦点が遅い。


「……すまない」


 ようやく落ちた声は、さっきまでよりも明らかに遠かった。


「急に……」


 そこでまた止まる。


 急に、何が。

 頭が白くなったのか。

 話の続きを忘れたのか。

 いや、そのどちらでもないことを、希夢はもう分かり始めていた。


 これは単なる物忘れではない。

 記憶の欠落だ。

 しかも、自然な曖昧さではなく、

 そこだけを正確に抜き取られた欠落。


 仲田先生は、眉間を押さえる。


「……何を話していたんだろう……」


 その一言は、希夢の胸の奥を強く冷やした。


 今しがたまで話していたのだ。

 事故のことを。

 光のことを。

 もう一人の観測者のことを。

 名前に触れかけた、その直後に。


 それなのに先生の口から出たのは、

 まるで会話の最初から数分間まるごと抜け落ちたみたいな声音だった。


「先生、さっき――」


 希夢が言いかける。


 だがその瞬間、仲田先生の顔がわずかに強張る。

 拒絶ではない。

 けれど、言葉を続きを求められること自体が、今の先生の中で別の痛みを起こしているようだった。


「霧島、俺は……」


 先生は、そこで深く息を吸おうとして、うまくいかない。


「悪い、少し……」


 視線が足元へ落ちる。

 廊下の白い床。

 そこに先生自身の影が薄く伸びている。

 その影さえ、どこか“今の先生に完全には属していない”みたいに見えた。


 希夢は、ここで初めて本気でぞっとする。


 記録媒体だけではない。

 事故映像だけでもない。

 今は、人間の記憶そのものが、現実の会話の最中で切断されている。


 しかも、欠け方があまりに不自然だ。


 全部を忘れたのではない。

 名前へ行きかけた、その直前から、

 話の“核心へ触れる流れ”だけがきれいに抜けている。


 まるで、そこへ到達する導線そのものが、

 最初から通れないように再構成されたみたいに。


 廊下は相変わらず静かだった。


 遠くの教室から漏れる話し声。

 階段の方から来るはずの足音。

 それらはまだかすかにある。

 だが、そのどれもがここへ届く前に少しずつ薄くなって、

 今この場所だけが異様に“欠落の起きやすい空間”へ変わっている気がした。


 仲田先生は、壁から手を離しかけて、やめる。

 支えが要るのだ。


「……霧島」


 今度の呼び方は、教師としてというより、

 ただ目の前にいる相手の存在を確かめるための呼び方だった。


「俺、何か変なこと言ってたか」


 希夢は、その問いにすぐ答えられなかった。


 変なこと。

 いや、変ではない。

 むしろ、ここまでで一番本質に近いことを言っていた。

 だからこそ、消された。


「……事故の話をしてました」


 慎重に言う。


「機材トラブルじゃなかったって。

 光のことも」


 仲田先生の目が、一瞬だけ揺れる。


 その揺れは、“聞いた”という反応ではない。

 もっと深い。

 自分の中に残っていないはずのものが、他人の口から返された時の空白

 だった。


「光……」


 先生は、低くその一語を繰り返す。


 その響きには、かすかな既視感がある。

 だが、思い出しきれない。


「……ああ」


 小さく、そう漏れる。

 理解ではない。

 むしろ逆で、理解しきれないのに、その言葉だけが嫌な手触りを残している感じだった。


「なんだか……

 すごく、気持ちの悪い単語だな」


 その正直な感想に、希夢は返す言葉を失う。


 先生はもう、内容を覚えていない。

 それでも、“触れてはいけないものに触れた感触”だけは残っている。


 それがまた、不気味だった。


 記憶は完全には消えない。

 意味や文脈は抜け落ちても、

 触れた時の不快さや恐怖だけが沈殿する。


 それは旧観測棟の残り方とよく似ていた。

 白い痕。

 床の線。

 人の形になりきらない影。

 中身は失われても、触れた痕だけが残る。


 今、仲田先生の中で起きている欠落も、同じ種類のものなのかもしれない。


「先生」


 希夢は、声を抑えながら言う。


「無理に思い出さない方がいいです」


 それは本心だった。

 これ以上押せば、先生の中でまた別のものが切れる気がしたからだ。


 仲田先生は、すぐには頷かなかった。

 だが、否定もしない。

 代わりに、目を閉じる。


 その閉じ方が、疲れている人のものではなく、

 自分の中に空いた段差を踏み外さないようにしている人のものに見えた。


「……そうかも、しれない」


 やがてそう言って、先生はゆっくり目を開ける。


 そこには、さっきまでの“告白しようとしていた人”の顔は、もう半分しか残っていなかった。

 代わりにいるのは、自分の中の欠落を前にして、どこまで話していいのか分からなくなった大人だった。


 それでも、完全には終わっていないことも分かる。


 先生の中には、まだ輪郭だけが残っている。

 事故はただの機材トラブルではなかった。

 光があった。

 鹿島先輩だけではなかった。

 もう一人、観測者がいた。


 そこまでは、欠けながらもまだ辛うじて残っている。


 ただ、その先へ行くための橋が、途中で落ちている。


「……おかしいな」


 仲田先生が、ひどく小さく呟く。


「こんなふうに忘れる話じゃないんだ」


 その一言は、教師としての理性がまだ残っている証拠でもあった。


 普通の物忘れではない。

 自分でもそう分かっているのだ。


 希夢は、ゆっくりと頷く。


 教室の机の位置が少しずれる。

 クラスメイトの声色が微妙に合わない。

 音が遅れて届く。

 廊下が静かすぎる。

 そして今、先生の記憶の核心だけが落ちる。


 全部が同じ方向を向いている。


 世界は壊れていない。

 でも、現実と記憶の接続面だけが、静かに再構成され始めている。


 仲田先生は、視線を上げて希夢を見る。


「霧島」


 今度の呼び方は、少しだけ戻っていた。

 だが、その戻り方の中にも疲労がある。


「もし、俺がまた同じ話をしかけても……

 途中でおかしくなったら、止めてくれ」


 希夢は、その言葉に胸の奥が重くなるのを感じた。


 教師が生徒へ向かって、

 自分の記憶の暴走や欠落を止めてくれと頼む。

 その構図自体が、もう普通ではない。


「……はい」


 短くそう答える。


 仲田先生は、小さく頷く。

 それから、もう一度だけ壁へ手をつき、呼吸を整えようとした。


 だが、廊下の静けさは相変わらず続いている。

 何かが終わったのではない。

 むしろ、ここからが始まりなのだと、その薄い空気が静かに告げていた。


 記憶の欠落は、もう先生の中だけの問題ではない。

 教室のズレも、光の筋も、消えた観測者の名前も、

 全部が同じ再構成の途中にある。


 希夢は、仲田先生の青白い横顔を見ながら、

 “忘れられた”のではなく“抜き取られた”記憶の形を、改めて胸の奥へ沈めていた。

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