希夢の記憶暴走
共有端末の前の空気は、張りつめていた。
事故当日。
翌日。
観測者ID KIRISHIMA_N。
そこまで来た時点で、もう部室はいつもの部室ではなかった。
机も、ノートも、蛍光灯も、外から差し込む夕方の光も、形だけは見慣れたままだ。
だが、その中心にある画面だけが、旧観測棟の白い部屋と同じ種類の沈黙を持ち始めている。
裕也は、ログ一覧の中からひとつのファイルを選んだ。
事故当日の映像ログ。
ファイル名は事務的で、感情がない。
だからこそ、希夢の胸の奥は妙に強く反応した。
雛乃は、ノートの余白へ小さく書いている。
映像ログ確認。
その文字の整い方が、いまはかろうじて現実側の秩序だった。
希夢は、画面を見つめる。
白いノイズは、まだ表面には出ていない。
ただ、奥にいる。
来る前の気配だけが、ひどく静かに沈んでいる。
「……いく」
裕也が、短く言う。
誰も返事をしなかった。
止める理由があるなら、もう少し前の段階で言っていた。
ここまで来た以上、次に進まなければならないことだけは、三人とも分かっている。
クリック。
再生ウィンドウが開く。
黒い画面。
数値の読み込み。
波形バー。
ノイズ除去処理の表示。
そこまでは、普通だった。
普通すぎるほど普通で、希夢は一瞬だけ、自分が緊張しすぎていただけなのかもしれないと思いかける。
そして、最初のフレームが表示される。
その瞬間だった。
希夢の頭の奥に、鋭い白が突き刺さった。
「――っ」
痛みというより、
光そのものが頭の内側へ直接差し込まれる感覚だった。
こめかみではない。
額でもない。
もっと深い、記憶と認識のあいだにある場所へ、強い白が一気に貫いてくる。
息が止まる。
画面の中に何が映っていたのか、希夢にはすぐには分からなかった。
理解より先に、身体が反応していた。
視界の端が白く裂ける。
教室の蛍光灯とは違う。
旧観測棟の壁の痕とも違う。
もっと直接的で、もっと“内側に知っている”白だ。
膝から力が抜けた。
椅子を蹴る音が、ひどく遠くで鳴る。
希夢は机の縁を掴もうとして、指先が半分だけ空を切る。
次の瞬間、膝が床へ落ちた。
鈍い音。
それが自分の身体から出た音だと理解するまでに、一拍かかった。
「希夢!」
雛乃の声が、鋭く近づく。
裕也がすぐに椅子を引く。
だが、その動きさえ希夢には遅れて見えた。
世界の方が遅いのではない。
自分の中で、“いま”が砕けている。
頭の奥で、白いノイズが一気に炸裂する。
粒。
線。
ほどける膜。
それら全部が、もはや断片ではなくなりかけていた。
希夢は、床に片手をつく。
冷たいはずの床は、温度を持たない。
感触だけが、遅れて手のひらへ返ってくる。
「……見、るな……」
自分で言ったのか、違うのか、一瞬分からなかった。
喉の奥から漏れた言葉は、声になりきらない。
だが、その意味だけはひどく鮮明だった。
「画面、止める!」
裕也の声。
キーボードを叩く音。
再生ウィンドウが止まる。
だが、もう遅い。
希夢の中では、最初の一フレームがすでに“映像”ではなくなっていた。
白い部屋。
それが、最初に来た。
旧観測棟のあの部屋と同じで、同じではない。
もっと新しい。
もっと生々しい。
空気はまだ薄くなりきっておらず、白さだけが異様に密度を持っている。
天井の光。
白い揺れ。
机。
壁際。
そこまでで、また強い痛みが走る。
「っ……あ……!」
希夢は、思わず額を押さえる。
手のひらでは足りない。
押さえても何も止まらない。
痛みは一点ではなく、記憶の継ぎ目を探すように頭の内側を走り回っていた。
雛乃が、すぐそばにしゃがみ込む。
「希夢さん、こっち見て」
その声は震えていた。
だが、崩れてはいない。
必死に現実側へ引き戻そうとしている声だった。
希夢は、顔を上げようとしてできなかった。
視線を少しでも動かすと、白い部屋の断片がその隙間から入り込んでくる。
壁際の影。
後ろ姿。
机の上の白い現象。
まだそこまでは見えていない。
けれど、見えてしまう直前の圧だけが、頭の奥でひどく膨らむ。
「戻ってこい、希夢!」
裕也の声は、今度は近かった。
その一言で、ようやく希夢は、自分がまだ部室の床にいるのだと理解する。
机の脚。
椅子の影。
ノートの白。
雛乃の靴先。
現実の情報を、ひとつずつ拾い直す。
だが、その現実の上から、もう一つの像が重なって離れない。
最初のフレーム。
ただの静止画ではなかった。
あれは入口だった。
記録を見たのではない。
記録の向こう側に、そのまま触れてしまった。
希夢の呼吸は浅い。
喉が熱い。
膝に落ちた痛みは、今になって遅れてやってくる。
だが、それよりも頭の内側の方が深刻だった。
「……いた」
言葉が、こぼれる。
雛乃がはっとする。
「何が」
希夢は、床へ視線を落としたまま、小さく言う。
「……俺(私)……
あそこに……いた……?」
“俺”と“私”が、また途中で揺れる。
言い直したのか、混ざったのか、自分でも分からない。
それだけで十分だった。
雛乃の表情が一気に青ざめる。
裕也が、椅子の背を掴んだまま動きを止める。
映像の最初のフレームは、事故の記録である前に、希夢の記憶の扉だった。
それを開いた瞬間、身体が先に倒れた。
倒れたのは弱さのせいじゃない。
“見る”ことと“思い出す”ことが、同じ場所で起きたからだ。
白いノイズが、もう一度だけ強く寄る。
今度は痛みと一緒だった。
だが、その痛みの奥で、ひとつだけはっきりした感覚が生まれている。
自分は、事故の外側にいたのではない。
見ていた。
あるいは、見せられていた。
少なくとも、あの最初のフレームは、自分にとって他人の映像ではなかった。
雛乃が、そっと希夢の肩へ手を置く。
「大丈夫、いまは戻ってきて」
その声は、第五章の教室で手を置いてくれた時と同じ温度だった。
現実の側へ細く繋ぐための、必要最低限の接触。
希夢は、痛みの中で小さく頷く。
完全には戻らない。
戻れる段階ではもうない。
それでも、今この部室で崩れきらないためには、その声と手の重さが必要だった。
裕也が、画面を完全に閉じる。
「今日は一回区切る」
短く、断定的に言う。
それは退却ではなく、次へ進むための最低限の制御だった。
希夢は、床に片手をついたまま、ゆっくり呼吸する。
白い部屋の断片は、まだ消えない。
だが、いまはそれ以上先へ進ませない。
進めば、自分の輪郭まで崩れそうだと、はっきり分かった。
最初のフレームを見た瞬間、膝をついた。
それは身体の限界だった。
そして同時に、事故の記憶が自分の中にあることを、最初に認めてしまった瞬間でもあった。
床に膝をついたまま、希夢は目を閉じた。
閉じたつもりだった。
だが、それは部室の光を遮るための動作でしかなく、
内側に開いた白さまでは、何ひとつ止められなかった。
次の瞬間、部室は消える。
机も、椅子も、雛乃の手の重さも、裕也の声も、遠くへ退く。
完全に消えたわけではない。
けれど、いま希夢の中で優先されているのは、別の空間だった。
白い部屋。
それは、第六章で入った旧観測棟の部屋と似ていた。
だが、決定的に違う。
あちらは、すべてが終わったあとの白さだった。
時間の層だけが剥がれ、残り方だけが静かに沈んでいた。
いま見えているのは違う。
まだ起きている最中の白さだ。
天井の光が、異様に強い。
蛍光灯の並びではない。
照明器具としての形を持ちながら、その白はもう“照らす光”の域を越えている。
部屋の上部一面に、薄い膜みたいに張っていて、そこから細かな粒が垂れるように揺れている。
白い。
けれど、明るいというより、密度が高い。
見上げた瞬間に目を刺すのではなく、
視界そのものの奥行きを押し潰してくる種類の白だった。
希夢は、その場に立っている。
立っている、という感覚だけが最初に来る。
足元の硬さ。
床のわずかな反響の浅さ。
空気の薄さ。
そして、すぐ前にある机。
四角い機材。
黒い外装。
画面か盤面か分からない平らな面。
その上――いや、その少し上に、白い粒が集まりかけている。
やはり机の上ではない。
机を媒介にして、空中の一点へ現れている。
希夢は、息を呑む。
それを見たことがある。
いや、見ている。
いままさに、この場で。
そして、その向こう側にいる。
壁際。
少し斜め。
部屋の中心から半歩だけ外れた位置。
鹿島先輩の背中だった。
黒髪。
細い肩。
白い部屋の中で、その輪郭だけが不自然なくらい静かに保たれている。
振り返らない。
こちらを見ない。
ただ、机の上の少し上に集まり始めた白だけを、ひどくまっすぐ見つめている。
希夢の胸が、深く縮む。
あの後ろ姿だ。
第五章の終わりで断片として繋がったもの。
第六章で壁際の影として残っていたもの。
それが今は、“残り方”ではなく、“まだそこにいる姿”として立っている。
しかも、距離が近い。
夢の中みたいに遠くない。
映像の中みたいにざらついてもいない。
この光景だけが、嫌なほど生々しく現在形を持っている。
白い粒の集まりが、一段深くなる。
粒は散らない。
逆に、中心へ向かってゆっくり寄る。
それはまるで、部屋の空気そのものがそこへ吸い寄せられているみたいだった。
希夢は、その一点から目を離せない。
離さなければならない、という感覚はある。
だが、見てしまう。
この場の自分はまだ“見てはいけない側”であることさえ、十分には理解できていない。
鹿島先輩の肩が、ほんの少しだけ動く。
振り返るのではない。
何かを確かめるような、わずかな傾き。
その直後だった。
部屋の奥に、白い壁が立ち上がる。
最初から壁があったわけではない。
そこに何か白いものが“集まって”、一枚の面のように見え始めるのだ。
光の壁。
そう呼ぶしかないものだった。
透明ではない。
けれど、完全な不透明でもない。
白い粒が無数に密集し、絶えずほどけながら、なお壁の形を保っている。
揺らいでいる。
呼吸するみたいに、
深くなって、薄くなって、また深くなる。
その動きに、希夢は息が止まる。
夢で雛乃が見た光の粒。
映像の最後の一秒で人影を溶かしていった白。
旧観測棟の壁に残った“明るさの抜けたあとの痕”。
それら全部の起点が、いま目の前にある。
しかも、それは記録ではない。
起きる前ではなく、起きている最中だ。
鹿島先輩は、その光の壁を見ている。
逃げない。
後ずさりもしない。
ただ、その場に立ったまま、何かを見届けるように。
希夢は、その背中へ一歩近づこうとして、足が止まる。
自分がどこにいるのか、その瞬間だけ分からなくなる。
床はある。
足もついている。
なのに、自分と先輩のあいだの距離だけが、現実の尺度を失っている。
近いのに届かない。
届きそうなのに、そこへ入ってはいけないと身体のどこかが知っている。
白い壁が、ひときわ大きく揺れた。
光ではない。
衝撃でもない。
もっと静かな圧の膨張。
部屋全体の白が、一瞬だけそこへ引かれる。
その瞬間、鹿島先輩の背中がわずかに強張る。
希夢は、そこで初めて気づく。
先輩は“見ている”だけじゃない。
来ると分かっていて、それでもそこに立っている。
喉の奥で、何かが熱くなる。
呼ばなければ。
止めなければ。
近づいてはいけないと、自分にも分かるのに、
この場の自分はまだ言葉を持てない。
やっと口が開きかけた、その時。
先輩の右手が、ほんの少しだけ上がる。
振り返らないまま。
こちらを見ないまま。
制止するように、あるいは庇うように。
そして、声。
まだはっきりしない。
けれど今までよりずっと近い。
「――」
最初の音は、白い揺れに飲まれる。
その次に、ようやく意味だけが届く。
見ないで。
その声は、拒絶ではなかった。
怒ってもいない。
ただ、ひどく切実だった。
見てはいけない。
来てはいけない。
ここから先へ、こちら側を巻き込んではいけない。
その意味が、一息の中に全部入っていた。
希夢の胸が、強く痛む。
頭痛ではない。
もっと深い。
“その時の自分”がそこで何を感じたかが、遅れて現在の自分へ刺さってくる痛みだった。
光の壁が、さらに大きく波打つ。
白い粒が、いっせいに濃くなる。
部屋の輪郭が、一瞬だけ崩れる。
机。
床。
壁。
先輩の背中。
その全部が、強い白の中へ引き寄せられる。
希夢は、そこでようやく叫びそうになる。
声はまだ出ない。
けれど、喉の奥で何かが裂ける。
――やめて。
自分がそう思ったのか、
別の誰かがそう叫んだのか、分からない。
ただ、その瞬間、光の部屋はもう“記憶”ではなく、“再び起きかけているもの”に近づいていた。
「希夢さん!」
雛乃の声が、遠くから落ちてくる。
部室の声だ。
現実の側からの呼びかけ。
白い部屋が、一瞬だけ揺らぐ。
天井の光。
鹿島先輩の背中。
光の壁。
その全部が、薄い水の向こうへ引いていく。
だが、消える直前にひとつだけ、はっきり残るものがあった。
振り返らない背中。
少しだけ上がった右手。
そして、“見ないで”という声の向き。
それは、もう断片ではなかった。
希夢にとって、そのフラッシュバックの核心は、事故の光景そのものではない。
先輩が最後までこちらを守ろうとしていた形だった。
雛乃の声が、遠くから戻ってくる。
希夢さん。
その呼びかけは、部室の空気の中に確かにある。
けれど、いまの希夢には、その声が“自分に向けられている”ところまで届くのに、一拍以上の時間が必要だった。
白い部屋はまだ完全には消えていない。
目を開けているはずなのに、視界の底では天井の白い光がなお揺れている。
机の縁に触れている手の感触もある。
床に落ちた膝の鈍い痛みもある。
それなのに、それら全部がひどく薄く、別の誰かの身体を経由してやってくるみたいだった。
希夢は、ゆっくり呼吸しようとする。
吸う。
吐く。
できている。
たぶん、できている。
けれど、その呼吸が“自分のもの”だと確かめようとした瞬間、胸の奥でまた別の白い波が立ち上がる。
あの部屋で、
あの光の前で、
いま息をしているのは誰だったのか。
希夢は、思わず机の脚へ視線を落とした。
部室の机だ。
古い傷も、見慣れた色も、そのままある。
なのに、そこへ触れている自分の手だけが、少し遅れて認識される。
「……俺……」
言葉が、こぼれる。
希夢自身がいちばん驚いた。
自然に出るはずの一人称が、いつもの形を取らなかったからだ。
すぐに続けて言い直そうとする。
「……私……」
だが、そちらもまた、しっくりこない。
どちらが正しいのかではない。
どちらを口にしても、“いまここにいる自分”とぴたり重ならないのだ。
雛乃が、希夢の肩へ置いた手に少しだけ力を込める。
「希夢さん、こっち見て」
その声は優しい。
けれど、いまの希夢にとって“こっち”はひどく曖昧だった。
こっち。
部室。
今。
雛乃と裕也のいる側。
そこへ戻らなければいけないと分かる。
だが、白い部屋の中に立つ自分の方が、妙に生々しく残っている。
鹿島先輩の背中。
少しだけ上がる右手。
見ないで。
その声を聞いた時、そこにいたのは“今の自分”ではない。
もっと若いのか、もっと幼いのか、あるいはただ“観測者としての自分”なのか。
そこさえ曖昧なまま、記憶だけが先に立ち上がっている。
「……ここに」
希夢は、喉の奥の乾きを押し込むように言った。
「俺(私)……
ここに、いた……?」
その問いは、二人へ向けたものではなかった。
ほとんど、自分自身へ向けた確認だった。
雛乃の表情が一気に揺れる。
裕也は、すぐには何も言わない。
軽く否定してはいけないと、二人とも分かってしまったのだ。
希夢の頭の奥で、白いノイズがまた寄る。
今度は痛みだけではない。
痛みの内側で、場所の感覚が崩れ始める。
部室の床に膝をついている。
それは分かる。
けれど同時に、白い部屋の床にも立っている。
二つの“床”が重なり、どちらに体重が乗っているのか一瞬だけ分からなくなる。
視界が揺れる。
天井の蛍光灯が、部室のものなのか、あの部屋のものなのか、その境界まで曖昧になる。
「希夢、名前言えるか」
裕也の声が落ちる。
現実確認の声だった。
短く、低く、感情より先に輪郭を渡してくる声。
希夢は、すぐには答えられなかった。
名前。
自分の名前。
当然知っているはずのものなのに、いまはその“知っている”までの距離が遠い。
霧島希夢。
頭では出ている。
だが、それを口にする前に、別の感覚が邪魔をする。
その名前は、本当に“いまの自分”のものなのか。
白い部屋にいた側の自分も、同じ名前だったのか。
それとも、もっと別の呼ばれ方をしていたのか。
思考がそこへ触れた瞬間、自己の輪郭がまた少し薄くなる。
「……き、り……」
音だけが先に出る。
最後まで続かない。
雛乃の手が、肩から腕へそっと移る。
強くは掴まない。
でも、ここにいると分かるだけの重さを持たせる。
「大丈夫です。
いまは最後まで言わなくていい」
その言葉に、希夢はかろうじて呼吸を取り戻す。
最後まで言えない。
それは失敗ではなく、いまの自分の状態そのものだった。
自分の名前さえ途中で切れる。
一人称さえ定まらない。
過去と現在の境界が薄くなりすぎて、どちらの自分が言葉を持つべきなのかが揺らいでいる。
「……俺、じゃない」
希夢は、小さく呟く。
すぐに続けて、
「でも、私だけでもない」
その声は弱かった。
けれど、その弱さの中にいちばん正確な実感があった。
いまの自分は、日常の中の希夢だけではない。
事故の瞬間にいた“誰か”の感覚が、まだ完全にはほどけずに重なっている。
だから、一人称が崩れる。
だから、場所が二重になる。
だから、自分の名前を自分のものとして最後まで言い切れない。
裕也が、深く息を吐く。
「境界が崩れてるな」
その言い方は冷静だった。
だが、冷たいわけではない。
事態を名前で押さえることで、現実側に一本線を引こうとしているのが分かった。
雛乃が、静かに頷く。
「記憶と今が、重なってる」
希夢は、その言葉を聞いた瞬間、少しだけ楽になるのを感じた。
崩れているのは自分そのものではなく、
記憶と現実の境界なのだと、外から言葉を与えられたからだ。
それでも、不安は消えない。
もしこのまま重なり続けたら。
もし、白い部屋の中にいた“自分”の方が濃くなったら。
いま部室にいる側の希夢は、どこまで残れるのか。
その恐れが浮かんだ瞬間、喉の奥でまた白い痛みが走る。
叫びになりきらない声。
見ないで。
振り返らない背中。
それら全部が、自分の中で“他人の記憶”ではいられなくなっている。
「……戻ってきて」
雛乃の声が、今度は少し震えた。
「希夢さん、お願い」
その一言は、第五章の延長だった。
夢の中へ近づきすぎた時、教室の床が揺れた時、雛乃はいつも“今ここ”へ細い橋をかけようとしてくれた。
希夢は、その声の方へゆっくり顔を向ける。
雛乃の目。
部室の白い蛍光灯。
机の木目。
ノートの罫線。
現実の情報を一つずつ拾う。
「……いる」
小さく言う。
「ここに、いる」
完全な確信ではない。
それでも、さっきよりはましだった。
“俺”でも“私”でもなく、
まずは“ここにいる”ことだけを言葉にする。
いま必要なのはそれだと、身体がようやく理解し始める。
裕也が、短く頷く。
「それでいい」
その返しは、意外なほどやわらかかった。
名前が言えなくてもいい。
一人称が揺れてもいい。
いまここにいることだけを確認できれば、まだ戻れる。
その判断が、希夢にはありがたかった。
白いノイズは、完全には消えない。
けれど、さっきまでのように一気に呑み込もうとはしてこない。
少しだけ引き、奥で静かに脈打つ程度まで下がる。
自己は、まだ崩れきっていない。
ただ、境界が薄くなっている。
その危うさを、三人とも今ははっきり知っていた。
事故の映像は、記録である前に“希夢自身の内部を開ける鍵”だった。
そして、その鍵が開きかけた今、
いちばん危ういのは記憶の内容ではなく、どの自分がそれを見ているのかが曖昧になることだった。
「……ここに、いる」
希夢がそう言ったあとも、雛乃の手はすぐには離れなかった。
肩から腕へ移した指先に、必要以上の力は入っていない。
けれど、離せばまた希夢の輪郭が薄くなってしまうかもしれない。
その予感だけが、雛乃の手のひらに静かに残っていた。
部室の中は、ひどく静かだった。
共有端末の画面は閉じられている。
ノートは開いたまま。
ペン先のインクも乾ききっていない。
窓の外の夕方はまだ続いているのに、三人のまわりだけが、別の時間の層へ半分沈みかけている。
雛乃は、希夢の顔を見た。
目は開いている。
視線もこちらへ返ってきている。
けれど、ほんの少し前までそこにあった“誰か別のところを見ている感じ”が、まだ完全には抜けていない。
それが怖かった。
旧観測棟の白い部屋で見たものよりも、
映像の最後の一秒よりも、
夢の中で遠ざかっていく後ろ姿よりも、
いま目の前で、希夢の輪郭だけが少しずつ揺れていることの方が、雛乃にはずっと怖かった。
「……希夢さん」
自分でも驚くほど、小さな声になった。
呼びかける。
返事が来る。
ただそれだけのことが、急に祈りに近い行為になっている。
希夢は、ゆっくりと瞬きをした。
「……うん」
返事はある。
ちゃんとある。
そのことに、雛乃は少しだけ息を吐いた。
でも、安心にはほど遠い。
“ここにいる”と言ったばかりの希夢の中で、まだ「俺」と「私」が揺れていることを、さっきの数秒で見てしまったからだ。
雛乃は、自分の喉の奥が乾いていることに気づく。
怖い。
それはもう、はっきりしていた。
事故そのものが怖いのではない。
鹿島先輩の影が怖いのでもない。
白い光の壁や、見ないでという声の残響が怖いのでもない。
希夢が、その中へ戻っていってしまうことが怖いのだ。
戻る、という言い方が正しいのかどうかは分からない。
けれど、あの最初のフレームが開いた瞬間から、希夢はただ“思い出している”のではなく、
あの場所と今この部室のあいだで、どちらにも足をかけて立っているように見えた。
そのバランスが、ほんの少しでも崩れたら。
もし白い部屋の方が濃くなってしまったら。
いま自分が呼んでいる“希夢さん”は、どこまでこちらへ戻ってこられるのか。
その想像が、雛乃の背中を遅れて冷やした。
「雛乃」
裕也の声が、低く落ちる。
彼は、共有端末の前から少しだけ距離を取っていた。
画面は閉じた。
次のファイルも開いていない。
いま部屋の中心にあるべきなのは記録ではなく、希夢の呼吸だと、彼ももう分かっている。
「水、いるか」
問いは希夢へ向けたものだった。
けれど雛乃には、それが“今できる現実側の作業”を探している声にも聞こえた。
希夢は、少しだけ考えてから頷いた。
「……少し」
その返答を聞いて、雛乃の胸の奥がわずかにほどける。
水を飲む。
喉を通る。
そういう普通の順序がまだ通用するなら、完全には遠ざかっていない。
裕也が机の端に置いてあったペットボトルを取り、キャップを開けて差し出す。
希夢の手が伸びる。
途中で少しだけ揺れる。
雛乃は思わず、もう片方の手も添えそうになって、ぎりぎりで止めた。
支えすぎると、かえって希夢の“自分で戻る”感覚を奪う気がしたからだ。
希夢は、両手でボトルを持ち、少しだけ口をつける。
喉が動く。
その小さな動作のひとつひとつが、雛乃にはひどく大切に見えた。
「……ありがとう」
飲み終えたあと、希夢が小さく言う。
声はまだ少しかすれている。
でも、それはさっきの“どの自分が喋っているのか分からない声”ではなかった。
いまここで、水を飲んだあとの人の声だった。
雛乃は、その変化にほとんど泣きそうになる。
朝、夢の話をした時とは違う。
いまは自分の不安よりも、目の前の希夢が崩れないことの方が先に来ていた。
「……戻ってきた?」
気づけば、そう聞いていた。
幼い問いかけみたいだった。
でも、ほかの言い方が見つからなかった。
希夢は、すぐには答えなかった。
少し考える。
その考える時間が、逆に雛乃には現実的で、少しだけ救いだった。
「全部は、まだ」
やがて希夢は言う。
「でも、さっきよりは」
その答えは正直だった。
正直だからこそ、雛乃は頷けた。
全部は戻らない。
少なくとも、事故の最初のフレームを見た前の状態には、もう簡単には戻れない。
けれど、それでも“さっきよりは”という比較が成立するなら、まだ橋は切れていない。
雛乃は、希夢の腕に置いた手を、そのまま少しだけ握り直した。
自分でも、その動きに驚いた。
慰めたいというより、確認したかったのだと思う。
ここにいる。
体温がある。
声が返る。
それを自分の手で確かめたかった。
怖かった。
希夢が自分の名前を途中までしか言えなかったことが。
一人称が崩れたことが。
“俺じゃない。でも私だけでもない”と言ったことが。
あの数秒で、雛乃ははっきり見てしまったのだ。
記憶の暴走は、ただ過去を思い出すことではない。
いまここにいる人の輪郭ごと、過去の光景へ引き寄せてしまうのだと。
それは夢よりずっと怖い。
夢は目覚めればまだ現実へ戻れる。
でも、記憶が現在へ流れ込む時、人は“戻る”という言い方そのものを失いかける。
「……怖かった」
雛乃は、ぽつりと言った。
自分でも、口に出すつもりはなかった。
だが、一度こぼれると止まらない。
「何が?」
希夢が、静かに聞き返す。
その問いに、雛乃は少しだけ目を伏せる。
「希夢さんが、
私の知らない人みたいになるのが」
部室の空気が、ひとつだけ深く沈む。
裕也は何も言わない。
けれど、その沈黙は否定ではなかった。
雛乃が見たものを、彼もまた別の角度から見ていたのだろう。
希夢は、すぐには返事をしなかった。
責められたと思ったわけではない。
むしろ、自分でもうまく言葉にできなかったことを、そのまま渡されたような顔をしていた。
「……ごめん」
小さく、そう言う。
「違う」
今度は雛乃が、すぐに首を振る。
「謝ってほしいんじゃないです。
ただ……」
そこまで言って、言葉が詰まる。
“いなくならないで”と言いたかった。
けれど、その言い方は重すぎる。
今の希夢にとって、その言葉は支えよりも圧になるかもしれない。
だから雛乃は、別の形を選ぶ。
「戻れなくなる前に、
ちゃんと呼びます」
声は小さい。
それでも、その一言には自分でも驚くほど強い意志があった。
裕也が、そこで初めて短く息を吐く。
「それでいい」
低い声。
「今のところ、一番効いてるの、雛乃の声だ」
その言い方は実務的ですらあった。
だが、いまはその整理の仕方がむしろありがたかった。
アンカー。
その役割を、雛乃はもう感覚として引き受けている。
夢を見る側でありながら、希夢を現実へ引き戻す側にも立っている。
怖い。
それでも、呼ぶ。
戻ってきてと、何度でも言う。
それがいまの自分にできる唯一のことなのだと、雛乃はようやく受け入れ始めていた。
希夢は、少しだけ視線を上げる。
雛乃を見る。
その視線が、さっきよりもちゃんと“今の雛乃”へ向いていることに、雛乃は胸の奥で静かに安堵した。
「……聞こえてた」
希夢が言う。
「雛乃の声だけ、
最後までちゃんと」
その一言に、雛乃は本当に泣きそうになる。
けれど、泣かない。
泣けば、また希夢の意識がこちらではなく“守るべき側”へ回ってしまう気がしたからだ。
「じゃあ、次も呼びます」
できるだけ平らな声で、そう返す。
部室の中にはまだ緊張が残っている。
映像の続きを開けば、また何が起きるか分からない。
白いノイズも、完全には消えていない。
それでも、この数分でひとつだけはっきりしたことがある。
事故の記憶が開くとき、希夢はひとりでは戻れない。
そして、雛乃の声はその境界に届く。
それは恐ろしく重い役割だった。
けれど同時に、たぶんこの章を先へ進めるために必要な事実でもあった。




