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光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
光は観測者を選ぶ
26/56

希夢の記憶暴走

 共有端末の前の空気は、張りつめていた。


 事故当日。

 翌日。

 観測者ID KIRISHIMA_N。


 そこまで来た時点で、もう部室はいつもの部室ではなかった。

 机も、ノートも、蛍光灯も、外から差し込む夕方の光も、形だけは見慣れたままだ。

 だが、その中心にある画面だけが、旧観測棟の白い部屋と同じ種類の沈黙を持ち始めている。


 裕也は、ログ一覧の中からひとつのファイルを選んだ。


 事故当日の映像ログ。

 ファイル名は事務的で、感情がない。

 だからこそ、希夢の胸の奥は妙に強く反応した。


 雛乃は、ノートの余白へ小さく書いている。

 映像ログ確認。

 その文字の整い方が、いまはかろうじて現実側の秩序だった。


 希夢は、画面を見つめる。


 白いノイズは、まだ表面には出ていない。

 ただ、奥にいる。

 来る前の気配だけが、ひどく静かに沈んでいる。


「……いく」


 裕也が、短く言う。


 誰も返事をしなかった。

 止める理由があるなら、もう少し前の段階で言っていた。

 ここまで来た以上、次に進まなければならないことだけは、三人とも分かっている。


 クリック。


 再生ウィンドウが開く。


 黒い画面。

 数値の読み込み。

 波形バー。

 ノイズ除去処理の表示。


 そこまでは、普通だった。

 普通すぎるほど普通で、希夢は一瞬だけ、自分が緊張しすぎていただけなのかもしれないと思いかける。


 そして、最初のフレームが表示される。


 その瞬間だった。


 希夢の頭の奥に、鋭い白が突き刺さった。


「――っ」


 痛みというより、

 光そのものが頭の内側へ直接差し込まれる感覚だった。


 こめかみではない。

 額でもない。

 もっと深い、記憶と認識のあいだにある場所へ、強い白が一気に貫いてくる。


 息が止まる。


 画面の中に何が映っていたのか、希夢にはすぐには分からなかった。

 理解より先に、身体が反応していた。


 視界の端が白く裂ける。

 教室の蛍光灯とは違う。

 旧観測棟の壁の痕とも違う。

 もっと直接的で、もっと“内側に知っている”白だ。


 膝から力が抜けた。


 椅子を蹴る音が、ひどく遠くで鳴る。

 希夢は机の縁を掴もうとして、指先が半分だけ空を切る。

 次の瞬間、膝が床へ落ちた。


 鈍い音。

 それが自分の身体から出た音だと理解するまでに、一拍かかった。


「希夢!」


 雛乃の声が、鋭く近づく。


 裕也がすぐに椅子を引く。

 だが、その動きさえ希夢には遅れて見えた。

 世界の方が遅いのではない。

 自分の中で、“いま”が砕けている。


 頭の奥で、白いノイズが一気に炸裂する。


 粒。

 線。

 ほどける膜。

 それら全部が、もはや断片ではなくなりかけていた。


 希夢は、床に片手をつく。

 冷たいはずの床は、温度を持たない。

 感触だけが、遅れて手のひらへ返ってくる。


「……見、るな……」


 自分で言ったのか、違うのか、一瞬分からなかった。


 喉の奥から漏れた言葉は、声になりきらない。

 だが、その意味だけはひどく鮮明だった。


「画面、止める!」


 裕也の声。


 キーボードを叩く音。

 再生ウィンドウが止まる。

 だが、もう遅い。


 希夢の中では、最初の一フレームがすでに“映像”ではなくなっていた。


 白い部屋。


 それが、最初に来た。


 旧観測棟のあの部屋と同じで、同じではない。

 もっと新しい。

 もっと生々しい。

 空気はまだ薄くなりきっておらず、白さだけが異様に密度を持っている。


 天井の光。

 白い揺れ。

 机。

 壁際。


 そこまでで、また強い痛みが走る。


「っ……あ……!」


 希夢は、思わず額を押さえる。

 手のひらでは足りない。

 押さえても何も止まらない。

 痛みは一点ではなく、記憶の継ぎ目を探すように頭の内側を走り回っていた。


 雛乃が、すぐそばにしゃがみ込む。


「希夢さん、こっち見て」


 その声は震えていた。

 だが、崩れてはいない。

 必死に現実側へ引き戻そうとしている声だった。


 希夢は、顔を上げようとしてできなかった。

 視線を少しでも動かすと、白い部屋の断片がその隙間から入り込んでくる。


 壁際の影。

 後ろ姿。

 机の上の白い現象。

 まだそこまでは見えていない。

 けれど、見えてしまう直前の圧だけが、頭の奥でひどく膨らむ。


「戻ってこい、希夢!」


 裕也の声は、今度は近かった。


 その一言で、ようやく希夢は、自分がまだ部室の床にいるのだと理解する。

 机の脚。

 椅子の影。

 ノートの白。

 雛乃の靴先。

 現実の情報を、ひとつずつ拾い直す。


 だが、その現実の上から、もう一つの像が重なって離れない。


 最初のフレーム。

 ただの静止画ではなかった。

 あれは入口だった。


 記録を見たのではない。

 記録の向こう側に、そのまま触れてしまった。


 希夢の呼吸は浅い。

 喉が熱い。

 膝に落ちた痛みは、今になって遅れてやってくる。

 だが、それよりも頭の内側の方が深刻だった。


「……いた」


 言葉が、こぼれる。


 雛乃がはっとする。


「何が」


 希夢は、床へ視線を落としたまま、小さく言う。


「……俺(私)……

 あそこに……いた……?」


 “俺”と“私”が、また途中で揺れる。

 言い直したのか、混ざったのか、自分でも分からない。


 それだけで十分だった。

 雛乃の表情が一気に青ざめる。

 裕也が、椅子の背を掴んだまま動きを止める。


 映像の最初のフレームは、事故の記録である前に、希夢の記憶の扉だった。

 それを開いた瞬間、身体が先に倒れた。


 倒れたのは弱さのせいじゃない。

 “見る”ことと“思い出す”ことが、同じ場所で起きたからだ。


 白いノイズが、もう一度だけ強く寄る。


 今度は痛みと一緒だった。

 だが、その痛みの奥で、ひとつだけはっきりした感覚が生まれている。


 自分は、事故の外側にいたのではない。

 見ていた。

 あるいは、見せられていた。

 少なくとも、あの最初のフレームは、自分にとって他人の映像ではなかった。


 雛乃が、そっと希夢の肩へ手を置く。


「大丈夫、いまは戻ってきて」


 その声は、第五章の教室で手を置いてくれた時と同じ温度だった。

 現実の側へ細く繋ぐための、必要最低限の接触。


 希夢は、痛みの中で小さく頷く。


 完全には戻らない。

 戻れる段階ではもうない。

 それでも、今この部室で崩れきらないためには、その声と手の重さが必要だった。


 裕也が、画面を完全に閉じる。


「今日は一回区切る」


 短く、断定的に言う。

 それは退却ではなく、次へ進むための最低限の制御だった。


 希夢は、床に片手をついたまま、ゆっくり呼吸する。


 白い部屋の断片は、まだ消えない。

 だが、いまはそれ以上先へ進ませない。

 進めば、自分の輪郭まで崩れそうだと、はっきり分かった。


 最初のフレームを見た瞬間、膝をついた。

 それは身体の限界だった。

 そして同時に、事故の記憶が自分の中にあることを、最初に認めてしまった瞬間でもあった。


 床に膝をついたまま、希夢は目を閉じた。


 閉じたつもりだった。

 だが、それは部室の光を遮るための動作でしかなく、

 内側に開いた白さまでは、何ひとつ止められなかった。


 次の瞬間、部室は消える。


 机も、椅子も、雛乃の手の重さも、裕也の声も、遠くへ退く。

 完全に消えたわけではない。

 けれど、いま希夢の中で優先されているのは、別の空間だった。


 白い部屋。


 それは、第六章で入った旧観測棟の部屋と似ていた。

 だが、決定的に違う。


 あちらは、すべてが終わったあとの白さだった。

 時間の層だけが剥がれ、残り方だけが静かに沈んでいた。


 いま見えているのは違う。

 まだ起きている最中の白さだ。


 天井の光が、異様に強い。


 蛍光灯の並びではない。

 照明器具としての形を持ちながら、その白はもう“照らす光”の域を越えている。

 部屋の上部一面に、薄い膜みたいに張っていて、そこから細かな粒が垂れるように揺れている。


 白い。

 けれど、明るいというより、密度が高い。


 見上げた瞬間に目を刺すのではなく、

 視界そのものの奥行きを押し潰してくる種類の白だった。


 希夢は、その場に立っている。


 立っている、という感覚だけが最初に来る。

 足元の硬さ。

 床のわずかな反響の浅さ。

 空気の薄さ。


 そして、すぐ前にある机。


 四角い機材。

 黒い外装。

 画面か盤面か分からない平らな面。

 その上――いや、その少し上に、白い粒が集まりかけている。


 やはり机の上ではない。

 机を媒介にして、空中の一点へ現れている。


 希夢は、息を呑む。


 それを見たことがある。

 いや、見ている。

 いままさに、この場で。


 そして、その向こう側にいる。


 壁際。

 少し斜め。

 部屋の中心から半歩だけ外れた位置。


 鹿島先輩の背中だった。


 黒髪。

 細い肩。

 白い部屋の中で、その輪郭だけが不自然なくらい静かに保たれている。


 振り返らない。

 こちらを見ない。

 ただ、机の上の少し上に集まり始めた白だけを、ひどくまっすぐ見つめている。


 希夢の胸が、深く縮む。


 あの後ろ姿だ。

 第五章の終わりで断片として繋がったもの。

 第六章で壁際の影として残っていたもの。

 それが今は、“残り方”ではなく、“まだそこにいる姿”として立っている。


 しかも、距離が近い。


 夢の中みたいに遠くない。

 映像の中みたいにざらついてもいない。

 この光景だけが、嫌なほど生々しく現在形を持っている。


 白い粒の集まりが、一段深くなる。


 粒は散らない。

 逆に、中心へ向かってゆっくり寄る。

 それはまるで、部屋の空気そのものがそこへ吸い寄せられているみたいだった。


 希夢は、その一点から目を離せない。


 離さなければならない、という感覚はある。

 だが、見てしまう。

 この場の自分はまだ“見てはいけない側”であることさえ、十分には理解できていない。


 鹿島先輩の肩が、ほんの少しだけ動く。


 振り返るのではない。

 何かを確かめるような、わずかな傾き。


 その直後だった。


 部屋の奥に、白い壁が立ち上がる。


 最初から壁があったわけではない。

 そこに何か白いものが“集まって”、一枚の面のように見え始めるのだ。


 光の壁。


 そう呼ぶしかないものだった。


 透明ではない。

 けれど、完全な不透明でもない。

 白い粒が無数に密集し、絶えずほどけながら、なお壁の形を保っている。


 揺らいでいる。

 呼吸するみたいに、

 深くなって、薄くなって、また深くなる。


 その動きに、希夢は息が止まる。


 夢で雛乃が見た光の粒。

 映像の最後の一秒で人影を溶かしていった白。

 旧観測棟の壁に残った“明るさの抜けたあとの痕”。

 それら全部の起点が、いま目の前にある。


 しかも、それは記録ではない。


 起きる前ではなく、起きている最中だ。


 鹿島先輩は、その光の壁を見ている。


 逃げない。

 後ずさりもしない。

 ただ、その場に立ったまま、何かを見届けるように。


 希夢は、その背中へ一歩近づこうとして、足が止まる。


 自分がどこにいるのか、その瞬間だけ分からなくなる。

 床はある。

 足もついている。

 なのに、自分と先輩のあいだの距離だけが、現実の尺度を失っている。


 近いのに届かない。

 届きそうなのに、そこへ入ってはいけないと身体のどこかが知っている。


 白い壁が、ひときわ大きく揺れた。


 光ではない。

 衝撃でもない。

 もっと静かな圧の膨張。


 部屋全体の白が、一瞬だけそこへ引かれる。


 その瞬間、鹿島先輩の背中がわずかに強張る。


 希夢は、そこで初めて気づく。


 先輩は“見ている”だけじゃない。

 来ると分かっていて、それでもそこに立っている。


 喉の奥で、何かが熱くなる。


 呼ばなければ。

 止めなければ。

 近づいてはいけないと、自分にも分かるのに、

 この場の自分はまだ言葉を持てない。


 やっと口が開きかけた、その時。


 先輩の右手が、ほんの少しだけ上がる。


 振り返らないまま。

 こちらを見ないまま。

 制止するように、あるいは庇うように。


 そして、声。


 まだはっきりしない。

 けれど今までよりずっと近い。


 「――」


 最初の音は、白い揺れに飲まれる。


 その次に、ようやく意味だけが届く。


 見ないで。


 その声は、拒絶ではなかった。

 怒ってもいない。

 ただ、ひどく切実だった。


 見てはいけない。

 来てはいけない。

 ここから先へ、こちら側を巻き込んではいけない。


 その意味が、一息の中に全部入っていた。


 希夢の胸が、強く痛む。


 頭痛ではない。

 もっと深い。

 “その時の自分”がそこで何を感じたかが、遅れて現在の自分へ刺さってくる痛みだった。


 光の壁が、さらに大きく波打つ。


 白い粒が、いっせいに濃くなる。

 部屋の輪郭が、一瞬だけ崩れる。


 机。

 床。

 壁。

 先輩の背中。

 その全部が、強い白の中へ引き寄せられる。


 希夢は、そこでようやく叫びそうになる。


 声はまだ出ない。

 けれど、喉の奥で何かが裂ける。


 ――やめて。


 自分がそう思ったのか、

 別の誰かがそう叫んだのか、分からない。


 ただ、その瞬間、光の部屋はもう“記憶”ではなく、“再び起きかけているもの”に近づいていた。


「希夢さん!」


 雛乃の声が、遠くから落ちてくる。


 部室の声だ。

 現実の側からの呼びかけ。


 白い部屋が、一瞬だけ揺らぐ。


 天井の光。

 鹿島先輩の背中。

 光の壁。

 その全部が、薄い水の向こうへ引いていく。


 だが、消える直前にひとつだけ、はっきり残るものがあった。


 振り返らない背中。

 少しだけ上がった右手。

 そして、“見ないで”という声の向き。


 それは、もう断片ではなかった。


 希夢にとって、そのフラッシュバックの核心は、事故の光景そのものではない。

 先輩が最後までこちらを守ろうとしていた形だった。


 雛乃の声が、遠くから戻ってくる。


 希夢さん。


 その呼びかけは、部室の空気の中に確かにある。

 けれど、いまの希夢には、その声が“自分に向けられている”ところまで届くのに、一拍以上の時間が必要だった。


 白い部屋はまだ完全には消えていない。

 目を開けているはずなのに、視界の底では天井の白い光がなお揺れている。

 机の縁に触れている手の感触もある。

 床に落ちた膝の鈍い痛みもある。

 それなのに、それら全部がひどく薄く、別の誰かの身体を経由してやってくるみたいだった。


 希夢は、ゆっくり呼吸しようとする。


 吸う。

 吐く。


 できている。

 たぶん、できている。

 けれど、その呼吸が“自分のもの”だと確かめようとした瞬間、胸の奥でまた別の白い波が立ち上がる。


 あの部屋で、

 あの光の前で、

 いま息をしているのは誰だったのか。


 希夢は、思わず机の脚へ視線を落とした。

 部室の机だ。

 古い傷も、見慣れた色も、そのままある。

 なのに、そこへ触れている自分の手だけが、少し遅れて認識される。


「……俺……」


 言葉が、こぼれる。


 希夢自身がいちばん驚いた。

 自然に出るはずの一人称が、いつもの形を取らなかったからだ。


 すぐに続けて言い直そうとする。


「……私……」


 だが、そちらもまた、しっくりこない。

 どちらが正しいのかではない。

 どちらを口にしても、“いまここにいる自分”とぴたり重ならないのだ。


 雛乃が、希夢の肩へ置いた手に少しだけ力を込める。


「希夢さん、こっち見て」


 その声は優しい。

 けれど、いまの希夢にとって“こっち”はひどく曖昧だった。


 こっち。

 部室。

 今。

 雛乃と裕也のいる側。

 そこへ戻らなければいけないと分かる。

 だが、白い部屋の中に立つ自分の方が、妙に生々しく残っている。


 鹿島先輩の背中。

 少しだけ上がる右手。

 見ないで。


 その声を聞いた時、そこにいたのは“今の自分”ではない。

 もっと若いのか、もっと幼いのか、あるいはただ“観測者としての自分”なのか。

 そこさえ曖昧なまま、記憶だけが先に立ち上がっている。


「……ここに」


 希夢は、喉の奥の乾きを押し込むように言った。


「俺(私)……

 ここに、いた……?」


 その問いは、二人へ向けたものではなかった。

 ほとんど、自分自身へ向けた確認だった。


 雛乃の表情が一気に揺れる。

 裕也は、すぐには何も言わない。

 軽く否定してはいけないと、二人とも分かってしまったのだ。


 希夢の頭の奥で、白いノイズがまた寄る。


 今度は痛みだけではない。

 痛みの内側で、場所の感覚が崩れ始める。


 部室の床に膝をついている。

 それは分かる。

 けれど同時に、白い部屋の床にも立っている。

 二つの“床”が重なり、どちらに体重が乗っているのか一瞬だけ分からなくなる。


 視界が揺れる。

 天井の蛍光灯が、部室のものなのか、あの部屋のものなのか、その境界まで曖昧になる。


「希夢、名前言えるか」


 裕也の声が落ちる。


 現実確認の声だった。

 短く、低く、感情より先に輪郭を渡してくる声。


 希夢は、すぐには答えられなかった。


 名前。

 自分の名前。

 当然知っているはずのものなのに、いまはその“知っている”までの距離が遠い。


 霧島希夢。

 頭では出ている。

 だが、それを口にする前に、別の感覚が邪魔をする。


 その名前は、本当に“いまの自分”のものなのか。


 白い部屋にいた側の自分も、同じ名前だったのか。

 それとも、もっと別の呼ばれ方をしていたのか。

 思考がそこへ触れた瞬間、自己の輪郭がまた少し薄くなる。


「……き、り……」


 音だけが先に出る。

 最後まで続かない。


 雛乃の手が、肩から腕へそっと移る。

 強くは掴まない。

 でも、ここにいると分かるだけの重さを持たせる。


「大丈夫です。

 いまは最後まで言わなくていい」


 その言葉に、希夢はかろうじて呼吸を取り戻す。


 最後まで言えない。

 それは失敗ではなく、いまの自分の状態そのものだった。

 自分の名前さえ途中で切れる。

 一人称さえ定まらない。

 過去と現在の境界が薄くなりすぎて、どちらの自分が言葉を持つべきなのかが揺らいでいる。


「……俺、じゃない」


 希夢は、小さく呟く。


 すぐに続けて、


「でも、私だけでもない」


 その声は弱かった。

 けれど、その弱さの中にいちばん正確な実感があった。


 いまの自分は、日常の中の希夢だけではない。

 事故の瞬間にいた“誰か”の感覚が、まだ完全にはほどけずに重なっている。

 だから、一人称が崩れる。

 だから、場所が二重になる。

 だから、自分の名前を自分のものとして最後まで言い切れない。


 裕也が、深く息を吐く。


「境界が崩れてるな」


 その言い方は冷静だった。

 だが、冷たいわけではない。

 事態を名前で押さえることで、現実側に一本線を引こうとしているのが分かった。


 雛乃が、静かに頷く。


「記憶と今が、重なってる」


 希夢は、その言葉を聞いた瞬間、少しだけ楽になるのを感じた。

 崩れているのは自分そのものではなく、

 記憶と現実の境界なのだと、外から言葉を与えられたからだ。


 それでも、不安は消えない。


 もしこのまま重なり続けたら。

 もし、白い部屋の中にいた“自分”の方が濃くなったら。

 いま部室にいる側の希夢は、どこまで残れるのか。


 その恐れが浮かんだ瞬間、喉の奥でまた白い痛みが走る。

 叫びになりきらない声。

 見ないで。

 振り返らない背中。

 それら全部が、自分の中で“他人の記憶”ではいられなくなっている。


「……戻ってきて」


 雛乃の声が、今度は少し震えた。


「希夢さん、お願い」


 その一言は、第五章の延長だった。

 夢の中へ近づきすぎた時、教室の床が揺れた時、雛乃はいつも“今ここ”へ細い橋をかけようとしてくれた。


 希夢は、その声の方へゆっくり顔を向ける。


 雛乃の目。

 部室の白い蛍光灯。

 机の木目。

 ノートの罫線。

 現実の情報を一つずつ拾う。


「……いる」


 小さく言う。


「ここに、いる」


 完全な確信ではない。

 それでも、さっきよりはましだった。


 “俺”でも“私”でもなく、

 まずは“ここにいる”ことだけを言葉にする。

 いま必要なのはそれだと、身体がようやく理解し始める。


 裕也が、短く頷く。


「それでいい」


 その返しは、意外なほどやわらかかった。


 名前が言えなくてもいい。

 一人称が揺れてもいい。

 いまここにいることだけを確認できれば、まだ戻れる。


 その判断が、希夢にはありがたかった。


 白いノイズは、完全には消えない。

 けれど、さっきまでのように一気に呑み込もうとはしてこない。

 少しだけ引き、奥で静かに脈打つ程度まで下がる。


 自己は、まだ崩れきっていない。

 ただ、境界が薄くなっている。

 その危うさを、三人とも今ははっきり知っていた。


 事故の映像は、記録である前に“希夢自身の内部を開ける鍵”だった。

 そして、その鍵が開きかけた今、

 いちばん危ういのは記憶の内容ではなく、どの自分がそれを見ているのかが曖昧になることだった。


 「……ここに、いる」


 希夢がそう言ったあとも、雛乃の手はすぐには離れなかった。


 肩から腕へ移した指先に、必要以上の力は入っていない。

 けれど、離せばまた希夢の輪郭が薄くなってしまうかもしれない。

 その予感だけが、雛乃の手のひらに静かに残っていた。


 部室の中は、ひどく静かだった。


 共有端末の画面は閉じられている。

 ノートは開いたまま。

 ペン先のインクも乾ききっていない。

 窓の外の夕方はまだ続いているのに、三人のまわりだけが、別の時間の層へ半分沈みかけている。


 雛乃は、希夢の顔を見た。


 目は開いている。

 視線もこちらへ返ってきている。

 けれど、ほんの少し前までそこにあった“誰か別のところを見ている感じ”が、まだ完全には抜けていない。


 それが怖かった。


 旧観測棟の白い部屋で見たものよりも、

 映像の最後の一秒よりも、

 夢の中で遠ざかっていく後ろ姿よりも、

 いま目の前で、希夢の輪郭だけが少しずつ揺れていることの方が、雛乃にはずっと怖かった。


「……希夢さん」


 自分でも驚くほど、小さな声になった。


 呼びかける。

 返事が来る。

 ただそれだけのことが、急に祈りに近い行為になっている。


 希夢は、ゆっくりと瞬きをした。


「……うん」


 返事はある。

 ちゃんとある。


 そのことに、雛乃は少しだけ息を吐いた。

 でも、安心にはほど遠い。

 “ここにいる”と言ったばかりの希夢の中で、まだ「俺」と「私」が揺れていることを、さっきの数秒で見てしまったからだ。


 雛乃は、自分の喉の奥が乾いていることに気づく。

 怖い。

 それはもう、はっきりしていた。


 事故そのものが怖いのではない。

 鹿島先輩の影が怖いのでもない。

 白い光の壁や、見ないでという声の残響が怖いのでもない。


 希夢が、その中へ戻っていってしまうことが怖いのだ。


 戻る、という言い方が正しいのかどうかは分からない。

 けれど、あの最初のフレームが開いた瞬間から、希夢はただ“思い出している”のではなく、

 あの場所と今この部室のあいだで、どちらにも足をかけて立っているように見えた。


 そのバランスが、ほんの少しでも崩れたら。

 もし白い部屋の方が濃くなってしまったら。

 いま自分が呼んでいる“希夢さん”は、どこまでこちらへ戻ってこられるのか。


 その想像が、雛乃の背中を遅れて冷やした。


「雛乃」


 裕也の声が、低く落ちる。


 彼は、共有端末の前から少しだけ距離を取っていた。

 画面は閉じた。

 次のファイルも開いていない。

 いま部屋の中心にあるべきなのは記録ではなく、希夢の呼吸だと、彼ももう分かっている。


「水、いるか」


 問いは希夢へ向けたものだった。

 けれど雛乃には、それが“今できる現実側の作業”を探している声にも聞こえた。


 希夢は、少しだけ考えてから頷いた。


「……少し」


 その返答を聞いて、雛乃の胸の奥がわずかにほどける。

 水を飲む。

 喉を通る。

 そういう普通の順序がまだ通用するなら、完全には遠ざかっていない。


 裕也が机の端に置いてあったペットボトルを取り、キャップを開けて差し出す。

 希夢の手が伸びる。

 途中で少しだけ揺れる。

 雛乃は思わず、もう片方の手も添えそうになって、ぎりぎりで止めた。


 支えすぎると、かえって希夢の“自分で戻る”感覚を奪う気がしたからだ。


 希夢は、両手でボトルを持ち、少しだけ口をつける。

 喉が動く。

 その小さな動作のひとつひとつが、雛乃にはひどく大切に見えた。


「……ありがとう」


 飲み終えたあと、希夢が小さく言う。


 声はまだ少しかすれている。

 でも、それはさっきの“どの自分が喋っているのか分からない声”ではなかった。

 いまここで、水を飲んだあとの人の声だった。


 雛乃は、その変化にほとんど泣きそうになる。

 朝、夢の話をした時とは違う。

 いまは自分の不安よりも、目の前の希夢が崩れないことの方が先に来ていた。


「……戻ってきた?」


 気づけば、そう聞いていた。


 幼い問いかけみたいだった。

 でも、ほかの言い方が見つからなかった。


 希夢は、すぐには答えなかった。

 少し考える。

 その考える時間が、逆に雛乃には現実的で、少しだけ救いだった。


「全部は、まだ」


 やがて希夢は言う。


「でも、さっきよりは」


 その答えは正直だった。

 正直だからこそ、雛乃は頷けた。


 全部は戻らない。

 少なくとも、事故の最初のフレームを見た前の状態には、もう簡単には戻れない。

 けれど、それでも“さっきよりは”という比較が成立するなら、まだ橋は切れていない。


 雛乃は、希夢の腕に置いた手を、そのまま少しだけ握り直した。


 自分でも、その動きに驚いた。

 慰めたいというより、確認したかったのだと思う。

 ここにいる。

 体温がある。

 声が返る。

 それを自分の手で確かめたかった。


 怖かった。

 希夢が自分の名前を途中までしか言えなかったことが。

 一人称が崩れたことが。

 “俺じゃない。でも私だけでもない”と言ったことが。


 あの数秒で、雛乃ははっきり見てしまったのだ。

 記憶の暴走は、ただ過去を思い出すことではない。

 いまここにいる人の輪郭ごと、過去の光景へ引き寄せてしまうのだと。


 それは夢よりずっと怖い。

 夢は目覚めればまだ現実へ戻れる。

 でも、記憶が現在へ流れ込む時、人は“戻る”という言い方そのものを失いかける。


「……怖かった」


 雛乃は、ぽつりと言った。


 自分でも、口に出すつもりはなかった。

 だが、一度こぼれると止まらない。


「何が?」


 希夢が、静かに聞き返す。


 その問いに、雛乃は少しだけ目を伏せる。


「希夢さんが、

 私の知らない人みたいになるのが」


 部室の空気が、ひとつだけ深く沈む。


 裕也は何も言わない。

 けれど、その沈黙は否定ではなかった。

 雛乃が見たものを、彼もまた別の角度から見ていたのだろう。


 希夢は、すぐには返事をしなかった。

 責められたと思ったわけではない。

 むしろ、自分でもうまく言葉にできなかったことを、そのまま渡されたような顔をしていた。


「……ごめん」


 小さく、そう言う。


「違う」


 今度は雛乃が、すぐに首を振る。


「謝ってほしいんじゃないです。

 ただ……」


 そこまで言って、言葉が詰まる。


 “いなくならないで”と言いたかった。

 けれど、その言い方は重すぎる。

 今の希夢にとって、その言葉は支えよりも圧になるかもしれない。


 だから雛乃は、別の形を選ぶ。


「戻れなくなる前に、

 ちゃんと呼びます」


 声は小さい。

 それでも、その一言には自分でも驚くほど強い意志があった。


 裕也が、そこで初めて短く息を吐く。


「それでいい」


 低い声。


「今のところ、一番効いてるの、雛乃の声だ」


 その言い方は実務的ですらあった。

 だが、いまはその整理の仕方がむしろありがたかった。


 アンカー。

 その役割を、雛乃はもう感覚として引き受けている。

 夢を見る側でありながら、希夢を現実へ引き戻す側にも立っている。


 怖い。

 それでも、呼ぶ。

 戻ってきてと、何度でも言う。


 それがいまの自分にできる唯一のことなのだと、雛乃はようやく受け入れ始めていた。


 希夢は、少しだけ視線を上げる。

 雛乃を見る。

 その視線が、さっきよりもちゃんと“今の雛乃”へ向いていることに、雛乃は胸の奥で静かに安堵した。


「……聞こえてた」


 希夢が言う。


「雛乃の声だけ、

 最後までちゃんと」


 その一言に、雛乃は本当に泣きそうになる。

 けれど、泣かない。

 泣けば、また希夢の意識がこちらではなく“守るべき側”へ回ってしまう気がしたからだ。


「じゃあ、次も呼びます」


 できるだけ平らな声で、そう返す。


 部室の中にはまだ緊張が残っている。

 映像の続きを開けば、また何が起きるか分からない。

 白いノイズも、完全には消えていない。

 それでも、この数分でひとつだけはっきりしたことがある。


 事故の記憶が開くとき、希夢はひとりでは戻れない。

 そして、雛乃の声はその境界に届く。


 それは恐ろしく重い役割だった。

 けれど同時に、たぶんこの章を先へ進めるために必要な事実でもあった。

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