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光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
光は観測者を選ぶ
27/56

鹿島先輩の声

 部室の空気が、ようやくもう一度だけ整い始めたのは、希夢が水を飲み終えてからしばらく経ったあとだった。


 完全には戻っていない。

 白いノイズも、頭の奥の痛みも、まだ薄く残っている。

 それでも、呼吸はさっきより深い。

 雛乃の手が腕から離れても、希夢の輪郭は今のところ崩れずに保たれていた。


 裕也は、共有端末の前に座り直しながらも、すぐにはマウスに触れなかった。


 事故当日の最初のフレームが、希夢の記憶を直接こじ開けた。

 それはもう分かっている。

 同じやり方で続きを開けば、また同じか、それ以上の反応が起きるかもしれない。


「……映像、もう一回そのままは危ないな」


 低い声。

 確認というより、結論に近かった。


 雛乃が、小さく頷く。


「音だけ、とか……」


 その案に、希夢は少しだけ顔を上げる。

 画面を見るのではなく、音の方から入る。

 危険が減る保証はない。

 けれど、少なくとも“最初のフレーム”が直接刺さることは避けられる。


「……それなら」


 希夢は、短く答えた。


 大丈夫、とは言わない。

 言えない。

 ただ、進むならその方法しかないと思った。


 裕也は、再生ウィンドウを開く前に、まずログ情報の中から音声データの波形表示だけを抽出した。

 画面の大半を占めるのは、映像ではなく黒地に並ぶ白い波の線になる。


 希夢は、その画面を見てもさっきほど強い反応が来ないことを確認して、ほんの少しだけ息を吐いた。

 白い部屋の視覚的な圧は、まだここには来ていない。


 だが、安心にはほど遠い。


 波形の白い線は、なぜか妙に生々しかった。

 無機質なデータ表示のはずなのに、そこには“息の乱れ”のようなものが、すでに薄く滲んでいる気がする。


「……再生する」


 裕也が言う。


 今度は誰も止めなかった。


 クリック。


 最初に流れたのは、ほとんど無音に近いざらつきだった。


 ザー、というほど強くもない。

 機械ノイズにしては柔らかく、環境音にしては平坦すぎる。

 まるで、古い映像の表面だけを薄く削った時に残るような、乾いた白い音。


 希夢は、目を閉じなかった。

 閉じれば、音がそのまま白い部屋へ繋がりそうだったからだ。

 代わりに、画面の波形だけを見つめる。


 線は細かく揺れている。

 完全なノイズならもっと均一でもいい。

 あるいはもっと乱れていてもいい。

 だが、この波形は微妙に偏っていた。


 ある区間だけ、揺れが寄る。

 そこだけ、音の密度が少し高くなる。

 そしてまた、薄くほどける。


「……ノイズ、ですよね」


 雛乃が小さく言う。


 問いかけであると同時に、自分に言い聞かせるための声だった。


 裕也は、すぐには答えなかった。

 波形を見つめたまま、再生位置を少しだけ戻す。


 もう一度、同じ区間を流す。


 ざらついた白い音。

 その中に、一瞬だけ別の揺れが混ざる。


 希夢の胸が、静かに縮む。


 それはまだ“声”ではない。

 言葉にもなっていない。

 けれど、ただの機械ノイズが作るランダムな山には見えなかった。


「……止めて」


 希夢が、思わず言う。


 裕也がすぐに停止する。


 部室の中に、静かな沈黙が落ちる。

 さっきまで流れていたざらつきが消えたことで、かえって耳の奥に残響だけが居残る。


「聞こえた?」


 雛乃の声は慎重だった。


 希夢は、喉の奥の乾きをひとつ飲み込む。


「聞こえた、っていうか……」


 どう言えばいいのか、少し迷う。


「音の中に、

 音じゃない揺れがあった」


 裕也が、低く息を吐く。


「波形、拡大する」


 再生はせず、該当区間の波形だけを横へ引き伸ばしていく。

 白い山と谷が、細かな歪みを伴って画面いっぱいに広がる。


 普通の雑音なら、もっとばらける。

 だがその区間だけ、揺れ方に妙なまとまりがある。


 短い。

 でも、途切れ方が人工的ではない。

 人の声がノイズに埋もれた時にできる、不規則な規則性に近い。


 雛乃が、ほとんど囁くように言う。


「……これ、

 声の波形に似てませんか」


 その一言で、部室の温度がわずかに下がった。


 似ている。

 まだ断定はできない。

 けれど、その“似方”が嫌に具体的だった。


 希夢は、波形の一部を見つめる。

 小さな山が二つ続き、そのあとで少し長い谷が来る。

 息継ぎのようにも見える。

 語尾が削れた一語の残りにも見える。


 引き出しの中から見つかった断片。

 ……ないで。


 その文字が、希夢の頭の奥で静かに重なる。


 白いノイズが、今度は耳の内側に寄る。

 光ではなく、音として。


 ザー、という薄いざらつきの向こうから、

 何かが言葉になりかけて、また沈む。


「……もう一回」


 希夢が言った。


 自分でも、少し驚くほど静かな声だった。


 裕也は一瞬だけ希夢を見た。

 無理をしていないかを確かめる目。

 希夢が小さく頷くのを見て、再び同じ区間を再生する。


 白いざらつき。

 薄い歪み。

 寄って、ほどける波形。


 そして今度は、希夢にははっきり分かった。


 そこには“意味のある音の癖”がある。


 子音の立ち上がり。

 母音が伸びる前の、短い圧。

 最後まで届かない、息の切れ方。


 言葉はまだ聞き取れない。

 けれど、これは誰かの声だったものの残骸だと、身体の方が先に理解してしまう。


「……声だ」


 希夢が、かすかに言う。


 雛乃が、息を呑む。

 裕也は再生を止めずに、波形と音の両方を見続けている。


「言葉、までは?」


 裕也が問う。


「まだ……」


 希夢は答える。

 だが、“まだ”という一語の中に、自分でも気づかぬ期待と恐れが混じっている。


 聞こえたくない。

 でも、聞かなければならない。

 その二つが、ノイズの揺れそのものみたいに胸の中で重なる。


 雛乃は、ノートへゆっくり書き足す。


 動画再生停止後、ノイズのみ抽出。

 波形に声のパターンに近い歪みあり。


 その記録の文字を見て、希夢は少しだけ呼吸を取り戻す。

 言葉に外在化されることで、音が完全に内側へ入り込むのを防げる。


 けれど、ノイズはまだ画面の中で揺れている。


 白い線として。

 声になりきらなかった声として。

 そして、誰かが最後に残したものとして。


 裕也が、再生を止めた。


「次は、希夢にだけ聞こえるか確認する」


 その言い方は冷静だった。

 けれど、そこへ至るまでに彼自身が一度深く息を吸っていることを、希夢は見逃さなかった。


 部室の空気は、再び重くなる。


 ここから先は、ノイズか声かという話では済まない。

 誰に届くのか。

 誰が“選ばれている”のか。

 その話になっていく。


 希夢は、画面の白い波形を見つめたまま思う。


 光の揺れも、

 壁の痕も、

 最後の後ろ姿も、

 全部がここへ来ている。


 そしていま、鹿島先輩の声だけが、

 ノイズの形を借りて、もう一度こちらへ届こうとしている。


 白い波形は、画面の中で静かに揺れていた。


 ただのノイズとして見れば、それで済む程度の細い山と谷。

 だが一度“声の残骸”として認識してしまうと、もうただの雑音には戻らない。

 そこには、意味になりかけて届かなかったものの形が、確かに残っていた。


 裕也は、再生位置をほんの数秒だけ戻し、手を止めた。


「……確認する」


 その声は低かった。


「今から同じ区間をもう一回流す。

 聞こえたものを、順番に言う」


 雛乃が、ノートの上でペンを構える。

 希夢は、画面の波形から目を外さなかった。


 白いノイズは、頭の奥でもう薄く待っている。

 光の形ではなく、今度は音の前触れとして。

 耳の奥のどこかに、白い粒が寄っているみたいだった。


「いく」


 裕也が再生する。


 ザー、というほど強くない、薄いざらつき。

 乾いた白い音。

 空気を削ったあとに残るような、無機質な揺れ。


 その中に、例の歪みが入る。


 ごく短い。

 けれど今度は、希夢にははっきり分かった。


 ノイズの奥で、何かが“音になる前の呼吸”をしている。

 そして次の瞬間、その揺れが急に近づく。


 耳元ではない。

 スピーカーからでもない。

 もっと直接、頭の内側の、言葉が意味になる場所へ落ちてくる。


 ――見ないで。


 希夢の呼吸が止まった。


 今度ははっきり聞こえた。

 かすれてはいる。

 ノイズに削られている。

 それでも、言葉として聞き取れるだけの輪郭があった。


 見ないで。


 拒絶ではない。

 怒りでもない。

 切迫した、押し返すための声。

 けれど、その奥にはまだ、誰かを傷つけたくない温度が残っている。


「……っ」


 希夢の指先が、机の縁を強く掴む。


 その瞬間、裕也が再生を止めた。


「どうだった」


 問いは短い。

 だが、部室の空気はすでに答えを待つ形へ固まっている。


 希夢は、すぐには声が出なかった。


 聞こえた。

 はっきり聞こえた。

 しかもそれは、第五章の断片や第六章の推測とは違う。

 今回は、明確に“言葉”として届いた。


 雛乃が先に口を開く。


「私は……まだ、ノイズです」


 その声は小さい。

 申し訳なさではなく、事実をそのまま置くための声だった。


 裕也も、少しだけ眉を寄せる。


「俺もだ。

 歪みはある。

 でも、言葉までは聞こえない」


 そこで二人の視線が、同時に希夢へ向く。


 部室の静けさが、一段深くなる。


「……言葉で、来た」


 希夢はようやく言った。


 喉が少し乾いている。

 けれど、さっきの自己の揺れとは違う。

 いまは、自分が何を聞いたかだけははっきりしていた。


「何て?」


 雛乃の問いは、囁きに近かった。


 希夢は、ほんの一瞬だけ目を閉じる。

 閉じればまた白い部屋が開くかもしれない。

 それでも、その言葉を曖昧なままにしておくことは、もうできなかった。


「……見ないで」


 その一言が落ちた瞬間、部室の空気が静かに凍る。


 雛乃のペン先が止まる。

 裕也は、画面から目を離さないまま、ゆっくり息を吐いた。


 誰もすぐには否定しない。

 否定できない。

 引き出しの紙片の 「……ないで」、

 第五章で希夢の中へ直接残った声、

 第六章で“保護の方向”を持ち始めた残響。

 それらが全部、今ここでひとつの言葉へ揃ってしまったからだ。


「……本当に、同じか」


 裕也が低く言う。


 それは疑うための言葉ではなく、あまりにも一致しすぎたものを、そのまま口にして確かめるための声だった。


 希夢は頷く。


「うん。

 今度は、はっきり」


 雛乃が、ゆっくりノートへ書き足す。


 希夢のみ、言葉として認識。

 内容:「——見ないで」


 文字が置かれるたびに、部室の現実がかろうじて保たれていく。

 希夢はその音を聞きながら、胸の奥の白いノイズがまだ完全には引いていないことに気づく。


 言葉は聞こえた。

 けれど、それで終わりではない。

 むしろ、聞こえたことで次の層が近づいている。


 ノイズの奥に、まだ別の呼吸がある。

 “見ないで”の前か後かは分からない。

 だが、声はそこだけで終わっていなかった気配がある。


「なんで希夢だけなんだろう」


 雛乃が、ほとんど独り言のように言う。


 その問いに、誰もすぐには答えられない。


 だが、答えの輪郭ならもう見え始めている。


 旧観測棟の部屋で、壁際の影は振り返らなかった。

 声は入口側へ向いていた。

 ログの観測者IDには KIRISHIMA_N。

 そして今、ノイズの中の声は、希夢にだけ言葉として届く。


 偶然ではない。

 少なくとも、ここまで来るとそう言い切る方が不自然だった。


 裕也が、画面の波形を見ながら言う。


「選ばれてる、ってことか」


 静かな声。

 だが、その一語は重かった。


 観測者。

 受信する側。

 他の人間にはまだノイズでしかないものを、意味として拾ってしまう位置。


 希夢の胸が、ゆっくり縮む。


 選ばれている。

 その言い方には、どこか受動の響きがある。

 だが実感としてはもっと厄介だった。

 選ばれたというより、最初からそこへ接続されていた回路が、自分の中にだけ残っていたような感覚に近い。


「……嫌だな」


 気づけば、そう漏れていた。


 雛乃が顔を上げる。

 裕也も、視線を少しだけこちらへ寄せる。


 希夢は、机の縁を見たまま続ける。


「聞こえるのが嫌っていうより、

 これがもう“私だけ”の方向に来てるのが」


 その正直さに、雛乃の表情が揺れる。


 自分だけに聞こえる声。

 他の二人にはまだノイズでしかないもの。

 それは、事故の記憶が希夢を“観測者”として選び始めているということでもある。


「……でも」


 雛乃は、ゆっくり言葉を選んだ。


「聞こえたのが希夢さんだけでも、

 ひとりで受け取る必要はないです」


 その返しに、希夢は少しだけ呼吸を取り戻す。


 そうだ。

 声が届く位置は自分だけかもしれない。

 けれど、それを言葉として外へ置き、二人と共有することはできる。


 それがいまの、唯一の救いだった。


 裕也が、短く頷く。


「次からは、聞こえた瞬間に止める。

 言葉になったら、まず外へ出す。

 中で抱え込むな」


 現実確認役らしい、実務的な整理だった。

 感情をなだめる言葉ではない。

 だが、いまはその具体性がありがたい。


 希夢は、小さく頷く。


 白いノイズはまだ耳の奥に薄く残っている。

 だが、“見ないで”という言葉を外へ出したことで、さっきのように一気に呑み込まれはしなかった。


 聞こえた。

 はっきり、希夢にだけ。


 その事実は、恐ろしく重い。

 けれど、同時に次へ進むための形でもある。


 鹿島先輩の声は、ただ記録に残っているのではない。

 ノイズの形を借りて、いまもなお“届く相手”を選んでいる。


 そしてその最初の言葉は、やはり、

 「——見ないで」

 だった。


「——見ないで。」


 その言葉が、希夢の中に落ちた瞬間だった。


 痛みではないものが、先に来た。


 胸の奥。

 ちょうど心臓のあるあたりを、内側からひどく静かに握り込まれる。

 潰されるほど強くはない。

 だが、確実に逃がさない圧だった。


「……っ」


 希夢は、反射的に息を止めた。


 呼吸ができないわけではない。

 空気は吸える。

 喉も塞がっていない。

 それなのに、胸だけが“次の一拍を打ってはいけない”と命じられたみたいに固まる。


 机の縁を掴んでいた指先に、急に強い力が入る。

 白い波形はまだ画面の中にある。

 けれど、いま希夢を圧しているのは画面ではなかった。


 聞こえた声そのものが、身体の位置を変えてしまったのだ。


「希夢?」


 裕也の声が近い。


 近いはずなのに、その一音へ意識が届くまで、また一拍だけ遅れる。


 次の瞬間、足元の感覚がずれた。


 床はそのままだ。

 部室の床。

 古い机の脚。

 椅子の影。

 何も崩れていない。


 それなのに、世界の表面だけが、ほんの1センチ沈む。


 沈む、としか言いようがなかった。


 穴が開くわけではない。

 床が割れるわけでもない。

 ただ、いままで自分が立っていた“現在の面”が、薄く下へ落ちる。

 そのせいで、自分の身体だけが一瞬置いていかれる。


「……っ、あ」


 希夢は、思わず椅子の脚へ膝をぶつけそうになりながら、机へ体重を預ける。


 床の高さは変わっていない。

 だが、身体がそう認識できない。


 部室にいる。

 そのはずなのに、足元だけが旧観測棟の白い部屋の床と一瞬重なる。

 あの反響の浅い床。

 温度の薄い床。

 何かが起きた場所の、硬すぎる静けさを持った床。


「希夢さん!」


 雛乃が、椅子を引いて立ち上がる音がした。


 その音は正常だ。

 ちゃんと部室の空気を震わせている。

 けれど希夢の中では、その正常さだけがひどく遠い。


 白いノイズが、今度は耳ではなく胸の中へ寄る。


 ざらついた白い音ではない。

 声でもない。

 ただ、“見ないで”の意味だけが身体の中心に圧として残る。


 見てはいけない。

 近づいてはいけない。

 それは単なる情報ではなく、身体の姿勢そのものを変えてしまう命令だった。


 希夢は、机の縁に片手を置いたまま、もう片方の手で胸元を押さえる。


「心臓……?」


 雛乃の声が震える。


「痛いんですか」


 希夢は、首を横に振りかけて、途中で止めた。


 痛みとも違う。

 苦しさとも少し違う。

 もっと厄介だった。


「……掴まれてる、感じ」


 かろうじてそう言う。


「止まるとかじゃなくて……

 押さえられてる」


 裕也が、すぐに共有端末の音量をゼロに落とす。

 再生はすでに止まっている。

 それでも、少しでも刺激を減らそうとする現実的な動きだった。


 雛乃は、机を回り込んで希夢の横へ来る。

 さっきみたいに肩へ触れるかどうか、一瞬だけ迷ってから、今度は背中へそっと手を置いた。


 その重さが、ほんの少しだけ現実の輪郭になる。


 だが、足元の沈みはまだ消えない。


 1センチ。

 ほんのそれだけ。

 けれど、その“わずか”がひどく致命的だった。


 世界が沈んだのではない。

 自分の立っている現在の層だけが、少しずれた。


 そのせいで、体重の置き場が一瞬分からなくなる。


「……床、変ですか」


 雛乃が聞く。


 希夢は、視線を下へ落とす。

 机の脚。

 自分の靴先。

 影。

 全部そこにある。


「変わってない」


 そう答えてから、喉をひとつ鳴らす。


「でも、

 変わったように感じる」


 裕也が、低く言う。


「一センチくらいか」


 その数値に、希夢ははっとした。


「……うん」


 どうして裕也が分かったのか、一瞬考えて、すぐに理解する。

 自分の身体の揺れ方が、それくらいの“ずれ”に見えたのだろう。


「大きくじゃない。

 でも、確実に下がる感じ」


 雛乃の背中に置いた手が、少しだけ強くなる。


「引っ張られてるんですね」


 その言葉は、説明というより直感に近かった。


 希夢は、胸の圧と足元の沈みを同時に感じながら、ようやく頷く。


 そうだ。

 ただ苦しいのではない。

 ただ怖いのでもない。


 身体の中心は声に掴まれ、足元は記憶の場所へ引かれている。


 それが、いま起きていることの正体にいちばん近かった。


 “見ないで”は、耳に届くだけの言葉ではない。

 その言葉が発せられた瞬間の空気圧や、立っていた位置や、床の感触まで一緒に連れてきてしまう。


 希夢は、深く息を吸おうとして、できない。

 正確には、吸えるのに深くならない。

 胸の奥の圧が、呼吸の幅だけを狭めている。


「……戻れなくなる感じ、する?」


 裕也が聞く。


 その問いは、第六章の終わりよりももっと近い位置から来ていた。

 ただの確認ではない。

 一線を越える前かどうかを見極めるための、現実側の問い。


 希夢は、しばらく答えられなかった。


 戻れない。

 その言葉は重すぎる。

 けれど、いま胸にある圧と足元の沈みは、たしかに“次の層”を示している。


「……まだ」


 ようやく出たのは、それだけだった。


「まだ、だけど……

 近い」


 雛乃が、息を呑む。


 裕也は、短く頷いた。


 その二文字だけで十分だった。

 いまはまだ戻れる。

 だが、あと一段進めば危ない。

 その共通認識が、三人のあいだでぴたりと揃う。


 白いノイズは、少しずつ引いていく。

 胸の圧も、完全には消えないが、最初の強さではなくなる。

 足元の1センチの沈みも、現実の床の硬さを何度か確かめるうちに、ゆっくり上へ戻ってくる。


 それでも、希夢にははっきり分かった。


 鹿島先輩の声は、もはやただ聞こえるだけではない。

 身体の位置そのものをずらすほど近くへ来ている。


 雛乃は、背中へ置いた手をまだ離さなかった。

 裕也も、共有端末には触れない。


 今は次の言葉や次の映像よりも、

 希夢が再び“いまこの床の上にいる”ことを身体で思い出す方が先だと、二人とも理解していた。


 希夢は、机の縁から少しずつ指の力を抜く。


 呼吸。

 床。

 部室の白い蛍光灯。

 ノートの罫線。

 ひとつずつ、現実の輪郭が戻ってくる。


 だが、胸の奥にはまだ微かに残っていた。


 あの圧。

 あの沈み。

 そして、“見ないで”が単なる言葉ではなく、

 その場にいた人間の身体反応ごと残されたものだという、動かしがたい感覚が。


 胸の奥を掴まれるような圧が、ようやく少しだけ薄くなったあとも、部室の空気は元には戻らなかった。


 希夢は、机の縁に置いた指先をゆっくり離した。

 足元の“1センチの沈み”も、今はもう感じない。

 けれど、それが消えたからといって、さっき起きたことまで軽くなるわけではない。


 「——見ないで」 は、たしかに聞こえた。

 しかも、それはただの音ではなく、身体の位置までずらす言葉だった。


 雛乃は、まだ希夢のすぐ横にいた。

 背中へ置いた手はもう離れている。

 でも、いつでもまた触れられる距離を保ったまま動かない。


 裕也は、共有端末の前に座ってはいるが、キーボードには触れていなかった。

 画面は開いている。

 波形も残っている。

 それでも今は、それを操作することより、三人のあいだに何が起きているのかを見極める方が先だった。


「……確認するけど」


 最初に口を開いたのは、裕也だった。


 声は低い。

 いつものように整理のための言葉だ。

 感情を切り離しているわけではない。

 ただ、感情のまま話すと崩れるから、順番を作ろうとしている。


「俺たちには、まだ“声”じゃない」


 雛乃が、小さく頷く。


「はい。

 歪みは分かります。

 でも、言葉までは届かないです」


 それは、はっきりした差だった。


 同じノイズを聞いた。

 同じ波形を見た。

 同じ部室にいる。

 それなのに、届く深さだけが違う。


 希夢は、その事実の重さをいまさらのように受け取る。


 雛乃は夢を見る。

 裕也は異常を見抜く。

 でも、“いま”“ここ”で、ノイズを言葉として受け取ってしまうのは、自分だけだ。


「……なんか、嫌ですね」


 雛乃が、ぽつりと言った。


 希夢が顔を向ける。

 雛乃は、ノートを見たまま続けた。


「同じものを見てるはずなのに、

 同じところまでは行けない感じ」


 その言い方に、希夢は胸の奥が小さく痛む。


 たしかにそうだった。


 雛乃は、寄り添ってくれる。

 声をかけてくれる。

 戻るための橋をかけてくれる。

 けれど、橋を渡って向こう側まで一緒に来るわけではない。

 来られない。

 いま、あの声が届く位置に立っているのは、自分だけだからだ。


 裕也が、画面から目を離さずに言う。


「それでも、届いてるかどうかは分かる」


 短い一言だった。

 だが、希夢にはそれが妙に救いになった。


 完全に同じ場所へは行けない。

 同じ言葉を同じ温度では聞けない。

 それでも、自分に何かが届いたという事実までは、二人とも見失っていない。


「……温度差、あるね」


 希夢は、小さく言った。


 自分でも少し驚くくらい、平らな声だった。


 雛乃が顔を上げる。

 裕也も、少しだけ視線を寄越す。


「私には、もう声として近すぎる。

 でも、二人にはまだノイズのまま」


 そこまで言って、少しだけ息を整える。


「同じところを見てるのに、

 立ってる位置が違う」


 部室の中に、静かな沈黙が落ちる。


 否定は誰からも来なかった。

 あまりにも正確だったからだ。


 雛乃は、しばらく考えるようにしてから言った。


「私は……近づきすぎると、怖いです」


 その言葉は、正直だった。


「夢の中では触れるんです。

 でも、今みたいに希夢さんが直接聞いてる時は、

 逆に私は外側にいる感じがする」


 夢を見る側。

 揺れを受け取る側。

 でも、観測者として選ばれる側ではない。


 雛乃は、それを悔しいとも羨ましいとも言わなかった。

 ただ、怖いと言った。

 その方が、ずっと本当だった。


 裕也は、そこでようやく画面から手を離した。


「俺はもっと外だな」


 苦笑に近い、乾いた声。


「お前らみたいに夢も見ないし、

 言葉も聞こえない。

 たぶん、俺にできるのは

 “いま何が起きてるか”を外から崩れないように押さえることだけだ」


 その自己認識は、驚くほど正確だった。


 裕也は最前線には立てない。

 だが、そのぶんだけ現実の輪郭を保つ役を引き受けている。

 時間の異常を見つけ、配置を整理し、止めるべき時に止める。

 それは今の三人の中で、誰にも代われない位置だった。


 希夢は、二人を順に見た。


 雛乃は、戻ってきてと呼ぶ側。

 裕也は、崩れる前に線を引く側。

 そして自分だけが、向こうから呼ばれる側にいる。


 その配置が見えた瞬間、胸の奥にまた別の重さが生まれる。


「……選ばれてるんだね」


 希夢が言うと、雛乃の指先がわずかに動いた。


 その一語は、今まで何度も出かけて、でも完全には落ちなかったものだ。


 観測者。


 それは“能力がある”というより、

 逃げきれない位置にいるという意味に近かった。


 雛乃は、すぐには頷かなかった。

 慎重に言葉を選んでいる。


「選ばれてる、というより……」


 少しだけ目を伏せる。


「最初からそこにいた人、なのかもしれないです」


 その言い方は、やさしかった。

 選ばれる、という受け身の残酷さを、少しだけ和らげる言い方だった。


 けれど希夢には、そのやさしさごと重かった。


 最初からそこにいた。

 事故の外側から呼ばれたのではなく、

 事故の中心に近い場所にいたからこそ、いま声が届く。


 それは、もう単なる“偶然の一致”では済まない。


 裕也が、低く言う。


「ここから先、俺たちの温度差はもっと開くかもしれない」


 その言葉は冷静だった。

 だが、突き放してはいない。


「でも、それでバラけるとまずい。

 聞こえるのは希夢だけでも、

 判断は三人でやる」


 雛乃が、すぐに頷く。


「はい」


 希夢は、そのやり取りを聞きながら、胸の奥の緊張が少しだけ形を変えるのを感じた。


 自分だけが聞く。

 自分だけが反応する。

 それはもう避けられないかもしれない。

 けれど、意味を決めるのは一人じゃない。

 それだけで、観測者であることの孤立がほんの少しだけ薄くなる。


 白いノイズは、いまは静かだった。

 耳の奥にまだ微かに残っている。

 けれど、それは次の言葉を押しつけてくる前の沈黙にすぎないと、もう分かっている。


 希夢は、ノートの上へ視線を落とした。


 希夢のみ、言葉として認識。

 内容:「——見ないで」


 その記録の下へ、自分で短く書き足す。


 温度差あり。

 届く深さが三人で違う。


 書いたあと、その一行を見つめる。


 これが、この章の現実だった。


 同じ事件を追っている。

 同じ画面を見ている。

 同じ部屋にいる。

 それでも、届く深さは違う。


 そして、そのいちばん深い場所に立たされているのが、自分なのだと、もう否定しきれなかった。

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