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光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
光は観測者を選ぶ
25/56

事故ログの解析

 旧観測棟を出たあとも、三人の呼吸はすぐには日常へ戻らなかった。


 理科棟の裏手から校舎側へ戻る道は、行きよりも短く感じられた。

 けれど、それは安心したからではない。

 後ろに置いてきたはずの空気が、まだ皮膚の内側に薄く残っているせいだった。


 風は、外のものに戻っている。

 校庭の音もある。

 遠くでは運動部の掛け声が重なり、誰かが笑いながら廊下を走っていく気配もある。

 それでも希夢には、それらがどこか一枚向こう側で起きていることのように思えた。


 雛乃も、言葉少なだった。

 裕也は何度か何かを言いかけて、そのたびに飲み込んでいた。

 旧観測棟で見たものを、まだ三人ともそれぞれ別の場所で抱えている。

 整理するには、いったん机と画面の前へ戻るしかない。


 部室の扉を開ける。


 いつもの部室だった。

 窓。

 机。

 共有端末。

 棚に積まれた機材。

 白い蛍光灯。


 見慣れた風景のはずなのに、今日だけは少し違う。

 旧観測棟の白い部屋を見たあとでは、ここでさえ完全な日常には戻りきらない。


 希夢は、最初に窓際へ向かった。

 ブラインドを少しだけ上げる。

 外の夕方の光を入れるためだった。

 蛍光灯だけの白では、まだ駄目だと思った。


 雛乃は、机の上を整える。

 置きっぱなしになっていたノートや筆記具を端へ寄せ、共有端末の前に小さな空間を作る。

 それは会議の準備というより、いまから向き合うもののために、余白をつくる動作に近かった。


 裕也は、扉を閉めたあとでしばらく動かなかった。

 部室の中の空気を確かめるみたいに、一度だけ深く息を吸う。

 旧観測棟の冷たさは、もうここにはない。

 それでも彼の表情には、まだあの白い部屋の静けさが薄く残っていた。


「……とりあえず」


 最初に声を出したのは、裕也だった。


「座ろう」


 その一言が、ようやく三人を同じ現在へ戻した。


 希夢は椅子に座る。

 机の縁に指先を置く。

 木の感触は、正常だ。

 温度も、重さも、ちゃんとこちら側にある。


 雛乃も向かいへ座る。

 裕也は共有端末の前に回り、画面をつけた。

 起動音が、いつもより少し大きく聞こえる。


 暗かった画面に光が入る。

 その瞬間、希夢の胸の奥がわずかに縮む。

 白いノイズが来るかと思った。

 だが、今はまだ来ない。

 ただ、近いという感覚だけが残る。


 ログイン画面。

 見慣れた背景。

 いつもの共有アカウント。


 それなのに、端末の起動を見ているだけで、旧観測棟の机の空白が脳裏に重なる。

 向こうの部屋に残っていた、何かを置いていた四角い痕。

 見ていた側の椅子の角度。

 壁際の影。

 そして、“見ないで”。


「……希夢さん」


 雛乃の声が静かに届く。


 希夢は顔を上げた。


「大丈夫ですか」


「うん」


 すぐには頷けなかったが、返事はできた。


「まだ、大丈夫」


 その言い方に、雛乃は小さく頷く。

 “完全に平気”ではないことも、でもまだ進めることも、その短い言葉で十分に伝わったらしい。


 裕也は、画面を見たまま言う。


「今日はもう、推測は後にしよう」


 その言い方には、第六章までの彼らしさが残っていた。

 意味を急がない。

 先に事実の形だけを確かめる。

 それがいまの三人を崩さないための最低限のやり方だった。


「旧観測棟で見たもの、

 全部いったん置く。

 で、事故当時のデータがどこまで残ってるかを確認する」


 希夢は、その言葉にゆっくり頷いた。


 そうだ。

 壁の痕も、床の線も、影の残り方も、もう見た。

 次に必要なのは、そこに記録として何が残っているのかだ。


 雛乃が、ノートを開く。


「整理だけ、先に書きます」


 彼女はすでに、記録係の呼吸に戻り始めていた。

 夢を見る側でも、揺れを受け取る側でもあるのに、いまは現実へ言葉をつなぐ側に立っている。


 希夢は、その姿に少しだけ救われる。


 裕也は、キーボードの上に指を置いたまま止まっていた。

 まだ打たない。

 ただ、画面の前で呼吸を整える。


「……戻ったばっかりで悪いけど」


 彼が小さく言う。


「たぶん、ここから先の方がきつい」


 その言葉には大げさな響きがなかった。

 予感というより、確認に近い。

 旧観測棟は“残り方”を見せた。

 でも、PCの中にあるログはもっと直接的に、事故そのものの順序へ触れてしまうだろう。


 希夢は、画面を見つめた。


 黒い表示の中に、自分の顔が薄く映る。

 その輪郭はまだ、いまの自分のものとして保たれている。

 だが、ここから先、ログが開いた時にそれがどう変わるのかまでは分からない。


「……見る」


 希夢は、静かに言った。


 誰に向けた言葉でもない。

 けれど、雛乃も裕也もそれを聞いていた。


 “確かめる”と決めたのは自分だ。

 第六章の終わりに、影の前でそこまで来ていた。

 なら、ここで止まるわけにはいかない。


 裕也が、ようやくキーボードを打つ。


 共有端末のデスクトップが開く。

 日付の古いフォルダ群。

 実験記録。

 観測ログ。

 部活動用の雑多なファイル。

 見慣れたはずの一覧が、今日はやけに多く見えた。


 雛乃のペン先が、ノートの上で小さく止まる。


 希夢は、自分の胸の奥で、白いノイズがまだ来ていないことを確かめた。

 静かだ。

 だが、それは安全という意味ではない。

 来る前の静けさだと、もう分かっている。


 部室の空気は重かった。

 旧観測棟の冷気を、まだ三人とも少しずつ引きずっている。

 けれどその冷たさは、いまや恐怖よりもむしろ、ここから開かれるものの輪郭を際立たせるための静けさになっていた。


 事故の核心は、もう場所の中だけにはない。

 次は記録だ。

 そして記録は、見た者の位置によって残り方を変える。


 希夢は、画面から目を逸らさなかった。

 ここから先、自分がただ“見せられる側”ではいられないことを、もう身体の方が知っていた。


 共有端末の画面には、見慣れたフォルダの列が並んでいた。


 年度ごとの実験記録。

 観測データ。

 校内提出用の報告書。

 部誌の下書き。

 普段なら、その雑多さはただの部室らしさに見える。

 だが今日は違った。


 何かがある。

 そう思って見ている画面は、最初から“ただの一覧”ではいられない。


 裕也は、マウスを動かしながら、普段よりずっと無駄のない手つきでフォルダを開いていった。

 新しい順。

 年度順。

 観測種別。

 事故が起きたとされる年代に近いものから、無言で絞っていく。


 雛乃は、ノートへ短く書いていく。


 第六章:旧観測棟内部確認。

 第七章:端末ログ照合開始。


 その文字の整い方が、いまの三人にとっては小さな杭だった。

 場所が揺れても、記録は並べられる。

 そう信じるための、細い線。


 希夢は、画面を見つめたまま、呼吸の深さだけを整えていた。


 白いノイズは、まだ来ない。

 だが、その静けさは安心ではない。

 旧観測棟で感じた“開く直前の沈黙”と、どこか質が似ていた。


 裕也が、古い観測フォルダをひとつ開く。


 年度のラベル。

 観測日。

 測定値。

 画像キャッシュ。

 自動保存されたバックアップ。


「……普通だな」


 低い声。

 期待していないわけではない。

 ただ、まだ“異常”の入り口には触れていないという確認だった。


 さらに一つ下の階層へ潜る。

 事故のあった年代に近い記録群。

 フォルダ名は、どれも事務的で、温度がない。

 それがかえって不気味だった。

 人がいなくなっても、システムの名前だけは淡々と残る。


 希夢の視線が、画面の左下へ引かれる。


 一覧の最下段近く。

 他のフォルダと並んでいるはずなのに、微妙に薄い色で表示されている項目がある。


「……それ」


 希夢が、小さく言う。


 裕也の手が止まる。


「どれ」


「下」


 カーソルが移動する。

 薄い灰色の、見落としてもおかしくない名前。

 一般表示ではほとんど背景に紛れるような色味だった。


 雛乃が、身を少しだけ乗り出す。


「隠し属性……?」


 裕也が、眉を寄せる。


「この端末、表示設定そのままだぞ」


 つまり、本来なら見えにくい。

 だが、完全には消されていない。

 それは、旧観測棟の部屋とよく似ていた。

 痕跡は薄い。

 けれど、ゼロにはされていない。


 裕也は、カーソルを重ねた。


 フォルダ名は、他と同じようで少し違った。

 記号が一つ多い。

 命名規則からわずかに外れている。

 普段なら雑な入力ミスにしか見えない程度の違い。


「……これ、わざとだな」


 裕也が言う。


「普通のフォルダ列に紛れるようにしてる」


 希夢は、胸の奥が少しだけ硬くなるのを感じた。


 隠している。

 だが、完全には消していない。

 この感触は、もう何度も見てきた。

 旧観測棟の白い部屋。

 引き出しの隅に残った断片。

 壁際の影の残り方。

 残りすぎないようにしながら、なお残ってしまったもの。


 裕也が、クリックする。


 開くまでに、ほんの一拍、間があった。


 処理が重いわけではない。

 端末の性能の問題でもない。

 それでも、その一拍がやけに長く感じられたのは、三人とも同じだったはずだ。


 フォルダが開く。


 中には、数個のサブフォルダと、いくつかのログファイル。

 日付の並びが、まず目に入る。


 古い。

 年数は十分に経っている。

 それだけなら、事故以前の記録アーカイブとして説明できる。


 だが、次の瞬間、雛乃のペン先が止まった。


「……あります」


 その声が、小さく震える。


 裕也も、すぐに気づく。


「事故の日、か」


 フォルダ名に含まれた日付。

 事故が起きたとされる日。

 さらに、その翌日のものまである。


 部室の空気が、一段だけ重くなる。


 旧観測棟で見たものは、場所の残り方だった。

 だが今、画面に並んでいるのは、もっと直接的な“時間”の残り方だ。


 希夢は、視線を動かせなかった。


 事故の前日だけなら、準備ログとして説明できる。

 当日も、ある意味では当然だ。

 だが、翌日がある。

 それは、“事故のあとも観測が続いた”ことを意味してしまう。


「……おかしい」


 希夢は、無意識にそう言っていた。


 裕也が、短く頷く。


「うん。

 ここで終わってない」


 その一言が、画面の文字を急に重くする。


 事故は“起きた”だけではない。

 その後にも、何かが記録されている。

 誰かが残したのか。

 システムが自動で保存したのか。

 そこはまだ分からない。


 だが、少なくともログは、事故を一日限りの出来事として閉じていなかった。


 雛乃が、ノートへ急いで書き足す。


 隠しディレクトリ発見。

 事故前日・当日・翌日のログあり。


 その文字が並んだ瞬間、希夢の頭の奥で、白いノイズがひとつだけ走った。


 短い。

 けれど、今までと違って“場所”ではなく“日付”に反応している感覚だった。


 前日。

 当日。

 翌日。


 それはただの並びではない。

 事故という一点を挟んで、時間が断ち切られていない証拠だ。


 希夢は、喉の奥が静かに乾いていくのを感じた。


 事故の部屋は封じられていた。

 なら、記録も途中で断たれていてもおかしくない。

 それなのに、ここには残っている。

 しかも隠された形で。


「……これ、誰が作ったんだろ」


 雛乃の問いは、ほとんど独り言だった。


 裕也は、すぐには答えない。

 カーソルをファイル一覧の上で止めたまま、画面の右側を見ている。


「自動保存だけじゃないな」


 低い声。


「フォルダ整理の仕方が、人の手だ」


 分類の順序。

 サブフォルダ名の付け方。

 日付の切り方。

 たしかにそれは、自動生成にしては不自然に整っていた。


 希夢の胸の奥が、ひどく静かに縮む。


 誰かがまとめた。

 事故の前後を。

 隠しディレクトリの中へ。

 消さずに、残した。


 その行為の重さが、まだ開いていないログそのものよりも先に部屋へ落ちてくる。


 希夢は、画面の上部にあるファイル情報へ目を向ける。

 更新日時。

 作成者情報。

 フォルダの持ち主。

 まだ何も開いていないのに、そこには次の段階へ進むための入口がすでに見えていた。


 だが今は、そこまで踏み込む前に、まずこの発見自体を受け止めなければならない。


「……見つかったね」


 雛乃が、小さく言う。


 その声には、安堵と恐れが同時にあった。


 探していたものが見つかった。

 それは前進だ。

 だが、見つかったという事実そのものが、もう引き返しにくさを強くしている。


 裕也は、ゆっくりとマウスから手を離した。


「これ、

 もう“事故があったかどうか”の話じゃないな」


 誰も答えなかった。

 答えなくても分かる段階へ、すでに来ていたからだ。


 旧観測棟で見た影も、白い痕も、紙片の断ち切れた言葉も、

 全部がこの隠しディレクトリへ向かっていた。


 そしていま、画面の中の時間は、

 前日・当日・翌日という形で、

 自分たちに「そこには順序がある」と静かに示している。


 希夢は、深く息を吸った。


 白いノイズはまだ小さい。

 だが、次にファイルを開いた瞬間、

 それがもっと強い形で来ることを、身体の方が先に知っていた。


 隠しディレクトリを見つけたあと、三人はしばらくその一覧を黙って見ていた。


 事故の前日。

 事故当日。

 そして翌日。


 画面の中に並ぶ日付は、ただそれだけの情報であるはずなのに、希夢には妙に立体的に見えた。

 前と、当日と、そのあと。

 時間が一本の線として切れずに残っている。


 裕也が、最初のログファイルを選ぶ。


 右側の情報欄に、作成日時と更新日時が出る。

 事故前日の夜。

 時刻は遅い。

 それ自体は不自然ではない。

 観測が夜間に行われるなら、むしろ普通だ。


「ここまでは、まあいい」


 裕也が低く言う。


 その口調は、確認のためのものだった。

 異常を見つけたいのではない。

 どこまでが正常で、どこからが崩れているのかを切り分けるための声だ。


 次のファイルへ移る。


 事故当日のログ。

 こちらも時刻は深夜寄り。

 だが、一覧で見た時には気づかなかった違和感が、詳細表示を開いた瞬間にはっきりした。


「……これ」


 雛乃のペン先が止まる。


「更新日時、逆ですね」


 希夢も、すぐに気づく。


 作成日時より、更新日時の方が早い。

 ありえないわけではない。

 システム時刻がずれていれば、そう見えることもある。

 けれど、一つだけではない。


 事故当日のログが複数並び、そのうちのいくつかで同じ逆転が起きている。

 しかも、ずれ方が一定ではない。


 数分。

 数十分。

 ひどいものは、日付をまたいでいた。


 裕也が、画面をスクロールする。


「タイムスタンプが揃ってない」


 低い声。

 だが、その言葉の重さは十分だった。


「事故前日から連続してるように見えるのに、

 途中で時刻だけ戻ってる」


 希夢は、喉の奥が静かに乾いていくのを感じた。


 戻る。

 その感覚には、もう覚えがある。

 第四章の映像の逆行。

 秒数表示が一度だけ戻った、あの一秒。

 いま画面に出ているのはただのメタデータのはずなのに、その“戻り方”だけがひどく似ていた。


「エラー、ですかね」


 雛乃が言う。


 だが、その声には自分でも半分しか信じていない響きがある。


 裕也は、すぐには頷かなかった。


「一ファイルならそう言える。

 でも、これだけまとまってると違う」


 カーソルが次々と項目を追っていく。

 作成日時。

 更新日時。

 最終アクセス。

 自動保存。


 どれも少しずつ噛み合わない。

 ひどく乱れているわけではないのに、正常な時間の積み方だけが薄く崩れている。


 希夢は、その違和感をもう“PCの表示上の異常”としては見られなくなっていた。


 旧観測棟の部屋もそうだった。

 古いのに、時間が素直に積もっていなかった。

 机の空白も、壁の白い痕も、床の線も、

 全部が“起きたこと”だけを残して、“時間の厚み”だけを抜き取られたみたいだった。


 このログ群も同じだ。

 データはある。

 順序も残っている。

 けれど、時刻だけが正常に流れた形をしていない。


「……翌日のログ、開いて」


 希夢が静かに言う。


 裕也が、ファイルを選ぶ。


 画面の右側に詳細が出る。


 事故翌日。

 そのはずだった。

 だが、開始時刻は事故当日の末尾よりも早い。

 終了時刻はさらに遅い。

 途中で一度、時刻が飛んでいる。


「これ、翌日っていうか」


 裕也が、眉を寄せる。


「当日の続きが、翌日扱いで残ってる感じだな」


「でも」


 雛乃が、すぐに付け加える。


「ファイル生成自体は翌日になってる」


 つまり、システムは“翌日”として保存している。

 けれど中身の時間は、事故当日と連続している。

 それは単なる保存ミスというより、事故の途中で日付だけをまたいだ記録に近かった。


 希夢の胸の奥で、白いノイズがひとつ走る。


 小さい。

 でも、今までと違って、それは光ではなく“時間”に触れた時の走り方だった。


 事故は一瞬で終わっていない。

 少なくとも、記録はそう言っている。


 そして、ここで終わりではなかった。


 裕也が、ファイル一覧の下部を少しスクロールした時、

 雛乃がまた小さく声を漏らした。


「……ID」


「ん?」


 画面の下部にあるログ属性欄。

 そこには、ファイルごとに観測者の識別子らしき文字列が付いていた。


 英数字。

 簡略化された形式。

 普段の部活動ログでは、そこまで細かく残していない項目だ。


 事故前日のもの。

 事故当日のもの。

 翌日のもの。


 いくつかのファイルで、同じIDが繰り返し表示されている。


 KIRISHIMA_N


 その文字列を見た瞬間、部室の中の温度が一段だけ下がったように感じた。


 裕也の手が、マウスの上で止まる。

 雛乃は、ノートへ書く動きを完全に止めている。

 希夢は、画面を見たまま瞬きができなくなった。


 KIRISHIMA。


 自分の名字。

 そこに続く _N が何を意味するのかは、まだ分からない。

 名前の頭文字か。

 登録者コードか。

 別の識別記号か。


 だが、その曖昧さは今はほとんど意味を持たなかった。

 KIRISHIMA の文字列だけで、すでに十分すぎる。


「……これ」


 裕也が、低く言う。


「偶然って言うには、きついな」


 その声には、恐れより先に慎重さがあった。

 ここで軽々しく意味を決めたくない。

 けれど、見なかったことにもできない。

 その両方が滲んでいる。


 雛乃が、ゆっくりとノートへ書き足す。


 観測者ID:KIRISHIMA_N


 文字が紙へ置かれる音さえ、今日はやけに大きく感じられた。


 希夢の頭の奥で、白いノイズがもう一度走る。

 今度は短くない。

 粒が寄る。

 ほどける。

 その中心に、第五章の終わりで見た後ろ姿が、ほんの一瞬だけ輪郭を持ちかける。


 鹿島先輩の影。

 “見ないで”という声。

 旧観測棟の白い部屋。

 そして、KIRISHIMA_N。


 全部が同じ列へ並びかけている。


 希夢は、机の縁へ指先を強く押し当てた。


 まだ痛みにはならない。

 だが、これはもう予感ではない。

 自分が事故の外側にいるとは言いにくくなる情報だった。


「N、って何だろう」


 雛乃の声は小さい。


 それは純粋な疑問だった。

 けれど今は、その疑問を解くこと自体が危うく感じられる。


 裕也は、画面から目を離さないまま言う。


「名前の頭文字、なら……」


 そこで言葉が止まる。

 誰も続きを急がない。


 希夢は、自分の喉が静かに締まっていくのを感じた。


 KIRISHIMA_N。

 それはまだ断定ではない。

 けれど、この章のここまでで最も直接的な指名に近かった。


 事故の部屋は封じられていた。

 影は振り返らなかった。

 声は入口側へ向いていた。

 そして今、ログの中では“観測者”の欄に、自分の名字が置かれている。


 希夢は、深く息を吸った。


 画面から目を逸らさない。


 ここで視線を切れば、たぶん少しは楽になる。

 でも、それをした瞬間に、何か大事なものまで断ち切ってしまう気がした。


「……次、開いて」


 希夢の声は、自分でも驚くほど静かだった。


 事故当日と翌日をまたいだログ。

 観測者ID KIRISHIMA_N。

 その次に待っているものが、自分をどう変えるのかはまだ分からない。


 だが、もう後戻りのしやすい位置ではないことだけは、はっきりしていた。


 KIRISHIMA_N。


 その文字列は、画面の中にただ表示されているだけだった。


 特別な色でもない。

 警告の赤でも、重要項目の黄色でもない。

 他のメタデータと同じ小さな文字で、観測者IDの欄に静かに置かれているだけ。


 それなのに、希夢には、その八文字だけが画面から少し浮いて見えた。


 KIRISHIMA。

 自分の名字。

 その後ろに付いた _N は、まだ意味を固定できない。

 頭文字かもしれない。

 登録コードかもしれない。

 別人の可能性だって、理屈の上ではまだ残っている。


 けれど、理屈の余白より先に、身体の方が反応していた。


 指先が、わずかに震える。


 机の縁を押さえているつもりなのに、感触が少し遠い。

 木の硬さは確かにある。

 それでも、自分の手がそこに届くまでに、ほんの一拍だけ遅れがある。


「……希夢さん」


 雛乃の声が、静かに届く。


 希夢は返事をしようとして、喉がうまく開かないのを感じた。

 声が出ないわけではない。

 ただ、声になる前に、胸の奥で別のものが先に震えている。


 白いノイズが、頭の奥で一気に寄る。


 粒。

 線。

 ほどける白。

 そこまでは、これまで何度も経験してきた。


 だが、今回は違った。

 ノイズの奥から、音が来る。


 はっきりした言葉ではない。

 誰かの声だとも、まだ断言できない。

 ただ、薄い叫び声のようなものが、遠い水の底から浮き上がってくるみたいに、頭の内側でかすかに揺れる。


 希夢は、思わず目を閉じた。


 その瞬間、暗闇の中に白い粒が散る。

 いつものように集まり、ほどけ、また寄る。

 そして、その白の向こうで、ごく短く何かが裂ける。


 叫び。

 いや、叫びになる直前の息。

 助けを呼ぶ声か、制止の声か、それすらまだ分からない。

 ただ、音だけが先に傷になっている。


「……っ」


 希夢の肩が、小さく震えた。


 裕也が、すぐに椅子を引く。

 大きな音を立てないように気をつけながら、それでもすぐ動ける距離まで寄る。


「来たか」


 低い声。

 慌てていない。

 だが、楽観もしていない。

 ここから先は“推測”ではなく、希夢の中で直接起きることだと理解した声だった。


 希夢は、ゆっくりと目を開ける。


 共有端末の画面はまだそこにある。

 KIRISHIMA_N も消えていない。

 画面の光は平坦だ。

 部室の蛍光灯も、いまは脈打っていない。


 それなのに、胸の奥では、白いノイズの向こうから薄い叫びだけがじわじわと近づいてくる。


「……違う」


 希夢は、ほとんど無意識にそう言っていた。


 雛乃が、すぐに問い返す。


「何が?」


 希夢は、画面から目を離せないまま答える。


「名字が似てるとか、

 そういう話じゃない」


 その言葉は、自分のための確認でもあった。


 偶然ではない。

 たぶん、もうその段階ではない。

 理屈の逃げ道をひとつずつ閉じるように、身体の方が先に理解してしまっている。


 白いノイズが、また一度だけ強く寄る。


 今度は、音が少しだけ近い。


 ――や……


 そこで切れる。

 言葉になりきらない。

 だが、確かに“誰かの口から出たもの”として聞こえる。


 希夢の胸が、深く縮む。


 叫び声はまだ薄い。

 輪郭もない。

 それでも、自分の記憶の底から漏れてきているという感覚だけは、どうしても否定できなかった。


「希夢さん、見なくていいです」


 雛乃の声が、今度はもっと近い。


 その一言に、希夢はほんの少しだけ救われる。

 “見ないで”ではない。

 “見なくていい”。

 強く押し返すのではなく、現実の側へ戻るための言い方だった。


 けれど、画面から目を逸らすことはできなかった。


 KIRISHIMA_N。


 その表示はもう、ただのID欄ではない。

 旧観測棟の白い部屋。

 壁際の影。

 振り返らなかった後ろ姿。

 “見ないで”という保護の声。

 そのすべてが、いまこの文字列の周囲へ静かに集まり始めている。


「……俺(私)……」


 言葉が漏れる。


 希夢自身、自分がどちらで言いかけたのか分からなかった。

 “俺”なのか、”私”なのか。

 どちらも途中で崩れて、喉の奥へ沈んでいく。


 裕也が、そのわずかな揺れにすぐ気づいた。


「無理に続けるな」


 低く、短い制止。

 だが強すぎない。

 いまの希夢に必要な現実の輪郭だけを渡すような声だった。


 希夢は、机の縁をさらに強く押さえる。


 ここにいる。

 部室にいる。

 画面を見ている。

 旧観測棟ではない。

 あの事故の瞬間でもない。


 そう何度も確認する。

 けれど、その確認のすぐ裏で、別の理解がゆっくりと育っていく。


 自分は、事故の外側にいた人間ではないのかもしれない。


 その考えが形を持った瞬間、

 薄い叫び声が、今まででいちばん近くなる。


 ――やめ……


 またそこで切れる。


 “見ないで”ではない。

 もっと切羽詰まった、別の音だ。

 だが、最後まで届かない。

 届く直前で、自分の記憶の方が扉を閉めてしまう。


 希夢は、肩を震わせながら、ゆっくり息を吐いた。


「……関わってる」


 雛乃も裕也も、何も言わない。

 その沈黙が、続きを促す。


「たぶん、私……

 事故に、関わってる」


 断定ではない。

 けれど、“かもしれない”よりはずっと重い。


 雛乃の目が、静かに揺れる。

 裕也は、顔をしかめたまま視線を落とした。


 誰も慰めの言葉を急がない。

 いま軽い否定を差し込めば、それはただの嘘になると分かっているからだ。


「観測者IDが名字だけってだけじゃ、まだ足りない」


 裕也が、やがて低く言う。


 それは、希夢を引き戻すための現実確認でもあった。


「でも」


 少し間を置く。


「それで身体がここまで反応するなら、

 無関係とも言いにくい」


 その言葉は冷たくなかった。

 むしろ、いまの状況に対して一番誠実な言い方だった。


 雛乃は、ノートを引き寄せる。


「書きます」


 短い声。

 それから、丁寧に文字を置いていく。


 観測者ID:KIRISHIMA_N

 希夢、強い身体反応あり。

 記憶の底から、薄い叫び声の感覚。


 書かれた文字を見た瞬間、希夢の頭の奥の白いノイズが、少しだけ静かになる。


 消えたわけではない。

 だが、言葉になったことで、無形の圧だけが少し外へ逃げた。


 希夢は、画面を見たまま、自分の膝がまだ小さく震えているのに気づく。

 立てないほどではない。

 だが、立とうとすればすぐに分かる程度には、身体はもう次の段階へ入っていた。


 旧観測棟の影は、場所の中に残っていた。

 けれど今、事故の影は、自分の内側へ入ってきている。


 白いノイズ。

 薄い叫び。

 名字を持つ観測者ID。


 その三つだけで、十分すぎるほどだった。


「……次、見る」


 希夢は、小さく言った。


 自分でも驚くほど静かな声だった。

 怖くないわけではない。

 むしろ逆だ。

 ここから先で、自分がどこまで事故の内部に引き込まれるのか、まったく分からない。


 それでも、もう止まる理由の方が弱くなっていた。


 裕也は、画面へ視線を戻す。

 雛乃は、ペン先をノートの上で止める。


 部室の空気は重い。

 けれど、その重さは旧観測棟の冷気とは少し違った。

 いまここにあるのは、名前が呼ばれる直前の圧だった。

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