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光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
閉ざされた光の奥で
24/56

鹿島先輩の影

「……先輩」


 その一言は、希夢が考えて出した言葉ではなかった。


 口の方が先に開き、認識だけが遅れて追いつく。

 声にしてしまったあとで、ようやく自分が何を呼んだのかを理解する。


 部屋は静かだった。


 半開きの扉の向こうに、まだ学校の午後は続いている。

 遠い運動部の声も、どこかで閉まるドアの音も、現実側にはたしかに残っている。

 それなのに、この白い部屋の中だけは、それらすべてから一枚薄く切り離されていた。


 雛乃は、すぐには何も言わなかった。

 裕也も同じだった。


 否定が来ないことが、かえって重かった。

 いまここで軽く打ち消せないほど、その呼び名は部屋の中に馴染んでしまっていた。


 希夢は、ゆっくりと壁際へ視線を戻す。


 白い痕の少し手前。

 床の細い変色が終わる位置。

 さっきまで黒い線にしか見えなかった場所。


 そこに、もう一度だけ白いノイズが走る。


 粒が寄る。

 ほどける。

 そして、今度はすぐには崩れなかった。


 黒い輪郭が、壁際で静かに立ち上がる。


 線ではない。

 染みでもない。

 完全な人影とはまだ言えない。

 けれど、そこに立っていたものの高さと、肩の位置と、体の向きだけは、もう曖昧ではいられなかった。


 後ろ姿だった。


 正面ではない。

 顔も見えない。

 だが、壁へ寄りすぎず、部屋の中央からも少し外れたその立ち方には、妙な現実味がある。


 希夢は、喉の奥がゆっくりと乾いていくのを感じた。


 あの位置だ。

 机の前ではない。

 観測していた側でもない。

 それでも、この部屋の出来事から外れているわけではない位置。


 雛乃が、ほとんど息だけで言う。


「……いますね」


 希夢は、頷けなかった。

 頷けば、形が固定される。

 だが、否定もできない。


 壁際の影は、まだ完全な濃さを持たない。

 白い痕の中に焼きついた残滓と、希夢の内側で反復している断片とが、ぎりぎりのところで重なっているだけだ。


 それでも、そこには明らかに“立ち方”があった。


 裕也が、低く言う。


「動いてるか?」


 その問いに、希夢は目を細める。


 影は、歩いていない。

 近づいてもいない。

 だが、完全に静止しているわけでもない。


「……揺れてる」


 希夢は、ゆっくり答える。


「輪郭だけ」


 それは風で揺れる影ではない。

 映像の最後の一秒で見たような、白い粒へほどけていく直前の揺れ。

 形を保とうとして、しかし保ちきれない境界の震えだった。


 雛乃は、壁から目を離さずに言う。


「夢の中でも、あんな感じでした」


 その声は震えていた。

 怖いからではない。

 自分の内側だけにあったものが、いま部屋の現実側にも現れてしまったことへの震えだった。


「遠くにいて、

 ちゃんと見えないのに、

 そこにいるって分かる感じ」


 希夢は、その言葉にようやく小さく頷く。


 そうだ。

 壁際の影は、細部ではなく“そこにいた事実”だけを強く残している。

 夢も、映像も、この部屋の痕跡も、みな同じだった。


 完全な像は与えない。

 だが、在ったことだけは消えない。


 白いノイズが、また一度だけ強く走る。


 今度は壁際の影と同時だった。


 希夢の頭の奥で、後ろ姿がさらに鮮明になる。

 黒髪。

 細い肩。

 振り返らないまま、少しだけ首が傾く。


 その傾きに、希夢は胸の奥を強く押される。


 知っている。

 その立ち方を、自分は知っている。


 いつ見たのかは分からない。

 どこで見たのかも、まだ掴めない。

 それでも、知らないものに対して起こる反応ではなかった。


「……やっぱり」


 言葉が、喉の奥で止まる。


 希夢は、最後まで言わなかった。

 だが、その続きを部屋の全員が聞いてしまったことは、沈黙の形で分かった。


 雛乃が、そっと言う。


「先輩、ですか」


 問いかけの形をしている。

 けれど、その実、確かめているのは希夢ではなく、自分自身の感覚の方だった。


 希夢は、長く息を吐いた。


「……そう見える」


 断定ではない。

 だが、もう“近い感じ”よりは深い。


 裕也は、壁際の影を見つめたまま、何も言わない。

 否定も、整理も、いまは差し挟まない。


 その代わり、彼はひどく静かな声で問う。


「どこ見てる?」


 希夢は一瞬、意味が分からなかった。


「影だよ。

 部屋のどこを向いてる」


 その問いは鋭かった。

 顔ではなく、視線の先。

 つまり、この影が“何を見ていた側”なのかを確かめる問い。


 希夢は、壁際の後ろ姿を見つめる。

 肩の線。

 首の向き。

 体の開き方。


 正面は、部屋の中央だ。

 机の空白の方を向いている。

 いや、正確には、その少し手前。

 机の上にかつて置かれていた何かを越えて、

 その周囲に起きた現象の中心を見る角度だった。


「……机じゃない」


 希夢は言う。


「机の上のものそのものじゃなくて、

 そこに起きた光の方」


 雛乃が、小さく息を呑む。


 裕也の指先が、机の縁でわずかに止まる。


 影はただ“そこにいた”だけではない。

 事故の瞬間、何かを見ていた。

 あるいは、見ないではいられなかった。


 その理解が落ちた途端、壁際の輪郭が一瞬だけ濃くなる。


 希夢は、思わず一歩だけ前へ出かけて、止まった。


 近づいてはいけない。

 その感覚が、理屈より先に来る。


 壁際の影は、こちらを見ない。

 振り返らない。

 ただ、白い痕の中心より少しずれた場所を向いたまま、静かに揺れている。


 そして、その揺れ方は、第五章の最後に映像で見た“光へ還っていく前の揺れ”と、完全に同じだった。


「……消え方だ」


 希夢が呟く。


「え?」


 雛乃が聞き返す。


「これ、

 残ってる影じゃなくて……

 消える直前の残り方だ」


 その言葉で、部屋の意味がまた少し変わる。


 壁際に立つ影は、ここに残っている存在そのものではない。

 ここで“どう消えたか”が、まだ形として揺れているものなのだ。


 だから静止していない。

 だから輪郭だけが揺れる。

 だから、顔も見えないまま後ろ姿としてしか残れない。


 希夢は、ノートへ視線を落とした。

 手はまだ震えていない。

 今なら書ける。


 ペンを持つ。


 壁際に立つ影。

 後ろ姿。

 机ではなく、光の起きた位置を見ている。

 残っているのではなく、消える直前の残り方。


 そこまで書いた時、白いノイズは少しだけ静かになった。


 完全には消えない。

 だが、影が“何か”から“どう残っているか”へ言葉を与えられたことで、形を持たない圧迫だけは弱くなる。


 雛乃が、その文字を見つめる。


「夢でも、そうでした」


 小さな声。


「振り返らないまま、

 光の方へほどけていく感じ」


 裕也が、ゆっくりと頷く。


「……ここで、見てたんだな」


 その一言が、ひどく重かった。


 誰かが、ここで。

 光の走る瞬間を。

 おそらくは、止められないまま。

 そして、その見方ごと、消える直前の形だけが残った。


 希夢は、壁際の影からようやく視線を外す。


 いまのところ、まだ“鹿島先輩そのもの”とは言えない。

 けれど、この部屋の中で一番近い人の残り方が、そこにあることだけはもう揺らがなかった。


 壁際に立つ影は、こちらを見ていなかった。


 それが、希夢にはむしろ強く響いた。


 もしあれがただの残像なら、視線などないはずだ。

 もし単なる形の錯覚なら、向きも意味も持たないはずだ。

 けれど、壁際に残る後ろ姿には、確かに“見ていた方向”があった。


 机でもない。

 扉でもない。

 自分たちの立つ位置でもない。


 影は、部屋の中央より少し外れた場所――

 光が起きた位置の、ほんのわずか手前を見ている。


 希夢は、その方向へゆっくり視線を移した。


 机の中央に残る四角い空白。

 その上に、かつて何かが置かれていた形。

 そして、その空白のすぐ上の空間。


 何もない。

 そう言えば、たしかに何もない。


 だが、この部屋に入ってから、希夢はもう“何もない”という言葉を簡単には信じられなくなっていた。


 白いノイズが、頭の奥で一度だけ寄る。


 今度は粒ではない。

 光の膜に近い。

 空気の中のある一点だけが、ごく薄く密度を変える。


 希夢は、息を止めた。


「……そこ」


 声に出した瞬間、雛乃と裕也の視線も同じ一点へ集まる。


「何かある?」


 裕也の問いは低い。


「見えてるわけじゃない」


 希夢は、すぐに答える。


「でも、

 あの影はそこを見てる」


 雛乃が、白い机の少し手前で立ち止まる。

 触れない距離。

 踏み込みすぎない位置。


「空間、ですね」


 彼女の声は、ほとんど囁きだった。


 机の上ではなく、

 机に“置かれていたもの”でもなく、

 そのさらに少し上。


 空気の一点だけが、部屋の他のどこよりも静かで、薄くて、妙に整っている。


 希夢は、その違和感を追う。


 そこだけ、埃が舞わない。

 そこだけ、外から入る光の細い帯が触れても、何も可視化しない。

 そして何より、そこだけが、“これから起きる”ではなく“起きてしまった”密度を持っている。


「観測点……?」


 裕也が、独り言のように言う。


 希夢は、その言葉にすぐには頷かなかった。

 けれど、近いと思った。


 机の上に置かれた何かは、記録装置だったのかもしれない。

 観測機材だったのかもしれない。

 だが、影が見ていたのはその機械そのものではない。

 機械を通して現れていた“何か”の方だ。


 白いノイズが、また一度だけ強く走る。


 瞬間、希夢の視界の奥に短い像が落ちる。


 白い机。

 その上に置かれた四角い装置。

 画面か、盤面か、あるいはもっと別の観測面。

 そこから少し浮いた位置で、白い粒が集まりかけている。


 ただの光ではない。

 照明の反射でも、機械の表示でもない。

 何かが、まだ形を持たないまま、現れかけている。


 希夢は、思わず机の縁を強く掴んだ。


「希夢」


 雛乃の声が近い。


「見えた?」


「……少し」


 喉が乾く。


「機械、みたいなのがあって……

 その上じゃなくて、

 その少し上に、光が集まってた」


 裕也が、机の空白を見る。


「空中、ってことか」


「うん」


 希夢は頷く。


「机に置いたものが光ってるんじゃなくて、

 そこを使って何かを見てた感じ」


 その言葉で、部屋の意味がさらに変わる。


 記録装置があった。

 観測が行われていた。

 だが、対象は机の上に閉じたものではない。

 机の上を起点にして、空中の一点へ現れかけた何かを見ていた。


 雛乃が、小さく息を呑む。


「夢の中も、そうでした」


 その一言は、ひどく静かだった。


「地面とか壁とかじゃなくて、

 少し浮いたところに光が集まってて……

 その向こうに、誰かがいた」


 希夢は、その言葉に胸の奥を強く押される。


 夢。

 映像。

 観測ログ。

 この部屋。

 今や、そのどれもが同じ一点を指し始めている。


 机の上の機材。

 空中に集まる白い粒。

 それを見つめる壁際の後ろ姿。


 そして、そのすべての最後に、

 光の走行と、黒い輪郭の残り方だけが残った。


「……見てたんじゃない」


 希夢は、無意識にそう言っていた。


 裕也が顔を上げる。

 雛乃も、静かにこちらを見る。


「え?」


 希夢は、自分でも言葉の意味を整理しながら続ける。


「ただ観測してた、っていうより……

 確認してた感じ」


「確認?」


「うん」


 机の空白の少し上。

 そこへ集まる白いもの。

 それを前にした後ろ姿には、驚きや偶然の感じが薄い。

 もっと切実で、もっと個人的な集中があった。


「何かを初めて見た人の立ち方じゃない」


 希夢は、ゆっくり言う。


「来るって分かってて、

 それでも見てた人の立ち方」


 裕也が、息をゆっくり吐く。


 その言い方には、反論の余地が少なかった。

 壁際の影は、部屋の中心から少し外れていた。

 巻き込まれたのではなく、近づいて見ていた位置。

 だが、近づきすぎた結果として、そこに“残り方”だけを残した位置でもある。


 雛乃が、ほとんど囁くように言う。


「止められなかったんですね」


 その一言が、部屋の温度をまた一段だけ下げた。


 止められなかった。

 あるいは、止めなかった。

 そこまではまだ決められない。


 だが、少なくとも壁際の影は、ただ被害を受けた残滓ではなかった。

 起きることを見届けようとしていた側に近い。


 希夢は、視線を壁際の影へ戻す。


 後ろ姿は、やはり振り返らない。

 こちらを見ない。

 机の上の“何か”でもなく、その少し上に集まりかけた白を見ている。


 その立ち方が、第五章で繋がった断片と静かに噛み合う。


 鹿島先輩の後ろ姿。

 誰かの名前を呼ぶ声。

 ——見ないで。


 見ないで、という言葉は、見てはいけないものを制止する声だと思っていた。

 だが今、この部屋で立ち上がる順序を前にすると、少し意味が変わる。


 見ないで。

 それはもしかすると、

 自分が見続けてしまったものを、他の誰かには見せたくなかった声なのかもしれない。


 希夢の喉がゆっくり乾く。


「……先輩、見てたんだ」


 今度の言葉は、無意識ではなかった。

 理解として、静かに落ちた。


 雛乃は何も言わない。

 裕也も、否定しない。


 いまこの部屋の中で、三人とも同じところまで来ているのが、その沈黙で分かった。


 机の上に置かれていた何か。

 その少し上に集まる白い揺れ。

 壁際で、それを見ていた後ろ姿。

 そして、光が走り、残り方だけがこの部屋に定着した。


 希夢は、ノートに新しく書き足した。


 影が見ていたのは、机ではなく、その上に現れかけた白い現象。

 観測というより、確認。


 ペンを離すと、白いノイズは少しだけ引いた。

 静かになる。

 だが、消えたわけではない。

 むしろ、次に来るべき断片のために一度奥へ沈んだみたいだった。


 この部屋は、まだ全部を見せていない。

 けれど、もう十分に分かってしまったこともある。


 鹿島先輩に最も近い影は、

 ここでただ消えたのではない。

 何かを見届ける位置にいて、

 その見方ごと残ってしまった。


 ノートに書き足した文字が乾くまでのわずかな時間、

 部屋の中には誰も言葉を置かなかった。


 影が見ていたのは、机の上の機材ではなく、その少し上に現れた白い現象。

 観測というより、確認。


 その二行は、今この部屋で分かったことの輪郭としては、十分すぎるほど重かった。


 希夢は、ペンを置いたまま、壁際の影へもう一度視線を戻す。


 後ろ姿は、やはりこちらを見ていない。

 振り返らない。

 ただ、机の上の少し上――白い光が集まりかけていた一点を、静かに見続けている。


 その立ち方に、希夢はまた胸の奥を押される。


 ただ見ていただけではない。

 何かが起きると知っていた人の立ち方。

 止めたいのか、確かめたいのか、そのどちらともつかないまま、目を逸らさなかった人の立ち方。


 白いノイズが、頭の奥でごく短く寄る。


 今度は粒ではなく、音の前触れみたいだった。

 光が走る前の白い気配ではなく、言葉になる直前の呼吸に近い。


 希夢は、息を止める。


 そして、来る。


 ――見ないで。


 前と同じ言葉。

 けれど、今度は少し違っていた。


 意味は同じなのに、向きが違う。


 希夢は、眉を寄せる。

 “見ないで”という残響が、壁際の影からこちらへ飛んでくるのではないことに、ようやく気づいたのだ。


「……違う」


 小さく呟く。


 雛乃がすぐに反応する。


「何が?」


 希夢は、壁と机と扉の位置を目で結ぶ。


 後ろ姿。

 白い現象。

 半開きの入口。


 そのあいだに、まだ見えていない線がある。


「この声」


 希夢は、ゆっくり言う。


「こっちに向いてない」


 裕也が、少しだけ身を乗り出す。


「じゃあ、どこに向いてる」


 その問いに答える前に、白いノイズがもう一度走る。


 今度は、頭の奥ではなく、部屋の空間そのものへ細く引かれるような感覚だった。

 希夢の視界の中で、壁際の影と、机の上の白い一点と、入口の扉の隙間とが、一瞬だけ同じ層に重なる。


 そして、ようやく分かる。


「……扉の方」


 希夢の声は、ほとんど囁きだった。


 雛乃が振り返る。

 裕也も、半開きの入口へ目を向ける。


 だが、今そこにあるのは、ただの出口ではない。

 現実側へ戻るための隙間であり、同時に、**事故が起きた瞬間に誰かが“そこにいたかもしれない位置”**でもある。


 希夢は、喉の奥がゆっくり乾いていくのを感じながら続ける。


「“見ないで”って、

 今の私たちに言ってるんじゃない」


 雛乃の睫毛が、わずかに震える。


「……その時、そこにいた誰かに?」


「たぶん」


 希夢は頷く。


「この部屋の中で、

 先輩はあれを見てた。

 でも、声はたぶん……

 別の位置にいる誰かへ向いてる」


 その一言で、部屋の意味がまた少し変わった。


 今までは、壁際の影と光の現象だけで、この事故を見ていた。

 だが、声の向きが入口側へ伸びた瞬間、

 この場にはもう一人の視線が立ち上がる。


 見てはいけないと言われた誰か。

 そこにいて、見てしまう位置にいた誰か。

 あるいは、見ないように守られようとしていた誰か。


 裕也が、低く言う。


「つまり、先輩は一人じゃなかったってことか」


 希夢は、すぐには答えなかった。


 断定はまだできない。

 けれど、声の向きだけはもうごまかせなかった。


「……少なくとも、

 “見ないで”って言う相手がいた」


 その整理が、今はいちばん正確だった。


 雛乃は、ゆっくりと入口の隙間を見る。

 外の夕方の光が細く差し込んでいる。

 そこは現実の出口であると同時に、この部屋では妙に意味を持ちすぎている。


「夢でも」


 雛乃が、小さく言う。


「遠ざかっていくのに、

 こっちを追い払う感じじゃなかったんです」


 希夢は、その言葉に静かに頷く。


 そうだ。

 あれは拒絶ではない。

 恐怖でも、怒りでもない。


 見ている側ではなく、見てしまう側を守ろうとする声だった。


 その理解が落ちた瞬間、壁際の影の輪郭がほんの一瞬だけ深くなる。


 白い痕の前。

 机の上の少し外れ。

 後ろ姿の肩が、ごくわずかに傾く。


 振り返らない。

 だが、その傾きだけで十分だった。


 誰かに向かって、言ったのだ。


 希夢の頭の奥で、また断片がつながりかける。


 誰かの名前を呼ぶ声。

 それに続く、“見ないで”。

 そして、光が走る直前の緊張。


 まだ名前は聞き取れない。

 けれど、その呼びかけが単なる独り言ではなかったことは、もうはっきりしている。


「……確認してたんじゃなくて」


 希夢は、自分でも驚くほど静かな声で言った。


「最後に、

 誰かを見ない方へ押したのかもしれない」


 裕也が、机の縁に置いた手へ少しだけ力を込める。


「庇った、ってことか」


 その言葉は重かった。

 だが、今の部屋にはあまりに自然だった。


 観測。

 白い光。

 事故。

 壁際の後ろ姿。

 そして、入口側へ向いた声。


 それらがここまで揃ってしまうと、もう“偶然の断片”だけでは保てない。


 雛乃が、ほとんど囁きで言う。


「だから、振り返らないんですね」


 希夢は、壁際の影を見たまま頷いた。


 振り返らない。

 こちらを見ない。

 最後まで、光の方と、扉側にいた誰かとのあいだに立ったまま、

 その残り方だけがここに定着している。


 白いノイズが、今度は不思議なくらい静かに引いていく。


 消えたのではない。

 ただ、今必要な形に言葉が追いついたことで、無理に前へ出てこなくなっただけだ。


 希夢は、ノートを開き、新しく書き足す。


 「——見ないで」は、現在の観測者ではなく、その場にいた別の誰かへ向いた可能性。

 声の先は入口側。

 拒絶ではなく保護に近い。


 書き終えたあと、希夢はゆっくり息を吐いた。


 部屋は依然として静かだ。

 何も解決していない。

 むしろ、分かってしまったことが増えたぶんだけ、重くなっている。


 それでも、ひとつだけ確かなことがある。


 壁際に立つ影は、ただ消えた人の残滓ではない。

 最後の瞬間まで、誰かの方を向いた声を持っていた。

 その声の向かう先が入口だった以上、この事故はもう“観測中の事故”だけではない。


 そこには、見てはいけないものを見てしまう位置にいた、もう一人の現実があった。


入口側へ向いた声。


 ——見ないで。


 その言葉が、この部屋の中で新しい向きを持った瞬間、壁際に立つ影の意味もまた、少しずつ変わり始めていた。


 希夢は、白い痕の手前に残る後ろ姿を見つめる。

 黒い輪郭は、まだ完全な像ではない。

 けれど、もうただの線ではいられない。


 肩の傾き。

 体の向き。

 振り返らない首筋の静かさ。


 そのすべてが、今ははっきりと、誰かの前に立っている人の姿勢に見えた。


 雛乃が、ほとんど囁きで言う。


「……どうして、振り返らなかったんでしょう」


 その問いは、影そのものに向けられていた。

 けれど同時に、自分たちのいる現在にも向けられているように希夢には聞こえた。


 なぜ、こちらを見なかったのか。

 なぜ、声だけを入口側へ投げたのか。

 なぜ、最後まで光の方を見続けたのか。


 裕也は、壁際の影から視線を外さずに言う。


「振り返る余裕がなかった、とか」


 可能性としては自然だった。

 起きたことが急すぎて、後ろを向く時間さえなかった。

 事故という言葉だけを置くなら、それで説明はつく。


 けれど希夢は、すぐには頷けなかった。


「……違う気がする」


 言葉が落ちると、部屋の静けさがそれを受け止める。


 白いノイズが、頭の奥で小さく寄る。

 今度は苦しさではなく、形の補足に近い揺れだった。


 希夢は、ゆっくりと呼吸する。

 現実の床。

 机。

 壁。

 その全部を視界に置いたまま、影だけを見失わないようにする。


「この人」


 希夢は、影を見たまま言う。


「振り返れなかった、んじゃなくて……

 振り返らなかったんだと思う」


 雛乃の睫毛が、わずかに震える。


 裕也も、今度はすぐに反論しない。


 振り返れなかったのと、振り返らなかったのでは意味が違う。

 前者は事故に巻き込まれた人間の姿勢で、

 後者は、最後の瞬間まで何かを選んでいた人間の姿勢だ。


 希夢の視線は、影の肩の線を追う。

 白い痕に対して少しだけ斜め。

 入口にいる“誰か”と、光の起きる一点のあいだに、自分の体を置くような立ち方。


 その形に、胸の奥がゆっくり締まる。


「……間に入ってる」


 気づいた瞬間、言葉が先に出た。


「え?」


 雛乃が聞き返す。


 希夢は、入口、机の中央の少し上、壁際の影、その三点を順に見た。


「入口にいた誰かがいて、

 この人は、その人と光のあいだに立ってる」


 雛乃が、息を呑む。

 裕也は、机の縁に置いた指先へわずかに力を入れた。


 部屋の配置が、ようやくひとつの意志を持ち始める。


 観測していた。

 確認していた。

 そして最後には、誰かを見ない方へ押し返す声を残した。


 それは偶然その位置にいた人の姿ではない。

 そこに立つことを選んだ人の残り方だった。


 白いノイズが、今まででいちばん静かに走る。


 粒ではない。

 輪郭の内側へ薄く光が満ちるような走り方。


 その瞬間、希夢の頭の奥に、短い断片が落ちる。


 後ろ姿。

 白い揺れ。

 誰かを呼ぶ声。

 それから、振り返らないまま、少しだけ右手が上がる。


 制止の仕草。

 あるいは、庇うための仕草。


 見るな。近づくな。ここから先へ来るな。


 言葉としては“見ないで”しか残っていない。

 だが、その一言の奥にあった動きは、もっとはっきりしていた。


 希夢は、息を止めたまま呟く。


「守ったんだ」


 雛乃が、静かにこちらを見る。

 裕也も、低く問い返す。


「誰を」


 その問いは、鋭い。

 けれど今は必要だった。


 入口側にいた誰か。

 事故の瞬間を見てしまう位置にいた誰か。

 鹿島先輩に最も近い影が、最後に声を向けた相手。


 希夢は、すぐには答えられなかった。


 その“誰か”の輪郭はまだ見えない。

 自分なのか。

 雛乃なのか。

 裕也なのか。

 それとも、そのどれでもない別の誰かなのか。


 だが、名前よりも先に分かることがある。


「……見る側にいた誰か」


 ようやく出た言葉は、それだった。


「光を見ちゃう位置にいた人。

 たぶん、先輩はその人を止めた」


 雛乃が、ノートの上の文字へ目を落とす。

 声の先は入口側。

 拒絶ではなく保護に近い。


 さっき書いた記録が、今になってさらに意味を持ち始めている。


「だから、振り返らなかったんですね」


 雛乃の声は、ひどく静かだった。


「振り返ったら、

 その人の方を見ちゃうから」


 その一言で、希夢の中にあった最後の違和感が、音もなく揃う。


 そうだ。


 振り返らなかったのは、余裕がなかったからではない。

 最後まで光の方を見ていたかったからでも、事故の中心を確認し続けたかったからでもない。


 入口側にいた誰かと目を合わせないためだ。


 目を合わせれば、その人は止まれない。

 見てしまう。

 近づいてしまう。

 あるいは、助けようとして巻き込まれる。


 だから、振り返らない。

 声だけで押し返す。

 自分は光の方を見たまま、最後までそこに立つ。


 その姿勢が、壁際の影には確かに残っていた。


 裕也が、長く息を吐く。


「……最悪だな」


 その声には、怒りも、恐れも、少しだけ含まれていた。


「そこまでして止めたのに、

 結局、全部残ってる」


 壁の白い痕。

 床の線。

 机の空白。

 引き出しの断片。

 後ろ姿の残り方。

 そして、“見ないで”という言葉。


 たしかに、完全には消えなかった。

 封じたはずの部屋の中で、断片だけが何年も薄く残り続けてきた。


 希夢は、ノートを開く。


 いま書かなければ、この理解はまた感覚へ沈んでしまう。

 そう分かった。


 ペン先を紙へ置く。


 振り返らなかった理由=入口側の誰かを見ないため。

 声は保護。

 影は、光と他者のあいだに立っていた。


 そこまで書いて、希夢の手が止まる。


 最後の一行が、まだ書けない。


 その“誰か”は誰だったのか。

 なぜこの部屋だけが、こんなふうに封じられていたのか。

 そこだけは、まだ断片のままだ。


 白いノイズが、最後に一度だけ走る。


 今度は強くない。

 むしろ、遠ざかる波のように静かだった。


 希夢は、壁際の影をもう一度だけ見る。


 後ろ姿は、相変わらず振り返らない。

 だが、その見え方はもう変わってしまっていた。


 ただ消えかけた残滓ではない。

 ここにいた誰かの最後の選択が、

 残り方だけになってもなお、姿勢として残っている影だった。


 雛乃が、小さく言う。


「優しい、ですね」


 その言葉に、希夢はすぐには頷かなかった。

 優しいだけでは足りない。

 痛くて、遅くて、取り返しがつかない。

 それでも、その優しさの形だけは確かにここにあった。


「……うん」


 やがて、希夢はそう答えた。


 その声は、自分でも驚くほど静かだった。


 壁際の影は、もう何も言わない。

 “見ないで”という残響も、いまは薄く沈んでいる。


 けれど三人とも、分かっていた。


 この部屋が封じられていた理由は、

 単に事故の跡を隠すためではない。


 最後の瞬間に誰かを守ろうとした形そのものが、

 ここに残ってしまったからだ。

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