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光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
閉ざされた光の奥で
23/56

観測事故の痕跡

 引き出しの中から見つかった断片は、部屋の空気をさらに薄くした。


 ノートの上に置かれた小さな紙片。

 途中で切れた数字。

 罫線。

 そして、最後まで残りきれなかった 「……ないで」 という言葉。


 それは、強い証拠ではない。

 けれど、この部屋がただ古いだけではなく、途中で途切れた何かを抱えたまま閉じられていたことだけは、もう十分すぎるほど伝えていた。


 希夢は、紙片から視線を外した。


 見続けると、そこへ意味を与えすぎてしまう。

 今はまだ、断片として置いておいた方がいい。

 そう判断して、代わりに机の足元へ目を落とす。


 床は、白っぽい灰色をしていた。

 材質は古いビニル床のはずだ。

 長いあいだ人が歩いていなかったのなら、もっとムラのある埃か、湿気の染みが残っていてもおかしくない。

 だがここでも、やはり時間は均されている。


 希夢は、机の脚の近くで視線を止めた。


「……ここ」


 小さく呟く。


 床の一角に、ごく薄い変色がある。


 焦げ跡、と呼ぶには弱すぎる。

 丸く黒く焼けた跡ではない。

 煙草の火が落ちたような点でもない。

 ただ、床の表面がほんの少しだけ、白を失っている。


 雛乃が、すぐに隣へ来る。


「どこですか」


 希夢は、足元を指した。


 机の右前脚から少し外れた位置。

 長さにして数十センチほどの細い筋。

 直線ではない。

 けれど自然な汚れ方よりは、明らかに方向を持っている。


 裕也も、少し屈んで床を見る。


「……傷?」


「ううん」


 雛乃が、先に首を振る。


「削れた感じじゃないです」


 たしかに、表面の材質は残っている。

 引っかいたような段差もない。

 ただ、色だけが少し沈んでいる。


 希夢は、その変色を目でたどる。


 細い。

 しかし、途中で急に途切れない。

 床の上をなぞるように、弱く揺れながら続いている。


 その見え方に、胸の奥が静かにざわついた。


 白いノイズが、頭の奥でひとつ走る。


 今度は粒ではない。

 もっと細く、もっと線に近い。


 壁際で一瞬だけ見えた、あの黒い線。

 それと、床の変色の形が嫌なほど近かった。


「……線だ」


 希夢は、無意識にそう言っていた。


「線?」


 裕也が聞き返す。


「うん。

 点じゃなくて、

 何かがここを通ったみたいな」


 雛乃は、床を見たまま言う。


「焦げ、というより……

 光が強すぎて、色だけ抜けた感じにも見えます」


 その表現に、三人ともすぐには何も言わなかった。


 光で焼ける。

 ただ熱で焦がすのではなく、白さだけを剥がすような強い光。

 それは、第五章の最後に映像の中で見た“光へ還るように溶ける影”と、どこか同じ方向を向いている。


 裕也が、低く言う。


「でも、黒いな」


「うん」


 希夢は頷く。


「白が抜けたあとに、

 下の色だけが残った感じ」


 その言い方は、自分でも妙にしっくりきた。


 普通の焦げなら、表面は荒れる。

 溶けるか、縮れるか、あるいは煤が残る。

 だが、この床にはそういう乱れがない。

 ただ、光の層だけが一度剥がされて、その下のくすんだ色が静かに露出しているみたいだった。


 希夢は、さらに少しだけ身を屈める。


 床の変色の終点近く。

 そこだけ、ほんのわずかに濃い。


 何かが止まった跡。

 あるいは、一度だけ強く触れた点。


 白いノイズがまた走る。


 今度は痛みに近い。

 まだ刺さらない。

 だが、頭の奥で何かが開きかけている。


 希夢は、呼吸をゆっくり整えた。


 見すぎるな。

 決めつけるな。

 でも、見逃すな。


 この部屋では、その三つを同時に守らなければならない。


「机の下に集まってる」


 雛乃が、小さく言う。


 床の筋は、部屋の中央から始まっているわけではない。

 むしろ逆で、机の足元付近に細く残り、そこから少し外へ逃げるように伸びている。


 裕也が、机の中央の空白を見る。


「上に置かれてた何かと、

 関係あるな」


 その言葉で、机の四角い空白と床の細い変色が、初めてひとつの場として結びつく。


 机の上に何かがあった。

 それは見られていた。

 あるいは、観測されていた。

 そして、その何かに対応するように、床には微かな異常が残っている。


 希夢は、引き出しから見つかった紙片を思い出す。


 途中で切れた数字。

 ……ないで。


 壁の白い痕。

 机の上の空白。

 床に残る細い焦げのような線。


 全部が、まだ完全には繋がらない。

 けれど、もう偶然にばらけてもいない。


「事故、だったんだろうな」


 裕也の声は低かった。


 確認でも、断定でもない。

 ただ、この部屋で初めて自然に落ちた言葉だった。


 雛乃は、ゆっくり頷く。


「大きく壊れた事故、じゃなくて」


 少し考えてから続ける。


「形だけを残して、

 中身が抜けたみたいな事故」


 その表現に、希夢の背筋がわずかに冷える。


 まさに、この部屋全体がそうだった。

 扉。

 空気。

 壁。

 机。

 床。


 どこにも爆発や崩壊の痕はない。

 むしろ、壊れていないからこそ不気味なのだ。

 出来事だけが強く、物理的な破壊だけが異様に薄い。


 希夢は、床の変色から目を離した。


 離した瞬間、白いノイズは少しだけ引く。

 だが、完全には消えない。


 この部屋は、見たものに対してすぐに答えを渡さない。

 代わりに、痕跡だけを静かに増やしていく。


 壁の白い痕は、光の跡。

 机の空白は、何かが置かれていた不在の形。

 そして、床の微かな焦げは、その何かが“起きた”ことの最も物理に近い名残なのかもしれなかった。


 希夢は、胸の奥で静かに理解する。

 ここから先は、もう“封印されていた部屋”を見ているだけでは済まない。

 この部屋で何が起きたのか、その順序そのものへ近づき始めているのだと。


 床に残る微かな変色から目を離した、その直後だった。


 希夢の視界の奥で、白いノイズが今までよりもはっきりと形を持った。


 粒ではない。

 線だった。


 細く、鋭く、ひどく静かな線。

 それが一瞬だけ、床の変色の延長のように走る。


 希夢は息を止めた。


 現実の床は動いていない。

 白い壁も、机も、半開きの扉から差し込む外の光も、そのままだ。

 それなのに、頭の内側だけで、別の光が同じ場所をなぞっていく。


「……希夢?」


 雛乃の声がする。


 近い。

 ちゃんと近いはずなのに、その一音へ返るまでに、わずかな時間が要る。

 第四章の終わりに経験した“今の遅れ”が、ここでまた別の形になって戻ってきていた。


 希夢は、すぐに答えられなかった。


 床の細い痕。

 机の空白。

 壁の白い跡。


 その三つが、頭の中で同じ位置へ吸い寄せられていく。

 そして次の瞬間、白い線は、ただのノイズではなくなった。


 走った。


 今度は、はっきりそう見えた。


 机の上からではない。

 壁からでもない。

 部屋の中央、机の空白があるはずの高さと、床の変色が残る位置とのあいだを、

 何か強い白が、一度だけ貫いたみたいに。


 希夢は、思わず机の縁へ手をついた。


 痛みはまだ来ない。

 だが、あの白の通り道だけが、異様なくらい鮮明だった。


「……今」


 声が、かすれる。


 裕也がすぐに反応する。


「見えたのか」


 問い方は低く、短い。

 慌てていない。

 だが、その落ち着きの裏に、彼自身が何を聞かされるのか身構えているのが分かる。


 希夢は、視線を床から上げずに頷いた。


「光……」


 それ以上、すぐには言葉にならない。


 雛乃が、希夢の少し横へ回り込む。

 壁にも床にも触れない距離を保ったまま、同じ場所を見る。


「どこを通った?」


 希夢は、ゆっくりと指先で空中をなぞった。


 机の中央。

 そこから少し斜めに落ちて、床の微かな焦げへ。

 そして、壁の白い痕の方向へ一瞬だけ跳ねる。


 線ではない。

 直線でもない。

 だが、三つの痕跡をひとつの出来事として繋ぐ軌道だけは、はっきり感じられた。


 裕也が、小さく息を吐く。


「……光が、走ったってことか」


「うん」


 希夢は、ようやく答える。


「でも、稲妻みたいな感じじゃない」


「じゃあ?」


 雛乃の声は静かだった。


 希夢は、言葉を探す。

 強くて、速い。

 それなのに、乱暴ではない。

 破壊よりも、もっと別の方向へ向いている。


「……貫いた、って感じ」


 その一言で、部屋の空気がひとつ深く沈む。


 床の微かな焦げ。

 壁に残る白い痕。

 机の上の空白。

 それらが事故の痕跡だとすれば、“貫いた光”という表現はあまりにも自然すぎた。


 雛乃が、机を見る。


「机の上に何かあって」


 そこから、彼女は言葉を切る。

 続きを言えば、出来事の形が一気に決まってしまうからだろう。


 希夢の頭の奥で、白い線がもう一度だけ走った。


 今度は、線の周囲に粒が寄る。

 第五章の最後の一秒で、人影の周囲へノイズが吸い寄せられた時と同じ寄り方。

 集まり、ほどけ、また集まる。


 そしてその中心に、一瞬だけ黒いものが見えた。


 人影ではない。

 まだそこまで形を持たない。

 ただ、光の線の向こう側で、黒だけがわずかに遅れて残る。


 希夢は、息を詰める。


 光が先に走り、

 影が遅れて残る。


 その順序が、胸の奥に沈んだ瞬間、頭の内側で何かがひどく静かに軋んだ。


 ――ここで、何かが起きた。


 思考としてではなく、感覚として、その理解が落ちる。


「希夢」


 裕也の声が、今度は少し近い。


「まだ見えるか?」


 希夢は、目を閉じかけて、やめた。

 閉じればまた別の層が開く。

 今はまだ、この部屋の現実側で留まっていたかった。


「見える、っていうか……」


 喉の奥が少し乾く。


「起きた瞬間だけ、

 何回も一秒未満で戻ってくる感じ」


 雛乃が、息を潜める。


「フラッシュバック……」


 その言葉は、小さかった。

 けれど、三人とも否定しなかった。


 映像の逆行。

 夢の反復。

 白いノイズ。

 そして今、この部屋そのものが、起きた瞬間だけを何度も希夢の中へ押し返してくる。


 裕也が、机から少し距離を取る。


「……外に出るか?」


 それは逃げではなく、確認だった。

 今ここで止めるなら止める。

 そのための現実的な提案。


 希夢は、すぐには答えなかった。


 出れば、この光は弱まるかもしれない。

 だが同時に、ここでしか見えない順序もある。

 それを手放していいのかどうか、自分でもまだ分からない。


 白い線は、今はもう走っていない。

 代わりに、床の微かな焦げと壁の白い痕が、静止したまま確かにそこにある。

 部屋そのものは何も語らない。

 語っていないからこそ、希夢の内側にだけ反復が残る。


「……もう少しだけ」


 希夢は、ゆっくり言った。


 雛乃が、少しだけ目を見開く。

 裕也は、何も言わない。

 ただ、その判断を受け止めた。


「今なら、まだ崩れない」


 それは希望ではなく、現在の状態を正確に言っただけだった。


 希夢は、机の空白から床の変色、そして壁の白い痕へ、もう一度視線を滑らせる。


 順序がある。

 まだ完全ではない。

 だが、事故の痕跡はもうバラバラではなかった。


 この部屋で、何か強い白が走った。

 机の上にあったものを貫き、床に線を残し、壁に白い痕を焼きつけ、

 その後に、黒い残り方だけが遅れて沈んだ。


 そう考えた瞬間、希夢の背中に、ひどく静かな寒さが走る。


 これはもう“感じ”ではない。

 少なくとも、この部屋の内部では、出来事が順序を持ち始めている。


 白い光が走った――その感覚だけが、まだ希夢の内側に残っていた。


 現実の部屋は静止している。

 机も、壁も、床も、何ひとつ動いていない。

 それなのに、希夢の視界の奥では、さっき見た順序だけが、何度もごく短く反復されていた。


 机の空白。

 床の細い変色。

 壁の白い痕。


 その三点を結ぶみたいに、強い白が一度だけ走る。

 そして、そのあとにだけ、黒いものが遅れて残る。


 希夢は、壁の白い痕を見つめた。


 さっき一瞬だけ見えた“黒い線”は、まだそこにあるわけではない。

 見ようとすると消える。

 だが、見失ったと思った瞬間に、視界の端でまた細く立ち上がる。


「……線じゃないのかも」


 希夢が、小さく言う。


 雛乃が、すぐに反応する。


「どういう意味?」


 希夢は、言葉を探しながら、白い痕の外縁を目でたどる。


「最初は線に見えた。

 でも……」


 そこで一度、息を整える。


「線っていうより、

 形になる前の輪郭みたいな」


 裕也が、少しだけ眉を寄せた。


「人影に近いってことか」


 その言葉に、希夢はすぐには頷かなかった。

 頷けば、一気に意味が固まりすぎる。


 だが、否定もしきれない。


「まだ、そこまでじゃない」


 希夢は静かに言う。


「でも、ただの傷や染みじゃない」


 雛乃は、壁から少し距離を取って見た。

 近づいた時には分からなかったものが、半歩引いた位置からだと逆にはっきりすることがある。

 この部屋は、ずっとそうだった。


「……肩、みたい」


 彼女の声は、ほとんど囁きだった。


 希夢の胸の奥が、静かに硬くなる。


 白い痕の右下。

 その少し外れた位置に、たしかに“落ち込み”のような暗さがある。

 ただの陰影と言えばそう見える。

 けれど、見方を少し変えると、それは人の肩線が光の中へ沈んでいく直前の輪郭にも見えた。


 裕也は、壁と床のあいだを交互に見る。


「……光が先に走って、

 そのあとに影が残るって言ってたよな」


「うん」


 希夢は頷く。


「じゃあ、これ」


 裕也の声は低い。


「影そのものじゃなくて、

 残り方だけがここに焼きついたんじゃないか」


 その言い方に、部屋の空気が一段深く沈む。


 影が残ったのではない。

 人がいた証拠が残ったのでもない。

 もっと曖昧で、もっと厄介なもの。


 “そこにいたものが、どう消えたか”だけが残っている。


 希夢は、その理解に胸の奥を静かに押されるのを感じた。


 白いノイズが、今度は強く走った。


 粒が寄る。

 線になる。

 そして一瞬だけ、黒い輪郭が、壁からではなく希夢の頭の奥で立ち上がる。


 後ろ姿。


 細くまっすぐな背中。

 白い光の中で、形を保とうとして保ちきれない肩。

 そして、輪郭だけがほどけていく前の、あの静かな立ち方。


 希夢は、思わず壁から半歩下がった。


「希夢」


 雛乃の声が近い。


「今、見えた?」


 問いかけは慎重だった。

 答えが怖いのではない。

 ここから先は、見えたかどうかより、何として見えたかが重くなると知っている声だった。


 希夢は、すぐには答えられなかった。


 黒い線。

 肩のような落ち込み。

 後ろ姿に近い輪郭。


 それらはまだ、ひとつの“人影”にはなりきっていない。

 だが、もう単なる抽象でもいられない場所まで来ていた。


「……近づいてる」


 ようやく出た言葉は、それだった。


「何に?」


 裕也が聞く。


 希夢は、白い痕を見たまま答える。


「人の形に」


 誰も、すぐには何も言わなかった。


 部屋は静かだ。

 外の光は細く、半開きの扉からまだこちら側へ繋がっている。

 それでもこの瞬間、三人のあいだで共有されたものは、第五章までのどの一致よりも重かった。


 夢の中で遠ざかっていった“誰か”。

 映像の最後の一秒で、光へ溶けていった影。

 観測ログの逆行のなかで、粒の中心へ一瞬だけ寄っていた暗さ。

 そして、この部屋の壁に残る、黒い線のような輪郭。


 それらがすべて、まだ断定できないまま、同じ方向へ揃い始めている。


 雛乃が、静かに言う。


「顔は、まだないですね」


「うん」


 希夢は頷く。


「でも、

 いなくなった人の残り方には、かなり近い」


 その一言で、裕也の表情がわずかに変わる。

 否定ではない。

 ただ、現実確認役として最後に踏みとどまっていた線を、少しだけ越えざるを得なくなった顔だった。


「……先輩、かもな」


 裕也の声は低かった。

 断定ではない。

 それでも、“かも”の位置が今までとは違う。


 希夢は目を閉じなかった。

 閉じれば、もっと鮮明な断片が来る。

 それが分かっていた。


 だから、現実の壁を見続けたまま、ゆっくり息を吐く。


「まだ、そう決めない」


 言葉は自分のためでもあった。

 ここで名前を固定すれば、次に来るものは“断片”では済まなくなる。


 雛乃が、小さく頷く。


「うん。

 でも、もう線じゃない」


 その言い方は正しかった。


 黒い線の正体は、まだ完全には見えない。

 だが、輪郭はもう抽象ではない。

 この部屋で何かが起きたとき、

 そこには光だけでなく、人の形に近いものが確かに関わっていた。


 希夢は、ノートへ短く書き足した。


 黒い線は、人影の前段階に近い。

 壁の白い痕に、残り方だけが定着している。


 書いた瞬間、白いノイズはほんの少しだけ静かになった。

 消えない。

 だが、言葉へ逃がすことで、形を持たないまま溢れ続ける流れだけは弱まる。


 この部屋では、何も完全には残らない。

 それでも、残りきれなかった断片同士を並べることで、ようやく“起きたことの輪郭”だけが浮かび上がってくる。


 そしてその輪郭は、もうただの事故の跡ではなかった。

 誰かがそこにいて、光の中でうまく消えきれなかった痕跡だった。


 壁に残る白い痕。

 机の中央の空白。

 床に走る微かな焦げのような線。


 三人は、それぞれ別のものとして見ていたはずだった。

 けれど、黒い線が人の輪郭の前段階に近づいた瞬間、それらは急にばらばらではいられなくなった。


 希夢は、ノートを持つ手に少しだけ力を込める。

 紙の重さが、いまの自分の位置をつなぎ止める。

 それでも頭の奥では、白いノイズがまだ静かに息をしていた。


 粒が寄る。

 ほどける。

 また寄る。


 その揺れが、もう単なる前兆ではなく、何かの順序を押し出そうとしているのが分かる。


「……たぶん」


 希夢は、壁を見たまま言った。


「最初に、机の上で何かが起きた」


 雛乃も裕也も、すぐには口を挟まない。

 それは仮説だ。

 だが、この部屋では仮説の形を取ったものの方が、かえって現実に近いことがある。


 希夢は、机の中央に残る四角い空白を見た。


「何かが置かれてた。

 見てたのか、測ってたのかは分からない。

 でも、そこが最初」


 白いノイズが、今度は机の上で一度だけ強く寄る。


 その瞬間、希夢の視界の奥に、短い像が走った。


 白い机。

 いや、今見ている古びた机ではない。

 もっと新しい。

 表面にまだ均一な艶が残っていて、その中央に四角い機材のようなものが置かれている。


 輪郭までは見えない。

 モニターか、端末か、観測用の箱か。

 ただ、**“ここに何かがあった”ではなく、“ここで何かを見ていた”**という感覚だけが鮮明だった。


 希夢は、小さく息を呑む。


「……見てた」


「何を?」


 裕也が低く聞く。


 希夢は、ゆっくり首を振った。


「そこまでは分からない。

 でも、ただ置いてただけじゃない」


 雛乃が、机の斜めの椅子を見る。


「だから椅子が、正面じゃなかったんですね」


 その一言で、部屋の配置が少しだけ意味を持つ。

 まっすぐ向き合うのではなく、少し横から覗き込むような姿勢。

 誰かがそこに座って、画面か、光か、何かの変化を見ていた。


 希夢の視線は、机から床へ落ちる。


 微かな焦げのような線。

 白を失った細い痕。


「それで……走った」


 今度は、自分の言葉に自分で確信があった。


「光が」


 白いノイズが、頭の奥で一気にまとまる。


 今度は反復ではない。

 ごく短い。

 けれど、今までで一番はっきりしたフラッシュだった。


 机の中央。

 そこから立ち上がる白。

 眩しいのではない。

 むしろ、密度だけが異様に高い。


 次の瞬間、それはまっすぐではなく、少しだけ斜めに落ちる。

 床へ。

 そして壁へ。


 希夢は、思わず目を細める。

 痛みが来る。

 だが、まだ耐えられる。


「希夢」


 雛乃の声が近い。


「平気?」


「……まだ」


 希夢は答える。


 まだ、だ。

 崩れる直前ではない。

 むしろ今は、崩れる代わりに順序が見えている。


「机の上で起きて、

 下に落ちて、

 壁に抜けた」


 裕也が、その言葉を繰り返すように床と壁を見る。


「貫通、か」


「うん」


 希夢は頷く。


「でも、物を壊す感じじゃない」


 それが一番不自然だった。

 普通の事故なら、痕跡はもっと荒れる。

 燃えるか、砕けるか、焦げるか、散るか。

 だがこの部屋では、破壊だけが薄い。


 光だけが強く、

 物理的な壊れ方だけが妙に静かだ。


「形だけ残して、

 中身が抜けたみたいな」


 雛乃が、第五章の続きのように言う。


 その言い方に、希夢は強く頷いた。


 そうだ。

 この部屋のすべては、その方向を向いている。


 机には空白だけが残った。

 床には線だけが残った。

 壁には白い痕だけが残った。

 そして、人影に近い黒い輪郭だけが、形になりきらないまま残った。


「……人は」


 裕也が、言葉を選ぶように言う。


「どこにいた?」


 その問いが落ちた瞬間、部屋の静けさがまた一段深くなる。


 希夢は、壁を見る。

 白い痕の少し手前。

 床の線の終点に近い場所。

 そこに、黒い線のようなものが一瞬だけ立ち上がった位置。


 白いノイズが、今度は痛みに近い密度で走る。


 粒が寄る。

 黒い輪郭が滲む。

 後ろ姿。

 肩。

 振り返る前の、あの静かな立ち方。


 希夢の喉が強く乾く。


「……壁際」


 声が、少しかすれる。


「机の正面じゃない。

 少し外れた位置」


 雛乃が、はっとしたように息を呑む。


「見てた側じゃない」


「うん」


 希夢は頷く。


「たぶん、

 見られてた側でもない」


 その言葉は、自分でもまだ意味を掴みきれていなかった。

 だが直感としては強かった。


 誰かが機材の前にいて、

 別の誰かが壁際にいた。

 あるいは、同じ人物がその位置にずれたのかもしれない。

 そこまではまだ見えない。


 それでも、黒い輪郭がいた場所だけは、白い痕と床の線のあいだで異様に正確だった。


「……二段階、あるのかも」


 雛乃が、静かに言う。


「机の上で起きたことと、

 壁際で残ったこと」


 裕也が、低く唸るように息を吐く。


「観測事故、っていうより」


 少し間を置く。


「観測してたものが、

 人のいる位置まで崩れた感じだな」


 その表現で、順序はさらに明瞭になる。


 観測。

 机の上。

 白い光の走行。

 床への線。

 壁への白い痕。

 そして、遅れて残る人の輪郭に近い黒。


 希夢は、ノートを開いた。


 いま書かなければ、この順序はまた断片へ戻る。

 そう分かったからだ。


 ペン先を紙へ置く。


 机の上に機材。

 光が走る。

 床へ線が残る。

 壁に白い痕。

 遅れて黒い輪郭が残る。


 そこまで書いて、希夢の手が止まる。


 最後の一行だけが、まだ確定しきらない。


 遅れて残る黒い輪郭。

 それは、消えた人の痕なのか。

 光の反動なのか。

 それとも、そこに“いた”誰かの残滓なのか。


 白いノイズが、最後にもう一度だけ走る。


 そして、今までで一番短く、鋭く、はっきりした像が落ちた。


 後ろ姿。

 黒髪。

 肩。

 そして、振り返らないまま、光の方へほどけていく気配。


 希夢は、息を止めたままその像を受け取る。


 長くは続かない。

 だが、今までと違って、それはもう“形になる前”ではなかった。


「……先輩」


 声になったのは、ほとんど無意識だった。


 部屋の空気が、静かに凍る。


 雛乃は、何も言わない。

 裕也も、すぐには否定しない。


 その沈黙こそが、いまこの部屋で得られたものの重さだった。


 まだ断定ではない。

 まだ証明でもない。

 けれど、事故の順序が揃ったその先で、

 黒い輪郭は、もうただの線ではいられなくなっていた。



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