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光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
閉ざされた光の奥で
22/56

封印されていた部屋

 白い扉の前で、三人はしばらく動かなかった。


 廊下の奥は静かだ。

 半開きの入口から届く外の光も、ここまではもう弱い。

 それなのに、この扉の前だけは暗くない。

 明るいわけでもない。

 ただ、白さだけが先にある。


 希夢は、もう一度だけ扉の表面を見る。


 傷はある。

 細い擦れも、古い塗装の浮きもある。

 だが、それらは「使われてきた痕跡」に見えない。

 もっと、別のものだった。


 閉じることに使われた痕跡。


 誰かが何度も出入りした扉ではなく、

 開けないためにそこに在り続けた扉。


 雛乃が、小さく息を整える。


「……開けますか」


 声は揺れていなかった。

 けれど、その平静さは、緊張を薄く均したあとの平静だった。


 裕也は、扉の脇へ少しだけ位置をずらす。

 逃げるためではない。

 中が見える角度と、すぐに動ける距離を確保するための立ち位置だった。


「希夢」


 短い呼びかけ。

 無理なら止める、という意味がその一音に入っている。


 希夢は、頷いた。


 扉に手をかける。


 さっき廊下の入口に触れたときと同じように、温度は薄かった。

 冷たさとして刺さらない。

 熱を奪う感じもしない。

 ただ、触れた側の感覚だけを平らにしていくような、不自然な金属の感触。


 白いノイズが、頭の奥でひとつ走る。


 短い。

 だが、今度は散らずに留まった。

 扉の向こうに、まだ見えていない白がある。

 その予感だけが、粒の形で頭の内側に残る。


 希夢は、力を入れた。


 扉は、思っていたより軽く動いた。


 錆びついていない。

 重く閉じられていたのに、開くこと自体は拒まない。

 それが、かえって異様だった。

 封じられていたのではなく、開ける側のために静かに待っていたみたいに見えるからだ。


 細い隙間が生まれる。


 先に来たのは、空気だった。


 匂いがない。

 さっき廊下で感じた“何も沈殿していない空気”が、さらに濃く、いや――薄くなる。

 古い部屋なら本来あるはずの紙の匂い、機材の油、金属の熱、薬品の残香。

 そのどれもがない。


 代わりに、わずかな乾きだけがある。


 乾いているのに、時間の古さがない。

 長く閉じられていた部屋の空気ではなく、

 長く変わらないように保たれていた部屋の空気。


 希夢は、扉をさらに開いた。


 部屋の内部が、ゆっくり見えてくる。


 狭い。

 だが、ただの保管室ではない。


 中央に小さな机。

 壁際に古いラック。

 折りたたみ椅子が二脚、壁に寄せられている。

 天井は低く、窓はない。

 照明は落ちているはずなのに、部屋そのものが、どこか淡く白い。


 それは光っているのではない。

 ただ、暗さの質が外と違う。


 廊下の暗がりが「光が足りない暗さ」だとすれば、

 この部屋の白さは「光の抜けたあとの白さ」に近かった。


「……なに、これ」


 裕也の声が、背後で低く落ちる。


 希夢は答えなかった。

 答えようがなかった。


 部屋は綺麗だった。

 綺麗すぎた。


 机の上には、薄い埃の線さえ見えない。

 ラックに置かれたファイルボックスも、黄ばみはあるのに、崩れた感じがしない。

 床は均一に白っぽく、汚れていないというより、汚れが“部屋の情報”として定着していないように見える。


 雛乃が、扉の外から中を見つめたまま言う。


「……ここだけ、別ですね」


 その言葉で、希夢ははっきり理解する。


 そうだ。

 この旧観測棟の中でも、ここはさらに別の層にある。

 入口の廊下で感じた違和感が、ここでは一段はっきりしている。

 時間の残り方が薄いだけではない。

 何かを残さないための静けさが、部屋全体に敷かれている。


 希夢は、一歩だけ中へ入った。


 足音が、やはり浅い。

 床は硬いはずなのに、踏んだ感触が奥へ広がらない。

 その代わり、足裏から脛へ、細い振動だけがまっすぐ上がってくる。


 白いノイズが、また走る。


 今度は少し強い。

 視界の端ではなく、頭の奥の中央に近い場所。

 粒が寄る。

 白い膜のように広がる。

 だが、疼痛にはまだならない。


 机を見る。


 何も置かれていない。

 少なくとも、一見した限りでは。


 だが、何もない机には見えなかった。

 それは、誰かがきれいに片づけた机でもなければ、長く使われずに放置された机でもない。


 何かがあった形だけが、ぎりぎり抜けきっていない机だった。


 中央のわずかな色の違い。

 光の吸い方の薄い段差。

 何かが置かれていた輪郭だけが、白さの中でほとんど見えなくなりながら残っている。


「……置いてあった」


 希夢は、思わず口にした。


「何が?」


 裕也がすぐに問う。


 希夢は、机を見たまま首を振る。


「分からない。

 でも、何もなかった机じゃない」


 雛乃が、静かに一歩だけ近づく。

 それでも、机には触れない。

 彼女の慎重さは、いまや癖ではなく、ここまで来るためのルールになっていた。


「跡、ありますね」


 小さな声。


「でも……

 跡だけが薄すぎる」


 その表現が、この部屋にはよく合っていた。


 すべてがある。

 そして、すべてが薄い。

 輪郭だけは残っているのに、時間も汚れも重みも、その上に積もっていない。


 裕也が、ラックの方を見る。


「ファイル、あるな」


 そこには古いボックスが三つ並んでいた。

 ラベルは色褪せている。

 文字は消えかけている。

 だが、並びだけが整いすぎていた。


 乱れていない。

 崩れていない。

 使われていないはずなのに、**“そのままにしておくための整い方”**をしている。


 希夢は、そこで初めて部屋全体を見渡した。


 狭い空間。

 白い机。

 整いすぎたラック。

 薄い空気。

 時間の痕跡だけが抜け落ちた床。


 そして、部屋の奥の壁。


 そこだけ、白さが少し違っていた。


 光の反射ではない。

 塗装の差でもない。

 もっと局所的で、もっと静かな違和感。


 まるで、何か強い白が一度だけそこに触れて、

 その痕だけが時間を持たずに残ったみたいな――


 白いノイズが、今度は強く走った。


 希夢は、無意識に息を止める。


 まだ、見えてはいない。

 だが、この部屋はもう十分に語っている。


 ここは封じられていた。

 隠されていた。

 しかし、完全には消されていない。


 残りすぎないように保ちながら、

 それでも“何かがあった”ことだけは消しきれなかった部屋だ。


Thought for 25s


了解しました。

第六章:閉ざされた光の奥で

Part B-2:壁に残る白い痕 を進めます。


第六章

閉ざされた光の奥で

Part B:封印されていた部屋

B-2:壁に残る白い痕


 部屋の奥の壁だけが、わずかに違って見えた。


 希夢は、その違和感から目を逸らせなかった。

 白い壁。

 塗装は古い。

 細かな擦れも、目を凝らせば確かにある。

 なのに、その一角だけ、古び方の質が違う。


 汚れていないのではない。

 新しいわけでもない。

 ただ、そこだけが、時間の上をうまく滑ってきたみたいに見える。


「……あそこ」


 希夢が小さく言うと、雛乃と裕也も同じ方を向いた。


 壁の中央より少し右。

 人の肩の高さほどの位置に、淡い白の差がある。

 近くで見れば塗装ムラとも言えるかもしれない。

 けれど、部屋全体の異様な均一さの中では、そのムラだけが逆に輪郭を持っていた。


 雛乃が、息を潜めるように言う。


「……光の跡、みたい」


 その表現に、裕也はすぐには返事をしなかった。

 否定したいのではない。

 ただ、その言葉を置くことの重さを確かめている顔だった。


 希夢は、ゆっくりと壁へ近づく。


 白いノイズが、また頭の奥で走る。

 今度は粒ではなく、薄い帯のようだった。

 視界を横切るのではなく、正面の壁に向かって静かに引かれる線。

 それが何を意味するのかは分からない。

 だが、自分の内側の反応が、あの白い痕へまっすぐ寄っていくのが分かる。


 壁の前に立つと、違和感はさらに明確になった。


 白い痕は、ただの円でも、四角でもない。

 輪郭がはっきりしない。

 けれど、完全に無秩序でもない。


 中心が少しだけ濃く、外側へ向かうほど白さが薄くほどけている。

 まるで、強い光が一度だけそこに触れて、

 壁の表面から時間だけを抜き取っていったみたいだった。


 希夢は、手を伸ばしかけて止める。


 まだ触れない。

 この部屋に入ってから、それが何度目の“止まる”なのか、自分でも分からなかった。

 けれど、止まるたびに、この場所の性質が少しずつ見えてくる気がした。


「焼けた跡、じゃないな」


 裕也が、少し後ろから言う。


 その声は低いが、前よりも落ち着いていた。

 現実確認役としての彼の視線が、この部屋ではむしろ頼りになっている。


「焦げもないし、

 熱で塗装が浮いた感じでもない」


 雛乃が、小さく頷く。


「でも、消した跡とも違うです」


 その一言が、部屋の静けさにぴたりとはまった。


 消した跡。

 掃除した跡。

 塗り直した跡。


 どれでもない。

 何かが“あった”ことを隠そうとした壁ではなく、

 何かが“起きた”あとに、その結果だけが壁へ残ってしまったような白さ。


 希夢は、目を細める。


 白い痕の中心には、細かなひびがある。

 けれど、そのひびだけが妙に浅い。

 周囲の壁の経年変化とは繋がっていない。

 そこだけ別の時間で乾いて、そのまま止まってしまったみたいだった。


「……形、見える?」


 雛乃が、慎重に聞く。


 希夢は、すぐには答えられなかった。


 形がある。

 だが、見ようとすると崩れる。

 これは、第五章で何度も味わった感覚に近い。

 夢の中の光の粒。

 映像の最後の一秒で、ゆっくりと溶けていく人影。

 見ようとすると形を失い、目を少し緩めると、逆に“配置”だけがはっきりする。


「……人、ではない」


 希夢は、ゆっくり言う。


「でも、

 何かがここに集まって、

 それからほどけた感じはある」


 裕也が、その言葉を繰り返すように壁を見る。


「集まって、ほどける……」


 それは、第四章と第五章を貫いてきた揺れ方と同じだった。

 ノイズの粒。

 光の呼吸。

 夢の中の“誰か”が消えていく感覚。


 ここで初めて、それらが単なる映像や夢ではなく、実際の場所の痕跡として立ち上がりかけている。


 雛乃が、一歩だけ近づく。


 それでも壁には触れない。

 彼女の慎重さは、いまやこの三人の共通のルールになっていた。


「白い、のに」


 雛乃が、ほとんど囁くように言う。


「明るくないですね」


 その言い方に、希夢ははっとした。


 そうだ。

 この痕は白い。

 なのに、光って見えない。

 むしろ逆だ。


 明るさが抜けたあとに残る白さ。


 夢の中の粒や、映像の最後の一秒にあった白い揺れとは、同じ“白”なのに質が違う。

 あちらは動いていた。

 こちらは、動いたあとが止まっている。


「残滓……」


 希夢は、無意識に呟いていた。


 雛乃が、すぐにその言葉を拾う。


「光の?」


「うん」


 希夢は頷く。


「たぶん、光そのものじゃない。

 その、

 光がここで起きたあとに残った層みたいな」


 裕也が、壁から視線を外さずに言う。


「事故の痕、ってことか」


 その言葉で、部屋の温度が一段だけ下がった気がした。


 事故。

 まだ誰も、そこまではっきり言葉にしていなかった。

 だが、旧観測棟まで来て、白い痕を見た今、それはもう自然に浮かぶ語だった。


 希夢の頭の奥で、白いノイズが今までより少し強く走る。


 粒が寄る。

 ほどける。

 そして一瞬だけ、壁の白い痕と同じ位置に、別の像が重なりかけた。


 人影ではない。

 もっと細い、黒い線。

 垂直に立つというより、壁際へ寄り添うみたいに揺れる影。


 希夢は、思わず息を詰めた。


 次の瞬間には消えていた。

 ただの視覚のいたずらかもしれない。

 光の差かもしれない。

 けれど、その一瞬の重なりは、あまりにも第五章までの断片と近かった。


「……どうした」


 裕也が問う。


 希夢は、すぐには答えられなかった。


 自分の中で起きたことを、まだ外へ出しきれない。

 出せば、また一段、先へ進んでしまう気がする。


「……一瞬、見えた」


 それでも、隠しきれずにそう言う。


「何が?」


 雛乃の声は小さい。


「黒い線、みたいなのが」


 部屋の静けさが、また少し変わる。

 誰も大きく反応しない。

 だが、その言葉がいまの空間に馴染みすぎていることが、逆に不気味だった。


 裕也は、壁の痕から目を離さないまま言う。


「人影じゃなくて?」


「うん。

 もっと細くて……

 形になる前の影みたいな」


 雛乃が、ゆっくりと息を吐く。


「光の跡に、

 まだ何か残ってるんですね」


 それは断定ではない。

 だが、この部屋に入ってから一番真実に近い言い方のように聞こえた。


 希夢は、壁から半歩だけ下がる。

 白い痕は、距離を取るとまた輪郭を失う。

 近づいた時だけ見えるものがある。

 離れた時にだけ分かる全体の薄さもある。


 この部屋は、見方を固定させない。

 視点を一つにした瞬間に、何かが逃げるようにできている。


 白い扉の向こう。

 異常な清潔さ。

 そして、壁に残る白い痕。


 希夢は、ようやくはっきり理解する。

 ここは記録が残された部屋ではない。

 記録が“残りきれなかった”部屋なのだ。


 だから、完全な証拠はない。

 だからこそ、光の跡や、薄すぎる白さや、形になる前の黒い線だけが、断片として沈んでいる。


 壁の白い痕から視線を外したあとも、希夢の中では、まだ細い黒い線の残像が消えきっていなかった。


 あれが本当に見えたものなのか、白い痕を見続けたことで生まれた錯覚なのか、今の段階では判断できない。

 けれど、この部屋では“判断できない”ことそのものが、すぐに不確かなものにはならなかった。

 むしろ逆だ。

 断定できないまま残るものの方が、この場所にはよく馴染んでいる。


 希夢は、壁からゆっくりと半歩退き、部屋の中央へ視線を戻した。


 小さな机。

 塗装の剥げた角。

 壁際へ寄せられたラック。

 折りたたみ椅子。

 どれも整理されている。

 整いすぎている、と言ってもいい。


 その中で、中央の机だけが、妙に目を引いた。


 何かが置かれていた。

 その感覚は、部屋へ入ってすぐからあった。

 ただ、それが“何だったか”よりも、“そこに何かがあった空白”の方が先にこちらへ来る。


 希夢は机へ近づいた。


 白いノイズは、今は静かだった。

 走らないわけではない。

 ただ、頭の奥のどこかで待機しているみたいに、薄く息を潜めている。


 机の表面は、古かった。

 木目は浅く、ところどころ塗装が擦れている。

 だが、その古さは部屋の他の部分と同じく、素直な時間の積み方をしていない。


「……ここ」


 希夢は、机の中央を見つめた。


 そこだけ、色が違う。


 濃いわけでも、薄いわけでもない。

 木が焼けた跡でも、水をこぼした輪染みでもない。

 ただ、机全体が時間の上を均一に滑ってきた中で、そこだけが時間から一度抜け落ちた形をしていた。


 雛乃が、希夢の横に並ぶ。


「四角、ですね」


 彼女の声は低かった。


 たしかに、完全な幾何学ではない。

 角は少し曖昧だし、輪郭も連続していない。

 けれど、自然にできる染みよりは明らかに“置かれていたものの形”に近い。


「薄いけど」


 希夢が言う。


「消えてない」


 裕也も、少し後ろから机を覗き込む。


「ノート……じゃないな」


「うん」


 雛乃が頷く。


「もっと硬いもの」


 希夢は、四角い空白の縁を目でなぞる。

 横幅はノートより少し広い。

 高さは薄い。

 だが、机の表面に残っているのは形だけではない。


 その空白の周囲だけ、木の光の吸い方が違っていた。


 何かを長く置いていれば、その下は日焼けしない。

 それだけなら、ありふれた跡だ。

 けれどここにあるのは、単なる日焼けの差ではなかった。


 机の上の時間だけが、そこを中心に一度よどんでいたような、不自然な静止の名残。


「……これ、いつ外されたんだろ」


 裕也の問いは、独り言に近かった。


 希夢は、すぐには答えられない。


 “いつ”という尺度を、この部屋はあまり素直に受け取らない。

 古いはずなのに、古さが積もらない。

 使われていないのに、放置の乱れがない。

 もし何かが外されたとしても、その“外された時”が、こちらの時間感覚のまま残っているとは限らない。


「最近、には見えない」


 希夢は、ゆっくり言う。


「でも、昔すぎる感じもしない」


 雛乃が、小さく息を吐く。


「時間の厚みが、分からないですね」


 その言い方が、この部屋にはよく似合った。


 机の上の空白は、長い年月の跡にも見えるし、つい最近までここにあったものの不在にも見える。

 どちらか一方へ決めきれない。

 それが、かえってこの空白を現実のものにしていた。


 希夢は、手を伸ばしかけて、また途中で止めた。


 この部屋に入ってから、何度も同じ動作を繰り返している。

 触れる直前で止まる。

 止まるたびに、見えなかったものの輪郭が少しだけ立ち上がる。


 机の空白に触れれば、何かが分かるかもしれない。

 だが同時に、分からなくてよかったものまで引いてしまう気がした。


「触らない方が、見えることもあるな」


 裕也が、低く言う。


 その声には、第五章までの拒絶とは少し違う落ち着きがあった。

 恐れているのではない。

 ただ、この場所では触れることが必ずしも前進ではないと、彼ももう理解している。


 雛乃は、机の横へ少しだけ回り込んだ。


「……椅子」


 彼女が見る先には、壁際へ寄せられた折りたたみ椅子が二脚ある。


 一脚は机に対してまっすぐ向かう位置にない。

 少し斜めだ。

 ただの置き方の乱れ、と言えばそう見えなくもない。

 けれどこの部屋の異様な整い方の中では、そのわずかな斜めだけがむしろ意味を持つ。


「誰か、ここに座ってたんですね」


 雛乃の声は静かだった。


 希夢は、椅子の角度を見た。

 机の中央の空白へ向いている。

 まっすぐではない。

 少し横から覗き込むような角度。


「作業、というより」


 希夢は言う。


「見てた感じ」


 その一言で、机の空白の意味が少しだけ変わる。


 何かを置いて、誰かがそれを正面から扱っていた。

 あるいは、正面からでは足りず、少し斜めに体を寄せて見ていた。

 その場の姿勢だけが、部屋の中にまだ薄く残っている。


 白いノイズが、頭の奥でまたひとつ走る。


 今度は短くない。

 机の空白を見た瞬間、四角い輪郭の内側へ白い粒が一度だけ集まりかけた。

 映像の最後の一秒で、影の周りへノイズが寄った時と同じ種類の寄り方だった。


 希夢は、思わず瞬きをする。


 消えた。

 だが、完全な錯覚として退いてはくれない。


「……どうした」


 裕也が聞く。


 希夢は、机の中央を見たまま答える。


「一瞬、白く寄った」


「白いノイズ?」


「うん」


 雛乃が、机から目を離さないまま小さく言う。


「ここが、起点だったのかもしれないですね」


 その言葉に、希夢の胸の奥が静かに沈む。


 起点。

 この机の空白が、ただ“何かを置いていた跡”ではなく、何かが始まった場所だとしたら。


 壁の白い痕。

 時間の積もらない床。

 残りすぎないように均された空気。

 それら全部が、急に一本の方向を持ち始める。


 裕也は、机の縁をじっと見つめたまま言う。


「ここ、記録を残した場所じゃないのかもな」


 希夢が、顔を上げる。


「どういう意味?」


「残すためじゃなくて」


 裕也は、空白の四角を指でなぞるように視線を動かす。


「消えきらなかったものが、ここに一回集まった感じ」


 その言い方は、あまりにもこの部屋に合っていた。


 記録装置が置かれていたのかもしれない。

 観測機材だったのかもしれない。

 モニターか、端末か、別の何かかもしれない。


 けれど今ここで強いのは、機械の形よりも、そこへ何かが集められ、そこから何かが抜け落ちていった痕跡の方だった。


 希夢は、机の空白を見つめ続ける。


 何もない。

 それなのに、ここは部屋のどこよりも“残っている”。


 空白なのではない。

 空白という形でしか残れなかった場所なのだ。


 その理解が、ようやく胸の中へ降りてきた時、希夢ははっきり感じた。

 この部屋の中心は、壁の白い痕ではない。

 あれは結果だ。

 光の跡だ。


 けれど、その前に何かがあった。

 何かが置かれ、見られ、扱われ、そして消えた。

 机の中央に残る四角い空白だけが、その順序をまだかろうじて保持している。


 机の中央に残る四角い空白を前にして、三人はしばらく動かなかった。


 何もない。

 それなのに、ここがこの部屋の中心だと分かる。

 壁の白い痕よりも、床の薄すぎる埃よりも、

 この机の上に残された“不在の形”の方が、ずっと強くこちらを見返してくる。


 希夢は、机の縁へ視線を落とした。


 古い木の机だ。

 塗装は擦れ、角は丸く減っている。

 それでも、中央の空白だけが妙に新しい。

 新しいというより、古くなる時間だけを与えられなかったみたいな、薄く止まった面だった。


「……引き出し、ある」


 雛乃が、小さく言う。


 机の右側。

 浅い引き出しがひとつだけついている。

 取っ手は金属製で、くすんではいるが錆びていない。

 ここまで見てきたものと同じだ。

 壊れていない。

 しかし、使われていた感じとも違う。


 裕也が、希夢を見る。


「開ける?」


 問い方は静かだった。

 もうこの部屋では、勢いよく何かをする人間はいない。


 希夢は、すぐには答えなかった。

 引き出しそのものより、そこへ手を伸ばす動作の方が重い。

 触れれば何かが出るかもしれない。

 だが、何も出なくても、それはそれでこの空白の意味を別の形に固定してしまう。


 白いノイズが、頭の奥でひとつだけ走る。


 短い。

 鋭くもない。

 ただ、引き出しの取っ手と、自分の指先の距離だけをはっきりさせるような走り方だった。


「……開ける」


 希夢は、そう言った。


 取っ手に触れる。


 金属はやはり温度が薄い。

 冷たいとも、ぬるいとも言えない。

 触れた側の皮膚だけが、わずかに現実から削られていくみたいな感触。


 ゆっくり引く。


 引き出しは、驚くほど軽く開いた。


 長く閉じられていたなら、もっと抵抗があっていい。

 木が膨張して噛み合い、少しは引っかかってもいい。

 それなのに、この引き出しは静かに動く。

 滑らか、ではない。

 開くことだけが、最初から予定されていたみたいな軽さだった。


 中には、何も入っていないように見えた。


 浅い空間。

 薄い埃。

 木の底板。


 それだけ。


 希夢は、一瞬だけ息を止める。

 机の上と同じだ。

 ここにも“何もない”がある。

 だが、その何もなさは、空ではなかった。


「……待って」


 雛乃が、少し身を乗り出す。


 引き出しの奥。

 右の隅。


 底板と側板の境目に、紙の端のようなものが引っかかっている。


 希夢は、目を細めた。


 白ではない。

 古い紙の黄ばみでもない。

 むしろ、光を失った薄い灰色に近い。


 裕也が、低く言う。


「破れてるな」


 希夢は、指先でそっとそれをつまんだ。


 紙は薄い。

 だが、普通のノートやコピー用紙より少し硬い。

 写真の台紙ほどではない。

 古い記録用紙か、ラベルの一部に近い質感だった。


 引き出しの隅から引き抜くと、それは掌に収まるほどの小さな断片だった。


 四角の端。

 真っ直ぐ切られたのではなく、無理に裂かれたような繊維の毛羽立ち。

 片面には、かすれた罫線。

 そして、その上に残る細い手書きの線。


「……文字?」


 雛乃の声が、少しだけ近くなる。


 希夢は、断片を光へ傾けた。

 外の夕方の光では弱い。

 部屋の中の白さに近づけると、逆に輪郭が薄くなる。


 裕也が、半歩だけ位置を変える。


「入口の光、使え」


 その声で、希夢は半開きの扉側へ少し向きを変えた。

 外から差し込む細い光が、紙片の表面を斜めになぞる。


 そこに、ようやく線が見えた。


 数字だった。

 完全ではない。

 先頭も末尾も切れている。

 ただ、いくつかの数値らしきものと、短い記号の並びだけが残っている。


「……観測ログ?」


 雛乃が、囁く。


 希夢はすぐには頷かなかった。

 罫線の幅は似ている。

 数字の並び方も、それらしく見える。

 だが、ここで似ているだけで決めるのは危うい。


「分からない。

 でも、メモじゃない」


 裕也が、断片の端を見る。


「印刷されたフォーマットの上に、手書きがあるな」


 希夢は、ゆっくり指をずらした。


 手書きの線は、数字だけではなかった。

 右端近くに、途中で切れた一語の痕跡がある。


 ……ないで


 そこだけ、インクの濃さが違った。

 急いで書いたみたいに筆圧が強い。

 だが、先頭が切れているせいで、言葉全体は読めない。


 白いノイズが、今までよりはっきり走る。


 粒が寄る。

 頭の奥の中央で、一瞬だけまとまる。


 ――見ないで。


 希夢は、息を詰めた。


 言葉として聞こえたわけではない。

 けれど、断片の上の「……ないで」を見た瞬間、第五章の終わりに内側へ残ったあの声と、ぴたりと同じ位置で重なった。


「希夢?」


 雛乃の声がする。


 近い。

 だが、今はそちらへすぐに戻れない。


「……読める?」


 裕也の問いは落ち着いていた。

 希夢が何に引っかかったのか、完全には分かっていない。

 それでも、今この紙片がただの記録の切れ端ではないことだけは感じている声だった。


 希夢は、断片から目を離さずに答える。


「全部は無理」


 喉が少し乾く。


「でも……

 最後、

 “ないで”って書いてある」


 雛乃が、小さく息を呑む。


 裕也の指先が、机の縁でわずかに止まる。


 見ないで。

 その言葉は、もう三人のあいだで偶然の断片ではいられなかった。


「……それ」


 雛乃の声が、少し震える。


「第五章の……」


「うん」


 希夢は、短く頷く。


 夢でも、映像でもない。

 今度は、紙だ。


 しかも、消えきれずに引き出しの隅へ残った、物理的な断片。

 そこに書かれているのが本当に同じ言葉かどうか、完全には証明できない。

 だが、この部屋の中で“……ないで”という形だけが残っていること自体が、あまりにも重かった。


 希夢は、紙片を裏返した。


 裏面には何もない。

 ただ、角の一部に薄い灰色の擦れがついている。

 何かの下敷きになっていたのか、あるいは急いで引き抜かれた時についた痕か。

 それも断定できない。


 けれど、ひとつだけはっきりしたことがある。


 この断片は、偶然ここへ滑り込んだのではない。

 机の空白と、引き出しの隅と、途中で切れた言葉。

 それらは全部、何かがここで中断されたことだけを静かに示している。


「……残りすぎないようにしてたのに」


 雛乃が、かすかに言う。


「これだけ、残っちゃった感じですね」


 その表現が、希夢には痛いほどよく分かった。


 この部屋は、痕跡を薄くしている。

 時間も、汚れも、使用の痕も、可能な限り均している。

 それでも、完全には消しきれなかったものがある。


 机の空白。

 壁の白い痕。

 そして、引き出しの隅に引っかかったこの紙片。


 裕也が、低く言う。


「メモじゃない。

 記録の一部だな」


 希夢は、ゆっくり頷く。


「うん。

 しかも、

 最後まで残る予定じゃなかった断片」


 白いノイズは、いまは静かだった。

 さっきの強い一致のあと、逆に引いたように薄くなっている。

 だが、それは消えたのではない。

 むしろ、何かひとつ見つかったことで、次の層へ潜ったみたいな静けさだった。


 希夢は、紙片をノートの上へそっと置いた。


 白いページの上に、灰色に近い断片が浮かぶ。

 その形は不完全で、意味も途切れている。

 けれど、だからこそ、この部屋の残り方にふさわしかった。


 すべては残らない。

 ただ、断ち切られた端だけが、あとから意味を持つ。

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