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光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
夢の底に残るもの
19/56

希夢の拒絶

 裕也の否定のあとに残った静けさは、思っていたより長く続いた。


 部室の中では、誰ももう鹿島先輩の名前を口にしなかった。

 雛乃の夢も、観測ログの揺れも、映像の端に現れた影も、すべて机の上に置かれたまま、誰にも触れられずにいる。

 それなのに、希夢の頭の中では、それらが勝手に近づき始めていた。


 白い光。

 揺れる粒。

 遠ざかる後ろ姿。

 画面の端に重なった影。

 雛乃の「近い感じがした」という言葉。


 それぞれはまだ別のもののはずなのに、少し目を離すと、同じ場所へ寄っていく。

 希夢は、その動きを見たくなかった。


 ノートを閉じる。

 ペンを机の中央から端へ寄せる。

 自分の手で物の位置を変えると、思考の位置まで少し動く気がした。

 だが、実際には変わらない。

 頭の中で起きていることは、机の上の整理では止まってくれない。


「……希夢?」


 雛乃の声がした。


 やわらかい。

 朝よりも、昼よりも、今はずっと慎重な声だった。

 その慎重さが、かえって希夢にはつらかった。

 気を遣われるほど、今の自分が揺れていることを認めなければならなくなるからだ。


「大丈夫」


 反射的に答える。

 答えたあとで、その言葉の硬さに自分で気づく。


 裕也が、何か言いかけてやめた。

 その沈黙さえも、希夢には見えてしまった。

 見えてしまう、ということが今はいちいち痛い。


 大丈夫。

 そう言ったのは、自分を守るためだった。

 雛乃でも裕也でもなく、自分自身をこれ以上近づけないための言葉。


 雛乃の夢は、雛乃の夢だ。

 映像に残った影は、記録媒体の中の異常だ。

 自分の頭に刺さったあの痛みは、ただの疲れか、連日の緊張のせいかもしれない。

 そうやって切り分けておけば、まだ持ちこたえられる。


 ――それを、ひとつにしちゃだめだ。


 その考えが、胸の奥でゆっくりと固まる。

 固まる、というより、凍るに近い。

 柔らかく考えれば、何もかもがつながってしまう。

 だから、硬く閉じるしかない。


 希夢は、窓の外を見た。

 夕方へ向かい始めた光が、校舎の壁を薄く染めている。

 明るさはまだ十分にある。

 なのに、部室の中だけが早く夜に近づいているようだった。


 白い光の粒が、ふと頭をよぎる。


 すぐに視線を逸らす。

 思い浮かべたのではない。

 勝手に出てきただけだ。

 そう言い聞かせる。


 だが、出てきたものは簡単には消えない。

 雛乃の夢の語りが、記憶の深いところに触れたままになっているのが分かる。

 触れたと認めた瞬間に、そこは“自分の記憶”になる。

 それだけは、まだ駄目だった。


「……違う」


 希夢は、小さく呟いた。


 独り言のつもりだった。

 けれど、静まり返った部室では、それは十分に他人へ届く声量だった。


 雛乃が顔を上げる。

 裕也も、こちらを見る。


「何が?」


 問いはまっすぐだった。

 希夢は、一瞬だけ息を詰める。


 何が違うのか。

 それを説明する言葉を持っていない。

 いや、持っていないのではなく、持ちたくないのだと、すぐに分かった。


「……分かんない」


 結局、そう答えるしかなかった。


「でも、違う」


 それは子どもじみた拒絶に近い。

 理屈ではない。

 けれど、今の希夢にとってはそれがもっとも正確な表現でもあった。


 雛乃は、すぐに言い返さない。

 ただ、希夢の顔を静かに見ている。

 慰めるでもなく、問い詰めるでもなく、今の拒絶の形をそのまま見守っている視線だった。


 裕也が、低い声で言う。


「つながってほしくない、ってこと?」


 その言い方は、驚くほど正しかった。

 希夢は、胸の奥を一度だけ強く押されたような気がした。


 つながってほしくない。


 夢と映像が。

 光の揺れと後ろ姿が。

 鹿島先輩という名前と、自分の頭の奥に刺さるあの痛みが。

 そして何より、そこに自分がいたかもしれないという可能性が。


「……そうかも」


 やっとそれだけ言う。


 言ってしまった瞬間、少しだけ楽になるかと思った。

 だが実際には違った。

 言葉になったことで、拒絶の輪郭がかえってはっきりしただけだった。


 希夢は、自分の指先を見下ろす。

 わずかに強く握られている。

 ノートの角を無意識に押さえていた。


 何かに触れていないと、自分の位置が曖昧になる。

 第四章の終わりに学んだその感覚が、今は内側のもっと深いところで起きていた。

 現実の机やノートに触れても、記憶の層までは固定できない。


「希夢」


 雛乃が、慎重に名前を呼ぶ。


 その声は、驚かせないように置かれていた。

 夢の中で“見失いたくない”と感じた人のことを語ったあとだからこそ、彼女は今、現実側で同じ失い方をしないようにしているのだと分かった。


「無理に思い出さなくていいよ」


 希夢は、すぐには返事をしなかった。


 無理に思い出そうとしているわけではない。

 むしろ逆だ。

 思い出したくないのに、向こうから近づいてくる感じがある。


「思い出したいわけじゃない」


 ようやく出た声は、自分でも少し驚くほど冷たかった。


 雛乃の目がわずかに揺れる。

 傷ついたというより、希夢の中で何かが硬く閉じる音を、たしかに聞いた顔だった。


「……分かってる」


 彼女は静かに答える。


 その返しのやわらかさが、かえって希夢の胸を詰まらせる。


 裕也は、椅子の背にもたれたまま、しばらく黙っていた。

 それから、ほとんど独り言のように言う。


「拒絶って、思い出したくない時の方が強く出るよな」


 その一言に、希夢は顔を上げる。

 裕也は視線を合わせない。

 自分もまた、どこかで似たものを知っているような言い方だった。


「分かるの?」


 希夢が聞くと、裕也は少しだけ肩をすくめた。


「分かる、ってほどじゃない」


「でも、頭で否定してる時って、大体そこだろ」


 部室の静けさが、また一段深くなる。


 雛乃は何も言わない。

 希夢も、すぐには返せない。


 拒絶しているのは、夢の内容ではない。

 白い光でも、揺れる粒でも、後ろ姿でもない。

 それらが自分の中の何かと結びついてしまうこと、それ自体を拒んでいるのだ。


 希夢は、ようやくその形を認める。

 認めてもなお、受け入れたわけではない。

 ただ、名前がついた。


 拒絶。


 思い出せないことほど、人は強く拒絶する。

 その意味が、今になって自分の体を通して分かる。


「……今は、それでいい」


 希夢は、ほとんど自分に言い聞かせるように言った。


「無理に開けない方がいい」


 雛乃は、小さく頷く。

 裕也も、今回は何も反論しなかった。


 それは同意というより、ここでさらに押すべきではないと全員が知っているからだった。


 部室の窓の外で、風が一度だけ強く吹く。

 ガラスが軽く鳴る。

 その音は正常だ。

 遅れない。

 揺れない。


 それでも希夢の内側では、夢と映像がまだ完全には離れてくれない。

 白い光の粒は、目を逸らした視界の端でなお微かに明滅している。


 拒絶は成功していない。

 ただ、閉じた扉の形を保っているだけだ。


 そして希夢は、直感していた。

 この扉は、このままでは長く持たない。



 午後の授業は、いつも通りに始まった。


 教師の声。

 黒板に走るチョークの乾いた音。

 ノートをめくる紙の擦れる気配。

 どれも正常だった。

 少なくとも、周囲の生徒たちにとっては。


 希夢も、席に着いている。

 教科書は開いているし、ペンも持っている。

 板書を写すこともできる。

 だから外から見れば、彼女はただ少し静かなだけの生徒に見えたはずだった。


 けれど、内側では違う。


 昼休みに雛乃の夢を聞いたあとから、希夢の中では何かが硬く閉じたままだった。

 閉じたままなのに、内側では絶えず何かが擦れている。

 扉を押さえつけている手の向こう側で、光の粒がぶつかり続けているみたいな感覚。


 黒板の上の蛍光灯が、視界の端に入る。


 見上げたわけではない。

 ただ、教師の書く文字を追った先に、自然とそこがあった。


 その瞬間、希夢は小さく息を止めた。


 蛍光灯の白が、わずかに深くなった。


 次の瞬間には戻る。

 気のせいと言えば、それで済む程度の変化。

 だが、希夢は視線を外せなかった。


 もう一度。

 今度は、少しだけ遅れて。


 明るくなるのではない。

 脈を打つみたいに、白さの密度だけが変わる。


 希夢はペン先をノートに置いたまま、文字を書けなくなった。

 教師の声は聞こえている。

 黒板の文字も読める。

 それなのに、教室の中心から少しだけ外れたところで、別の時間が始まっている。


 蛍光灯は、壊れかけの点滅のようには見えなかった。

 ちらつきではない。

 規則的でも、機械的でもない。


 呼吸に近い。


 その言葉が浮かんだ瞬間、昼休みに雛乃が話した夢の中の光と、第四章の映像に残っていた粒状の揺れが、希夢の中で危険なほど近づいた。


 違う。

 そう思う。

 教室の蛍光灯は、ただの蛍光灯だ。

 夢の光の粒とも、防犯カメラの映像とも、何の関係もない。


 そう言い聞かせた瞬間、白い光がまた一段だけ深く脈打った。


 希夢は、ノートの端を強く押さえた。


 痛みはまだない。

 けれど、頭の奥で何かが準備を始めている。

 次に来るものが痛みになるのか、映像になるのか、それとも別の何かなのかはまだ分からない。

 ただ、これは見てはいけない種類の一致だということだけは分かる。


「希夢」


 隣の席から、小さく名前を呼ばれた。


 裕也だった。

 彼は教師に気づかれないように、視線だけをこちらへ寄越している。


 希夢は、はっとして顔を向けた。


「……何」


 声は普通に出た。

 自分でも驚くほど平坦な声だった。


「ノート、止まってる」


 言われて、希夢は自分の手元を見る。

 たしかに、数行前で筆記が止まっていた。

 ペン先は紙に触れているのに、インクだけがそこで途切れている。


「……ごめん」


「いや」


 裕也は、少しだけ眉を寄せた。


「大丈夫かってだけ」


 その言葉には、昼休みの否定の名残がまだあった。

 けれど今は、焦りよりも確認の方が強い。


 希夢は、頷こうとして、また視界の端に白を捉えた。


 蛍光灯が、ゆっくりと沈んで、戻る。


 この教室の誰も気づいていない。

 前の席の生徒は、何事もなく板書を写している。

 教師も、黒板に向かったままだ。

 窓際の生徒たちも、居眠りしかけている者さえいる。


 気づいているのは、自分だけだ。


 その事実が、希夢の胸をさらに冷たくした。


 もし他の誰にも見えていないのなら。

 もしこの揺れが、自分の認識の中だけに起きているのなら。

 それはもう、教室の蛍光灯の問題ではなく、自分の内側の問題になる。


 ――違う。

 ――これは、ただ疲れているだけだ。

 ――夢の話を聞いた直後だから、そう見えるだけだ。


 否定の言葉を重ねるたびに、光の脈は逆に輪郭を持ち始めた。


 希夢は、黒板ではなく教科書に視線を落とした。

 印刷された文字は静止している。

 白い紙も脈打たない。

 そこに安心しかけた、その瞬間。


 天井から落ちる白だけが、またゆっくりと深くなる。


 逃がしてくれない。

 視線を外しても、光そのものが教室全体に満ちている以上、完全には切り離せない。


 希夢は、喉の奥で小さく息を殺した。


 雛乃の夢。

 映像の影。

 観測ログの逆行。

 白い粒の呼吸。

 それらは全部、まだ別のもののはずだった。


 それなのに今、教室の蛍光灯がその列へ並びかけている。


 教師が、急にこちらを振り向いた。


「次、ここの式」


 その声に、教室全体の意識が一斉に黒板へ戻る。

 希夢も反射的に顔を上げた。

 蛍光灯の揺れは、その瞬間だけ止まったように見えた。


 いや、止まったのではない。

 こちらが見るのをやめただけだ。


 希夢は、指先に力を入れてノートへ式を書き始めた。

 文字を書く。

 数字を並べる。

 線を引く。

 自分の手で、ここにある現実の順序をなぞる。


 それでも、頭の片隅では白い光がまだゆっくりと脈打ち続けていた。


 授業の残り時間は、奇妙に長かった。

 チャイムが鳴るまでの数分が、均一に進まない。

 体感だけが前に出たり、引いたりする。


 やがて終業のチャイムが鳴る。

 その音は正常に届いた。

 机を引く音も、人の動く気配も、今度は遅れない。


 だからこそ、希夢は自分の中で何が起きていたのかを、余計にはっきり理解してしまった。


 教室の光は、たしかに揺れていた。

 少なくとも、自分にはそう見えた。

 そしてその揺れ方は、夢と映像にあまりにも近すぎた。


 席を立つ前に、希夢はもう一度だけ天井を見上げた。

 蛍光灯は何事もなかったように白い。

 均一で、平坦で、学校の午後にふさわしい光。


 それでも彼女は分かっていた。


 あれは、もうただの照明ではない。

 少なくとも、自分の中では。


 そして、その認識を認めた瞬間、昼休みに硬く閉じたはずの扉が、ほんのわずかに内側から軋む音がした。


 授業の終わりまで、希夢は一度も天井を見上げなかった。


 見ればまた揺れる。

 そう思ったわけではない。

 ただ、視線を上げた瞬間に何かが決定してしまうような気がして、黒板とノートのあいだだけに意識を閉じ込めていた。


 それでも、白い光は逃げなかった。


 教科書の余白に落ちる明るさ。

 ノートの紙の端に滲む白。

 机の木目の上で、わずかに密度を変える影の薄さ。

 蛍光灯そのものを見なくても、教室を満たしている光は、ずっとそこにある。


 そしてその白さの奥で、何かがゆっくり呼吸している。


 違う。

 そう思う。


 これは教室だ。

 昼の授業で、教師がいて、クラスメイトがいて、黒板があって、蛍光灯が天井に並んでいるだけの場所だ。

 夢の中の曖昧な空間でもなければ、第四章で見た映像の静止フレームでもない。


 違う。

 違うはずだ。


 そうやって頭の中で何度も線を引くたびに、白い光の粒が逆に輪郭を持ちはじめる。


 希夢は、ペンを持つ指先に力を入れた。

 紙に触れている感触は確かだった。

 インクの匂いも、教室の乾いた空気も、現実側のものとしてそこにある。


 なのに、ページの上の白だけが、少しずつ別の光へ引き寄せられていく。


 ――広くて。

 ――輪郭がはっきりしなくて。

 ――粒みたいに、揺れていて。


 雛乃の言葉が、頭の中で勝手に反復される。

 思い出しているのではない。

 もう一度聞こうとしているわけでもない。

 ただ、いま見えている白が、その言葉の形に勝手に寄っていくのだ。


 希夢は、喉の奥がゆっくり冷えていくのを感じた。


 前の席の生徒がページをめくる。

 その音が、今日は妙にはっきり聞こえる。

 教室の後ろで誰かが咳払いをする。

 教師がチョークを置く。

 それらは全部、正常に届いている。


 だからこそ、光だけが違うことが、余計に際立ってしまう。


 希夢は、ノートの端に書きかけた式を見つめた。

 数字は読める。

 意味も追える。

 それなのに、次の一文字を書こうとした瞬間、紙の上に浮かぶ白が一段深く脈打った。


 その拍に合わせて、頭の奥で何かがひりつく。


 昼休みの疼痛とは違う。

 あのときは、細い針のような痛みが一点を突き刺した。

 今はもっと広い。

 頭の内側一面に薄い膜が張られ、その向こう側から何かが押し当てられている感覚。


 希夢は、無意識に目を閉じた。


 暗闇の中で、白い粒が走る。


 まぶたの裏の生理的な残像ではない。

 それはもっと静かで、もっと執拗だった。

 点になって、ほどけて、また寄る。

 夢の中で雛乃が見たと言った揺れと、映像の中で一秒だけ時間が戻ったあのノイズの粒と、そしていま教室を満たしている蛍光灯の白さが、ひとつの動きとして重なり始める。


 やめろ。


 そう思った。

 思ったはずなのに、次の瞬間、その言葉はもう口から出ていた。


「……やめろ……」


 声は大きくなかった。

 けれど教室の静まり方が、はっきり変わるには十分だった。


 自分でも、誰に向けて言ったのか分からなかった。


 蛍光灯に向かってなのか。

 頭の中で揺れ始めた白い粒に向かってなのか。

 雛乃の夢の続きがこちらへ流れ込んでくることに対してなのか。

 それとも、その奥でようやく形を持ちかけている“自分の記憶”そのものに対してなのか。


 全部かもしれないし、どれでもないかもしれない。


 教室の空気が、一瞬だけ止まる。


 教師の手も、黒板の前でわずかに止まった。

 数人の生徒が、驚いたように振り返る。

 その視線が希夢に集まり、次の瞬間にはまた離れていく。

 授業中の独り言。

 疲れているのか、ぼんやりしていたのか。

 周囲は、その程度の解釈で済ませようとしているのが分かった。


 けれど希夢の中では、今の一言がそんな軽いものでは終わらなかった。


 言葉を口にしたことで、拒絶はただの内側の防衛ではなくなった。

 外へ漏れた。

 現実の音として、教室の中に置かれてしまった。


「希夢」


 今度は、隣から裕也の声がする。

 低く、短い。

 叫びではなく、こちらを現実側へ引き戻すための声。


 希夢は、ゆっくり目を開けた。


 黒板。

 教師。

 前の席の背中。

 すべてが、いつもの教室の配置でそこにある。

 蛍光灯も、もう脈打ってはいない。

 少なくとも、今この瞬間には。


 それでも、頭の奥で張りつめていた膜は完全には消えない。

 白い粒の残像は、目を開いたあともしばらく視界の底に沈んだままだった。


「……すみません」


 希夢は、教師に向かってそう言った。

 声は自分でも驚くほど平静だった。

 それがかえって、今起きたことの異様さを際立たせる。


 教師は少し間を置き、それから授業を再開した。

 クラスメイトたちの注意も、ゆっくりと元の場所へ戻っていく。


 教室は、数十秒前と同じ現実へ復帰したように見えた。


 でも、希夢には分かっていた。

 今の一言で、自分の中の扉はまた一段だけ軋んだのだと。


 拒絶はした。

 声にもした。

 なのに、完全には押し返せなかった。

 むしろ、拒絶したことで、その向こう側にあるものの存在がいっそう鮮明になってしまった。


 ノートの上に置いた手が、わずかに震えている。


 希夢は、机の縁を指先で押さえた。

 触れている感触が、自分の位置をかろうじて固定する。

 第四章の終わりで覚えた方法が、いまは教室の中でも必要になっていた。


 自分はここにいる。

 教室にいる。

 今は授業中で、白い光はただの蛍光灯だ。

 そう何度も確認する。


 それでも、心のどこかではもう知っている。

 あの「やめろ」は、光そのものに向けた言葉ではなかった。


 思い出しかけている自分自身に向けた言葉だったのだと。


 チャイムが鳴るまでの残り時間、希夢は一度も顔を上げなかった。

 黒板も、天井も見ない。

 式だけを追い、文字だけを書く。


 だが、見ないままでいること自体が、拒絶の続きだった。

 拒絶は終わっていない。

 ただ、声になったあとで、さらに静かに深く潜っただけだ。


 授業が終わり、椅子が引かれ、教室が次の時間へ崩れていくとき、裕也がほんの少しだけ身を寄せてきた。


「……後で」


 それだけ。

 問い詰めもしないし、今ここで意味を求めようともしない。


 希夢は、頷くことしかできなかった。


 その小さなやりとりのあいだにも、白い粒の残像はまだ消えきらない。

 夢と映像と教室の光。

 それらを自分の記憶と結びつけまいとして、希夢の心は今、限界まで硬く閉じている。


 けれど、どれだけ閉じても、向こう側からのノックまでは止められない。

 さっきの「やめろ」は、そのことを何より雄弁に示していた。


 授業が終わっても、希夢はすぐには席を立てなかった。


 教室のざわめきが、少し遠い。

 椅子を引く音、机を閉じる音、誰かが次の教科の話をする声。

 それらは確かに届いている。

 けれど、自分がその中に混ざって動き出すまでには、まだ薄い膜が一枚必要だった。


 ノートの上に置いた手は、もう震えていない。

 けれど指先には、さっき机の縁を強く押さえていた時の感覚が残っている。

 触れていないと、自分の位置が少しだけ曖昧になる。

 その事実だけが、静かに身体へ刻まれていた。


 裕也は、約束どおりそれ以上何も言わなかった。

 「後で」と言ったきり、自分の席を整えるふりをしながら、希夢の呼吸が落ち着くのを待っている。

 その距離感がありがたかった。

 今は、言葉よりも先に整えなければならないものがある。


 雛乃は、教室の前方から戻ってきた。

 いつもなら、自分の席に鞄を取りに行ってからこちらへ来るはずなのに、今日は順番が違った。

 希夢の机のそばまで来て、一度だけ立ち止まる。


「……希夢」


 名前の呼び方が、昼休みの時よりもさらに静かだった。

 驚かせないように。

 壊さないように。

 その慎重さが、声の温度そのものになっている。


 希夢は顔を上げる。

 雛乃の目元に、朝の赤さはもうほとんど残っていない。

 けれど、その代わりに、泣いたあとでしか持てない種類のまっすぐさがあった。


「……大丈夫」


 またそう言いかけて、希夢は途中でやめた。

 大丈夫ではない。

 少なくとも、いつも通りではない。

 それを、さっき教室の真ん中で自分自身が証明してしまったばかりだ。


 雛乃は、その言い直しを待たなかった。

 ただ、机の角に置かれた希夢の手へ視線を落とす。


 そして、ためらうように、ほんの少しだけ右手を伸ばした。


 触れる直前で、止まる。


 希夢は、その距離を見た。

 手のひら一枚よりも近い。

 でも、まだ触れてはいない。

 相手の意思を飛び越えないための、最後の余白。


「……触ってもいい?」


 それは、とても小さな声だった。


 希夢は、その問いを受け取るまでに一拍かかった。

 自分が今どれだけ現実から浮いているのか、その一拍で分かる。

 それでも、頷くことはできた。


「うん」


 雛乃の指先が、希夢の手の甲にそっと触れる。


 強くない。

 握りしめるのでもない。

 ただ、そこにいると分かるだけの重さ。


 その瞬間、希夢の内側で張りつめていた何かが、わずかに音を立てて位置を変えた。


 白い粒の残像が、完全には消えない。

 夢と光と記憶の気配も、まだ深いところで明滅している。

 けれど、それらが一斉に前へ出てくる流れだけは、少しだけ弱まる。


 雛乃の手は温かかった。

 熱いわけではない。

 でも、教室の机やノートの紙とは違う、生きた温度だった。


「……戻る?」


 雛乃が、ほとんど囁くように聞く。


 希夢は、すぐには答えられなかった。

 “戻る”という言葉が、あまりにも大きかったからだ。

 元の自分に。

 普通の授業中に。

 夢や映像や鹿島先輩の気配を知らなかった頃に。

 どれを指しているのかで、意味が変わってしまう。


「全部は、戻らない」


 ようやく出たのは、そんな言葉だった。


 雛乃は、驚かなかった。

 むしろ、それを予想していたように静かに頷く。


「うん」


 それから、少しだけ希夢の手の上に指を重ね直す。


「でも、ここは分かる?」


 “ここ”。

 その一語に、今必要なことのすべてが含まれていた。


 希夢は、自分の手の位置を感じる。

 机の上。

 雛乃の指先の下。

 教室の、自分の席。

 少なくとも、その一点は間違いなく現実側にある。


「……うん」


 今度の返事は、さっきよりも少し確かだった。


 雛乃は、ようやく小さく息を吐く。

 朝から張りつめていたものが、彼女の中でも少しだけ下りたのが分かった。


 裕也が、少し離れた位置からその様子を見ている。

 何も言わない。

 けれど、その沈黙は無関心ではなく、二人のあいだに必要なものを壊さないための沈黙だった。


 教室には、もう残っている生徒が少ない。

 窓の外の光は少しずつ夕方へ傾き、机の上の影の輪郭が長くなる。

 さっきまで希夢を追い詰めていた白い蛍光灯の光も、今はただ平坦に天井へ並んでいるように見えた。


 それでも、希夢は知っている。

 あれが完全に無害な光へ戻ったわけではない。

 ただ、自分の内側が少しだけ現実へ引き寄せられたことで、今この瞬間は遠ざかっているだけだ。


「……ごめん」


 希夢は、今度は雛乃に向かって言った。


 昼休みに夢を語らせて、放課後には自分が教室の真ん中であんな声を出してしまった。

 謝る理由はひとつではない。

 でも、それを整理するほどの余裕もまだない。


 雛乃は、小さく首を振る。


「謝らなくていい」


 その返事には、朝の涙の続きがまだ微かに残っていた。

 夢を語った自分も、希夢の拒絶を見た自分も、全部ひっくるめて今ここに立っている、という声だった。


「私も、夢の話して……

 近づけすぎたかもしれないし」


「違う」


 今度は希夢が、すぐに否定した。


 それは本心だった。

 雛乃の夢は、近づけたというより、もともと近くにあったものの形を言葉にしただけだ。

 問題は、その言葉が希夢の内側のどこに触れてしまったかの方にある。


「……たぶん」


 希夢は、言葉を探しながら続ける。


「聞いたから壊れたんじゃなくて、

 壊れかけてたところに届いただけだと思う」


 雛乃は、その言葉を静かに受け取った。

 完全に理解したかどうかではなく、今はそれ以上踏み込まない方がいいと分かった時の表情だった。


 教室の後ろで、裕也が鞄を持ち上げる音がする。


「……部室、行ける?」


 彼の問いは、以前よりも慎重だった。

 “行くべきか”ではなく、“行けるか”。

 希夢の位置がまだ曖昧なままなら、無理に次へ進ませないという意思がそこにある。


 希夢は、雛乃の手の重さをもう一度確かめた。

 その温度がある限り、少なくとも今ここで自分がどこにいるのかだけは失わずに済む。


「行ける」


 そう答えてから、少しだけ間を置く。


「……たぶん、今なら」


 雛乃は、そこで初めて手を離した。

 名残惜しむようでもなく、急に引くでもなく、必要なだけ触れていたものを正しい位置へ戻すみたいに。


 手が離れたあとも、希夢の皮膚にはその温度がしばらく残った。

 机やノートとは違う、生きたものに触れていた感覚。

 それは、白い光の粒とはまったく別の種類の“残り方”だった。


 希夢は、そのことに少しだけ救われる。

 夢の底に残るものがあるように、現実の側にもまた、残るものがある。

 雛乃の手の温度は、少なくとも今だけは、夢や記憶の揺らぎに対抗できる種類の現実だった。

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