希夢の拒絶
裕也の否定のあとに残った静けさは、思っていたより長く続いた。
部室の中では、誰ももう鹿島先輩の名前を口にしなかった。
雛乃の夢も、観測ログの揺れも、映像の端に現れた影も、すべて机の上に置かれたまま、誰にも触れられずにいる。
それなのに、希夢の頭の中では、それらが勝手に近づき始めていた。
白い光。
揺れる粒。
遠ざかる後ろ姿。
画面の端に重なった影。
雛乃の「近い感じがした」という言葉。
それぞれはまだ別のもののはずなのに、少し目を離すと、同じ場所へ寄っていく。
希夢は、その動きを見たくなかった。
ノートを閉じる。
ペンを机の中央から端へ寄せる。
自分の手で物の位置を変えると、思考の位置まで少し動く気がした。
だが、実際には変わらない。
頭の中で起きていることは、机の上の整理では止まってくれない。
「……希夢?」
雛乃の声がした。
やわらかい。
朝よりも、昼よりも、今はずっと慎重な声だった。
その慎重さが、かえって希夢にはつらかった。
気を遣われるほど、今の自分が揺れていることを認めなければならなくなるからだ。
「大丈夫」
反射的に答える。
答えたあとで、その言葉の硬さに自分で気づく。
裕也が、何か言いかけてやめた。
その沈黙さえも、希夢には見えてしまった。
見えてしまう、ということが今はいちいち痛い。
大丈夫。
そう言ったのは、自分を守るためだった。
雛乃でも裕也でもなく、自分自身をこれ以上近づけないための言葉。
雛乃の夢は、雛乃の夢だ。
映像に残った影は、記録媒体の中の異常だ。
自分の頭に刺さったあの痛みは、ただの疲れか、連日の緊張のせいかもしれない。
そうやって切り分けておけば、まだ持ちこたえられる。
――それを、ひとつにしちゃだめだ。
その考えが、胸の奥でゆっくりと固まる。
固まる、というより、凍るに近い。
柔らかく考えれば、何もかもがつながってしまう。
だから、硬く閉じるしかない。
希夢は、窓の外を見た。
夕方へ向かい始めた光が、校舎の壁を薄く染めている。
明るさはまだ十分にある。
なのに、部室の中だけが早く夜に近づいているようだった。
白い光の粒が、ふと頭をよぎる。
すぐに視線を逸らす。
思い浮かべたのではない。
勝手に出てきただけだ。
そう言い聞かせる。
だが、出てきたものは簡単には消えない。
雛乃の夢の語りが、記憶の深いところに触れたままになっているのが分かる。
触れたと認めた瞬間に、そこは“自分の記憶”になる。
それだけは、まだ駄目だった。
「……違う」
希夢は、小さく呟いた。
独り言のつもりだった。
けれど、静まり返った部室では、それは十分に他人へ届く声量だった。
雛乃が顔を上げる。
裕也も、こちらを見る。
「何が?」
問いはまっすぐだった。
希夢は、一瞬だけ息を詰める。
何が違うのか。
それを説明する言葉を持っていない。
いや、持っていないのではなく、持ちたくないのだと、すぐに分かった。
「……分かんない」
結局、そう答えるしかなかった。
「でも、違う」
それは子どもじみた拒絶に近い。
理屈ではない。
けれど、今の希夢にとってはそれがもっとも正確な表現でもあった。
雛乃は、すぐに言い返さない。
ただ、希夢の顔を静かに見ている。
慰めるでもなく、問い詰めるでもなく、今の拒絶の形をそのまま見守っている視線だった。
裕也が、低い声で言う。
「つながってほしくない、ってこと?」
その言い方は、驚くほど正しかった。
希夢は、胸の奥を一度だけ強く押されたような気がした。
つながってほしくない。
夢と映像が。
光の揺れと後ろ姿が。
鹿島先輩という名前と、自分の頭の奥に刺さるあの痛みが。
そして何より、そこに自分がいたかもしれないという可能性が。
「……そうかも」
やっとそれだけ言う。
言ってしまった瞬間、少しだけ楽になるかと思った。
だが実際には違った。
言葉になったことで、拒絶の輪郭がかえってはっきりしただけだった。
希夢は、自分の指先を見下ろす。
わずかに強く握られている。
ノートの角を無意識に押さえていた。
何かに触れていないと、自分の位置が曖昧になる。
第四章の終わりに学んだその感覚が、今は内側のもっと深いところで起きていた。
現実の机やノートに触れても、記憶の層までは固定できない。
「希夢」
雛乃が、慎重に名前を呼ぶ。
その声は、驚かせないように置かれていた。
夢の中で“見失いたくない”と感じた人のことを語ったあとだからこそ、彼女は今、現実側で同じ失い方をしないようにしているのだと分かった。
「無理に思い出さなくていいよ」
希夢は、すぐには返事をしなかった。
無理に思い出そうとしているわけではない。
むしろ逆だ。
思い出したくないのに、向こうから近づいてくる感じがある。
「思い出したいわけじゃない」
ようやく出た声は、自分でも少し驚くほど冷たかった。
雛乃の目がわずかに揺れる。
傷ついたというより、希夢の中で何かが硬く閉じる音を、たしかに聞いた顔だった。
「……分かってる」
彼女は静かに答える。
その返しのやわらかさが、かえって希夢の胸を詰まらせる。
裕也は、椅子の背にもたれたまま、しばらく黙っていた。
それから、ほとんど独り言のように言う。
「拒絶って、思い出したくない時の方が強く出るよな」
その一言に、希夢は顔を上げる。
裕也は視線を合わせない。
自分もまた、どこかで似たものを知っているような言い方だった。
「分かるの?」
希夢が聞くと、裕也は少しだけ肩をすくめた。
「分かる、ってほどじゃない」
「でも、頭で否定してる時って、大体そこだろ」
部室の静けさが、また一段深くなる。
雛乃は何も言わない。
希夢も、すぐには返せない。
拒絶しているのは、夢の内容ではない。
白い光でも、揺れる粒でも、後ろ姿でもない。
それらが自分の中の何かと結びついてしまうこと、それ自体を拒んでいるのだ。
希夢は、ようやくその形を認める。
認めてもなお、受け入れたわけではない。
ただ、名前がついた。
拒絶。
思い出せないことほど、人は強く拒絶する。
その意味が、今になって自分の体を通して分かる。
「……今は、それでいい」
希夢は、ほとんど自分に言い聞かせるように言った。
「無理に開けない方がいい」
雛乃は、小さく頷く。
裕也も、今回は何も反論しなかった。
それは同意というより、ここでさらに押すべきではないと全員が知っているからだった。
部室の窓の外で、風が一度だけ強く吹く。
ガラスが軽く鳴る。
その音は正常だ。
遅れない。
揺れない。
それでも希夢の内側では、夢と映像がまだ完全には離れてくれない。
白い光の粒は、目を逸らした視界の端でなお微かに明滅している。
拒絶は成功していない。
ただ、閉じた扉の形を保っているだけだ。
そして希夢は、直感していた。
この扉は、このままでは長く持たない。
午後の授業は、いつも通りに始まった。
教師の声。
黒板に走るチョークの乾いた音。
ノートをめくる紙の擦れる気配。
どれも正常だった。
少なくとも、周囲の生徒たちにとっては。
希夢も、席に着いている。
教科書は開いているし、ペンも持っている。
板書を写すこともできる。
だから外から見れば、彼女はただ少し静かなだけの生徒に見えたはずだった。
けれど、内側では違う。
昼休みに雛乃の夢を聞いたあとから、希夢の中では何かが硬く閉じたままだった。
閉じたままなのに、内側では絶えず何かが擦れている。
扉を押さえつけている手の向こう側で、光の粒がぶつかり続けているみたいな感覚。
黒板の上の蛍光灯が、視界の端に入る。
見上げたわけではない。
ただ、教師の書く文字を追った先に、自然とそこがあった。
その瞬間、希夢は小さく息を止めた。
蛍光灯の白が、わずかに深くなった。
次の瞬間には戻る。
気のせいと言えば、それで済む程度の変化。
だが、希夢は視線を外せなかった。
もう一度。
今度は、少しだけ遅れて。
明るくなるのではない。
脈を打つみたいに、白さの密度だけが変わる。
希夢はペン先をノートに置いたまま、文字を書けなくなった。
教師の声は聞こえている。
黒板の文字も読める。
それなのに、教室の中心から少しだけ外れたところで、別の時間が始まっている。
蛍光灯は、壊れかけの点滅のようには見えなかった。
ちらつきではない。
規則的でも、機械的でもない。
呼吸に近い。
その言葉が浮かんだ瞬間、昼休みに雛乃が話した夢の中の光と、第四章の映像に残っていた粒状の揺れが、希夢の中で危険なほど近づいた。
違う。
そう思う。
教室の蛍光灯は、ただの蛍光灯だ。
夢の光の粒とも、防犯カメラの映像とも、何の関係もない。
そう言い聞かせた瞬間、白い光がまた一段だけ深く脈打った。
希夢は、ノートの端を強く押さえた。
痛みはまだない。
けれど、頭の奥で何かが準備を始めている。
次に来るものが痛みになるのか、映像になるのか、それとも別の何かなのかはまだ分からない。
ただ、これは見てはいけない種類の一致だということだけは分かる。
「希夢」
隣の席から、小さく名前を呼ばれた。
裕也だった。
彼は教師に気づかれないように、視線だけをこちらへ寄越している。
希夢は、はっとして顔を向けた。
「……何」
声は普通に出た。
自分でも驚くほど平坦な声だった。
「ノート、止まってる」
言われて、希夢は自分の手元を見る。
たしかに、数行前で筆記が止まっていた。
ペン先は紙に触れているのに、インクだけがそこで途切れている。
「……ごめん」
「いや」
裕也は、少しだけ眉を寄せた。
「大丈夫かってだけ」
その言葉には、昼休みの否定の名残がまだあった。
けれど今は、焦りよりも確認の方が強い。
希夢は、頷こうとして、また視界の端に白を捉えた。
蛍光灯が、ゆっくりと沈んで、戻る。
この教室の誰も気づいていない。
前の席の生徒は、何事もなく板書を写している。
教師も、黒板に向かったままだ。
窓際の生徒たちも、居眠りしかけている者さえいる。
気づいているのは、自分だけだ。
その事実が、希夢の胸をさらに冷たくした。
もし他の誰にも見えていないのなら。
もしこの揺れが、自分の認識の中だけに起きているのなら。
それはもう、教室の蛍光灯の問題ではなく、自分の内側の問題になる。
――違う。
――これは、ただ疲れているだけだ。
――夢の話を聞いた直後だから、そう見えるだけだ。
否定の言葉を重ねるたびに、光の脈は逆に輪郭を持ち始めた。
希夢は、黒板ではなく教科書に視線を落とした。
印刷された文字は静止している。
白い紙も脈打たない。
そこに安心しかけた、その瞬間。
天井から落ちる白だけが、またゆっくりと深くなる。
逃がしてくれない。
視線を外しても、光そのものが教室全体に満ちている以上、完全には切り離せない。
希夢は、喉の奥で小さく息を殺した。
雛乃の夢。
映像の影。
観測ログの逆行。
白い粒の呼吸。
それらは全部、まだ別のもののはずだった。
それなのに今、教室の蛍光灯がその列へ並びかけている。
教師が、急にこちらを振り向いた。
「次、ここの式」
その声に、教室全体の意識が一斉に黒板へ戻る。
希夢も反射的に顔を上げた。
蛍光灯の揺れは、その瞬間だけ止まったように見えた。
いや、止まったのではない。
こちらが見るのをやめただけだ。
希夢は、指先に力を入れてノートへ式を書き始めた。
文字を書く。
数字を並べる。
線を引く。
自分の手で、ここにある現実の順序をなぞる。
それでも、頭の片隅では白い光がまだゆっくりと脈打ち続けていた。
授業の残り時間は、奇妙に長かった。
チャイムが鳴るまでの数分が、均一に進まない。
体感だけが前に出たり、引いたりする。
やがて終業のチャイムが鳴る。
その音は正常に届いた。
机を引く音も、人の動く気配も、今度は遅れない。
だからこそ、希夢は自分の中で何が起きていたのかを、余計にはっきり理解してしまった。
教室の光は、たしかに揺れていた。
少なくとも、自分にはそう見えた。
そしてその揺れ方は、夢と映像にあまりにも近すぎた。
席を立つ前に、希夢はもう一度だけ天井を見上げた。
蛍光灯は何事もなかったように白い。
均一で、平坦で、学校の午後にふさわしい光。
それでも彼女は分かっていた。
あれは、もうただの照明ではない。
少なくとも、自分の中では。
そして、その認識を認めた瞬間、昼休みに硬く閉じたはずの扉が、ほんのわずかに内側から軋む音がした。
授業の終わりまで、希夢は一度も天井を見上げなかった。
見ればまた揺れる。
そう思ったわけではない。
ただ、視線を上げた瞬間に何かが決定してしまうような気がして、黒板とノートのあいだだけに意識を閉じ込めていた。
それでも、白い光は逃げなかった。
教科書の余白に落ちる明るさ。
ノートの紙の端に滲む白。
机の木目の上で、わずかに密度を変える影の薄さ。
蛍光灯そのものを見なくても、教室を満たしている光は、ずっとそこにある。
そしてその白さの奥で、何かがゆっくり呼吸している。
違う。
そう思う。
これは教室だ。
昼の授業で、教師がいて、クラスメイトがいて、黒板があって、蛍光灯が天井に並んでいるだけの場所だ。
夢の中の曖昧な空間でもなければ、第四章で見た映像の静止フレームでもない。
違う。
違うはずだ。
そうやって頭の中で何度も線を引くたびに、白い光の粒が逆に輪郭を持ちはじめる。
希夢は、ペンを持つ指先に力を入れた。
紙に触れている感触は確かだった。
インクの匂いも、教室の乾いた空気も、現実側のものとしてそこにある。
なのに、ページの上の白だけが、少しずつ別の光へ引き寄せられていく。
――広くて。
――輪郭がはっきりしなくて。
――粒みたいに、揺れていて。
雛乃の言葉が、頭の中で勝手に反復される。
思い出しているのではない。
もう一度聞こうとしているわけでもない。
ただ、いま見えている白が、その言葉の形に勝手に寄っていくのだ。
希夢は、喉の奥がゆっくり冷えていくのを感じた。
前の席の生徒がページをめくる。
その音が、今日は妙にはっきり聞こえる。
教室の後ろで誰かが咳払いをする。
教師がチョークを置く。
それらは全部、正常に届いている。
だからこそ、光だけが違うことが、余計に際立ってしまう。
希夢は、ノートの端に書きかけた式を見つめた。
数字は読める。
意味も追える。
それなのに、次の一文字を書こうとした瞬間、紙の上に浮かぶ白が一段深く脈打った。
その拍に合わせて、頭の奥で何かがひりつく。
昼休みの疼痛とは違う。
あのときは、細い針のような痛みが一点を突き刺した。
今はもっと広い。
頭の内側一面に薄い膜が張られ、その向こう側から何かが押し当てられている感覚。
希夢は、無意識に目を閉じた。
暗闇の中で、白い粒が走る。
まぶたの裏の生理的な残像ではない。
それはもっと静かで、もっと執拗だった。
点になって、ほどけて、また寄る。
夢の中で雛乃が見たと言った揺れと、映像の中で一秒だけ時間が戻ったあのノイズの粒と、そしていま教室を満たしている蛍光灯の白さが、ひとつの動きとして重なり始める。
やめろ。
そう思った。
思ったはずなのに、次の瞬間、その言葉はもう口から出ていた。
「……やめろ……」
声は大きくなかった。
けれど教室の静まり方が、はっきり変わるには十分だった。
自分でも、誰に向けて言ったのか分からなかった。
蛍光灯に向かってなのか。
頭の中で揺れ始めた白い粒に向かってなのか。
雛乃の夢の続きがこちらへ流れ込んでくることに対してなのか。
それとも、その奥でようやく形を持ちかけている“自分の記憶”そのものに対してなのか。
全部かもしれないし、どれでもないかもしれない。
教室の空気が、一瞬だけ止まる。
教師の手も、黒板の前でわずかに止まった。
数人の生徒が、驚いたように振り返る。
その視線が希夢に集まり、次の瞬間にはまた離れていく。
授業中の独り言。
疲れているのか、ぼんやりしていたのか。
周囲は、その程度の解釈で済ませようとしているのが分かった。
けれど希夢の中では、今の一言がそんな軽いものでは終わらなかった。
言葉を口にしたことで、拒絶はただの内側の防衛ではなくなった。
外へ漏れた。
現実の音として、教室の中に置かれてしまった。
「希夢」
今度は、隣から裕也の声がする。
低く、短い。
叫びではなく、こちらを現実側へ引き戻すための声。
希夢は、ゆっくり目を開けた。
黒板。
教師。
前の席の背中。
すべてが、いつもの教室の配置でそこにある。
蛍光灯も、もう脈打ってはいない。
少なくとも、今この瞬間には。
それでも、頭の奥で張りつめていた膜は完全には消えない。
白い粒の残像は、目を開いたあともしばらく視界の底に沈んだままだった。
「……すみません」
希夢は、教師に向かってそう言った。
声は自分でも驚くほど平静だった。
それがかえって、今起きたことの異様さを際立たせる。
教師は少し間を置き、それから授業を再開した。
クラスメイトたちの注意も、ゆっくりと元の場所へ戻っていく。
教室は、数十秒前と同じ現実へ復帰したように見えた。
でも、希夢には分かっていた。
今の一言で、自分の中の扉はまた一段だけ軋んだのだと。
拒絶はした。
声にもした。
なのに、完全には押し返せなかった。
むしろ、拒絶したことで、その向こう側にあるものの存在がいっそう鮮明になってしまった。
ノートの上に置いた手が、わずかに震えている。
希夢は、机の縁を指先で押さえた。
触れている感触が、自分の位置をかろうじて固定する。
第四章の終わりで覚えた方法が、いまは教室の中でも必要になっていた。
自分はここにいる。
教室にいる。
今は授業中で、白い光はただの蛍光灯だ。
そう何度も確認する。
それでも、心のどこかではもう知っている。
あの「やめろ」は、光そのものに向けた言葉ではなかった。
思い出しかけている自分自身に向けた言葉だったのだと。
チャイムが鳴るまでの残り時間、希夢は一度も顔を上げなかった。
黒板も、天井も見ない。
式だけを追い、文字だけを書く。
だが、見ないままでいること自体が、拒絶の続きだった。
拒絶は終わっていない。
ただ、声になったあとで、さらに静かに深く潜っただけだ。
授業が終わり、椅子が引かれ、教室が次の時間へ崩れていくとき、裕也がほんの少しだけ身を寄せてきた。
「……後で」
それだけ。
問い詰めもしないし、今ここで意味を求めようともしない。
希夢は、頷くことしかできなかった。
その小さなやりとりのあいだにも、白い粒の残像はまだ消えきらない。
夢と映像と教室の光。
それらを自分の記憶と結びつけまいとして、希夢の心は今、限界まで硬く閉じている。
けれど、どれだけ閉じても、向こう側からのノックまでは止められない。
さっきの「やめろ」は、そのことを何より雄弁に示していた。
授業が終わっても、希夢はすぐには席を立てなかった。
教室のざわめきが、少し遠い。
椅子を引く音、机を閉じる音、誰かが次の教科の話をする声。
それらは確かに届いている。
けれど、自分がその中に混ざって動き出すまでには、まだ薄い膜が一枚必要だった。
ノートの上に置いた手は、もう震えていない。
けれど指先には、さっき机の縁を強く押さえていた時の感覚が残っている。
触れていないと、自分の位置が少しだけ曖昧になる。
その事実だけが、静かに身体へ刻まれていた。
裕也は、約束どおりそれ以上何も言わなかった。
「後で」と言ったきり、自分の席を整えるふりをしながら、希夢の呼吸が落ち着くのを待っている。
その距離感がありがたかった。
今は、言葉よりも先に整えなければならないものがある。
雛乃は、教室の前方から戻ってきた。
いつもなら、自分の席に鞄を取りに行ってからこちらへ来るはずなのに、今日は順番が違った。
希夢の机のそばまで来て、一度だけ立ち止まる。
「……希夢」
名前の呼び方が、昼休みの時よりもさらに静かだった。
驚かせないように。
壊さないように。
その慎重さが、声の温度そのものになっている。
希夢は顔を上げる。
雛乃の目元に、朝の赤さはもうほとんど残っていない。
けれど、その代わりに、泣いたあとでしか持てない種類のまっすぐさがあった。
「……大丈夫」
またそう言いかけて、希夢は途中でやめた。
大丈夫ではない。
少なくとも、いつも通りではない。
それを、さっき教室の真ん中で自分自身が証明してしまったばかりだ。
雛乃は、その言い直しを待たなかった。
ただ、机の角に置かれた希夢の手へ視線を落とす。
そして、ためらうように、ほんの少しだけ右手を伸ばした。
触れる直前で、止まる。
希夢は、その距離を見た。
手のひら一枚よりも近い。
でも、まだ触れてはいない。
相手の意思を飛び越えないための、最後の余白。
「……触ってもいい?」
それは、とても小さな声だった。
希夢は、その問いを受け取るまでに一拍かかった。
自分が今どれだけ現実から浮いているのか、その一拍で分かる。
それでも、頷くことはできた。
「うん」
雛乃の指先が、希夢の手の甲にそっと触れる。
強くない。
握りしめるのでもない。
ただ、そこにいると分かるだけの重さ。
その瞬間、希夢の内側で張りつめていた何かが、わずかに音を立てて位置を変えた。
白い粒の残像が、完全には消えない。
夢と光と記憶の気配も、まだ深いところで明滅している。
けれど、それらが一斉に前へ出てくる流れだけは、少しだけ弱まる。
雛乃の手は温かかった。
熱いわけではない。
でも、教室の机やノートの紙とは違う、生きた温度だった。
「……戻る?」
雛乃が、ほとんど囁くように聞く。
希夢は、すぐには答えられなかった。
“戻る”という言葉が、あまりにも大きかったからだ。
元の自分に。
普通の授業中に。
夢や映像や鹿島先輩の気配を知らなかった頃に。
どれを指しているのかで、意味が変わってしまう。
「全部は、戻らない」
ようやく出たのは、そんな言葉だった。
雛乃は、驚かなかった。
むしろ、それを予想していたように静かに頷く。
「うん」
それから、少しだけ希夢の手の上に指を重ね直す。
「でも、ここは分かる?」
“ここ”。
その一語に、今必要なことのすべてが含まれていた。
希夢は、自分の手の位置を感じる。
机の上。
雛乃の指先の下。
教室の、自分の席。
少なくとも、その一点は間違いなく現実側にある。
「……うん」
今度の返事は、さっきよりも少し確かだった。
雛乃は、ようやく小さく息を吐く。
朝から張りつめていたものが、彼女の中でも少しだけ下りたのが分かった。
裕也が、少し離れた位置からその様子を見ている。
何も言わない。
けれど、その沈黙は無関心ではなく、二人のあいだに必要なものを壊さないための沈黙だった。
教室には、もう残っている生徒が少ない。
窓の外の光は少しずつ夕方へ傾き、机の上の影の輪郭が長くなる。
さっきまで希夢を追い詰めていた白い蛍光灯の光も、今はただ平坦に天井へ並んでいるように見えた。
それでも、希夢は知っている。
あれが完全に無害な光へ戻ったわけではない。
ただ、自分の内側が少しだけ現実へ引き寄せられたことで、今この瞬間は遠ざかっているだけだ。
「……ごめん」
希夢は、今度は雛乃に向かって言った。
昼休みに夢を語らせて、放課後には自分が教室の真ん中であんな声を出してしまった。
謝る理由はひとつではない。
でも、それを整理するほどの余裕もまだない。
雛乃は、小さく首を振る。
「謝らなくていい」
その返事には、朝の涙の続きがまだ微かに残っていた。
夢を語った自分も、希夢の拒絶を見た自分も、全部ひっくるめて今ここに立っている、という声だった。
「私も、夢の話して……
近づけすぎたかもしれないし」
「違う」
今度は希夢が、すぐに否定した。
それは本心だった。
雛乃の夢は、近づけたというより、もともと近くにあったものの形を言葉にしただけだ。
問題は、その言葉が希夢の内側のどこに触れてしまったかの方にある。
「……たぶん」
希夢は、言葉を探しながら続ける。
「聞いたから壊れたんじゃなくて、
壊れかけてたところに届いただけだと思う」
雛乃は、その言葉を静かに受け取った。
完全に理解したかどうかではなく、今はそれ以上踏み込まない方がいいと分かった時の表情だった。
教室の後ろで、裕也が鞄を持ち上げる音がする。
「……部室、行ける?」
彼の問いは、以前よりも慎重だった。
“行くべきか”ではなく、“行けるか”。
希夢の位置がまだ曖昧なままなら、無理に次へ進ませないという意思がそこにある。
希夢は、雛乃の手の重さをもう一度確かめた。
その温度がある限り、少なくとも今ここで自分がどこにいるのかだけは失わずに済む。
「行ける」
そう答えてから、少しだけ間を置く。
「……たぶん、今なら」
雛乃は、そこで初めて手を離した。
名残惜しむようでもなく、急に引くでもなく、必要なだけ触れていたものを正しい位置へ戻すみたいに。
手が離れたあとも、希夢の皮膚にはその温度がしばらく残った。
机やノートとは違う、生きたものに触れていた感覚。
それは、白い光の粒とはまったく別の種類の“残り方”だった。
希夢は、そのことに少しだけ救われる。
夢の底に残るものがあるように、現実の側にもまた、残るものがある。
雛乃の手の温度は、少なくとも今だけは、夢や記憶の揺らぎに対抗できる種類の現実だった。




