記憶の残滓
D-1:白いノイズ
部室へ向かう廊下は、帰りの教室よりも静かだった。
さっきまで自分を現実へ引き戻していた雛乃の手の温度は、もう皮膚の表面からは消えかけている。
それでも、完全には失われていなかった。
希夢は、その残り火のような感覚だけを頼りに、理科棟の階段を上がった。
足音は正常に響く。
自分の靴底が階段を踏む感触も、今はずれていない。
第四章の終わりにあったような“位置の遅れ”は、少なくとも表面には出ていなかった。
だからこそ、部室の扉を開けた瞬間に始まった違和感は、かえって鮮明だった。
視界の端に、白いものが走る。
それは光の筋というほど明確ではない。
残像というほど受動的でもない。
白い粒が、頭の中を横切る感覚。
目で見るというより、脳の内側に一瞬だけ浮かぶ、薄く鋭いノイズだった。
希夢は足を止める。
「……どうした?」
裕也が、先に部室へ入って振り返る。
「いや」
希夢は、すぐに答えようとした。
だが、その前にまた一度、白い粒が走る。
今度は、少しだけ数が多い。
視界の右端から左奥へ。
直線ではなく、ほどけるように散りながら。
頭痛ではない。
痛みの予兆でもない。
むしろ逆だ。
痛みになる前の、まだ名前のない何か。
「……ちょっと、白いのが見える」
そう言うと、雛乃がすぐに立ち止まった。
「光?」
「ううん」
希夢は、ゆっくり首を振る。
「蛍光灯とかじゃなくて……
もっと内側」
“内側”という言い方が正しいかどうか、自分でも分からない。
でも、外の光景として説明するには違いすぎる。
部室の中は、いつも通りだった。
机の配置も、棚も、窓から入る夕方の光も変わらない。
共有端末も、今日はまだ触っていない。
それなのに、希夢の中では、現実の部室と重なるように別の白が走り続けていた。
椅子に座る。
机に手を置く。
ノートを取り出す。
ひとつずつ現実側の手順をなぞる。
第四章までに覚えたやり方だ。
触れれば位置が戻る。
重さを確かめれば、自分のいる場所が少しだけ固定される。
だが、今回の白いノイズは、その固定の上からも滑り込んでくる。
ノートの白いページを見た瞬間、粒がまた一度、走った。
希夢は目を細める。
文字のない紙面が、一瞬だけ遠く見える。
平らで、軽くて、ただの白であるはずなのに、その奥に別の層が一枚だけ重なったような感覚。
「……見ない方がいい?」
雛乃の声は慎重だった。
昼休みのあとからずっと、彼女は“踏み込みすぎない距離”を守っている。
「分かんない」
希夢は正直に答えた。
「見ても来るし、見なくても来る」
裕也が小さく息を吐く。
その反応には、焦りより先に観察の色があった。
彼ももう、ただ否定する段階にはいない。
「粒って、どんな感じだ?」
問い方が具体的だ。
それは“信じるため”ではなく、“形を持たせて扱うため”の聞き方だった。
希夢は、少し考える。
「速い。
でも、一瞬で終わるわけじゃない」
「残像みたいに、残る?」
「残るっていうより……」
言葉を探す。
「走ったあと、
そこに白さだけ残ってる感じ」
雛乃が、ゆっくり頷いた。
「夢の粒と、近い?」
その問いに、希夢の胸の奥が静かに固まる。
すぐに否定したい。
でも、完全には切れない。
「……分からない」
そう答えてから、少しだけ間を置く。
「でも、無関係って言い切るのも、違う」
部室の空気が少し沈む。
否定できない。
かといって、確定もできない。
その中間のまま保持することは、ここ数章で何度も学んできたはずだった。
けれど、身体の中で起きていることになると、その中間は急に狭くなる。
希夢は、視線をノートから離して、机の木目へ落とす。
木の筋は動かない。
揺れない。
現実の細部は、まだこちら側にある。
その上で、白い粒だけが頭の奥を走る。
ひとつ、ふたつ。
今度は散るのではなく、短く集まりかけて、すぐに崩れた。
その瞬間、希夢の視界の底で、何かの輪郭ができかける。
後ろ姿。
肩。
振り返る前の、わずかな気配。
希夢は、思わず目を閉じた。
「……出る」
声が小さくなる。
雛乃が一歩だけ近づく。
裕也は動かない。
その止まり方が、逆に支えになっていた。
誰か一人が過剰に反応しないことで、現実側の重心が保たれる。
「痛い?」
雛乃が聞く。
「まだ、痛くない」
希夢は答える。
それは本当だった。
痛みの手前。
疼痛になる直前の、もっと白く、もっと乾いた段階。
「でも」
希夢は、目を閉じたまま続ける。
「何かが、出ようとしてる」
その一言のあと、部室の中がひどく静かになった。
窓の外で、風が一度だけガラスを鳴らす。
遠くの運動部の笛の音も、どこか別の世界のもののように薄い。
希夢は、自分の呼吸を数えた。
一つ。二つ。三つ。
数える行為は、今この時間に自分を留めるための簡易な杭になる。
白い粒は、呼吸のあいだにまた走る。
だが、少しずつ規則が見えてくる。
ばらばらではない。
完全な周期でもない。
けれど、何かを呼び出す直前の揺れ方をしている。
「……これ」
裕也が低く言う。
「映像見る前の反応と、似てるな」
希夢は、ゆっくり目を開けた。
部室はまだ正常だ。
机も椅子も動いていない。
時間も遅れていない。
第四章みたいに、現実側がずれ始めているわけではない。
今、ずれているのは、自分の中だけだ。
「うん」
希夢は、小さく頷く。
「外じゃなくて、
中の方から来てる感じ」
雛乃は、その言葉を受け取ると、机の上のノートを希夢の方へ少しだけ押した。
無理に書けという意味ではない。
ただ、今あるものを外へ置ける場所を、そこに作るような動きだった。
「残せそう?」
希夢は、白いページを見る。
そこにも一瞬だけ粒が走る。
けれど今度は、さっきほど強くない。
「……少しなら」
ペンを持つ。
指先はまだ現実にある。
そのことを確かめながら、希夢はノートの端に短く書いた。
白い粒が走る。
光ではなく、記憶の前兆に近い。
書いているあいだ、粒は少し静かになる。
完全には消えない。
でも、言葉にすることで前へ溢れる流れが一段だけ遅くなる。
裕也が、その文字を読む。
「前兆、か」
「うん」
希夢は答える。
「まだ中身じゃない」
雛乃が、静かに言う。
「“残滓”より、前の段階」
その言い方が、希夢にはしっくりきた。
残滓になる前の、白いノイズ。
まだ形を持たず、でも確実に何かへ接続しているもの。
部室の夕方の光が、少しだけ傾く。
机の上の影が長くなる。
白い粒は、なおも希夢の視界の奥で走り続ける。
けれど、今はそれに完全に飲まれてはいない。
ノートの上に、ひとつ外へ出せたからだ。
Part D は、そこで静かに動き始めていた。
記憶の残滓は、まだ声も顔も持たない。
その代わりに、まずは白いノイズとして希夢の中を走り始めている。
部室の空気は、静かすぎるほど静かだった。
窓の外では、まだかすかに運動部の声が残っている。
階段の向こうを誰かが駆け下りる音も、一度だけ聞こえた。
だが、それらはこの部屋の中まで入ってこない。
三人の前にある端末と、その画面だけが、別の時間に属しているみたいだった。
SDカードの映像は、すでに何度も“確認”されている。
だから今回も、再生の意味は変わらないはずだった。
新しいことをするわけではない。
ただ、最後まで見る。
それだけ。
希夢は、ノートの上に片手を置いた。
白いノイズは、まだ頭の奥に残っている。
強くはない。
だが、消えてもいない。
裕也が、マウスに触れる。
「……最後だけ、見る」
確認の声。
雛乃が、静かに頷く。
映像が始まる。
歪んだ画角。
古い圧縮。
防犯カメラ特有の、平坦な部屋の見え方。
天井近くから見下ろす視点のせいで、机も椅子も人影も、どこか現実から一枚薄く剥がれて見える。
秒数表示が、進む。
もう見慣れてしまったはずの断片。
それでも、最後の数秒へ近づくにつれて、部室の空気は目に見えない形で張りつめていった。
“23”。
止まる。
戻る。
第四章で確認した、あの異常。
だが今日は、その先がある。
裕也は、再生を止めない。
雛乃も、今は何も言わない。
希夢は、自分の呼吸の回数だけを数える。
“23”。
画面の端に、あの影が重なる。
死角に現れるはずのない、輪郭の曖昧な何か。
それは前と同じように、まず“そこにいる”という気配だけで立ち上がった。
次の瞬間。
光が、一段だけ強く揺れた。
画面全体が明るくなるわけではない。
蛍光灯が壊れた時のちらつきとも違う。
むしろ逆だった。
白さの密度だけが急に深くなる。
ノイズの粒が、ばらけずに集まる。
画面のあちこちで散っていた粗い白が、影の周囲だけへ吸い寄せられるように寄っていく。
「……っ」
雛乃が、息を呑む。
裕也の手が、マウスの上で固まる。
止めるべきかどうか、判断が一拍遅れる。
それは彼が怯えたからではなく、今起きている変化が、操作の結果ではないと理解してしまったからだった。
影は、そこにある。
だが、前のようにただ重なっているだけではない。
輪郭が、ゆっくりとほどけ始める。
人影。
そう呼んでいいのかどうか、まだ分からない。
けれど、少なくとも“人だったものに近い形”は保っている。
肩の線。
頭の傾き。
後ろを向いたままの姿勢。
そのすべてが、一瞬で消えるのではなく、
白い粒へと還るみたいに、ゆっくり溶けていく。
希夢の胸の奥が、強く締まる。
それは痛みではない。
もっと深いところで起きる、言葉にならない圧迫感だった。
雛乃が夢で見たと言った“消えていく感じ”が、いま画面の中でそのまま起きている。
ノイズが影を食っているのではない。
影そのものが、光の揺れの一部に戻っていくようだった。
裕也が、やっと再生を止める。
画面が静止する。
だが、止まった瞬間でさえ、完全な静止には見えなかった。
粒はもう動いていないはずなのに、希夢の目にはまだ、ごく微細に脈打っているように映る。
「……これ」
雛乃の声が震える。
「消えてる、じゃなくて……」
言葉が止まる。
希夢が、かすれた声で引き取る。
「戻ってるみたい」
その表現に、部室の空気がさらに冷える。
消失ではない。
途絶でもない。
白い揺れの中に、輪郭がほどけて還っていく。
それは終わり方として、あまりにも静かで、あまりにも整いすぎていた。
裕也が、ゆっくり息を吐く。
「夢と……同じか」
否定の言葉はもうなかった。
受け入れたわけでもない。
だが、ここまで一致してしまうと、否定は単なる反射では保てない。
雛乃は、画面から目を離せずにいた。
「わたしの夢も、こうでした」
小さな声。
それでも、部室の中でははっきり届く。
「遠くで誰かが消えていくんじゃなくて……
光の方へ、少しずつ溶けていく感じで」
希夢は、その言葉を聞いた瞬間、頭の奥の白いノイズが一度だけ強く走るのを感じた。
短い。
でも、さっきまでより密度がある。
その白の向こう側に、何かの断片がまた形を持ちかける。
後ろ姿。
振り返る前の肩。
名前を呼びかけるには、まだ遠すぎる距離。
希夢は、机の縁に指先を押し当てた。
現実の硬さが、かろうじてこちら側へ繋ぎ止めてくれる。
「……希夢?」
雛乃の声がする。
近い。
今はちゃんと近い。
「大丈夫」
答えながら、希夢は画面から目を離さない。
大丈夫ではない。
でも、崩れてもいない。
今はまだ、見ていられる。
静止したフレームの中で、影はほとんど形を失っている。
残っているのは、最後まで人の輪郭になりきれなかった白の濃淡だけだ。
「……最後の一秒だけ、違う」
裕也が言う。
「違うって?」
雛乃が聞く。
「それまでのノイズと、質が違う」
彼は、画面の端を指さす。
「乱れてるんじゃなくて、
まとまってる」
希夢は、その言い方が正しいと思った。
通常の圧縮ノイズや劣化なら、もっと散る。
もっと無秩序だ。
だが、最後の一秒に起きていた揺れは、崩れながらも一つの方向を持っていた。
消すための乱れではなく、形を変えるための揺れ。
その理解が、希夢の内側で静かに定着する。
夢。
映像。
観測ログ。
そして、自分の頭の中を走り始めた白いノイズ。
どれもまだ完全には一致しない。
だが、もう無関係とは言えない場所まで来ている。
裕也は、マウスから手を離した。
「……今日は、ここで止めよう」
それは逃避ではなく、処理の限界を知った人間の判断だった。
雛乃も、すぐに頷く。
希夢は、静止した最後のフレームを見つめたまま、小さく息を吐いた。
光が強く揺れ、
人影がゆっくり溶けていく。
その最後の一秒は、もはや記録というより、
誰かの“残り方”そのもののように見えた。
再生を止めたあとも、誰もすぐには動けなかった。
画面の中では、最後のフレームが静止している。
白い揺れ。
輪郭を失いかけた人影。
光へ溶けていくみたいに、ゆっくり薄くなっていく気配。
部室の空気は、異様なほど静かだった。
共有端末のファンの低い音だけが、現実の側に残っている。
窓の外から聞こえるはずの運動部の声も、今は遠くの層へ退いてしまったようだった。
希夢は、ノートの端に置いた手へ意識を戻す。
机の硬さ。
紙の乾いた感触。
そこだけは、まだこの部屋の現在に属している。
けれど視線は、どうしても画面から離れない。
あの最後の一秒。
“消えた”とは違った。
切れたのでも、壊れたのでもない。
もっと静かで、もっと取り返しのつかない終わり方だった。
白い光の中へ、形だけが戻っていく。
まるで最初からそこに還る場所が決まっていたみたいに。
「……これ」
最初に声を出したのは、雛乃だった。
けれどその先が続かない。
喉の奥で言葉が一度つかえて、呼吸だけが浅く揺れる。
裕也が、ちらりと彼女を見る。
何か言おうとして、やめる。
ここで急がせる言葉は、たぶん何一つ正しくない。
雛乃は、もう一度だけ画面へ目を向けた。
睫毛が、ほんの少し震えている。
朝の涙の名残とは別の震えだった。
もっと深いところで、自分の中の景色と、目の前の記録とが重なってしまった人間の震え。
「……これ」
今度は、少しだけ続く。
「わたしの夢と、同じです」
その一文が落ちた瞬間、部室の静けさは別の質に変わった。
希夢は、胸の奥が一度だけ強く引かれるのを感じた。
同じ。
ついにその言葉が、雛乃の口からはっきり出てしまった。
だが、それは勢いで言った“断定”ではなかった。
むしろ逆だ。
あまりに近すぎて、もう曖昧な言い方では保てなくなった結果としての言葉だった。
裕也が、低く息を吐く。
「……どこが」
問い返し方は慎重だった。
否定のためではなく、形を確かめるための問い。
雛乃は、画面の右上を見たまま答える。
「消え方です」
短い。
でも、それだけで十分に重い。
「夢の中でも、ああだったんです。
離れていくんじゃなくて、消えるんでもなくて……
光の方へ、少しずつほどけていくみたいに」
希夢の頭の奥で、白いノイズがまた一度走る。
今度は強くない。
けれど、雛乃の言葉とぴたり噛み合う種類の走り方だった。
断片が、また形を持ちかける。
後ろ姿。
肩。
振り返る前の気配。
希夢は、無意識にノートの角を強く押さえた。
雛乃はまだ続ける。
「揺れ方も、同じです。
普通の光じゃないんです。
明るくなるとか暗くなるとかじゃなくて……
そこにあるまま、息をするみたいに深くなったり、ほどけたりして」
その説明は、第四章の観測ログのノイズとも一致していた。
粒が集まり、崩れ、また寄る。
圧縮の乱れというには、動きに一つの意志みたいなまとまりがありすぎる。
「観測ログの時も」
雛乃が、静かに視線を落とす。
「似た揺れ、見ましたよね」
裕也は、すぐには返事をしなかった。
机の縁に指先を置き、わずかに力を入れている。
それは彼自身が、今まさに現実側へ踏みとどまるための動作にも見えた。
「……見た」
やがて彼は、低く答える。
「でも、ログはログだ。
夢は夢だろ」
反射みたいな否定。
けれど前ほど鋭くはない。
雛乃は、首を横に振らない。
代わりに、ゆっくりと言う。
「そうです。
同じものじゃないです」
その一言で、裕也の表情がわずかに揺れる。
完全に否定されると思っていたところへ、逆に落ち着いた整理が返ってきたからだ。
「でも」
雛乃は、また画面を見る。
「違う入口から、同じ揺れに触ってる感じがするんです」
部室の中で、その表現だけが静かに浮かび上がる。
違う入口。
夢と映像。
内側と外側。
主観と記録。
そのどちらも完全には一致しない。
だが、揺れの“質”だけが、異様に似すぎている。
希夢は、自分の呼吸が浅くなるのを感じた。
夢。
映像。
観測ログ。
そして自分の頭の中を走り始めた白いノイズ。
全部が、まだ完全には一本にならない。
それでも、それらの間に走る距離はもう、無視できるほど広くない。
「……同じ現象ってこと?」
裕也の問いは、ほとんど独り言に近かった。
雛乃は、すぐには頷かなかった。
「まだ、そこまでは言えないです」
言葉を慎重に選んでいる。
夢を見た本人が、一番その危うさを知っている。
「でも、少なくとも……
夢だけが浮いてるわけじゃない、と思います」
その言い方は、希夢にとってひどく正確に聞こえた。
浮いていない。
夢だけが孤立しているのではない。
むしろ、ほかの断片たちの側へ静かに接続し始めている。
裕也は、マウスから完全に手を離した。
「……きついな」
もう一度、その言葉が出る。
けれど今度は、焦りや拒絶のためではなく、現実をそのまま受け取った人間の声だった。
「認めるのが?」
希夢が、静かに聞く。
裕也は少しだけ苦笑する。
「認めるのもきついし、
認めないでいるのもきつい」
その言葉に、雛乃はごく小さく頷いた。
まったく同じ重さを、自分も朝から抱えていたのだろう。
希夢は、画面を見る。
最後の一秒は静止している。
それでも、いまはもうただの停止画には見えなかった。
夢の中で雛乃が見た光の底と、ここに残った記録の終端とが、互いに薄く重なっている。
その時、頭の奥でまた白い粒が走った。
短い。
けれど、今までより一段深い。
――見ないで。
言葉になる前の気配だけが、喉の奥へひっかかる。
希夢は、思わず息を止めた。
「希夢?」
雛乃の声が近い。
「……だいじょうぶ」
答えながら、完全には大丈夫ではないと自分でも分かっている。
だが今は、まだ崩れない。
雛乃の“同じです”という言葉が引き金になって、自分の中でも何かが次の段階へ進もうとしているだけだ。
裕也が、希夢の顔を少しだけ覗き込む。
「また来た?」
希夢は、頷く。
「白いのが」
雛乃は、その答えに息を詰める。
夢の揺れと、映像の揺れと、希夢の内側のノイズが、とうとう別々の現象として置ききれなくなり始めている。
「……今日は、ここまでにする?」
雛乃の声は揺れていた。
同じだと口にした彼女自身が、その一致の先へ進むことを恐れているのが分かる。
だが、裕也はすぐには同意しなかった。
止めたいのではない。
止めるべきかどうか、判断を先送りしたくない顔だった。
「いや」
彼は静かに言う。
「ここで止めても、たぶん今のは消えない」
雛乃が目を伏せる。
希夢も、それは分かっていた。
夢と映像の一致は、今ここで再生を止めてもなかったことにはならない。
むしろ、残滓として内側へ沈んでいくだけだ。
部室の中に、再び静かな沈黙が降りる。
だがその静けさは、さっきまでと違う。
今や彼らは、ひとつのことを共有していた。
夢・映像・観測ログは、同じ“光の揺らぎ”に触れている。
それが真実かどうかはまだ分からない。
それでも、同じ揺れとして身体が受け取ってしまった以上、もう以前のようにばらばらのままでは置いておけない。
希夢は、ノートの端に新しく一行書き足した。
雛乃:夢の光の揺れ=映像終端の揺れと一致。
それだけ。
断定も、解釈も足さない。
書き終えたとき、白いノイズはほんの少しだけ静かになった。
まだ消えない。
けれど、前に溢れ続ける流れだけは、わずかに弱まる。
記録すること。
それが今の自分たちにできる、唯一の保留なのかもしれなかった。
雛乃の「……これ、わたしの夢と同じです」という声は、
部室の中に落ちたあともしばらく消えなかった。
反響するわけではない。
繰り返し聞こえるわけでもない。
ただ、その一文だけが、画面に残った最後の白い揺れと重なって、空気の中に薄く留まり続けている。
希夢は、ノートの端に置いた指先へ意識を戻した。
机の硬さは現実だ。
紙の乾いた感触も、ボールペンの重さも、まだこちら側に属している。
それなのに、頭の奥では別の層がゆっくりと開き始めていた。
白いノイズが走る。
今までのように一瞬で散るだけではない。
粒が寄る。
ほどける。
また寄る。
雛乃の夢。
映像の最後の一秒。
観測ログに残った揺れ。
その全部が、いま希夢の内側で同じリズムを持ち始める。
「……希夢?」
裕也の声が、少し遠くから聞こえた。
遠い。
でも聞こえている。
聞こえているのに、その声が“今”に届くまで、ほんのわずかに時間が要る。
希夢は返事をしようとして、できなかった。
白い粒の向こうで、何かの輪郭がついに崩れずに残る。
後ろ姿だった。
肩の線。
細くまっすぐな背中。
黒髪が、白い光の中で輪郭だけを保っている。
顔は見えない。
振り返らない。
それでも、知っている。
知っている、という確信だけが先に落ちる。
――鹿島先輩。
名前は、声にならない。
けれど認識は、もう止められない。
希夢の胸の奥で、何かが深く沈んだ。
痛みではない。
むしろ、痛みよりも静かなもの。
ずっと閉じたままにしていた扉の向こうから、ようやくひとつだけ像がこちらへ届いた時の、取り返しのつかなさ。
後ろ姿の向こうで、声がする。
最初は、音の輪郭だけだった。
言葉としては聞き取れない。
誰かが、少し離れた場所で何かを呼んでいる。
そんな気配だけが、白いノイズの中に沈んでいる。
希夢は、息を止めた。
その声は、映像の音声ではない。
部室のスピーカーから出ているわけでもない。
耳で聞く種類の音ではなかった。
なのに、確かに“呼ぶ声”だった。
誰かの名前を呼んでいる。
希夢は、その名前が何かを掴もうとして、そこでまた強く拒絶した。
掴めば、もっと繋がる。
繋がれば、もう戻れない。
その瞬間、後ろ姿の肩がほんのわずかに揺れた。
振り返る。
そう思った。
だが実際には、振り返るより先に言葉が来た。
——見ないで。
声は、はっきりしていなかった。
男の声、と断言できるほど鮮明でもない。
けれど、意味だけは正確に届いた。
見ないで。
止める言葉なのか。
守るための言葉なのか。
拒絶なのか。
懇願なのか。
そのどれなのかは分からない。
ただ、希夢の内側では、その一言だけが異様なくらい鮮明だった。
「……っ」
小さく息が漏れる。
現実の部室が、一瞬だけ遠のく。
白い粒。
後ろ姿。
呼ぶ声。
そして、見ないで。
断片だったはずのものが、ここで初めて一本の流れになる。
希夢は、机の縁を強く掴んだ。
木の硬さが掌に刺さる。
現実の感触が、遅れてこちらへ戻ってくる。
「希夢!」
今度は雛乃の声だった。
近い。
今度はちゃんと近い。
希夢は、ゆっくり瞬きをした。
部室が戻る。
端末。
机。
ノート。
夕方へ傾いた窓の光。
全部、そこにある。
けれど、さっきまでと同じ世界ではもうなかった。
「……今、何か見た?」
雛乃の声は震えていた。
夢を語った本人だからこそ、この種類の揺れがどこへ繋がるのかを本能的に知ってしまっている。
裕也は、椅子を引く音すら立てずに希夢の方を見ている。
問い詰めない。
でも、見逃さない。
希夢は、すぐには答えられなかった。
見た。
確かに見た。
だが、それを言葉にすると、断片ではなく記憶として固定されてしまう気がした。
「……後ろ姿」
ようやく出たのは、それだけだった。
雛乃の表情が、わずかに固まる。
「誰の?」
裕也が低く聞く。
希夢は、目を閉じずに答える。
閉じたらまた白い粒が出る。
それが分かっていた。
「鹿島先輩……だと思う」
断定ではない。
だが、もう“近い感じ”では済まない位置まで来てしまっていた。
部室の空気が、一段だけ深く沈む。
「あと」
希夢は、喉の奥の乾きを押し込むように続ける。
「誰かが……名前を呼んでた」
「名前?」
雛乃が繰り返す。
「うん。
でも、何て呼んでたかまでは……」
そこまで言って、希夢は首を振った。
違う。
聞き取れなかったのではない。
聞き取る直前で、自分が止めたのだ。
「そのあと、“見ないで”って」
その一言が出た瞬間、雛乃が息を呑んだ。
裕也の指先が、机の端でわずかに強張る。
白いノイズは、もう走っていなかった。
代わりに、言葉だけが残っている。
見ないで。
命令ではなく、もっと静かな声。
届いてほしくないのに届いてしまう種類の声。
「……止める声だった?」
雛乃が聞く。
「分かんない」
希夢は正直に言う。
「でも、嫌な感じじゃなかった」
その答えは、自分でも意外だった。
怖いわけではない。
拒絶された感じでもない。
むしろ、近づきすぎた自分を押し返すための、ぎりぎりの距離を保つ声に近かった。
裕也が、しばらく黙ってから言う。
「夢と同じだな」
雛乃が、静かに頷く。
「遠ざかるのに、追い払ってる感じじゃない」
その一致が、部室の静けさをさらに深くする。
夢。
映像。
観測ログ。
白いノイズ。
そして、希夢の中に繋がった断片。
どれも、まだ完全な証拠ではない。
それでも、ひとつの方向だけは、もう見失えない。
鹿島先輩は“消えた”のではなく、
光の揺れの中へ還っていくみたいに薄れていた。
そして、その過程のどこかに、
「見ないで」という声だけが、今も残っている。
希夢は、ノートへ視線を落とした。
まだ白い。
でも、今の自分にはもうただの紙には見えない。
ここへ書けば、断片は記録になる。
書かなければ、残滓のまま自分の中に沈む。
「……書く」
希夢は、小さく言った。
裕也も雛乃も、止めなかった。
ペンを持つ。
指先は少しだけ重い。
それでも、書く。
鹿島先輩の後ろ姿。
誰かが名前を呼ぶ声。
——見ないで。
そこまで書いたところで、希夢はペンを止めた。
これ以上は、まだ書けない。
十分だった。
断片が、ようやく外へ置かれたのだから。
雛乃は、その文字を見つめながら、静かに息を吐く。
裕也も、何も言わなかった。
今は解釈の言葉より、そこに残された断片そのものの方が重い。
夕方の光が、部室の端から少しずつ薄くなっていく。
窓の外で風が一度だけ強く吹き、ガラスがかすかに鳴る。
夢の底に残るものは、もう夢の中だけにはなかった。
映像の最後の一秒を通り、観測ログの揺れをかすめ、希夢の内側へ入り込み、いまノートの上に断片として置かれている。
それは、完全な記憶ではない。
真実でも、まだない。
けれど、もう無かったことにもできない。




