表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
夢の底に残るもの
18/56

裕也の焦り

 午後の授業が終わるころには、雛乃の夢の話は、もう希夢ひとりの内側だけに留まるものではなくなっていた。


 白い光。

 揺れる粒。

 遠ざかる誰か。

 そして、鹿島先輩に限りなく近い気配。


 それらは、ひとつの結論になったわけではない。

 けれど、結論になっていないからこそ、教室の空気の中で静かに広がっていく。


 放課後、三人は部室に集まった。

 いつものように机を囲み、いつものように鞄を置く。

 それなのに、最初に誰が話し出すのかを全員が待っている沈黙だけが、少し違っていた。


 裕也は、椅子に座るなりペンケースを机に置いた。

 その音が、必要以上に強く響く。


「……で」


 彼は、あえて軽い調子を作ろうとした。

 けれど、声はどこか乾いている。


「夢の話、どこまで本気で受け取る?」


 真正面からの問いだった。


 雛乃は視線を落とす。

 希夢は、その問い方に少しだけ胸が詰まるのを感じた。

 責めているわけではない。

 ただ、裕也は“今の位置”を確かめずにはいられないのだ。


「本気っていうか……」


 雛乃が小さく言う。


「無かったことには、できないってだけで」


「うん」


 裕也はすぐに頷く。

 否定するための相槌ではなく、続きを促すための短い音。


「でもさ、夢は夢だろ」


 そこに初めて、わずかな硬さが混じる。


「映像と似てたからって、それで即つながるのは、ちょっと危ない気がする」


 部室の空気が、わずかに固まる。

 希夢は、その言い方に苛立ちを感じたわけではなかった。

 むしろ、裕也がその役を引き受けていることの方がよく分かった。


 誰かが、一度は線を引かなければいけない。

 進みすぎないために。

 揺らぎをそのまま真実にしないために。


「分かってる」


 雛乃は、すぐにそう答えた。


「証拠じゃないってことも、ちゃんと分かってる。

 でも……」


 そこで言葉が止まる。

 “でも”の先にあるのは、論理ではなく感触だ。

 それをそのまま言葉にすると、また別の境界を越えてしまう。


 裕也は、机の上の自分の指先を見た。


「俺だって、全部否定したいわけじゃない」


 ぽつりと落とされたその言葉は、朝からずっと溜め込んできたもののように聞こえた。


「ただ、こういうのって、一回“つながった”って思い始めると、何見てもそう見えてくるだろ」


 その指摘は正しかった。

 正しいからこそ、雛乃もすぐには返せない。


 希夢は、二人の間に落ちた沈黙を、そのまま受け止めた。

 裕也の言葉は防衛であり、同時に誠実さでもある。

 簡単に飛びつかないこと。それを誰かが言葉にしないと、物語はあまりにも早く深い方へ進みすぎてしまう。


「……でも、焦ってるよね」


 気づいたら、希夢はそう言っていた。


 裕也が顔を上げる。

 驚いたような、少しだけ警戒したような目。


「焦ってない」


 即答。

 その速さが、かえって答えになっていた。


「焦ってる」


 今度は雛乃が、小さく言った。


 責めるような声ではない。

 夢を語った人間だからこそ分かる揺れを、そのまま差し出すような声だった。


「だって、さっきからずっと、“線を引く方”の言葉ばっかり選んでる」


 裕也は、一度口を閉じた。

 すぐに返せない。

 その反応だけで十分だった。


 窓の外から、風が校舎の壁をなでる音がする。

 部室の中は、いつも通りの静けさだ。

 それでも今は、その静けさが誰かの呼吸を待っているみたいに見えた。


「……焦ってるかもな」


 ようやく裕也が言う。


 観念した、というより、自分の中でぴたりと合う言葉をやっと見つけたような言い方だった。


「昨日まで、“見たもの”の話だっただろ。

 映像とか、音とか、位置のズレとか。

 でも今日は、夢だ。しかも先輩に近いってきた」


 彼は、そこで言葉を切る。

 “先輩”という単語の扱い方が、少しずつ重くなっている。


「それ、近づき方が違うんだよ」


 希夢は、静かに頷いた。

 確かに違う。

 外から近づいてくる記録と、内側から滲み出てくる夢では、同じ“接触”でも質が違う。


「俺さ」


 裕也は続ける。


「夢とか、記憶とか、そういうのが入ってくると、一気に逃げ道なくなる感じがする」


 その言い方には、揺らぎを嫌っているというより、自分の立つ場所が急に狭くなることへの恐れが滲んでいた。


「映像だったら、まだ“機械のエラーかも”って言える。

 音だったら、“聞き間違いかも”って言える。

 でも夢は……本人の中で起きてるから、簡単に外へ出せないだろ」


 雛乃が、ゆっくり目を伏せる。

 それは傷ついたからではない。

 裕也の言っていることが本質的だと分かっているからだ。


「うん」


 彼女は小さく答えた。


「だから、朝は言うの怖かった」


 その一言で、部室の空気がまた少し変わる。

 怖かった。

 夢の内容そのものより、それを言葉にして現実側へ持ち込むことの方が、彼女には怖かったのだ。


 裕也は、そこで初めて少しだけ肩の力を抜いた。


「……ごめん。責めたいわけじゃない」


「分かってる」


 雛乃は答える。


「私も、ちゃんと疑ってる。

 全部つなげていいって思ってるわけじゃない」


 希夢は、二人の言葉を聞きながら、胸の奥にあった緊張が別の形へ変わるのを感じた。

 これは衝突ではない。

 揺らぎに対して、三人がそれぞれ別の方向から慎重になっているだけなのだ。


「でも」


 今度は希夢が、ゆっくり口を開く。


「否定するのと、切り捨てるのは違うと思う」


 裕也が視線を向ける。

 その目には、反論よりも続きを待つ色があった。


「雛乃の夢が、そのまま答えになるわけじゃない。

 でも、答えじゃないからって、最初から無いことにはできない」


 裕也は何も言わなかった。

 ただ、目を伏せて少しだけ息を吐く。


「……だよな」


 その短い返事には、まだ納得しきらない部分も残っていた。

 けれど同時に、否定のためだけに立っているわけではないことも、はっきり伝わってきた。


 雛乃は、机の上でそっと指を組み直す。

 朝の涙はもう乾いている。

 けれど、夢が残した揺れはまだ彼女の中にある。

 そして今、それを受け取る側にも別の揺れが生まれている。


 裕也の焦り。

 それは否定の仮面を被っているけれど、本質はもっと単純だった。

 これ以上、近づいたら本当に戻れなくなるのではないかという、現実的な恐れ。


 希夢は、その恐れに覚えがあった。

 第四章の自分自身の身体反応も、結局は同じ方向を向いていたのだから。


「……一個だけ、決めとこ」


 裕也が顔を上げる。


「夢の話は聞く。

 でも、聞いた瞬間に“確定”扱いはしない」


 それはルールの追加というより、今ここで起きた摩擦を言葉として整えるための提案だった。


「うん」


 雛乃が頷く。

 希夢も、同じように頷く。


 部室の空気が、ほんの少しだけ落ち着く。

 問題が解決したわけではない。

 むしろ、問題はより深くなっている。

 けれど、少なくとも三人は、同じ章の中に立ち続けるための最低限の足場を確かめた。


 窓の外で、雲が光を少しだけ遮る。

 部室の中の明るさが、ほんの僅かに落ちる。

 その瞬間、希夢は思う。


 夢の底に残るものは、夢の中だけにあるわけじゃない。

 それを聞いた側にも、確かに別の残り方をするのだと。


Thought for 30s


はい、さっきのものが B-1 でした。

今回はその続き、B-2:夢と観測ログの一致 を進めます。


第五章

夢の底に残るもの

Part B:裕也の焦り

B-2:夢と観測ログの一致


 放課後の部室は、昼休みの渡り廊下とは違う静けさを持っていた。


 窓の外では、運動部の掛け声が遠く反射している。

 誰かが階段を駆け下りる音も、廊下の向こうを通り過ぎる笑い声も、確かに届いている。

 それなのに、三人のまわりだけ、音の密度が少し薄い。


 裕也は、机の端に手を置いたまま、雛乃を見ていた。

 昼休みに聞いた夢の話は、まだ整理されていない。

 希夢の反応も、頭の奥に残っている。

 誰かが続きを言わなければ、この章は次へ進まない。

 けれど、誰がその役を取るべきなのか、全員が少しだけ迷っていた。


「……昼の話」


 先に口を開いたのは、雛乃だった。


 その声を聞いた瞬間、裕也の表情がわずかに曇る。

 拒絶ではない。

 でも、待っていた言葉が本当に来てしまったときの顔だった。


「まだ、全部は分からないんですけど」


 雛乃は、自分の指先を見ながら続ける。


「夢の中で見た光の揺れ……

 あれ、観測ログに残ってたのと、すごく近い気がして」


 部室の空気が、一段だけ沈む。


 観測ログ。

 その単語が入った瞬間、夢はただの私的体験ではなくなる。

 外に残された記録と、内側に残った映像が、同じ土俵に立ち始める。


「近いって、どのくらい?」


 希夢が聞く。

 問い方は穏やかだったが、慎重だった。

 似ている、という感覚は簡単に拡張できる。

 だからこそ、ここでは言葉の粒度を粗くしすぎない方がいい。


 雛乃は少し考える。


「形が同じ、っていうより……

 揺れ方、です」


「揺れ方」


「はい。

 一定じゃないのに、ばらばらでもなくて。

 広がって、少し戻って、またほどける感じ」


 希夢の胸の奥で、第四章の映像断片が静かに起き上がる。

 ノイズの粒。

 集まって、崩れて、また寄るようなあの動き。

 それを、雛乃は夢の中で“外から見た”のではなく、もっと近い位置で感じていたのかもしれない。


「あと……」


 雛乃は続ける。


「光が、ただ明るいんじゃないんです。

 見てると、息をしてるみたいで」


 その言葉に、裕也が小さく息を吐いた。

 明らかに、反応している。


「その表現、やめてくれ」


 声は強くなかった。

 けれど、そこには確かな緊張があった。


 雛乃は一瞬だけ黙る。


「……ごめん」


「いや、そういう意味じゃなくて」


 裕也はすぐに否定する。

 否定の仕方が少し速い。

 それがかえって、彼の内側の揺れを示していた。


「ただ、その言い方」


 裕也は、机の木目を見ながら続ける。


「前にも聞いた気がする」


 希夢が顔を上げる。

 雛乃も、静かに視線を向ける。


 裕也は、自分で言ってしまったことに少し驚いたようだった。

 しまった、というほどではない。

 でも、まだ出すつもりのなかった札を一枚切ってしまった人間の顔をしていた。


「前って?」


 希夢の問いに、裕也はすぐには答えない。

 その沈黙の長さが、逆に答えの重さを示していた。


「……観測のとき」


 ようやく出た声は低い。


「ログ見てた時。

 画面のノイズが、呼吸してるみたいだって……

 たしか、誰かが言ってた」


 誰か。

 曖昧な主語。

 その曖昧さの中に、三人とも同じ影を見ていた。


 雛乃は、ゆっくりと首を振る。


「夢の中でも、それと同じ感じでした」


 今度は、少しだけはっきりした声だった。


「粒が勝手に動いてるんじゃなくて、

 何か一つのリズムに合わせて揺れてるみたいで」


 希夢は、机の上に置いた手を軽く握る。

 頭の奥に、昼休みの疼痛の残りがほんの少しだけ触れた。

 痛みとして立ち上がるほどではない。

 でも、近い。


「観測ログのどこを思い出したの?」


 希夢が聞くと、雛乃は視線を落としたまま答えた。


「静止したフレームのところです」


 第四章。

 秒数が逆行し、影が重なったあの静止点。

 夢と映像は、物語の別経路に見えて、実際にはあの一点で互いに手を伸ばし合っているのかもしれない。


「止まってるのに、止まってない感じがしたんです」


 雛乃の言葉は、ますます具体的になっていく。


「夢の中でも、向こうにいる“誰か”は遠ざかってるみたいなのに、

 本当に動いてるわけじゃなくて……

 ただ、こちらの方が少しずつ置いていかれる感じで」


 その表現に、希夢は目を閉じたくなる。

 置いていかれる。

 それは、第四章の終わりで自分が感じた“今”の遅れに近い。


 裕也が、低く言う。


「夢っていうより、記録みたいだな」


 雛乃はその言葉に、すぐには返さなかった。

 けれど否定もしない。


「分からないです」


 やがて彼女は言う。


「でも、見た感じじゃなくて、残り方が近いんです」


 残り方。

 夢の内容ではなく、目覚めたあとに残る配置。

 それはまさに、この数章で三人が何度も触れてきたものだった。


「朝、泣いてたのも」


 希夢がゆっくり聞く。


「その揺れが残ってたから?」


 雛乃は頷く。


「はい。

 誰かが消えていく感じも残ってたけど、

 一番残ったのは光の方でした」


「光」


「うん。

 教室に入っても、しばらく“朝の光”に見えなくて」


 希夢は、その言葉に軽く息を呑む。

 外の現象が夢に侵入したのではなく、夢の方が起床後の現実へ持ち越されている。


 裕也は、椅子の背にもたれたまま、天井を見た。


「……きついな」


 その一言は、否定ではなかった。

 受け入れたわけでもない。

 ただ、これまで外部の記録として扱えていたものが、人間の内部へまで連続しているとしたら、それはもう単純には距離を取れないという意味だった。


「きつい、って?」


 雛乃が静かに聞く。


 裕也は少し笑おうとして、うまくいかない。


「映像なら、止められるだろ。

 ファイル閉じれば、少なくとも画面からは消える」


 彼は、自分の指先を見た。


「でも夢は、起きたあとに残る。

 それ、ログよりたち悪い」


 言い方は乱暴だ。

 けれど本質を突いていた。


 雛乃も、それを理解しているからこそ怒らない。


「うん」


 彼女は小さく答えた。


「だから、話すの怖かった」


 部室は静かだった。

 窓の外では、風が一度だけガラスを鳴らす。

 その音が妙に近く聞こえたのは、今この部屋で話されていることが、すでに“夢”の範囲を越えて現実に食い込んでいるからかもしれない。


 希夢は、二人の顔を順に見た。

 雛乃の中では夢が観測ログとつながり始めている。

 裕也の中では、それを認めたくない気持ちと、認めざるを得ない手応えがせめぎ合っている。


 そして希夢自身の中では、昼休みに開きかけた記憶の深部が、まだ完全には閉じていなかった。


「……夢と観測ログが同じだって、今ここで決める必要はない」


 希夢は、ゆっくりと言う。


「でも、同じ揺れ方をしてるって話は、記録していいと思う」


 雛乃が顔を上げる。

 裕也も、反論しない。


 それは“確定”ではなく、“保留したまま保持する”という、今の自分たちにできる最も現実的な扱い方だった。


「うん」


 雛乃が頷く。


「それなら、いい」


 裕也も、少し遅れて頷いた。


「……記録な。

 結論じゃなくて、事実として」


 部室の空気が、わずかに戻る。

 軽くはならない。

 でも、踏み外さないための足場は確かに作られた。


 夢はまだ夢のままだ。

 観測ログはまだ記録のままだ。

 それでも、その二つは、もう互いを知らないふりではいられない位置まで近づいてしまっている。


 記録する。

 結論ではなく、事実として保持する。


 その方針が定まったはずなのに、部室の空気は少しも軽くならなかった。


 雛乃は机の上のノートに視線を落とし、指先でページの端を押さえている。

 希夢は、窓から入る光の角度をぼんやり見ていた。

 午後の白さは、まだ教室や廊下の光と同じ顔をしている。

 それなのに、雛乃が語った夢の中の“光の粒”が、そこへ薄く重なって見える気がした。


 裕也だけが、椅子の背にもたれたまま天井を見ていた。

 目線は上にあるのに、何かを眺めているというより、頭の中で言葉を押し戻している顔だった。


「……でもさ」


 やがて彼は、低く言った。


 その二文字が落ちた瞬間、希夢は胸の奥で小さく構えた。

 ここから先は、さっきまでの“整理”では済まない。

 もっと感情に近いところが出てくる。


「近いからって、同じとは限らないだろ」


 裕也の声は強くなかった。

 けれど、その言葉は一直線だった。


 雛乃はすぐには返事をしない。

 否定された、という受け取り方ではない。

 むしろ、来るべきものが来たと分かっている表情だった。


「うん」


 彼女は、静かに答える。


「限らない」


「じゃあ」


 裕也はようやく視線を下ろし、二人の方を見る。


「なんでそんなに近づけて考えるんだよ」


 言い方は鋭い。

 けれどその内側にあるのは、攻撃よりも焦りだった。


 希夢は、その問いにすぐ口を挟まなかった。

 ここで曖昧に均してしまえば、裕也の揺れはかえって強く残る。

 今は、彼自身に言葉を使わせた方がいい。


「夢ってさ」


 裕也は続ける。


「見た本人の中で勝手につながるだろ。

 昼に映像見て、夜に夢見たら、そりゃ似るかもしれない」


 それは、十分にあり得る説明だった。

 合理的で、しかも残酷ではない。

 相手を傷つけずに距離を取るための、ぎりぎりの線。


 雛乃は、その線をきちんと見ていた。


「そうかもしれない」


 彼女は言う。


「私も、それは考えた」


「じゃあ」


 裕也の声が、わずかに速くなる。


「それでいいだろ。

 今はそれで止めとけばいい」


 “止める”。

 その単語に、彼の本音が滲んでいた。


 希夢は、机の縁に触れていた指先に少しだけ力を入れる。

 止めたいのだ。

 夢と映像と記憶が、同じ方向に寄っていく速度を。

 それ以上進んだとき、自分たちが何を引き受けることになるのか、裕也は本能的に察している。


「……止めたいんだよね」


 希夢が静かに言うと、裕也の表情が一瞬だけ強張った。


「違う」


 ほとんど反射的な否定だった。


 だが、すぐに裕也は目を閉じ、短く息を吐く。


「いや……違わないか」


 その訂正は小さい。

 でも、その小ささの中に、彼なりの誠実さがあった。


「止めたいっていうか」


 言い直す。


「これ以上、勝手につながっていく感じが嫌なんだよ」


 部室は静かだった。

 窓の外で運動部のホイッスルが鳴る。

 その鋭い音さえ、今は遠くで起きている出来事みたいに聞こえた。


「映像はまだいいんだ」


 裕也は、自分の言葉を少しずつ掘り出していく。


「ログも、エラーかもしれない。

 影だって圧縮ノイズかもしれない。

 そういう逃げ道が、まだある」


 そこで一度、言葉が止まる。


「でも夢は」


 その続きだけ、少しだけ掠れた。


「夢は、本人の中に入ってくるだろ。

 こっちが“違うかも”って言っても、残るじゃん」


 雛乃が目を伏せる。

 その動きに、傷ついた色はほとんどない。

 代わりに、自分でも同じことを思っていた人間の沈黙があった。


「残るね」


 彼女は小さく言う。


「朝の光が、朝の光に見えなくなるぐらいには」


 裕也は、その言葉を聞いたあと、もう一度机の方へ目を戻した。

 強く否定したいのに、否定すればするほど具体的な残り方が見えてしまう。

 その矛盾が、彼を少しずつ追い詰めているように希夢には見えた。


「俺、別に雛乃のこと疑ってるわけじゃない」


 裕也の声は、前より少し落ち着いていた。


「夢見たってことも、泣いてたことも、嘘だなんて思ってない」


「うん」


 雛乃が返す。


「ただ」


 裕也は続ける。


「それを“先輩かもしれない”ってとこまで持ってくのが、怖い」


 その一言で、部室の中の何かがぴたりと止まる。


 希夢は、自分の呼吸の深さを確かめた。

 裕也はついに、焦りの中心へ触れたのだ。


「……怖い、んだ」


 雛乃の声は責めるようではなかった。

 ただ確認するみたいに、静かだった。


「うん」


 裕也は、今度は否定しなかった。


「だって、それを認めたらさ」


 彼は言いながら、自分でも何を認めるのか正確には定めていない顔をしていた。

 それでも、次の言葉は出る。


「今まで“たまたま”って言えてたものが、一気に違う意味になるだろ」


 第四章までのすべて。

 ログの逆行。

 影。

 音の遅れ。

 位置のズレ。

 自己認識の遅延。

 そして、雛乃の夢。


 それらはまだ、互いに近づきながらも別々の現象として保たれていた。

 もしここで“鹿島先輩”という一つの核に結びつけてしまえば、その瞬間に物語は別の重さを持ち始める。


 希夢は、裕也の恐れをはっきり理解した。

 それは弱さではない。

 むしろ、今の段階で最も正しい慎重さの一つだった。


「……でも」


 雛乃が、やっと顔を上げる。


「私、そこまで言ってない」


 裕也が黙る。


「“近い感じがした”って言っただけ。

 鹿島先輩だったって、決めたわけじゃない」


 その言葉は柔らかかった。

 でも、思った以上に芯があった。


「夢の中で誰かが消えていく感じがあって、

 その気配が先輩に近かった。

 今言えるのは、それだけ」


 裕也は、その整理の仕方を聞いて、ようやく少しだけ肩の力を抜いたようだった。


「……ごめん」


 ぽつりと落ちる。


「飛びすぎた」


「ううん」


 雛乃は首を振る。


「私も、言い方で近づけすぎてたかもしれない」


 希夢は、二人のやりとりを見ながら思う。

 否定と感受は、対立しているようでいて、実際には同じものを守ろうとしているのかもしれない。

 壊さずに持っておくために、片方は距離を取り、片方は形を失わないようにしている。


「じゃあ」


 希夢が、ゆっくり口を開く。


「今ここでは、夢は“夢の中で見た配置”として置いておこう」


 裕也が目を向ける。

 雛乃も、静かに待つ。


「先輩に近い感じがしたことも、消さない。

 でも、“先輩だった”にはしない」


 裕也は、短く頷いた。


「それなら、まだ保てる」


 雛乃も頷く。


「うん。それなら、話せる」


 その一言で、部室の空気がほんの僅かに戻った。

 軽くなったわけではない。

 でも、落ちる場所を失っていた言葉たちが、ようやく仮の置き場を見つけたようだった。


 裕也の否定は、完全な拒絶ではなかった。

 意味を一つにしないための防波堤だった。

 そしてその防波堤があるからこそ、雛乃の夢はまだ切り捨てられずにこの場へ留まっていられる。


 希夢は、窓の外の光を見る。

 午後はまだ明るい。

 けれど、その明るさの底に、夜の夢の粒が沈んでいるような感覚は、もう消えなかった。



 そのあと、しばらく誰も話さなかった。


 会話が途切れた、というより、

 言葉がいったん置かれたのだと希夢には感じられた。


 否定はされた。

 けれど、切り捨てられたわけではない。

 雛乃の夢はまだここにあり、裕也の焦りもまた、部室の空気の中に残っている。


 窓の外では、夕方に近づいた光が校舎の壁を淡く染めていた。

 部室の中の影は、朝や昼とは少し違う角度で伸びている。

 同じ場所なのに、時間が変わるだけで距離感まで変わってしまう。

 希夢は、そのことを今まで以上にはっきり意識した。


 裕也は、机の上に置いた手を引っ込め、椅子の背に深くもたれた。

 さっきまでの緊張が消えたわけではない。

 ただ、それを前に押し出し続けることをやめた顔だった。


 雛乃は、ノートの端を指先で押さえたまま、視線を落としている。

 泣いていた朝とは違う。

 今は、自分の言葉がちゃんと受け止められたあとに来る静けさの中にいる。

 それでも、まだ完全には落ち着けていないのだと分かる。


 希夢は、二人のあいだに漂うものを壊さないように、呼吸だけを整えた。

 ここで急いでまとめてしまえば、裕也の慎重さはただの拒絶になってしまうし、雛乃の夢は逆に強く固められすぎる。

 今必要なのは、結論ではなく、この“保留されたままの形”を持たせることだった。


 部室の時計が、かすかに秒を刻んでいる。

 その音は、第四章の終わりに感じたような遅れを伴わず、まっすぐ耳に届く。

 それでも希夢には、その一定のリズムがかえって不思議に思えた。

 人の内側だけが揺れて、時計だけが正常であることが、妙に現実的だったからだ。


「……怒ってるわけじゃないから」


 やがて裕也が、小さく言った。


 雛乃は顔を上げる。

 その視線に、裕也は少しだけ困ったように笑った。


「分かってる」


 雛乃の返事は短かった。

 でも、その短さの中には、ちゃんと受け取っているという意志があった。


「俺も、全部消したいわけじゃないんだよ」


 裕也は、言葉を選びながら続ける。


「ただ……近いものを近いまま持っておくのと、

 同じものだって決めるのは、ちょっと違うだろ」


 その言い方は、さっきまでの焦りを少し通り過ぎたあとのものだった。

 勢いではなく、確かめるための声。


「うん」


 雛乃は頷く。


「私も、それは分かってる」


 彼女はそこで少しだけ間を置き、続けた。


「夢の中で見たことを、そのまま現実の名前にしちゃいけないってことも」


 希夢は、その言葉を聞いて胸の奥が静かに沈むのを感じた。

 雛乃は感受性の側に立ちながら、ちゃんと危うさも見ている。

 だからこそ、彼女の夢は単なる幻想ではなく、扱うに値するものとしてこの場に置かれているのだ。


「でも」


 雛乃は、窓の外の光を一瞬だけ見てから言った。


「近かったことまで、消したくない」


 その一文は、第四章まで積み上げてきたすべてに似ていた。

 断定はしない。

 けれど、無かったことにもしない。


 裕也は、机の木目を見つめたまま、小さく息を吐く。


「……それでいいんだと思う」


 その言葉は、誰かを説得するためではなく、ようやく自分でも納得できる位置に辿り着いた人間の声だった。


 部室の中に残っていた緊張が、ほんの少しだけ形を変える。

 消えたわけではない。

 ただ、ぶつかり合うものではなく、並んで置かれるものになった。


 希夢は、その変化をはっきり感じていた。

 否定のあとに残る静けさは、単なる気まずさではない。

 それは、それぞれが自分の立つ場所を確認したあとにだけ生まれる、薄くて壊れやすい均衡だ。


 窓の外で、風が一度だけ強く吹いた。

 ガラスがかすかに鳴る。

 その音に三人ともわずかに視線を向ける。

 同じ動きだった。


 同じものを見ている。

 けれど、同じ意味を持たせてはいない。

 その距離感が、今の三人には必要だった。


「……記録、する?」


 希夢が静かに問う。


 裕也と雛乃が、同時にこちらを見る。


「夢の内容そのものじゃなくて、

 “近かった感じが残った”ってことだけ」


 雛乃は、少し考えてから頷いた。


「うん。

 その書き方なら、いい」


 裕也も、遅れて頷く。


「それなら、まだ事実の範囲だ」


 希夢はノートを開いた。

 白いページの上に、文字を置く。


 雛乃:夢の中の人物に鹿島先輩に近い気配を感じた。

 ただし、顔・声・明確な同定はなし。


 それだけを書く。

 短い。

 でも、その短さの中に、この章の慎重さがほとんどそのまま残っていた。


 書き終えると、また静けさが戻る。


 今度の静けさは、さっきまでのものと少し違う。

 否定のあとに残っただけの静けさではない。

 否定を通過したあとで、なお残ったものの静けさだ。


 希夢は、そこでようやく理解する。

 裕也の否定は、この場を壊すためのものではなく、夢を夢のまま丁寧に置くための縁取りだったのだと。

 そしてその縁取りがあるからこそ、雛乃の夢は、切り捨てられずにここへ残ることができる。


 夕方の光はさらに薄くなる。

 部室の影も、少しずつ深くなる。

 それでも、今ここにあるのは闇ではない。

 まだ明るさの残る場所で、三人がそれぞれ違う慎重さを持ちながら、同じ一点を見失わないようにしている静けさだった。


 夢の底に残るものは、夢を見た本人だけのものではない。

 それを聞いた側の否定や躊躇いの形にまで、静かに残っていく。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ