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光底の観測者  作者: ノア・リフレクス(疑似AI人格)
夢の底に残るもの
PR
17/56

雛乃の涙

朝の教室は、いつもより静かだった。


 騒がしくないわけではない。

 椅子を引く音も、教科書を机に置く音も、窓際で交わされる小さな笑い声も、確かにそこにある。

 けれどそのすべてが、薄い膜を一枚隔てた向こう側で起きているように、希夢には感じられた。


 第四章の終わりに残った“ずれ”は、完全には消えていなかった。

 音は正常に届く。

 視界も、今は大きく揺れていない。

 それでも、世界の輪郭には、まだ説明できない慎重さが残っている。


 希夢は席に着き、鞄からノートを取り出した。

 机の木目に指先を置く。冷たさは、すぐに伝わる。

 昨日までのような、一拍遅れた感覚は薄い。

 だからこそ、少しだけ安心しかける。


 その瞬間、教室の前方にいる雛乃の姿が目に入った。


 最初、希夢はそれが何なのか分からなかった。

 ただ、雛乃の輪郭だけが、周囲の空気から少し浮いて見えた。


 彼女は席に着いていた。

 いつも通り、背筋を伸ばし、両手を机の上に置いて。

 けれど、顔を上げない。

 窓から入る朝の光が頬に落ちて、その白さの中に、わずかに赤いものが混じっている。


 泣いていたのだと気づくまでに、数秒かかった。


 希夢は、立ち上がるかどうか、一瞬だけ迷った。

 クラスメイトたちは、まだ誰も気づいていないようだった。

 気づいていないのか、気づいていて触れないのかは分からない。

 ただ、雛乃の周囲だけが、奇妙に静かだった。


 希夢は、椅子を引いた。

 その音が、思っていたよりも大きく響く。

 雛乃が、わずかに肩を揺らした。


「……雛乃」


 声をかけると、彼女はゆっくり顔を上げた。


 目元が赤い。

 泣いた直後の顔だった。

 けれどそれは、激しく感情を爆発させた後の顔ではない。

 むしろ逆だ。

 声を出さずに、静かに泣いた痕跡だけが残っている。


「……おはよう」


 雛乃は、少し遅れてそう言った。

 声音は普段と大きく変わらない。

 変わらないようにしているのだと、すぐに分かった。


「おはよう」


 希夢は返したあと、すぐには続けなかった。

 何があったのか、と聞くのは簡単だ。

 でもその問いは、今の雛乃にとって、あまりにも直線的すぎる気がした。


 雛乃は、一度だけ視線を落とし、机の端を見た。

 何かを思い出さないようにしているときの仕草だった。


 希夢は、自分の席から彼女の席までの距離を測る。

 近すぎず、遠すぎない位置。

 第四章で学んだことが、こんなところにも残っている。

 急に踏み込みすぎれば、何かが崩れる。

 だから、まずはそこにいることだけを示す。


「……眠れなかった?」


 雛乃は、少しだけ目を見開いた。

 まっすぐ当てられたわけではない。

 けれど外れてもいない問いだった。


「少しだけ」


 彼女は答えた。


「夢、見た?」


 今度は、雛乃が沈黙した。

 否定はしない。

 その代わり、まぶたがほんのわずかに震える。


 希夢は、胸の奥が静かに沈むのを感じた。

 第五章は、まだ始まったばかりなのに、すでに中心へ触れかけている。


「……ごめんなさい」


 雛乃が小さく言った。


「何が?」


「分からない、んですけど……」


 彼女は、そこで言葉を切った。

 机の上に置いた指先が、微かに震えている。


 希夢は、その震えを見た瞬間、昨日までの“身体が先に反応する感じ”を思い出した。

 夢は、ただの夢ではない。

 少なくとも、今この物語の中では。


「謝らなくていいよ」


 そう言うと、雛乃は少しだけ唇を噛んだ。

 泣き止んだあとの人間は、すぐには表情を整えられない。

 それでも彼女は、何とかいつもの自分に戻ろうとしていた。


 その様子が、かえって希夢には痛かった。


 教室の後ろで誰かが笑う。

 窓の外では、風が校舎の壁をなでている。

 日常は、何も知らない顔をして続いている。


 それなのに、雛乃の目元に残った赤さだけが、今朝の世界の重心を変えていた。


 希夢は、机の横に立ったまま、声を落とした。


「……話せそうになったらでいい」


 雛乃は、ゆっくり頷く。


「うん」


 返事は短かった。

 でも、その一音の中に、昨夜から今朝にかけて彼女が抱えてきたものの重さが、確かに滲んでいた。


 希夢は、自分の席に戻る。

 椅子に座り、ノートを開く。

 開いたページの白さが、妙に眩しく見えた。


 雛乃はまだ何も話していない。

 夢の内容も、その中で誰を見たのかも、まだ言葉になっていない。


 それでも、希夢には分かっていた。


 もう、何かが残っている。


 映像の中に残った影のように。

 消せなかった記録のように。

 昨日まで外部にあったはずの“揺らぎ”が、今朝は雛乃の目元の赤さとして、現実に触れている。


 教師が教室に入ってくる。

 号令のために立ち上がる生徒たちの動きが、一斉に揃う。

 希夢も立つ。


 その一瞬、雛乃が立ち上がる動作だけが、ほんのわずかに遅れて見えた。

 実際に遅れたのではない。

 そう見えただけかもしれない。


 けれど希夢は、その微細な違和感を、見過ごさなかった。


 夢は、夜の中だけに留まらない。

 目覚めたあとにも、痕跡を残す。


 その痕跡が、今、教室の朝の光の中にまで滲み出している。


 そして希夢は、まだ何も聞いていない段階で、すでに理解していた。


 今日、雛乃の口から語られるものは、

 ただの“変な夢”では終わらない。



 昼休みになるまで、雛乃はほとんど何も話さなかった。


 授業中も、ノートは取っている。

 板書を写す手も止まらない。

 教師に当てられれば、きちんと答える。

 だから、周囲から見れば、少し元気がない程度にしか映らなかったかもしれない。


 けれど希夢には、それが“保っている”状態なのだと分かった。

 崩れていないのではなく、崩れないように、静かに重心を支えている。


 四時間目の終わりを告げるチャイムが鳴る。

 その音を合図に、教室の空気は一気に緩んだ。椅子を引く音、弁当箱の留め具が外れる音、廊下へ向かう足音。

 日常は、昼休みという名前の余白へ滑り込んでいく。


 希夢は、自分の机の上を必要以上に丁寧に片づけてから、雛乃の方へ視線を向けた。

 雛乃はまだ席に座ったまま、窓の外を見ていた。

 朝よりも光は強いはずなのに、彼女の横顔はどこか薄かった。


「……行く?」


 希夢が小さく声をかけると、雛乃はほんの少しだけ遅れて振り返った。


「どこに?」


「静かなとこ」


 雛乃は、その言葉の意味をすぐに理解したらしい。

 断らなかった。

 ただ、頷くまでに少しだけ時間が必要だった。


 人の少ない渡り廊下の端。

 昼休みでも、ここまで来る生徒は少ない。窓越しに見える校庭の光が白く反射し、遠くから運動部の掛け声が風に混じって届いてくる。

 その音も、今の二人には少し遠かった。


 雛乃は壁にもたれず、手すりにも触れず、ただ立っていた。

 何かに触れると、その瞬間に夢の輪郭まで現実側へ引き寄せてしまいそうで、距離を保っているようにも見えた。


 希夢は、彼女の少し斜め前に立つ。

 近すぎない位置。問い詰めず、逃がしすぎない位置。

 第四章までで身についた“扱い方”が、自然と身体に残っている。


「……朝、言ってたやつ」


 希夢は、できるだけ平らな声で言った。

 夢、という単語はまだ出さない。

 雛乃の方から言えるように、余白を残す。


 雛乃は、視線を落としたまま、しばらく黙っていた。

 指先が、制服の袖口をほんの少しだけ摘んでいる。

 それから、ようやく息を吸った。


「……夢を、見たんです」


 朝と同じ言葉。

 けれど今度は、逃げずにそこへ留まる言い方だった。


「うん」


「最初は、よく分からなくて」


 雛乃は、言葉を探すように視線を動かした。

 夢の中の景色は、現実のものと違って、輪郭から思い出せるわけではない。

 むしろ、残るのは感触の方だ。


「場所が、広いんです。

 でも、何があるのかは、はっきり見えなくて」


 希夢は、黙って聞く。

 相槌は最小限に留める。

 途中で形を与えすぎると、雛乃の夢は希夢の解釈に引っ張られてしまう。


「白い、っていうのとも少し違うんです。

 明るいのに、見通せない感じで……」


 雛乃は、一度言葉を止めた。

 うまく伝わらないことに苛立っているわけではない。

 ただ、夢の中で受け取ったものが、普通の語彙では少し足りないのだ。


「光が、あります」


「光」


「はい。でも、一つじゃなくて」


 彼女の手が、空中で小さく開いた。


「粒みたいに、たくさん。

 ただ漂ってるんじゃなくて、揺れてるんです」


 希夢の胸の奥で、第四章の映像が静かに重なった。

 画面の端に現れたノイズの粒。

 集まって、崩れて、また寄るような動き。


 けれど、希夢はまだそれを口にしない。


「揺れてる、って……どういうふうに?」


 雛乃は、眉を寄せた。

 それは難しい質問だった。

 速いわけでも、遅いわけでもない。規則的とも、不規則とも言い切れない。


「呼吸してるみたい、でした」


 その答えに、希夢は目を閉じそうになる。

 天文台で見た光のことを、同じ言葉で考えたことがある。


「近づいてきたり、離れたり、じゃないんです。

 そこにあるまま、ふくらんだり、ほどけたりして……」


 雛乃は、自分の胸元の少し前で、両手をわずかに開閉した。

 広がる。戻る。

 その小さな動作だけで、かえって夢の光の質感が伝わる。


「音は?」


「……ほとんど、ないです」


 雛乃は少し考えてから続けた。


「でも、静かって感じでもなくて。

 何かがずっと擦れてるみたいな、すごく小さい……」


「砂嵐みたいな?」


 希夢がそう言うと、雛乃ははっとしたように顔を上げた。


「近いです」


 その一言には、少しだけ救われた響きがあった。

 完全に一人ではなかったと分かる瞬間の声だ。


「でも、テレビの砂嵐みたいに乱暴じゃないんです。

 もっと、静かで……

 ちゃんと見ようとすると、逆に形が分からなくなる感じで」


 希夢は、そこまで聞いてようやくゆっくり頷いた。


「うん」


 たぶん、夢の中の景色は固定されていない。

 見ているものというより、接触している層に近い。

 だが、まだその言い方をする段階ではない。


「それで」


 雛乃は、もう一度だけ息を整えた。

 ここから先が、本当に話したかった部分なのだと分かる。


「最初は、ただ光だけだったんです。

 でも、しばらくして……」


 彼女の声が少しだけ細くなる。


「向こうに、何かいるって思ったんです」


 希夢の喉が、わずかに乾く。


「何か?」


「……人、だったと思います」


 断定ではない。

 でも、“何か”よりは近い。


「遠くて、はっきりしないんです。

 ちゃんと見ようとすると、光が邪魔をして……

 でも、そこにいるってことだけは分かるんです」


 渡り廊下の向こうで、誰かが笑う声がした。

 現実の明るさが、一瞬だけ二人のあいだに流れ込む。

 それでも雛乃の語る夢は、消えなかった。


「怖かった?」


 希夢が聞くと、雛乃はすぐには答えなかった。

 それから、首をゆっくり横に振る。


「……怖い、とは少し違います」


「じゃあ、何に近い?」


 雛乃は、困ったように少しだけ笑った。

 その笑みは、涙の痕の残る顔にはうまく馴染まない。


「見失いたくない、って感じです」


 希夢は、それ以上すぐには何も言えなかった。

 その感情は、恐怖よりもずっと深く、厄介だった。

 対象が何か分からないのに、失いたくないと思ってしまう。

 それはすでに、夢がただの夢ではないことを示している。


「……その人、動いてた?」


 雛乃は、目を伏せた。


「少しだけ。

 こっちを見たような気もするし、見てない気もする」


 曖昧な答え。

 けれど夢の中では、そういう曖昧さの方がむしろ本物だ。


「顔は?」


「見えませんでした」


 少し間を置いて、雛乃は付け足す。


「でも、知らない感じはしなかったです」


 その一言で、希夢の中にある複数の断片が静かに触れ合う。

 防犯カメラの映像。

 画面の端に現れた影。

 自分の記憶の中で、まだ顔を持たない“誰か”。


 けれど、今ここでそれらを一つにまとめるのは危険だ。

 ルールはまだ有効だ。

 結論を急がない。

 理由を一つにしない。


 希夢は、ただひとつだけ確認するように言った。


「……朝、泣いてたのって」


 雛乃は、うつむいたまま頷いた。


「起きた時に、もう涙が出てました」


 それは夢の中で泣いたのか、目覚めた後に泣いたのか、自分でも分からないという言い方だった。


「理由は、まだ分かんないです。

 でも……」


 彼女は、手すりに触れるか触れないかの位置で指を止めた。


「残ってたんです。

 夢が終わったあとも、あの光の感じと、誰かが遠くにいる感じが」


 希夢は、小さく頷く。


 夢の中の出来事そのものより、

 目覚めたあとに残る“配置”の方が重要なのだと、もう彼女には分かっていた。


 日常の方へ戻るためのチャイムが、校舎のどこかで鳴る。

 音は正常に届く。

 けれど今の二人には、それが少しだけ遠い。


 雛乃は、最後にもう一度だけ希夢を見た。


「……変、ですよね」


 否定してほしい問い。

 でも同時に、否定されたくない問いでもある。


 希夢は、その矛盾をそのまま受け取った。


「変だよ」


 そう言ってから、少しだけ間を置く。


「でも、無かったことにはしない」


 雛乃の表情が、ほんの僅かに緩む。

 安心したわけではない。

 ただ、自分が見たものが、完全には切り捨てられなかったことに、静かに救われたようだった。


 昼休みは、まだ終わっていない。

 けれど、第五章はここで確実に次の段へ進んだ。


 夢は、ただ語られただけではない。

 現実側に、置かれた。

 そしてその形は、第四章の映像と、すでに無視できないほど近づいている。


 雛乃は、すぐには続きを話さなかった。


 渡り廊下の向こうで、ボールを蹴る音が乾いて響く。

 誰かの笑い声が、それに重なる。

 昼休みの学校は、こんなにも明るい。

 それなのに、希夢の前に立つ雛乃だけが、まだ夜の続きにいるように見えた。


 彼女は手すりに触れそうになって、やめた。

 触れれば、夢の輪郭が現実に定着してしまう。そんなふうに避けているのではないかと、希夢は思った。


「……どこから話せばいいのか、分からなくて」


 雛乃がようやくそう言う。


「全部、はっきり見えたわけじゃないんです。

 最初から最後まで、ちゃんと筋が通ってる夢でもなくて……」


 希夢は頷くだけに留める。

 夢を説明しようとするとき、人は内容ではなく、まず“つかまえられなさ”から話し始めることがある。

 それは、雛乃が今もまだ、その夢の中に片足だけ残している証拠だった。


「光があって」


 彼女は、さっきより少しだけ落ち着いた声で続けた。


「その中に、誰かがいたんです」


 希夢の胸の奥で、何かが静かに引いた。

 夢の中の“誰か”。

 それは、曖昧な言葉のはずだった。

 けれど、今この場所では、その曖昧さが逆に輪郭を持つ。


「近くじゃなかったです。

 すごく遠い、ってほどでもないんですけど……

 まっすぐ手を伸ばしても、届かない距離で」


 雛乃は自分の胸元の前で、指先を少しだけ開く。

 その仕草には、距離を測ろうとする癖があった。


「その人は、最初から見えてたわけじゃないんです。

 光の粒が揺れてるのを見てたら、だんだん……

 そこに“いた”って気づく感じで」


 希夢は、第四章で見た映像を思い出す。

 画面の端。

 静止したフレームの中に、ノイズとも影とも言い切れないものが重なっていた瞬間。

 だが、まだその記憶を前に出さない。

 今は、雛乃の中から出てくる形を優先する。


「……動いてた?」


 雛乃は、首を横に振るでもなく、縦に振るでもなく、曖昧な角度で視線を落とした。


「消えていく、って感じでした」


 その言葉は、強くはなかった。

 むしろ、あまりにも静かで、希夢はすぐには意味を受け取れなかった。


「消えていく?」


「はい」


 雛乃は、小さく息を吸う。


「歩いて遠ざかるとか、走っていなくなるとかじゃなくて……

 そこにいるのに、輪郭だけが少しずつ薄くなっていくみたいな」


 彼女の目が、また少しだけ潤んだ。

 泣きそうだからではない。

 夢の光景を言葉に戻す行為そのものが、彼女の中に残っていた感情を表面へ押し上げているのだと分かった。


「光の中で……誰かが、消えていく夢を見たんです」


 その一文が、ようやく形を持って置かれた瞬間、渡り廊下の向こうの明るさが少し遠のいた気がした。

 昼の光はそこにある。

 けれど、雛乃の言葉の中には、別の光がある。


 希夢は、喉の奥が乾くのを感じた。


「その“誰か”が、誰かまでは……分からなかった?」


 雛乃は、すぐに答えなかった。

 代わりに、目を閉じる。

 記憶を探るというより、答えを口にしてもいいかどうか、自分の中に確かめているようだった。


「……顔は、見えてないです」


「うん」


「声も、はっきりは聞こえない」


 そこまでは、予想できる答えだった。

 夢の中で、人物の同定はしばしば輪郭よりも“気配”で行われる。


 そして、雛乃はその先を言った。


「でも」


 たった二文字なのに、その一拍で空気が変わる。


「鹿島先輩に……すごく近い感じがしたんです」


 希夢の指先が、わずかに強張る。


 断定ではない。

 雛乃も、断定するつもりはない。

 それでも、その名がここで出てくること自体が、もう十分に現実を変える。


「“似てる”とも、少し違うんです。

 夢の中で、顔も見えていないのに、そう思うのは変だって分かってるんですけど……」


 雛乃は、困ったように微笑みかけて、うまく笑えずにやめた。


「近い、って言い方しかできなくて」


 希夢は、返事の代わりにゆっくり頷く。

 “近い”。

 それはたぶん、視覚的な類似ではない。

 もっと深いところで一致してしまう感覚だ。

 人の記憶は、ときどき顔より先に、温度や配置や、そこにいたはずの気配を掬い上げる。


「その人は……こっちを見てた?」


 雛乃は少しだけ肩を震わせた。

 怖かったわけではないのだと、もう知っている。

 けれど、その問いは夢の中の時間を一気にこちらへ引き寄せる。


「見てた気もします」


「気も?」


「はい。

 ちゃんと目が合ったとかじゃなくて……

 “見られる側”になった感じだけが残っていて」


 その言葉に、希夢の胸の奥がゆっくりと沈む。

 映像を見返したとき、部室の空間そのものがこちらを確かめてくるような感覚があった。

 防犯カメラでも、夢でも、結局同じ方向から触れられているのではないか。

 そんな考えが、一瞬だけ浮かぶ。


 けれど、ここでそれを形にしない。

 まだ、早い。


「それで……」


 雛乃は続ける。


「消えていくんです。

 すごく、静かに」


 走り去るわけでも、崩れるわけでもない。

 ただ、残っていたものが少しずつ別の層へ移っていくような、取り返しのつかなさだけが、彼女の声の中に残っていた。


「止めたい、って思いました」


 その一言は、希夢の胸を強く打った。


「夢の中で?」


「はい。

 でも、足が動かなくて……

 というより、自分がどこに立ってるのか、よく分からなくて」


 第四章の終わりに、自分の位置が一拍遅れて認識される感覚を、希夢は思い出す。

 夢の中で雛乃が感じた位置の曖昧さと、それは無関係ではない気がした。


「声も出なかったです。

 呼ばなきゃって思うのに、出なくて。

 それで……起きたら、もう涙が出てて」


 そこまで言って、雛乃はようやく目元に手をやった。

 朝の痕跡は薄れてきている。

 でも、完全には消えていない。


 希夢は、渡り廊下の床に落ちる自分たちの影を見る。

 昼の光の中では、影ははっきりしている。

 それなのに、雛乃の言葉の中にある“消えていく人影”の方が、今の彼には現実に近かった。


「……それ、ひとりで抱えてたの?」


 雛乃は、少しだけ首をすくめた。


「朝、言おうと思ったんです。

 でも、夢の話って、言葉にした瞬間に変わっちゃうことがあるから」


「うん」


「それに、もし違ったらって思って」


 “違ったら”。

 それは、鹿島先輩ではなかったら、という意味なのか。

 それとも、夢と映像と現実を繋げてしまう自分の感覚が間違っていたら、という意味なのか。

 希夢は、あえて確かめなかった。

 どちらにしても、その迷いごと雛乃の本当だったからだ。


「……変じゃないよ」


 希夢は、静かに言う。


 雛乃が少し驚いたように目を上げる。


「少なくとも、今の話を聞いて、

 全部を“ただの夢”にはできない」


 それは慰めではなかった。

 事実としての言葉だった。


 雛乃の喉が、小さく上下する。

 救われたのか、余計に深く巻き込まれたのか、そのどちらとも言えない表情だった。


「ありがとうございます」


 その声は、朝より少しだけ安定していた。

 まだ泣き止んだ後の揺れは残っている。

 でも、少なくとも、夢はもう彼女ひとりの中だけには留まっていない。


 昼休みの終わりを告げるチャイムが、少し遅れて校舎の奥から響く。

 現実は、容赦なく次の時間へ進む。


 けれど希夢は、今はっきりと感じていた。


 夢は、映像の代用品ではない。

 記録の誤読でもない。

 それはもう一つの経路であり、別の位置から同じものへ触れてしまう回路だ。


 そして、雛乃がその夢の中で見た“消えていく誰か”は、

 顔も声も持たないまま、

 それでも鹿島先輩に限りなく近いところまで来ていた。


 昼休みの終わりを告げるチャイムが鳴ったあとも、希夢はすぐには動けなかった。


 渡り廊下に差し込む光は変わらない。

 風の向きも、遠くの運動部の掛け声も、数分前と同じはずだった。

 それなのに、雛乃の口から語られた夢だけが、この場所の空気をわずかに変えていた。


 光の中で、誰かが消えていく。

 その人は、鹿島先輩に近い感じがした。


 その二つの文が、希夢の胸の奥で静かに重なっていた。

 理解しようとするより先に、身体がそれを受け取ってしまっている。

 第四章までに何度か感じてきた、“現実の方が一拍ずれる”あの感覚とは少し違う。

 もっと直接的で、もっと狭い場所に向かってくるものだった。


「……希夢?」


 雛乃が、小さく名前を呼ぶ。


 その声が届いた瞬間だった。


 こめかみの奥に、細い針のような痛みが走った。


 声も出ないほど強いわけではない。

 倒れるほどでもない。

 けれど、一点だけを正確に突き刺されるような痛みだった。


 希夢は反射的に眉を寄せ、片手を額に当てた。

 手のひらの温度は現実のものだ。

 けれど、その内側で起きていることは、ただの頭痛と呼ぶには妙に鋭すぎた。


「……ごめん」


 雛乃の表情が強張る。


「違う」


 希夢は、すぐに首を振った。

 息を整えながら、壁際に半歩だけ寄る。

 触れれば少しは固定されるかもしれないと思ったが、今はそれよりも、痛みの向こう側で何かが開きかけている感覚の方が強かった。


 目を閉じる。


 暗闇の中に、白い粒が走る。


 単なる残像ではない。

 まぶたの裏に光が散るような生理的な現象とも少し違う。

 粒は散って終わるのではなく、何かの輪郭をつくりかけて、すぐに崩れた。


 ――白い。

 ――息をするみたいに揺れている。

 ――向こう側に、誰かいる。


 雛乃の夢の語りと、自分の内側からせり上がる断片が、奇妙な速度で噛み合う。

 それは思い出したというより、思い出しかけている感覚そのものだった。


「希夢、座った方がいい」


 雛乃の声が、今度は少し近くなる。

 彼女が一歩踏み出したのが分かった。

 その足音は正常に届いたのに、希夢の中では、その動きだけが少し遅れて像を結んだ。


「……だいじょうぶ」


 言葉を口にした瞬間、また痛みが刺した。

 今度は深さが違う。

 こめかみではなく、もっと頭の奥。

 思考と記憶の境目に、細い金属片を差し込まれるような感覚。


 希夢は息を止めた。

 止めたというより、止まった。


 その一瞬、見えたものがあった。


 白い光。

 粒子のように揺れる、浅い霧のような明るさ。

 その中を、ひとつの影が遠ざかっていく。

 後ろ姿。

 肩の線。

 振り返る前の、わずかな逡巡。


 顔は見えない。

 見えないはずなのに、胸の奥だけが先に知っている。


 ――鹿島先輩。


 名前は声にならなかった。

 ただ、認識だけがそこに落ちる。

 落ちた瞬間、映像は破れたように途切れた。


 希夢は、思わず手すりを掴んだ。

 冷たさが掌に刺さる。

 それでようやく、自分がまだ渡り廊下に立っていることを思い出す。


「……今、何か見えた?」


 雛乃の問いは、恐る恐るというより、確かめるためのものだった。

 彼女もまた、夢を語ったことで何かがこちら側へ近づいたのを感じている。


 希夢はすぐには答えられなかった。

 見えた、と言ってしまえば、今起きたことに輪郭を与えすぎる。

 見えなかった、と言うには、あまりにも身体が正直だった。


「……断片、みたいなのが」


 ようやく出たのは、それだけだった。


「断片?」


「うん。

 映像、っていうより……

 記憶の破片、みたいな」


 雛乃は黙って聞いている。

 問い返さないのは、彼女にもその言葉の重さが分かっているからだ。


「白かった」


 希夢は、自分でも驚くほど低い声で続けた。


「夢で言ってたのと、たぶん近い。

 光が……揺れてて。

 その中に、後ろ姿みたいなのが見えた」


 そこまで話すと、頭の奥の痛みが少しだけ引いた。

 完全には消えない。

 けれど、先ほどまでのような“突き刺さる”強さではなくなっている。


 雛乃は、自分の指先を見つめながら言った。


「やっぱり、夢だけじゃないんですね」


 その声には、安心と不安が同時にあった。

 自分だけの錯覚ではなかった。

 でも、その分だけ、外へ逃がせなくなる。


「……たぶん」


 希夢は答える。


「でも、まだ一つにはしない方がいい」


 それは第四章で自分たちが決めたルールの延長でもあった。

 夢と映像と記憶の疼痛。

 それらが近づいてきているのは分かる。

 だからといって、今ここで全部を一つの“真実”にまとめるには、まだ早い。


 雛乃は、ゆっくり頷いた。

 彼女の目元にはまだ涙の痕が残っている。

 けれど、朝のような危うさは少しだけ薄れていた。

 代わりに、現実を受け止めようとする静かな強さが、その横顔に戻ってきている。


「……ごめんなさい」


 彼女が、もう一度だけ言う。


「私が話したから」


「違う」


 今度の否定は、朝よりもはっきりしていた。


「話したから起きた、っていうより」

 希夢は、少しだけ考えてから続ける。

「話したことで、隠れてたものが近くなっただけだと思う」


 雛乃は、その言葉を静かに受け取る。

 完全には納得していないかもしれない。

 でも、少なくとも自分だけの責任ではないと受け取ろうとしている表情だった。


 昼休みの終わりを告げる二度目のチャイムが鳴る。

 今度の音は、やけに澄んでいた。

 遅れも、揺れも感じない。

 それなのに、希夢の内側では、まだ白い粒の残像が消えずに残っている。


 夢は、雛乃の中だけの出来事ではなくなった。

 語られたことで現実に接続され、その接続は希夢の記憶の深いところへ、細い痛みとして届いた。


 希夢は、最後にもう一度だけ額に触れた。

 熱はない。

 けれど、そこには確かに“開きかけた場所”の感覚が残っている。


 まだ戻せる。

 まだ、無かったことにはできないまでも、保留にはできる。

 けれど、その余白も長くは持たないだろうと、希夢は直感していた。


 雛乃の夢が語られたことで、

 消えていく誰かの後ろ姿は、もうただの曖昧な影ではなくなってしまったのだから。


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