Recall the BOX(08)
長い夢を見ていた気がする。
普通に生きていた――否、普通に生きようとしていた頃の、儚くも美しい穏やかな日々。
人の夢と書いて儚いと読むように、それは終わりを告げたものではあるのだが、懐かしいと思う事は罪ではないだろう。
「――……カイネ」
譫言めいた声をひとつ。
ぽそりと呟いたオリア――今はコハクというべきか。
紫苑の双眸を薄すらとこじ開けて、男は揺れる意識をまとめていく。
さながらそれは、二重に見えているものを、一つに重ね合わせるかの如く。
焦点を合わせたコハクは、見慣れぬ天井に眉を顰めた。
「……ここは……」
年季を感じる渋い色合いの木目。
詳しくはないが、こういう時、相場は天然杉と決まっている。
ささやかな自然の香りを好ましく思いながら、目を覚ました男はさらさらと手触りの良い寝具の上で身を起こした。
聞こえるは、轟々《ごうごう》と流れる滝の音。
ひんやりとした空気は清々しい以上に清廉で、絶え間ない水音を聞くだけで心が癒されるかのようだ。
細工の施された窓の外には瑞々《みずみず》しい緑の色。
勇壮な滝と鳥の囀りの他に響く音はなく、澄んだ空気が身を包んでくれている。
チラつく事のない照明や、一人では余るほどの布団からいっても、ここが贅を尽くした旅館である事は容易に想像できるだろう。
何より、最後に見たのが彼の銀星だ。
深いため息をつきそうになり――
「お久しぶりです、コハクさん」
「…………カイネ。君は相変わらずだね」
結局コハクは、こらえきれないまま重い息を吐き出した。
悪びれない星に何を問えば良いのやら。
ベッドの脇に腰掛ける青年――否、もう青年と呼ぶ程の年齢でもないだろうか。
されども、あの日とまるで違わず見える星に、コハクは厳しい視線を送るほかにない。
「随分と手荒な招待だったじゃないか」
「これでも優しくしたつもりなんですけどね。本当はあの犬……消し飛ばすつもりだったんですから」
「…………カイネ」
「ははっ、やだなぁ。そんな怖い顔しなくても、コハクさんに嫌われる真似するわけないでしょ?めちゃくちゃムカついたんで、だいぶ遠くに飛ばしましたけどね。これで死ぬようなら……そもそもあなたにふさわしくない。それだけの話じゃありませんか?」
金に糸目をつけないのは昔から。
だがこんなにも冷たい目をする男だっただろうか。
凍てつかんばかりの銀星に、コハクはつい怯みそうになる。
(いや……違う。僕が意味を理解したからか)
無論、分かってはいる。
冷酷な眼差しが、けして己には向けられていない事を。
そして、分かってしまう。
カイネという男にとって、かつて時間を共にした仲間すら、取るに足らないどころか、興味にすら値しない相手だった事を。
(つくづく僕しか見ていなかったんだね)
にこやかな目も、朗らかな声も、細やかな気遣いも全て、自分にだけ向いていたものだった――それだけのこと。
しかして、それを喜ぶには遅すぎた。
カイネ・アルベノ・ペンタゴン。
人として生きていた頃の後輩であり、狐狸を使役する者。
その根底は、もはや考えるまでもない。
「君は……――安倍晴明、その血筋なんだろう?」
片や怪異、片や陰陽師。
互いの存在を前に、よもや脈絡など不要だろう。
自明に至るコハクの問いに、カイネはややあって微笑んだ。
「あー……やっぱ気づいちゃうんですね?」
僅かに細くなる眼差し。
その奥に咲く桔梗の意味を、今になって知る事になろうとは。
陰陽師――安倍晴明。
オカルトの中でも特に怪異や妖怪を探求する者で、その名を知らぬ者はいないはずだ。
今より1000年ほど昔、平安の時代。
占術や祈祷、天文の分野において、国に従事していた官人たちを陰陽師と呼んだのだが、とりわけ異才を放ったのが、この安倍晴明という男だった。
今でいう天体観測や風水、時間の管理。
果ては気象予報がもっぱらの仕事の中、安倍晴明の言は神の託宣に相違なく。
雨が降ると言えば雨が降り。
手を振るだけで枯れた草木が元気を取り戻し。
あらゆる疫病の遣い――つまりは人に憑りつき害を成す妖魔たちでさえ、忽ちのうちに祓い去ったという風に伝えられている。
もはや御伽噺の如き神業。
誇張されたとしか思えない偉人伝。
それらが真実であるか否かはさておき――だ。
人離れした偉業は現代にまで名を残し、陰陽師の歴史を色濃く残し続けるのだった。
当然、普通の人間は現代に生きる陰陽師の存在など信じはしないが、現実は奇なるもの。
人知を超えた存在をよく知るコハクは、降り注ぐ銀星を前に苦虫を嚙み潰した。
(どうして気づかなかったんだろう)
少し穿てば辿り着けたはずの真理。
怪異がいるならば、それを祓う者が要るのは道理。
そして、血を重んじる事もまた節理。
稀有な血を絶やさぬよう、脈々と根を広げてきたはずだ。
(ありえない事がありえる――それを知っていて、考えもしなかったなんてね。笑えもしないよ)
何も難しく構える必要はない。
五芒星は言わずもがな、アルベノの姓もまた、海の彼方に渡る中で安部の名が転じたものだったのだろう。
かつて栄華を極めた一族だけに、1000年を経た今なお膨大な資産や人脈を持っていたとて、なにも不思議ではなく。
東洋人の血を色濃く宿す容姿も。
安倍晴明を象徴する桔梗紋を浮かべる瞳も。
思えば、目に見えて分かる答えでしかなかった。
陰陽師として狐狸と契約を交わしている――確信をつくこの情報がないにしても、カイネと安倍晴明《かの陰陽師》を紐づける事は、そう難しい話ではないことだった。
(好ましいと感じたのも強い霊力を持っていたから。考えれば考えるほど腑に落ちるんだから……嫌なものだね)
誰よりも怪異の存在を認めながら。
誰よりもカイネの傍にいながら。
さりとて今の今まで想像もしなかった銀星の本質に、コハクは薄い唇を固く結ぶ。
いやにカサつくのは緊張故か。
手元に落ちてきた流星が、狂おしいほど眩いからか。
僅かな唾液を飲み込んで、褪せない星をそっと仰いだ。
(アニを信じてないわけじゃない――けど勝算は五分以下ってとこか。アニを引き剥がされた時点で、僕に攻撃の手段はないようなものだし……。さて、どうしたものかな)
座っていたとて、カイネの視線は少し高い。
見上げる形になった蒼天は果てが見えず、まるで心の内までを見透かしているようだ。
問題はその銀星に、かねてより目をつけられていたこと。
そして今、アニを引き剥がされてしまったこと。
本来ならば箱の内に入れた異形を使役できるのだが、それらは全てアニに与えてしまった後だ。
今やアニ以外に取り出せるものはなく、時間稼ぎさえ容易な事とは思えない。
(繋がりが断たれたわけじゃないけど、アニが戻るまで凌げるかどうか……うーん。金烏と違ってヌケサク《・・・・》じゃないだろうし、やっぱり難しいかな……?)
雑な物真似しかできない宝食。
驕り高ぶるばかりの金烏。
対策の分かり切った怪異とは逆に、目の前の陰陽師は何をしですか分かったものではない。
それがまして、かの伝説――安倍晴明の血を引くともなれば余計にのこと。
思いがけず、体が震えそうになった。
(はっ……はは。怖い――なんて久しい感情だ。ダインの時だって、恐怖よりも怒りが勝ってたのに。ああ……僕は。やっぱり僕は君を…………)
不滅の怪物と化したダイン。
あの異形の前でも、恐れていたのは誰かの死で、悔しかったのは己の無力さで、傍若無人な怪物への怒りだった。
だが今、体を震わせるのは、もっと別の感情だ。
結んだ唇をきつく噛めば――
「怯えないでよ、コハクさん」
腰掛けていたカイネが、蒼白く染まる頬に手を伸ばした。
外国からの観光客を意識してか。
和式の旅館ながら、ベッドは高さがあるものだ。
軋む音の代わりに二人の体を沈ませながら、不可侵にも思えた距離を一気に詰めていく。
「ねえ、コハクさん」
「…………何だい」
「怖いのはオレが陰陽師だから?」
「っ……!」
憂いた目が、切ない声が、コハクの胸に突き刺さる。
やはり何もかもを見透かされているようで、コハクは注がれる青を振り払うしかできなかった。
無言のまま視線を逸らすが、カイネもまたそれを追いはしない。
懺悔でもするかのように、ただ静かにコハクの頬に触れるだけだった。
「……ずっと悔いていたんです」
それは正しく告白だったのだろう。
血の通ったカイネの手が、どこか冷やりとした指に絡みつく。
触れ合った指は祈り手の如く。
星を浮かべる蒼空は、天蓋にも等しく、紫苑に圧し掛かった。
「この手を放すべきじゃなかった。たとえあなたが普通を望もうと、傍を離れるべきじゃなかった。そうすれば……こんな再会しなくて済んだのに」
「……カイネ」
「これが慢心か――って思いましたよ。傍に居なくてもあなたを守れると疑わなかった。でもそんなわけないじゃないですか。何度も忘れようとして、でも忘れられるわけがなくて……ずっとコハクさんの事だけ想ってさ。結局オレには何も残らなかったんだ。笑えるでしょ?」
「笑わないよ。僕だって……君を忘れられなかった」
それはまるで捨てられた子犬のようで。
非の打ち所がない――そう思ってきたカイネの弱々しい姿に、コハクは一層胸を締め付けられる。
恐ろしいのは、カイネに嫌われる事だった。
怪物だと悪し様に言われるのが。
弁明の余地もなく戦う事になるのが。
人の身を捨てながらも、嫌だと思ってしまった。
だからこそ、変わらず思慕を抱いてくれている相手に、心がざわめきを覚えてしまう。
(知らないのは僕だけだったんだろうか)
この感情の名前を。
この安堵の意味を。
あの日の自分はたしかに知らず――されど、今はもう狂おしい程に知っている。
(僕は……――君を愛していたんだね)
零れ落ちてしまいそうな蒼空が。
溶けだしてしまいそうな銀星が。
何故こんなにも胸を苦しめるのか。
答えはきっと、それ以外に考えらそうにない。
そうでなければ、コハクの名など、とうの昔に忘れ去っていただろう。
似合うと言われた服も、贈られた装飾品も捨てられぬまま。
つい目で追ってしまう後ろ髪も。
笑うと存外、子供っぽく無邪気に見える顔も。
シンプルな服を着こなすところも。
知らず知らず、その面影に重ねはしなかった。
アニが犬だったから――それを差し引いても、無意識に星を追い求めていたのは歪みない事実。
瞼の裏に残り続ける星の眩さに、コハクはぎゅっと表情を歪ませる。
その様子に、カイネは答えを得たのだろうか。
ぐっと力を込めて、コハクの体をベッドへと縫い付けた。
「……あーもう。少し……優しくしすぎましたね。無理やりにでも閉じ込めてしまうべきだった」
逃げ場を奪う人一人分の重み。
さりとて痛みはなく、唇は触れられぬ距離のまま。
カイネは悲しげに微笑むだけだった。
「最後のは冗談として……。あなたが普通に生きていると信じてたから、望んだ普通の中で笑っていると思ったから……オレ頑張ってきたんですよ?廻り回ってあなたの幸せに繋がると信じてさ。あなたがコッチ側に来なくて済むなら……って、あなたなしに生きる道を選んだつもりだった」
「それは……ごめん。僕も悪かった」
「謝らないで。謝られたらオレはあなたを許すしか出来なくなる。でも……怒ってるわけじゃないんです。もう一度コハクさんに会いたかった。もう一度チャンスが欲しかっただけで――……これだけは信じてください」
いっそ乱暴に扱ってくれたなら突き飛ばす事も出来ただろうに、あくまで優しさを伴い続けるのだから質が悪い。
真綿の鎖に囚われたコハクは、どうしようもなしに青を仰ぐしかなかった。
もしかしたらそれは自分が傷つきたくない、という思いからきている惑いかもしれない。
それでも、いまだ星を振り払えない。
「……どうして、そこまでして」
「あなたを愛してしまった。それ以外に答えがあります?」
なんて愛しくて悲しい一言か。
言わないだけで。
聞かないだけで。
眠りの森に閉ざされた姫を王子が助けに来た――今起きている事は、よくある童話のなぞり書きだ。
ただ姫は心通わせた獣の口付けで目覚めた後で。
いかに無数の小人を引き連れていようとも、いかに恐ろしい怪物を退ける力を持っていようとも、白百合の手が王子を受け入れる事は難しい。
永遠に思える迷いの末、コハクは静かに首を振った。
「カイネ――……君のそれは愛じゃない。ただの執着だ」
零れ落ちた声は怪物の呻きだっただろう。
だが、それこそが箱の性。
自分で告げて悲しくなるが、思い出を美化しているだけだと。
箱というものに惹かれているだけだと。
カイネを大切に想っていたからこそ、感情の名を正さなければならなかった。
真摯な眼差しに、さりとてカイネは首を傾ぐ。
「だったら?」
「だったらって……言ったままだ。僕に龍脈のような気質があるから、霊感を持つ君はそこに惹かれてるだけで――」
「それが何で愛してないって話になるんです?」
「…………え?ううん?いや、だって……」
首を傾げたのはカイネだったのか、コハクだったのか。
二度三度瞬く星の花に、本物の星はしんしんと降り注いだ。
「カッコイイ車に乗りたい。ブランドの服が着たい。一流シェフが作った料理を食べたい――……コハクさんの言う気質って、それと何が違います?」
誰だって一度は夢見るそれを、誰が悪いと言えるのか。
妬ましいと、羨ましいとやっかむ事はあれど、希い叶える事を悪と囀る者はそう多くない。
当たり前として問う言葉が、ざわざわと耳を撫でた。
「ねえ、コハクさん。それがあなたの個性だったとして……何がダメだって言うんですか?どうしてオレの感情を否定されなきゃいけないんですか?」
「僕だって否定したいわけじゃない。でも……」
「でも……何?フェロモンに寄せられる虫はみな可哀そう――って話ならオレは納得しませんよ?もしくはマタタビに酔う猫?まあ、例えは何でも良いですけどね。イイものに惹かれるのは当たり前の事なんですから。それを今更、霊的なものを引き寄せ易いってだけで執着だなんだ言われても……〝はい、そうですか〟とはなりませんよ?」
箱としての性質を知ってから付き纏ってきた苦悩。
それをサラリと受け流し、カイネは零す。
「オレも最初は群がってくる連中が気持ち悪かった。金があるから、容姿が整ってるから、頭が良いから――目に見えるものだけで判断されるのが不服だった。どいつもこいつも馬鹿にしか思えなかった。でもあなたに会って、自分も同じだって気づいたんです。オレもあなたを独り占めしたくて――ああ、なんだ、それで良いんじゃないかって、それが普通なんだって悟ったんですよ」
性能の良いものが欲しい。
容姿やデザインの整ったものが好き。
何かを好きになるという事は単純明快ものなのだと、腑に落ちた瞬間だった。
話題だけで買ったブランドバッグだって、長く使っていれば愛着の一つや二つ湧くものだ。
興味のないものだって、贈ってくれた人次第で価値が変わるし、趣味じゃなくとも形見というだけで大切に思うものだ。
箱の持つ性質。
それすら何てことはない理由の一つと言い捨てて、カイネは泣いてしまいそうほど歪んだ笑みを浮かべた。
「それが後付けだろうと何だろうと……オレはあなたが欲しい。淡い目が綺麗。優しい眼差しが嬉しい。穏やかな声を聴いていたい。抜けてるところも、興味のある事に一生懸命なところも、小さい口に頑張って詰め込むところも全部可愛くて好き。そのくせ……臆病で、頑固で、簡単には開いてくれないところが…………大好きなんです」
閉じ込めてしまいたいと独占欲を滲ませながら。
無理やりにでも状況を変える力を持ちながら。
カイネの腕はオリアを優しく抱きしめる以上の事をしない。
「カイネ……」
「……あなたがオレに惹かれたのも、オレに霊感があって、なおかつ優しいかったからですよね。それを思えばお互いさまでしょ?」
そもそも依存するほど弱くないし――しれっと一言つけ足して、カイネはコハクの反論を摘んでいく。
想いはあまりに深く。
身勝手でありながらも、その愛情によって守られ、育てられてきたのだと認めるしかなかった。
否定を飲み込めば、カイネはようやく穏やかに笑ったようだった。
「ねえ、コハクさん。目的――ってのも聞こえが悪いですけど……オレのものになりません?」
狐の笑みは信頼に足るのか否か。
にこやかに笑って、カイネはオリアの手を掴む。
「正直に言って、立場良くないですからね。今のあなたは、いつ討伐対象になってもおかしくない。それに……あなたの言う特質に気付く奴が現れないとも限らない。いつまでもこのままってわけにはいかないでしょう」
「それは……だろうね。僕だって覚悟してる」
「でしたらその覚悟、違う方に使いません?」
ニィと笑った目は細く。
本当に狐狸に見降ろされているかのようだ。
つい面喰ったオリアに、黒い毛並みの狐はニコニコと顔を綻ばせた。
「ここでさっきの話です!オレの式神になれば、陰陽省に追われる心配ないでしょ?人の社会で暮らす事も出来るでしょ?欲しいものも全部あげられるし……何よりオレが守ってあげられる。オレが死んだ後も、陰陽省付きの式神になってくれれば、ずっとあなたの安全を保障できますし……悪い話じゃないと思いません?」
眼差しは熱を帯び、燃える星が紫苑を射貫く。
「オレがあなたを守ってあげる。パソコンでも身分証でも欲しいもの全部あげるし、陰陽省の連中にだってとやかく――……ううん、違うな。また昔みたいに一緒に美味しいもの食べて、一緒に調べものして、たまに旅行に行って……よくできたねって褒めてよ。しょうがないなって笑って許してよ。ねえ……コハクさん」
時が止まっていたのかもしれない。
カイネは幼い子供のように希う。
情に訴える銀星はオリアの心を揺らし――だからこそだ。
オリアは身を焦がさんばかりの星を突き放した。
「……ッ」
流れるのは僅かな空白か、堪えきれぬ静寂か。
雲の行く末を待たず、オリアは拒絶の言葉を紡ぎ出す。
「君は……来てくれなかったじゃないか」
それは酷く残酷な言葉だっただろう。
オリアはどんな呪いよりも重い言葉を絞り出した。
「僕が一番助けて欲しい時に、一番会いたかった時に、君は来てくれなかった。傍にいてくれなかった。僕の傍に居てくれたのは……君じゃなかった。たった……たったそれだけの話だよ」
覆水盆に返らず。
時間は戻らず、過日の傷は埋められない。
真っすぐに射貫く紫苑の眼差しに、カイネはややあって表情を引き攣らせた。
「……っそんなの!オレが一番分かってる。あなたがこんなになってるのに、今の今まで気づきもしなかった」
それでも言い訳はしない。
連絡をくれなかったのはオリアも同じだと、呼んでくれなかったのはオリアの方なのだと、見苦しい方便を言霊に変えるような真似はしない。
ただ一つ恐れていたのは――
(愛していたから手放したんじゃない。怖かったんだ。あなたに受け入れて貰えない事が。嫌われる事が。だから……オレは答えを出さなかった。出せなかった)
愛した人に拒絶されること。
不確定事象に縋ったのは自分自身なのだと、カイネは慟哭を腹の奥へと閉じ込める。
無知のフリをすれば、良き後輩でいられた。
綺麗な思い出だけを抱いていられた。
結局、そんな己のエゴが琥を死に至らしめただけだ。
現実を突き付けられたカイネは、何度となく唸り、唇を噛み、苦渋に表情を変え――その末に辛酸を飲み込んだらしい。
長い長い、実際には短かったかもしれない。
「……分かりました。コハクさんを使役するのは諦めます」
渋々《しぶしぶ》――本当にしかたなくといった風にカイネは呻く。
これがダインとの決定的な違いだろう。
あの日と変わらぬ眼差し。
呆れながらも最後には折れてくれる優しさ。
大切に大切に守ってくれるカイネの情愛に、オリアは図らずも泣きそうになった。
(君の優しさが嬉しいなんて……僕は酷い奴だね)
それでも涙は見せられない。
せめて気丈に振舞わなければと、遠ざかる星を見つめたところで――だ。
「オレがあなたのモノになります」
「……なんて?」
オリアは我が耳を疑ったのだった。
長らく更新止まっており申し訳ありません。ペースは落ちるかと思いますが完結に向けて更新再会していきますので、楽しんでいただけましたら嬉しいです。




