表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
鉄筒と葬列  作者: すっぴん
2/5

第2話

耳が痛くなるほどの、静寂だった。


いや、実際には静かなどではない。


数千人の人間が泥を踏みしめる音、粗末な麻衣が擦れ合う音、そして何より、恐怖で過呼吸になった男たちの引きつった呼吸音が、そこら中に満ちていた。


ガストンは、自分の手のひらを見つめていた。


爪の間に黒い土が詰まっている。昨日まで、実家の貧しい畑をひたすら耕していた名残だ。


そんな泥だらけの手が今、握りしめているのは、冷え切った一本の鉄の筒だった。


全長はおよそ四尺。


粗末に削り出された木製の銃床ストックに、荒々しく鋳造された鉄管が、無骨なネジで固定されている。

ただそれだけの道具。


名前は「マスケット」。


「おい……ガストン。本当にこれで、あの化け物どもに勝てるのかよ……」


隣に並ぶ新兵の少年が、歯をガチガチと鳴らしながら、消え入りそうな声で囁いた。


少年の顔は完全に土気色で、股間からはかすかに尿の臭いが漂っている。


「うるさい。前を見ろ」


ガストンは感情を殺した声で返した。


そう言っている自分自身の膝も、小刻みに震えていた。


彼ら「黒色火薬隊」に与えられた訓練は、わずか三週間だった。


剣の振り方も、盾の構え方も教わっていない。馬の乗り方など知るはずもない。


叩き込まれたのは、ただ一連の「作業」だけだ。


ーー筒口から黒い粉を注ぎ込む。

ーー紙に包まれた鉛の玉を押し込む。

ーーかるか(込め矢)で、奥まで強く突き固める。

ーー火皿に点火用の細かい火薬を振る。

ーー火縄を火挟みに挟む。

ーー構えて、指揮官の合図で引き金を引く。


毎日、朝から晩までその動作だけを繰り返した。


指の皮が剥け、硝煙で顔が真っ黒になり、耳がキーンと鳴り止まなくなるまで、ただ機械のようにその手順を身体に刻み込んだ。


「昨日までクワを握っていた木っ端役者が、一丁前に兵隊のツラをするな!」


背後から、傭兵上がりの屈強な隊長が怒声を浴びせてくる。


隊長は、農民たちの背中を容赦なく鞭で叩きながら、横一列の隙間を埋めさせ、人間でできた密な「壁」を作らせていた。


「いいか、泥棒猫ども! 貴族の旦那方がどれだけピカピカの鎧で脅してこようが、一歩も動くな!

我々の武器は、個人の武勇ではない! この『列』そのものが一つの兵器だ!

合図があるまで、絶対に引き金を引くことは許さん!」


泥濘ぬかるみの広がる平原の向こう。


丘の上から、ついに「それ」が姿を現した。


息が止まる。


ガストンの視界の先、地平線を埋め尽くしたのは、まばゆいばかりの銀色の光だった。


太陽の光を反射して輝く、白銀の甲冑。


風にたなびく、色鮮やかなヴァロー家の紋章旗。


巨躯を誇る軍馬たちが、一糸乱れぬ動きで、ゆっくりと斜面を下りてくる。

美しかった。


圧倒的で、神聖で、そして容赦のない「暴力」の結晶が、そこにあった。


彼ら平民が、何世代にもわたって搾取され、跪き、決して逆らうことができないと刷り込まれてきた「支配者」そのものの姿だった。


ズゥゥゥン……、ズゥゥゥン……。


大地が、不気味に鳴り響き始める。

数百頭の軍馬が、一斉に速歩へと移行したのだ。


「ひっ……、ああ……」


隣の少年が、ついに恐怖に耐えかねて、銃を落としそうになる。


ガストンは少年の肩を、自分の泥だらけの手で強く掴み、正面へ向かせた。


「落とすな。死にたいのか」


ガストンの声は、自分でも驚くほど冷えていた。


騎士に対する憎しみがあるわけではない。ただ、ここで逃げれば背後から斬り殺され、実家の家族は路頭に迷う。

生きるために、この鉄の筒を機能させる。それだけが、今のガストンのすべてだった。


地鳴りが、次第に高くなっていく。


重装騎兵たちの速度が上がっていく。


時速四十キロメートルを超える、鋼鉄と肉体の塊。

それが三百余り、密集してこちらへ突っ込んでくるのだ。


まともな人間なら、その威圧感だけで精神が崩壊し、回れ右をして逃げ出す。

カチ、カチ、と周囲で火縄をセットする金属音が響く。


ガストンも、親指の震えを抑えながら、赤く燻る火縄を銃の機構に挟み込んだ。

独特の硫黄の臭いが、鼻腔をつく。


前方の騎士たちが、一斉に長大なランスを水平に寝かせた。

突撃の体制。


「うおおおおおおお!!」


地平線を揺るがすような、騎士たちの咆哮。


蹄の音が、いまや腹の底を直接揺さぶる重低音となって襲いかかる。

距離、三百歩。


白銀の甲冑の、細かい装飾までが肉眼で見える。


「……まだだ! 惹きつけろ!」


隊長の大声が響く。だが、その声も馬蹄の轟音にかき消されそうだった。

二百歩。


泥を跳ね上げ、風を切り裂き、圧倒的な質量が迫る。


死が、猛スピードでこちらへ向かって走ってくる。

百歩。


もう、騎士たちのバイザーの奥にある、狂気に満ちた眼光さえ見える気がした。


先頭を走る若き騎士ーーアルベリックの、ギラリと光る剣が天を指している。

ガストンは、銃床を右肩に強く押し当てた。


照準の直線上に、迫り来る白銀の胸当てを捉える。

心臓が、早鐘のように脈打っていた。


世界が、スローモーションのように引き伸ばされていく。


「……撃て(ファイア)ッ!!」


隊長の絶叫と同時に、ガストンは人差し指に力を込めた。

カチリ。


火縄が、火皿の火薬へと振り下ろされる。

次の瞬間。


ガストンの視界は、真っ白な爆炎と硝煙によって、完全に覆い尽くされた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ