第2話
耳が痛くなるほどの、静寂だった。
いや、実際には静かなどではない。
数千人の人間が泥を踏みしめる音、粗末な麻衣が擦れ合う音、そして何より、恐怖で過呼吸になった男たちの引きつった呼吸音が、そこら中に満ちていた。
ガストンは、自分の手のひらを見つめていた。
爪の間に黒い土が詰まっている。昨日まで、実家の貧しい畑をひたすら耕していた名残だ。
そんな泥だらけの手が今、握りしめているのは、冷え切った一本の鉄の筒だった。
全長はおよそ四尺。
粗末に削り出された木製の銃床に、荒々しく鋳造された鉄管が、無骨なネジで固定されている。
ただそれだけの道具。
名前は「マスケット」。
「おい……ガストン。本当にこれで、あの化け物どもに勝てるのかよ……」
隣に並ぶ新兵の少年が、歯をガチガチと鳴らしながら、消え入りそうな声で囁いた。
少年の顔は完全に土気色で、股間からはかすかに尿の臭いが漂っている。
「うるさい。前を見ろ」
ガストンは感情を殺した声で返した。
そう言っている自分自身の膝も、小刻みに震えていた。
彼ら「黒色火薬隊」に与えられた訓練は、わずか三週間だった。
剣の振り方も、盾の構え方も教わっていない。馬の乗り方など知るはずもない。
叩き込まれたのは、ただ一連の「作業」だけだ。
ーー筒口から黒い粉を注ぎ込む。
ーー紙に包まれた鉛の玉を押し込む。
ーーかるか(込め矢)で、奥まで強く突き固める。
ーー火皿に点火用の細かい火薬を振る。
ーー火縄を火挟みに挟む。
ーー構えて、指揮官の合図で引き金を引く。
毎日、朝から晩までその動作だけを繰り返した。
指の皮が剥け、硝煙で顔が真っ黒になり、耳がキーンと鳴り止まなくなるまで、ただ機械のようにその手順を身体に刻み込んだ。
「昨日までクワを握っていた木っ端役者が、一丁前に兵隊のツラをするな!」
背後から、傭兵上がりの屈強な隊長が怒声を浴びせてくる。
隊長は、農民たちの背中を容赦なく鞭で叩きながら、横一列の隙間を埋めさせ、人間でできた密な「壁」を作らせていた。
「いいか、泥棒猫ども! 貴族の旦那方がどれだけピカピカの鎧で脅してこようが、一歩も動くな!
我々の武器は、個人の武勇ではない! この『列』そのものが一つの兵器だ!
合図があるまで、絶対に引き金を引くことは許さん!」
泥濘の広がる平原の向こう。
丘の上から、ついに「それ」が姿を現した。
息が止まる。
ガストンの視界の先、地平線を埋め尽くしたのは、まばゆいばかりの銀色の光だった。
太陽の光を反射して輝く、白銀の甲冑。
風にたなびく、色鮮やかなヴァロー家の紋章旗。
巨躯を誇る軍馬たちが、一糸乱れぬ動きで、ゆっくりと斜面を下りてくる。
美しかった。
圧倒的で、神聖で、そして容赦のない「暴力」の結晶が、そこにあった。
彼ら平民が、何世代にもわたって搾取され、跪き、決して逆らうことができないと刷り込まれてきた「支配者」そのものの姿だった。
ズゥゥゥン……、ズゥゥゥン……。
大地が、不気味に鳴り響き始める。
数百頭の軍馬が、一斉に速歩へと移行したのだ。
「ひっ……、ああ……」
隣の少年が、ついに恐怖に耐えかねて、銃を落としそうになる。
ガストンは少年の肩を、自分の泥だらけの手で強く掴み、正面へ向かせた。
「落とすな。死にたいのか」
ガストンの声は、自分でも驚くほど冷えていた。
騎士に対する憎しみがあるわけではない。ただ、ここで逃げれば背後から斬り殺され、実家の家族は路頭に迷う。
生きるために、この鉄の筒を機能させる。それだけが、今のガストンのすべてだった。
地鳴りが、次第に高くなっていく。
重装騎兵たちの速度が上がっていく。
時速四十キロメートルを超える、鋼鉄と肉体の塊。
それが三百余り、密集してこちらへ突っ込んでくるのだ。
まともな人間なら、その威圧感だけで精神が崩壊し、回れ右をして逃げ出す。
カチ、カチ、と周囲で火縄をセットする金属音が響く。
ガストンも、親指の震えを抑えながら、赤く燻る火縄を銃の機構に挟み込んだ。
独特の硫黄の臭いが、鼻腔をつく。
前方の騎士たちが、一斉に長大なランスを水平に寝かせた。
突撃の体制。
「うおおおおおおお!!」
地平線を揺るがすような、騎士たちの咆哮。
蹄の音が、いまや腹の底を直接揺さぶる重低音となって襲いかかる。
距離、三百歩。
白銀の甲冑の、細かい装飾までが肉眼で見える。
「……まだだ! 惹きつけろ!」
隊長の大声が響く。だが、その声も馬蹄の轟音にかき消されそうだった。
二百歩。
泥を跳ね上げ、風を切り裂き、圧倒的な質量が迫る。
死が、猛スピードでこちらへ向かって走ってくる。
百歩。
もう、騎士たちのバイザーの奥にある、狂気に満ちた眼光さえ見える気がした。
先頭を走る若き騎士ーーアルベリックの、ギラリと光る剣が天を指している。
ガストンは、銃床を右肩に強く押し当てた。
照準の直線上に、迫り来る白銀の胸当てを捉える。
心臓が、早鐘のように脈打っていた。
世界が、スローモーションのように引き伸ばされていく。
「……撃て(ファイア)ッ!!」
隊長の絶叫と同時に、ガストンは人差し指に力を込めた。
カチリ。
火縄が、火皿の火薬へと振り下ろされる。
次の瞬間。
ガストンの視界は、真っ白な爆炎と硝煙によって、完全に覆い尽くされた。




