第1話
大陸西部に広がるヴァロー伯爵領の秋は、黄金色の小麦畑が地平線まで続く豊かな季節である。この肥沃な土地を数百年間にわたり外敵から守り、同時に支配してきたのは、神聖なる「武」を体現するヴァロー家の重装騎兵たちであった。
「アルベリック様、本隊の陣形、整いました」
副官の若い騎士が、馬を並べて短く告げた。
アルベリック・ド・ヴァローは、愛馬の首筋を軽く叩きながら、眼下に広がる広大な盆地を見下ろした。彼の纏う白銀の甲冑は、領内の熟練した鍛冶職人が三年もの歳月をかけて叩き出した一品物である。朝日に照らされ、まばゆい光を放つその姿は、一領主の嫡男としての権威と、これまで積み上げてきた血の滲むような鍛錬の歴史を雄弁に物語っていた。
彼の背後には、同じように全身を鋼鉄の板で包み込んだ重装騎兵が三百余騎、整然と隊列を組んでいる。
彼らが跨る軍馬は、一頭を維持するために平民の農家が十軒、一年間で稼ぐ額のすべてを消費するほどの最高級の血統だった。幼少期から剣を握り、馬上で槍を構える訓練だけを義務付けられてきた貴族階級の精鋭。それが、このヴァロー伯爵領の誇る「鉄の壁」である。
今回の遠征の目的は、北部の新興交易都市を抱えるルアール子爵の不穏な動きを圧殺することだった。
ルアールは平民の商人上がりで、金に物を言わせて爵位を買い取った不届き者である。そのルアールが、、王室への税を拒絶し、独自の軍備を調え始めたという。
「農奴の分際で、小賢しい真似を」
周囲の老騎士たちは、鼻で笑っていた。
中世の戦争とは、鍛え上げられた個の武勇がすべてを決する神聖な舞台だ。馬の乗り方も知らぬ農民をいくら数だけ集めたところで、重装騎兵の放つ一撃の突撃の前に、蜘蛛の子を散らすように逃げ惑うのは歴史が証明している。農民は畑を耕し、貴族は戦う。それが神の定めた世界の理であった。
しかし、アルベリックの胸中には、冷たい霧のような違和感がまとわりついていた。
ルアール子爵は、決して愚者ではない。金に汚いが、その戦術眼や時勢を読む目には油断ならないものがある。その男が、数倍の動員力を持つ伯爵家に正面から反旗を翻したのだ。勝算が皆無であるはずがない。
「アルベリック様、ルアール軍の動向を追っていた斥候が戻りました。ですが……」
副官の顔が、奇妙に強張っていた。
馬を急がせて本陣へと駆け込んできたのは、領内でも一、二を争う腕利きの斥候、ベルナールだった。数日間にわたって敵陣の偵察を行っていたはずの彼の顔は、土気色に汚れ、目には言い知れぬ困惑と怯えが浮かんでいた。
「報告せよ、ベルナール。敵の陣容は」
アルベリックが冷徹な声をかけると、ベルナールは馬から転げ落ちるようにして跪いた。
「は、はい……! 敵の総勢はおよそ二千。その大半は、周囲の農村から強制的に徴募された、鎧も持たぬ小作農たちです。槍や剣を満足に持っている者すら、ほとんどおりません」
「ふん、やはりな」
近くにいた宿将の一人が、せせら笑った。
「案の定だ。そんな泥棒猫の集まり、我が騎兵隊が一度突撃すれば、最初の五分で戦線は崩壊する。話にならん」
だが、ベルナールの報告はそこで終わらなかった。彼は震える手で、懐から一枚の羊皮紙を取り出した。そこには、歪な形をした鉄の筒の絵が描かれていた。
「違うのです……彼らは、槍ではなく『鉄の筒』を持っております。長さは1メートルほど。鉄の筒を木製の台座に固定したような不格好な代物です。彼らはここ数週間、ただその筒の穴に黒い砂を詰め、鉛の玉を押し込み、構えるという奇妙な動作を、狂ったように繰り返していました」
「鉄の筒だと? 棍棒の代わりにでもするつもりか?」
「いえ、あれは……あれは、遠くから火を噴くのです」
ベルナールの声が、恐怖で上ずった。
「斥候の仲間が一人、山林からその訓練の様子を覗き見ていたところ、見つかりました。敵の農民がその筒を向けた瞬間、耳を聾するような轟音と共に煙が上がり……次の瞬間には、40メートルも離れた場所にいた仲間の胸に穴が開き、即死しました。甲冑の上から、です。魔法の類ではありません。ただの、鉄の筒なのです」
本陣の空気が、一瞬で凍りついた。
だが、その沈黙を破ったのは、宿将たちの激しい嘲笑だった。
「馬鹿馬鹿しい! 斥候ともあろう者が、敵の小細工に怯えて幻でも見たか!」
「40メートル先の甲冑を貫くだと? 名工が作った複合弓でさえ、至近距離でなければ我が家の装甲は抜けん。農民の持つ玩具にそんな威力があるわけがなかろう」
「おそらく、火薬を使った手品の一種だ。音と光で我が軍の軍馬を驚かせようという腹づもりだろう。小賢しい平民め、戦の何たるかも知らぬと見える」
騎士たちは一様に、ベルナールの報告を「戦を恐れた臆病者の妄言」として片付けようとした。
彼らにとって、自分たちが生涯を捧げてきた「個の武」が、昨日まで泥を捏ねていた農民の持つ道具によって否定されるなど、あってはならないことだった。それを認めることは、彼らの存在理由、特権階級としての誇り、すべてを失うことを意味するからだ。
アルベリックは、描かれた鉄の筒の絵を見つめ続けた。
洗練された美しさは微塵もない。ただの無骨な、大量生産されたかのような鉄の塊。
(わずか数週間の訓練……?)
もし、ベルナールの言葉が真実なら。
乗馬技術の習得には十年がかかる。剣技を極めるには、それ以上の歳月と、戦場で生き残った経験が必要だ。だからこそ、それらを提供する土地を持つ貴族階級が戦場を支配してきた。
だが、もしその「十年」が、わずか「数週間」の訓練で手に入る道具によって覆されるとしたら。
「アルベリック様、進軍のラッパを。敵は盆地の出口、泥濘の多い平原に陣を敷いたようです。これ以上時間をかければ、敵に防塁を築く猶予を与えることになります」
副官の言葉に、アルベリックは思考を遮断された。
すでに総大将である父・ヴァロー伯爵からの進軍命令は下っている。いまさら斥候の一言で退却などできるはずもなかった。
「……全軍、進め」
アルベリックは、兜の面頬を下ろした。視界が狭まり、己の荒い呼吸の音だけが響く。
銀光を放つ重装騎兵連隊が、ゆっくりと斜面を下り始める。馬蹄が大地を鳴らす地鳴りのような音が、盆地に響き渡る。その壮麗な行軍は、絵画のように美しく、無敵の威容を誇っていた。
前方、1600メートル先。
泥の混じった平原に、粗末な麻の服を着た平民たちの列が見えてくる。彼らは互いの肩が触れ合うほど密集し、横に長い列を作って立ち尽くしていた。その手には、ベルナールの言った通りの、不格好な鉄の筒が握られている。
アルベリックは剣を抜き、高く掲げた。
歴史の歯車が、自分たちの預かり知らぬ場所で、不気味な音を立てて回り始めているような予感。それを振り払うように、彼は愛馬の腹を蹴った。
「ヴァローの栄光の前に、平伏せよ! 突撃ーーっ!!」
地響きが激しくなる。騎士たちの咆哮が轟く。
彼らはまだ知らなかった。これが、彼らが「騎士」として戦う、最後の突撃になるということを。




