第8話 奪われる恐怖
——最悪だ。
廊下の陰に身を寄せたまま、アルベルトは奥歯を噛み締めた。
見なければよかった。
本気で、そう思う。
けれど。
視線が、どうしても離れなかった。
少し先。
中庭へと続く廊下の途中で——
アリアナと、アランが向かい合っている。
距離が、近い。
近すぎる。
「……っ」
胸の奥が、ざわつく。
あんな距離で、何を話しているのか。
聞こえない。
聞こえないのに。
嫌な想像だけは、いくらでもできた。
(……やめろ)
自分に言い聞かせる。
兄上だぞ。
あの人は、そういうことをする人間じゃない。
分かっている。
頭では、理解している。
——それでも。
アリアナが、あんな顔をしているのを見てしまった。
少しだけ、困ったように。
でも、どこか安心したように。
柔らかく、笑っている。
(……なんでだよ)
胸が、痛む。
あんな顔。
自分の前では、一度だって見たことがない。
いつも、張り詰めていて。
正しくあろうとして。
失敗しないようにして。
——息苦しそうで。
「……くそ」
小さく、吐き捨てる。
分かっている。
あれが、本来のあいつだ。
兄上の前では、力を抜ける。
安心できる。
だから、あんな顔をする。
「……じゃあ、俺は何だ」
喉の奥が、ひりつく。
答えは、簡単だ。
——緊張する相手。
——失敗できない相手。
つまり。
「……必要ない相手、かよ」
自嘲が漏れる。
情けない。
本当に。
自分で勝手に傷ついているだけだ。
(違うだろ)
分かっている。
そんなはず、ない。
あいつは——
「……っ」
言いかけて、止まる。
思い出す。
さっきの顔。
涙を浮かべて。
こちらを見ていた。
あの時。
確かに、何か言いたそうだった。
なのに。
「……俺が、切った」
全部。
自分で。
胸の奥が、きしむ。
その痛みを、誤魔化すように視線を上げる。
——まだ、二人はそこにいる。
会話は続いているらしい。
アランが、何かを言う。
アリアナが、驚いたように目を見開く。
それから。
少しだけ、視線を逸らして。
何かを考えるように、俯いた。
「……何言ってんだよ」
嫌な予感がする。
根拠はない。
けれど。
嫌な方向にしか、想像できない。
やがて。
アリアナが顔を上げる。
その表情は——
さっきまでとは、少し違っていた。
迷いが、ある。
揺れている。
(……やめろ)
心の中で、強く思う。
それ以上、何も聞くな。
何も考えるな。
そのままでいろ。
なのに。
アランが、一歩近づく。
距離が、さらに縮まる。
「……っ!」
思わず、拳を握る。
やめろ。
それ以上、近づくな。
触れるな。
「……俺のだろ」
気づけば、そう呟いていた。
小さく。
誰にも聞こえない声で。
「……俺の、婚約者だろうが」
分かっている。
そんな言い方、したくない。
物みたいに。
所有物みたいに。
——でも。
そう言わないと。
奪われそうで。
「……くそ」
視線が、逸らせない。
目の前で起きていることから、逃げられない。
やがて。
アリアナが、口を開いた。
何かを、言う。
声は聞こえない。
けれど。
そのあと。
——アランが、笑った。
優しく。
満足そうに。
まるで。
望んでいた答えを、もらったかのように。
「……は?」
血の気が、引く。
何だ、今の。
何を言った。
何を、選んだ。
(……選んだ?)
その言葉が、頭に浮かんだ瞬間。
背筋が冷える。
選ぶ。
あいつが。
兄上を?
「……っ、ふざけるな」
思わず、一歩踏み出しかける。
止まる。
足が、動かない。
行って、どうする。
何を言う。
何の権利がある。
さっき、自分は何を言った。
——「もういい」
自分で、突き放したくせに。
今さら。
「……最悪だな」
笑えない。
本当に。
何もかもが。
やがて。
アランが、背を向ける。
去っていく。
残されたのは、アリアナ一人。
その姿を見て。
胸が、強く打つ。
「……行け」
心の中で、自分に言う。
今なら、まだ間に合う。
話せ。
ちゃんと。
全部。
「……っ」
けれど。
足は、動かなかった。
怖かった。
もし。
本当に。
もう遅かったら。
もし。
あいつが、兄上を選んでいたら。
「……無理だろ」
小さく、吐き出す。
逃げた。
また。
何もできないまま。
ただ見ているだけで。
奪われるかもしれないものを、指をくわえて。
「……くそ」
壁に拳を打ちつける。
鈍い痛みが、走る。
それでも。
どうしようもなかった。
——初めて、はっきりと理解した。
(……本当に、取られる)
その現実が。
胸の奥に、重く沈んでいく。




