第7話 皇太子の提案
『……もういい』
その一言が、耳の奥に残っている。
離れない。
消えない。
——まるで、終わりを告げる音のように。
「……っ」
足が、止まる。
気づけば、人気のない廊下の途中だった。
どこへ向かっていたのかも、分からない。
ただ、あの場にいられなくて。
逃げるように歩いてきただけ。
「……はあ」
息が、うまく吸えない。
胸が苦しい。
けれど、それをどうすればいいのかも分からない。
(……終わってしまいましたわね)
静かに、そう思う。
婚約がどうなるかは分からない。
けれど。
少なくとも——
関係は、壊れた。
もう、元には戻らない。
そう理解すると、不思議と涙は出なかった。
代わりに。
何も感じない、空っぽの感覚だけが残る。
「ここにいたんだ」
不意に、声が落ちてきた。
顔を上げる。
そこにいたのは——
「……アラン様」
皇太子だった。
「探したよ」
柔らかく笑いながら、近づいてくる。
その表情を見ただけで。
張り詰めていた何かが、ふっと緩んだ。
「お顔の色が優れませんね」
「まあね」
軽く肩をすくめる。
「君ほどじゃないけど」
冗談めかした言い方。
それに、わずかに救われる。
「……申し訳ございません」
無意識に、謝罪が口をつく。
「どうして君が謝るの?」
すぐに返された。
「悪いのはアルベルトだろう」
「いえ、私が——」
「違う」
やんわりと、しかしはっきりと遮られる。
「君は何も悪くない」
その断言に、言葉を失う。
「でも……私は、また失敗して」
「失敗?」
アランは、少しだけ首を傾げた。
「ため息をついただけで?」
「……」
言い返せない。
事実だった。
「それで関係が壊れるなら」
静かに、言葉が続く。
「最初から、そんなものだったんだよ」
——違う。
反射的に、そう思う。
そんなはず、ない。
あの人との関係が、そんな軽いものだったなんて。
思いたくない。
けれど。
否定する言葉が、出てこない。
「君はね」
アランが、一歩近づく。
「頑張りすぎなんだ」
優しい声だった。
責めるでもなく。
諭すでもなく。
ただ、包み込むような。
「いつも正しくあろうとしてる」
図星だった。
「でも、それは“君”じゃない」
心臓が、強く打つ。
「君は、もっと……」
少しだけ言葉を選ぶようにして。
「不器用で、感情的で、分かりにくい」
——そんな自分、知らない。
そう思った。
けれど。
「さっきみたいに泣くところとか」
優しく言われて。
何も言えなくなる。
「十分、人間らしいよ」
胸の奥が、じんわりと熱くなる。
こんなふうに言われたのは、初めてだった。
「……ですが」
かろうじて、言葉を絞り出す。
「そのようでは、王子妃には相応しくありません」
それが、正しい。
ずっと、そう教えられてきた。
「相応しいかどうかでしか、自分を見られないの?」
静かに、問われる。
「……それが、私の役目ですから」
「役目、ね」
アランは小さく笑った。
どこか、寂しそうに。
「じゃあさ」
ふと、声音が変わる。
少しだけ、低くなる。
「その役目、やめてみる気はない?」
「……え?」
理解が、追いつかない。
「婚約のことだよ」
さらりと、とんでもないことを言う。
「やめてしまえばいい」
「そんな……」
あり得ない。
そんなこと、考えたこともない。
「無理に続ける必要はない」
淡々とした口調。
けれど、その言葉には妙な現実味があった。
「君が苦しいだけの関係なら、意味がない」
「……ですが」
言葉に詰まる。
否定したい。
けれど。
「……苦しく、ないわけでは」
正直な言葉が、零れた。
「だろうね」
あっさりと肯定される。
「だったら、離れていい」
その言葉は。
あまりにも、優しくて。
あまりにも、簡単で。
——だからこそ。
怖かった。
「……それでは」
ぽつりと呟く。
「私は、何になるのですか」
王子妃でもなく。
誰かの婚約者でもなく。
ただの自分に、なった時。
自分には、何が残るのか。
分からない。
何もない気がして。
怖い。
「何にでもなれるよ」
迷いなく、言い切られる。
「君は優秀だからね」
違う。
そうじゃない。
そんな言葉が欲しいんじゃない。
「でも、もし」
アランが、さらに一歩近づく。
距離が、近い。
逃げられない。
「どうしても選べないなら」
そっと、手が伸びる。
触れるか、触れないかの距離で止まる。
「僕が選んであげてもいい」
——息が、止まる。
「君が壊れない方を」
静かな声だった。
優しくて。
正しくて。
救いのように聞こえる。
(……楽だ)
ふと、そう思ってしまう。
この人に任せてしまえば。
きっと、間違えない。
苦しくもならない。
全部、上手くいく。
——けれど。
「……それは」
かすれた声で、言う。
「ずるい、ですわ」
「ずるい?」
「はい」
視線を上げる。
まっすぐ、アランを見る。
「そんなふうに言われたら」
逃げたくなるに、決まっている。
「私は、弱いのです」
ぽつりと、零す。
「楽な方を、選んでしまいます」
アランは、何も言わない。
ただ、静かに聞いている。
「でも」
ぎゅっと、手を握る。
「それでは、いけない気がするのです」
理由は分からない。
けれど。
それだけは、はっきりしていた。
「……そっか」
アランが、小さく笑う。
どこか、満足そうに。
「やっぱり、君は強いね」
そう言って、手を引いた。
「今のは忘れて」
軽い口調に戻る。
「ただの独り言だよ」
「……アラン様」
「うん?」
呼び止める。
言いたいことが、ある。
けれど。
結局、言葉にならなかった。
「……いえ」
首を振る。
「ありがとうございます」
それしか言えなかった。
アランは、優しく頷く。
「無理はしないこと」
それだけ言って、背を向けた。
去っていく背中を、見送る。
——一人になる。
静かな廊下。
胸に残るのは。
優しさと。
そして。
消えない、痛み。
「……どうして」
小さく、呟く。
どうして。
こんなにも、苦しいのに。
(……まだ)
あの人のことが。
頭から、離れないのだろう。




