第5話 王子の劣等感
——また、やってしまった。
廊下を歩きながら、アルベルトは奥歯を噛み締めた。
苛立ちが収まらない。
いや。
違う。
(……違うだろうが)
分かっている。
あれは、苛立ちなんかじゃない。
——ただの、八つ当たりだ。
「……くそ」
小さく吐き捨てる。
思い出すのは、先ほどの光景。
涙を浮かべたアリアナと。
それを慰めようとする、兄の姿。
(なんで、あいつが泣いてるんだ)
胸の奥が、ざわつく。
理由なんて、分かりきっているくせに。
「……俺のせいだろ」
吐き出した言葉は、やけに重かった。
分かっている。
あんな言い方をすれば、傷つくに決まっている。
あいつは、そういうやつだ。
——完璧で。
——真面目で。
——無駄に、傷つきやすい。
「……なのに」
どうして。
あんな態度しか取れないのか。
苛立つ。
自分に。
どうしようもなく。
「アルベルト」
不意に、名前を呼ばれる。
顔を上げると、そこにいたのは——
「兄上」
アランだった。
いつからそこにいたのか。
壁に寄りかかるようにして、こちらを見ている。
その視線が、妙に鋭い。
「随分と派手にやらかしたね」
軽い口調。
だが、笑ってはいない。
「……何のことですか」
とぼける。
「分かってるだろう」
即座に返された。
「アリアナのこと」
言葉に詰まる。
「泣かせておいて、そのまま放置。挙句、僕に当たり散らす」
淡々と並べられる。
事実だった。
反論の余地なんて、どこにもない。
「……別に」
視線を逸らす。
「泣かせるつもりは、ありませんでした」
「でも泣いた」
「……」
「それが答えだよ」
痛いところを突かれる。
何も言えない。
アランは、少しだけ息を吐いた。
「どうして、あんな態度を取るの?」
静かな問いだった。
責めるでもなく。
ただ、純粋に疑問を投げかけるような。
——だからこそ、逃げられない。
「……別に」
もう一度、同じ言葉を繰り返す。
だが。
今度は、続かなかった。
言い訳なんて、いくらでもできる。
あいつが悪い、と言うことだってできる。
けれど。
(そんなの、全部嘘だ)
分かっている。
全部、自分の問題だ。
「……あいつが」
ぽつりと、口が動いた。
「完璧すぎるからです」
言ってから、苦笑する。
自分でも、馬鹿みたいな理由だと思う。
だが、それが本音だった。
「完璧?」
アランが、わずかに眉を上げる。
「ああ」
頷く。
「礼儀も、教養も、立ち振る舞いも……何もかも、隙がない」
思い出すだけで、息が詰まりそうになる。
「常に正しいことしか言わないし、間違えない」
——だから。
「……怖いんです」
言葉が、落ちた。
自分でも驚くほど、あっさりと。
「……怖い?」
「ああ」
視線を落とす。
拳を握る。
「俺は、あいつみたいにできない」
当たり前だ。
分かっている。
けれど。
「兄上と同じだ」
ぽつりと、零れる。
「……僕?」
「そうだろうが」
顔を上げる。
アランを見る。
「優秀で、完璧で、誰からも好かれる」
苦々しく笑う。
「俺とは違う」
沈黙が落ちる。
「……だから」
言葉を探す。
どう言えばいいのか、分からない。
けれど。
止まらなかった。
「せめて」
喉が、詰まる。
「せめて、あいつくらいは」
——自分の方を見てほしかった。
「俺の方が上だって、思いたくなる」
言ってしまってから、後悔する。
最低だ。
本当に。
そんな理由で、あんな態度を取っているなんて。
「……子供だね」
呆れたような声。
否定は、できない。
「分かってますよ」
吐き捨てる。
「でも、仕方ないだろうが」
感情が、滲む。
「兄上が全部持っていくんだから」
優しさも。
信頼も。
尊敬も。
全部。
「……あいつまで、取られたら」
そこまで言って。
口を噤む。
——言いたくなかった。
けれど。
もう、遅い。
「……取られる気がするんです」
静かに、言い切る。
廊下に、沈黙が落ちた。
アランは、しばらく何も言わなかった。
やがて。
小さく、息を吐く。
「なるほどね」
納得したように頷く。
「それで、あんな態度を?」
「……」
答えない。
答えられない。
「一つ、教えてあげようか」
アランが、ゆっくりと口を開く。
「アリアナはね」
その名前に、無意識に反応する。
「君のこと、ちゃんと見てるよ」
——は?
一瞬、思考が止まる。
「何を……」
「気づいてないのは、君だけ」
さらりと言われる。
理解が追いつかない。
「……そんなはず」
あるわけがない。
だって、あいつは——
「完璧だから?」
言葉を先回りされる。
「違うよ」
はっきりと、否定された。
「彼女は、“完璧でいようとしてるだけ”だ」
その言葉が、胸に引っかかる。
「……どういう意味ですか」
「そのままの意味」
アランは、少しだけ目を細めた。
「君が思っているより、ずっと不器用だよ」
——不器用。
あいつが?
信じられない。
あんなに、何でもできるのに。
「まあいい」
アランは肩をすくめる。
「これ以上は、本人に聞きなよ」
そう言って、背を向ける。
去り際に、ひとこと。
「逃げてばかりいると、本当に失うよ」
足音が遠ざかる。
残されたのは、アルベルト一人。
静まり返った廊下で。
「……くそ」
もう一度、呟く。
頭の中が、ぐちゃぐちゃだった。
(見てる?)
(俺のことを?)
そんなはず、ない。
だって。
あいつはいつも——
「……違う」
言いかけて、止まる。
思い出す。
さっきの顔。
涙を浮かべて。
こっちを見ていた。
「……なんで、泣くんだよ」
意味が分からない。
分かりたくない。
けれど。
胸の奥が、ざわついて仕方がない。
「……俺のせいか」
分かっているくせに。
認めたくなかった。
——もしそうなら。
自分は、とんでもなく愚かだ。
好きな相手を。
自分の手で、傷つけていることになる。
「……は」
乾いた笑いが漏れる。
「最悪だな」
壁に拳を軽く打ちつける。
痛みが、少しだけ頭を冷やした。
(……取り返さないと)
ふと、そんな考えがよぎる。
だが。
どうすればいいのかが、分からない。
「……分からねえよ」
ぽつりと呟く。
完璧な答えなんて、どこにもない。
少なくとも。
自分には、まだ見つけられない。




