第2話 優しい皇太子
冷めきった紅茶を、ただ見つめる。
先ほどまで向かいにいた人の気配は、もうどこにもない。
(……また、やってしまいました)
カップに映る自分の顔は、情けないほど弱々しかった。
本来なら、あの程度で取り乱すような人間ではない。
幼い頃から叩き込まれてきたのだ。
どんな場面でも、完璧に振る舞えと。
——それなのに。
「こんにちは、アリアナ」
柔らかな声が、沈みきった空気をほどいた。
はっとして立ち上がる。
「女神様より賜りし王国の力よ永遠なれ。叡智の人、アラン様におかれましては——」
「今日はオフだから、そういうのはなしで」
くすりと笑いながら、軽く手で制される。
顔を上げると、そこにいたのは——
優しく垂れた青い瞳。
同じ色のはずなのに、アルベルトのそれとはまるで違う。
穏やかで、温かくて。
見ているだけで、張り詰めていたものがほどけていく。
「……一人? アルベルトはどうしたの」
自然な調子で隣の席に腰を下ろしながら、アランは尋ねた。
その何気なさが、逆に胸に刺さる。
「どうもこうも、ございませんわ」
上手く笑えた自信はない。
「今度こそ……愛想を尽かされたに違いありません」
言ってから、しまったと思った。
弱音など、吐くべきではない。
けれど。
「そんなこと、あるはずないよ」
あまりにもあっさりと、否定された。
「アルベルトは、ああ見えて不器用だからね」
困ったように笑うその表情は、どこまでも優しい。
まるで、すべてを分かっているかのように。
「君のことも、大切に思ってる」
——その言葉に。
胸の奥が、きゅっと締め付けられた。
(そんなはず、ありません)
そう思うのに。
否定しきれない自分がいる。
視界が、にじんだ。
「……申し訳、ありません」
慌てて顔を伏せる。
こんな姿、見せるべきではないのに。
ぽたり、と。
堪えきれなかった涙が、テーブルに落ちた。
「アリアナ」
静かに名前を呼ばれる。
逃げることもできずにいると、そっと距離が近づいた。
「無理しなくていい」
低く、落ち着いた声。
「君は、もう十分頑張ってる」
その一言で、張り詰めていたものが切れた。
肩が、小さく震える。
——優しすぎる。
こんなふうに、まっすぐ労わられたことなど、ほとんどなかった。
気づけば、涙は止まらなくなっていた。
「……っ、申し訳……ありません……」
言葉にならない謝罪を繰り返す。
すると。
「謝らなくていい」
やわらかく制される。
そして——
そっと、手が伸びてきた。
涙を拭おうとしているのだと、分かる。
(いけない)
分かっているのに、身体が動かない。
その手の温もりに、すがってしまいそうで。
——その時。
「兄上!!!!」
空気を引き裂くような声が響いた。
びくり、と体が跳ねる。
振り向く間もなく、足音が近づいてくる。
そして。
二人の間に、割って入るように立たれた。
「……私の婚約者に、何をしているのですか」
低く、抑えた声。
だが、その奥にある怒りは明らかだった。
アリアナとアランの間を遮るように、アルベルトが立っている。
先ほど別れたばかりの婚約者。
その背中は、どこか硬く強張っていた。
「何を、って」
アランは肩をすくめる。
「泣いていたから、慰めていただけだよ」
「必要ありません」
間髪入れず、言い切る。
「その役目は、私のものです」
空気が、一瞬で張り詰めた。
アリアナは思わず息を呑む。
(……今のは)
まるで。
——自分のものだと、主張するような言い方だった。
「へえ」
アランが、わずかに目を細める。
面白がるような、試すような視線。
「じゃあ、どうして放っておいたのかな」
「それは……」
言葉に詰まる。
アルベルトの拳が、ぎゅっと握られた。
「いい加減にしなよ、アルベルト」
アランの声音が、少しだけ厳しくなる。
「気に入らないことがあるたびに癇癪を起こすのは、もうやめろ」
「……っ」
「アリアナが怯えている」
その言葉に。
はっとして、アルベルトが振り返る。
目が合った。
その瞬間——
堪えていた涙が、またこぼれた。
自分でも止められない。
アルベルトの表情が、歪む。
怒りでも、苛立ちでもない。
何かを必死に堪えているような顔だった。
「……頭を冷やせ」
アランが静かに言う。
それから、アリアナの方へと手を差し出した。
「アリアナ、行こう」
差し出された手。
迷う。
けれど——
この場に居続ける勇気は、なかった。
「……はい」
そっと、その手を取る。
立ち上がるとき、視界の端で。
アルベルトがこちらを見ていた。
何も言わない。
ただ、じっと。
引き止めることもなく。
そのまま、二人は歩き出す。
背後に残された気配が、やけに重く感じられた。
——その視線から、逃げるように。
アリアナは前だけを見つめた。




