第1話 ため息の婚約者
「ふう」
——しまった。
静かな空間に、やけに大きく響いたそれに、アリアナは内心で舌打ちした。
視線を上げる。
案の定、目の前に座る婚約者の機嫌は、目に見えて悪化していた。
もともと鋭い青い瞳が、さらに細くなる。
「……俺との時間は、ため息が出るほど退屈か?」
低く、抑えた声。
けれど、その奥にある苛立ちは隠しきれていない。
「い、いえ、そのようなことは……」
すぐに否定する。
——する、はずだった。
喉が、ひどく乾いている。
言葉が、出てこない。
カップを持つ手が、わずかに震えた。
(違うのです)
(そういう意味ではなくて)
けれど、その“違う”を説明する術を、アリアナは持っていなかった。
昔からそうだ。
この人の前では、どうしてもうまくいかない。
本来ならば。
公爵令嬢として。
王子の婚約者として。
完璧に振る舞えるはずなのに。
「……そうか」
短く返される。
その声音に、期待が完全に切り捨てられたのが分かった。
「つまらない男で悪かったな」
「っ……!」
思わず顔を上げる。
だが、その時にはもう遅かった。
アルベルトは椅子を引き、立ち上がっていた。
「殿下、お待ちください——」
呼び止める声は、驚くほど弱かった。
伸ばした手も、届かない。
アルベルトは振り返ることなく、そのまま部屋を出て行く。
扉が閉まる音だけが、やけに重く響いた。
——取り残された。
ぽつんと、広いテーブルの向かい側を見つめる。
そこにはもう、誰もいない。
「……はあ」
今度は、隠すことなくため息をついた。
どうせ、もう聞く人はいない。
カップの中の紅茶は、すっかり冷めている。
ほんの少し前まで、確かにそこにあった温度が、もうどこにも残っていないように思えた。
(また、失敗した)
胸の奥が、じわりと痛む。
——たった一つのため息で。
ここまで関係を悪くしてしまうなんて。
普通なら、あり得ない。
けれど。
アリアナとアルベルトの間では、それが“普通”だった。
公爵令嬢アリアナと、第二王子アルベルト。
二人の婚約は、六歳の時に結ばれた。
将来は王子妃となるべく、アリアナは幼い頃から厳しい教育を受けてきた。
礼儀、教養、立ち振る舞い——
どれ一つとして、欠けることは許されない。
完璧であること。
それが、彼女に与えられた役目だった。
それなのに。
(どうしてあの方の前だと、私は——)
うまく、呼吸すらできなくなるのだろう。
視線を落とす。
自分の手は、まだわずかに震えていた。
思い出すのは、先ほどの彼の顔。
怒っていた。
呆れていた。
——そして、ほんの少しだけ。
傷ついたようにも、見えた。
「……気のせい、ですわね」
小さく呟く。
あの人が、そんな顔をするはずがない。
だって。
「嫌われているのは、私の方ですもの」
ぽつりと零れた本音は、誰にも届かない。
静かな部屋に、溶けるように消えていった。
——かつては。
こんな関係では、なかったはずなのに。




